「血統」について(ちょっと戻ります) | Kotenjiのブログ

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後天時代の本当の意味と価値を理解し、ふさわしい生き方をしたい。
正午定着、影のない時代と言われているが...

ちょっと話を戻しますが、批判的な立場から言えば、そもそも、「原理」で言っている「神の血統」「サタンの血統」というコンセプト自体が果たして妥当なものなのか、という問題があります。既にこれを妥当でないと結論した人々はこの運動を離れ、批判する側にまわっているかもしれません。一つの単純な理由は、そもそもアダムとエバの物語は歴史上の事実ではなく、神話に過ぎない。ゆえに、その神話を事実として理解した前提で構築されている原理の血統に関する観点が正しいとはいえない、といった考えです。

そこで、一歩譲ってアダムとエバの物語は事実ではなかったとしてみましょう。その場合、血統論の根拠は立てられるのか。立てられるなら立てるべきだと思います。この物語が何かの象徴であったとした場合、それでも何らかの形で血統理論が構築できるでしょうか。

キリスト教の信仰を持ち、聖書を神様のみ言葉として受け入れている人々を教育するには原理講論の説明と、いわゆるタマルの立場云々を中心とした血統転換論で十分かもしれません。しかし、その前提を持たない人々の場合はどうか。別途のしっかりした論理が必要かもしれません。つまり、全人類に受け入れられる内容として紹介できるようにするためには、いずれはそういうものも必要になってくるのではないかと思います。

それがないと、ものの見方としては、キリスト教人を抱き込むために、彼らの信仰的前提を(方便として)利用しているという偽善と見られるかもしれません。もしもそうであるならば、それは邪悪な宗教指導者が、従う者たちの信仰的前提を利用して信者をコントロールするのと同じであり、その本質はいわゆるISISと何ら変わりがないということにもなります。

自分も最初の頃は、原理の血統という観点をそれほどの疑いもなく受け入れていたものです。その理由は「創造―堕落―復帰」という流れを骨組みにした原理の論理体系が、人間の現実の様々な現象に当てはまっているように見えて、自分が持っていた宗教や他の宗教の説明の仕方と比較すれば、より論理的で、現実的であるように見えたからでした。人類を悪の問題から解放したいという点で、諸悪の根源を明確にし、それを逆の経路をたどって完全に解決できるという論法はそれなりに魅力と説得力があったものです。

もう一つの説得力はどこにあったかと言えば、以前にも書きましたが、文先生の生き方とそこにおける神様の臨在、働きを様々な形で目撃したからです。例えば、興南の監獄でのいわゆる2年8か月に及ぶ生活、その生き方や、周囲に対する影響は驚くべき内容であり、米国のダンベリー刑務所における生き方や周囲に対する影響も同様です。もう一つはいわゆる「摂理観」というものがあることであり、とくに共産主義に対する理解とそれに対処してきた行動が原理の論理の内容と実に一貫しているところ、その結論が「真の愛によるサタン自然屈服」というメインテーマと実に一致しているところ。しかも国際共産主義が終焉を迎えた以後も、1990年のゴルバチョフ氏との会見や1991年の金日成主席との会見にまつわる諸事情や、真の愛の実践という観点から見て一貫した姿勢もとても説得力があります。

ですから、1990年代の初頭までは、このままの流れでいけば、平和世界の実現もただの夢ではないという気がしていたものです。

ところが、そのころから、清平というものが登場してきます。そして南米摂理というものも出て来ます。そのあたりに前後して、統一教会の看板を下ろして、家庭連合が出発し、顯進様の世界副会長就任式による実質的な摂理の継承が示され、その直後に表面化した蘭淑本を中心とする真の家庭の問題の露出。本当にややこしい時代に入って行くわけです。

そういう流れから迎えている今の時代(いわゆる後天時代)であり、それこそ、隠されていた汚いものがすべて暴露され、本当にきれいなものが本当の実りを結んでいく時代という表現がぴったりだと思います。これは統一運動のみならず、世界中の様々な現象を見ても合っているのではないでしょうか。

教会の本体が異常な方向に流れていく中で、当初に抱いた希望と信仰を守ることは誰にとっても難しいに違いありません。特に自分をごまかせない不器用な人間にとっては。だからこそ、正直に現実に直面する必要があります。当初に抱いた希望と信仰は、ある意味では「天」から来た直感的なものであって、それ自体は真実だったのではないでしょうか。そして、その真実にあくまでもこだわりたいのなら、現時点の教会には、その真実はないことを正直に受け入れるべきです。そして、それでもその真実をどこかに追求することが、本当に自分がやりたいことなのかどうかを、自分をごまかさず、自分の中でまずはっきりさせるべきです。

そして、いや、もう真実はない、それとも、「真実を追求する」こと以上に、自分にはもっと大切なものがある、という結論になったならば、その大切なものを一生懸命守っていけばいいのではないでしょうか。そうしたら、少なくとも後で自分を責めることになったり、誰かから責められたりしても、何か言い分があることになるでしょう。一生懸命にやったならば。

しかし、結論として、自分はそれでもその真実を本当に追求したいということになったら、ただ目を開いてそれを探せばいいのです。そうすれば、聖書には「求めよさらば与えられん」と書いてあるし、誰かの言葉にもこうあります。

「望みを捨てない者には道が開ける」

(続く)

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