ここ数年の間、我が運動の中で、この人は「何側」、あの人は「誰側」、という表現がよく使われるようになりましたが、歪んだ文化の中で長年培われた頭の構造が変わらない限り、「何側」に行こうと「誰側」に行こうとたいした変わりはないということを自覚すべきだと思います。歪んだ文化の中に長くいた分だけ、その頭の構造が歪んだものになっている現実あるいは少なくともその可能性を各自が自覚する必要があると思います。
そもそも人を「誰側」と規定していったんレッテルを貼れば、そういう狭い枠に限定された観点でしかその人を見ることができず、その狭い枠の考えに基づいてしかその人に接することもできなくなり、しかも、そういう自分の人間に対する見方や姿勢に対して全くおかしいとも思うこともない。そもそもこのこと自体が、自分の頭の構造がどれほど歪んでいるかという証拠ではないでしょうか。
そこを突っ込んでいけばもっといろいろ出てきます。たとえば自分を「上の人」と理解すれば(これもある種のレッテル貼り)、自分は「下の人」にはない数々の特権があってあたりまえ、自分がすべきことは「下の人」に命令や指示をすることであり、「下の人」の事情や心情を理解することは特に必要ない、というような姿勢。恐ろしいことにはこのような姿勢が本人には明確に自覚できておらず、いわば潜在意識の中に染み付いた姿勢とすら言えるということ。
その反対に、自分を「下の人」と理解すれば、自分が「上の人」の命令や指示に従うことはあたりまえのことであり正しいこと、善いこと、多少の犠牲が要求されたとしても、それは犠牲的愛を実践させていただけるチャンスとして甘受すべきこと。一方自分は「下の人」なので、「上の人」からの指示や命令が来なければ、自分では何をどうしていいのか自分の頭で考えて判断することができない。(または、自分の頭で考えて、判断するということが奨励されておらず、そういう訓練や経験に乏しい)
こういう「下の人」にとっては重要なことは天からの「権威」につながっていることであり、「メシヤを信じれば救われる」というキリスト教の教理の延長上の「メシヤにつながってさえいれば天国に行ける」という救いへの希求(天国に入りたい/地獄に行きたくない)が、メシヤの代理とも言える「上の人」を尊重し、そこにつながっていたいという上のような姿勢として表れる。
「上の人」はそのような「下の人」の意識構造を理解しているので、それを前提として「上の人」としての権威を実行し、そこに一切の罪悪感を感じない。その表れの一例は、このような公文を出せば、彼らは一切疑うことなくそれを信ずるものと「上」では見た上で公文を出す。しかし人間に対するこんな侮辱的見方があっていいのでしょうか。「上」では「下」の人を「奴隷」と見ているのとほぼ同じことです。
このように、一つの確立された宗教教理や宗教システムにより、あるいはそれをつくりあげた背景にある文化により、その文化の影響下にある人々が、温かい心を持った普通の人間として存在し、行動することができないようになってしまう。
つまり、この道に関わってくるようになった人はどちらかといえば、悪人というよりは善人という要素を強く持った人が多かったはずなのですが、その善意の人たちが、善意の動機を当初持っていたにもかかわらず、その歪んだ文化の中に入ると、歪んだ人間として作られてしまうわけで、そういう文化自体の問題を正直かつ謙虚に直視し、反省し、変革するという深い決意と行動(まず自分を変えるところから)なくしては、たとえ今後「誰側」のグループに入ったとしても、入る箱が変わっただけで、本人は同じことを繰り返すだけだということを自覚すべきだと思います。
こういう歪んだ文化というのは、我々の世代が入ったころにはまだ弱かったと思います、というよりは、「自分が天国に入りたい、救われたい」というよりは、「自分は天国を作って世の救いのために役立ちたい」という側面の方が大きかったので、潜在している文化の悪い側面がまだ深刻に表れていなかったのかもしれません。
ともかくこうした歪んだ文化とその結果としての歪んだ人間というのは、そもそも神様が願うものでもなんでもないことは明白であり、私たちが本当に追求しなければならないのは、今こそ原点に帰って、本当に神様の願われた人間とはどういう人間であり、自分がどうすることがそういう人間になることかという根本的なポイントだと思います。
これが以前書いた「よい麦の中に育ってきた毒麦」であり、今こそ「ご主人様」が言っていた収穫の時、すべての毒麦が毒麦の姿をあらわにして引き抜かれるべき時を迎えていると思います。
今回の神山先生の聖和をめぐり、様々な毒麦がまた姿を現したと思います。人の悪口を言う人は、イエスが「自分の下す裁きで自分も裁かれ、自分の測るはかりで、自分にも測り与えられる」と言われたごとくに、人に対して自分が発する悪口の言葉により自分の罪状や、自分がどんな人間なのかを公的に暴露しているようなものです。(馬脚を現し、墓穴を掘る)
これはマルコの手紙さんに出て、しばし話題になっていた松崎氏の例ばかりではありません。我が文化の悪い点の一つと私は思っているのですが、自分と異なった「側」に属すると判断した人に関しては、一人の人間として見る観点よりも、「何々側に属する人」としか見れないので(すごく機械的)、その人に関してはどんな些細な、不明確で不正確な話でもいいから、結論がその人は悪い人、だめな人となる話ならばなんでもOKといって悪口を言う人々のことです。いわゆる「真理性」よりも「党派性」が優先されているという問題です。
とくにブログなどの公的空間に書いたことは、歴史的事実として残りますから、いずれその人(私も含めて)は自分の書いたものによってその人格を公的に評価されるようになるわけです。まあ、自業自得とか因果応報とかいうことばが当てはまると思いますが。
今、韓国で起こっている問題のなりゆきを見ても、この運動のつくってきた歪んだ文化の根本的問題点が暴露され、きれいに清算されていくべき時を迎えているのではないかという気がします。絵に描いた餅が崩れ、真の餅が現れるべき時、あるいは、真実なものが真実なものとしての評価を受けるべき時が来ているのではないでしょうか。