続き-自分の頭で考える重要性-カープリーダーの手紙を読んで | Kotenjiのブログ

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後天時代の本当の意味と価値を理解し、ふさわしい生き方をしたい。
正午定着、影のない時代と言われているが...

古いメンバーであればあるほど、ゲリラ時代のすり替えられた「似非真理」に対する執着が強く、その逆に、若いメンバーは、本当の、心が納得する真理に対し、よりオープンかもしれません。フィリピンの行事に参加されたカープリーダーの手紙を読みながら、この方のように、まだ良心が死んでいない食口はたくさんいるはずだと思いました。

 

実りによって真実を確認するのは、一般の世間の人がそうであるだけでなく、食口も同じだと思います。ゆえに多くの方が勇気をもって直接フィリピンに行って自分の目で確かめようとされたことは非常に貴重なことだと思います。ただ、この方は基本的なことはフィリピンに行く前からやはり「実り」を通して既に察知しておられたようです。手紙から引用します。

 

--- 引用始め ---
以来、私は家庭連合と顯進様のそれぞれの動向を注視してきました。家庭連合側が原告となり、顯進様に対して28件もの訴訟が提起されました。しかし家庭連合がぶつかって行けばぶつかって行くほど、顯進様の活動は困難を乗り越え、上昇気流に乗って飛躍し、逆に家庭連合は活動を縮小し、さらに分裂して、下降気流に押し下げられていく結果を見てきました。

 

家庭連合では顯進様がお父様に対して「不従順だ」と言ってきました。顯進様は本気でお父様をお支えするために、摂理を進める上での方法論に関しては、お父様と真剣に口論された時もあったそうです。しかし摂理的な方向性とか、神の子女としての生き様とか、絶対に変わってはならない部分においては、完全に神様の前に従順に歩んでこられました。現に、今回お会いした顯進様は、真の愛の道理の前に絶対従順を貫いておられました。ところが家庭連合は、真の家庭の長子に対して28件もの訴訟を起こし、顯進様を少しでも支えようとか理解しようとする食口には注意喚起の公文を出し、時には除名までしてきました。こうした家庭連合の在り方はむしろ、真の愛の原則から逸脱した「不従順」な姿です。

 

私はこうした家庭連合全体の方向性に疑問を持つと共に、顯進様の活動内容や実績を聴くにつけ、顯進様の歩みこそが、お父様の摂理を引き継いだものではないかと、以前から考えていました。これもまた、今回フィリピンに渡り、顯進様の歩みを実際に見て、その心情に触れて、自分で確かめてみなければならないと決断した理由です。
--- 引用終わり ---

 

以前からそのように考えておられた内容が、参加してみて直接にその実りを見ることにより、確信となったのだと思います。

 

--- 引用はじめ ---
このような顯進様を見た時に、第一に私は、顯進様がお父様から神の摂理と権威を引き継がれた摂理的長子だと確信しました。第二に、激しい迫害の中にあっても顯進様が摂理的長子の位置を守り、モデルとなる家庭を築いてくださったお陰で摂理がギリギリで守られました。すべての祝福中心家庭は顯進様に心から感謝しなければならないと思います。第三に、お母様の「独生女」のお考えを変え、お母様を解放してくださるのも、顯進様だけであると確信しました。故に、お母様を愛するすべての食口は、顯進様と一体化し、長子として侍らなければならないと思います。アベルの子女とカインの子女が一つになることで、父母が立たれ、お母様が元の位置に戻られるのです。第四に、すべての食口、特にCARPのリーダーは、顯進様の真実について正しく知らなければならないし、実際に顯進様の活動に参加し自分の目で確かめるべきだと思います。

 

最後に私自身は、9年ぶりに顯進様とお会いして、「ここにみ旨があった!」と歓喜しました。摂理的長子であられる顯進様の前に、責任を果たせなかった過去を悔い改めると共に、今後は顯進様と共に神の摂理を成し遂げる道を歩むことを固く決意しています。
--- 引用終わり ---

 

ただ、この方がこうした結論に至ったのは、あくまでもこの方は「自分の頭で考える」ことができ、また妥協せずにそれを貫くことができたからだと思います。自分の頭で考える人であれば誰でも、運動の現状に悩まないはずがないのではないでしょうか。しかし多くの人は、どこかで何らかの理由で妥協したり、逃げたり、あきらめたりしてしまうのだと思います。み言葉を利用した自分勝手な「正当化」もあるでしょう。どこかのブログで徳野さんの話として言及されていましたが、「今は、み言葉以上に実体が大事とお父様がおっしゃったから…実体のお母様が優先」というような苦しい「正当化」に逃げ込んでいる人も多いかもしれません。

 

そういう内容も、自分の頭で考えてみればおかしいということは誰でも明確にわかるはずだと思いますが、やはり正直に、誠実にそうすることをあきらめた人が多いのでしょうか。良心の声から逃げてはならないと思います。あきらめてはならないと思います。以前にも引用しましたが、「望みを失わない者にのみ、道は開ける」のですから。

 

この手紙の中にも「混乱から8年、こうして遅ればせながら」フィリピンに来たとありましたが、今は「遅ればせ」をもはや気にする必要はないと思います。心の納得する真実を真実として受け入れ、なんらかの行動を起こすのに、それぞれにとって適切な時期というものもあるかもしれません。今という瞬間に最善と思うことを行うのが重要だと思います。

 

そういう意味では、食口ではない人であろうと、あるいは、もと食口であった人であろうと関係なく、現実の実りを確認するために努力し、そして、すべてのレッテル貼りをやめて、(もちろん自分に対するレッテル貼りも含めて)、もう一度正直に自分の頭で考え直してみた上で、各自の純粋な良心から最善と思うことを行うのがよいと思います。

 

ただ、いわゆる食口という人々が時を逃せば、確かに「先の者は後になり、後の者が先になる」ということは十分起こりうるでしょうから、食口という名に何らかの誇りを感ずる人であるならば、先々のことも考えた上で、その点を真剣に検討されるべきだと思います。

 

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