「免職」「除名」は、真理に従う道か、似非真理に従う道か? | Kotenjiのブログ

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フィリピンの行事に参加したカープのリーダーが罷免されたということで、罷免に抗議する手紙がブログに出ていましたが、罷免の理由について、以下のように述べています。

 

(引用開始)

 

私を免職にする理由を要約すると以下の通りです。

● 顯進様の大会に参加した私の行動が、真の父母様の願いに反するものである。
● CARPの責任者という位置を離れた行動である。
● スタッフや学生に混乱をもたらす行為である。
● お父様は「真の父母から離れた真の子女について行ってはいけない」と指導して下さった。

これは私にとっては、全く納得のいかない理由です。

 

(引用終わり)

 

簡単に言えば、「組織」を取るか「真理」を取るかという選択だと言えるかもしれません。上の免職の理由を見る限りでは、すでにこの組織は「真理」を装った似非真理によりルール及びカルチャーが出来ているようです。ゆえにこの組織においては、「真理」を追求することよりも似非真理を守ることのほうが重要なので、このリーダーの「真理」追求心に基づいた行動は、スタッフや学生が似非真理を捨てて「真理」を求め始めるという「混乱」をもたらす行為と規定されるわけです。

 

カープ(原理研究会)の始まりは、その名前のとおり「真理」の追求であったはずですが、時代の流れとともに本当の宇宙の真理ではなく、それを装った似非真理が、おそらく組織維持のために採用されるようになり、メンバーが本心の自由に従い、自分の頭で考えて行動することを抑圧するような硬直した閉鎖的組織として実るようになってしまったということだと思います。

 

しかし、そのような硬直した閉鎖組織であればすでに未来がないことは明らかですから、カープの心あるリーダーやメンバーが、これをよい契機として可能な組織の変革の運動を起こすか、組織と手を切って別の道を求めるか、簡単な話ではありませんが、それぞれの良心の声と相談しながら決めていくことが必要だと思います。

 

ある意味では「真理」を追求しようという声を上げた結果、同じく硬直した閉鎖組織となっている「家庭連合」から除名処分となったのが、大先輩の神山先生でした。先生の聖和100日メモリアルが近づいていますが、この時が、食口の皆様が心を大きく開いて、神様と文先生を真に愛する道は、組織を維持するために似非真理に跪くことなのか、それとも本当の真理を求め、真理に生きることなのかを正直に検討する機会となることを念願する次第です。

 

私は、「統一運動」の「負の遺産」の一つに「レッテル貼り」という習慣性があると思います。つまり、この運動に関わった人の悪いくせのようなものだと思うのですが、つねに人を何かの枠の中に分類しないと気が済まないところがあるようです。ある個人に対して何々グループ、誰々派、といったレッテルで分類して十派一絡げに批判したり、審判したり、また、そのような分類を当たり前のように受け入れたり、分類すれば一安心してしまうようなところです。

 

ですから神山先生とて別になんとかグループや誰々派に属していたわけではなく、ただ真理を追求して行きついたところが、三男の方の位置と価値と行動に対し深く理解したという結論だったという話だと私は理解しています。ところがその結果除名という処分が下され、その処分を正当化するようなレッテルが貼られるわけです。

 

こうしたレッテル貼りは、いわば歪んだ選民意識の裏返しのようなものだと思います。この際、どんな人に対してもそういう枠組み的見方や考え方はやめて、その人が真理を求め、真理に生きようとしているかどうかに関心を持ったほうがよいのではないでしょうか。そしてよいことはよいこととして学び、悪いことは真似しないように自分の頭で考えて行動することが必要なのではないでしょうか。

 

国内外情勢が予断を許さない時であればこそ、真理を土台として尽くす食口の精誠が、神様にも人類にも必要とされていると思います。

 

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