「血統」について(続き) | Kotenjiのブログ

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後天時代の本当の意味と価値を理解し、ふさわしい生き方をしたい。
正午定着、影のない時代と言われているが...

「サタンの血統」というのを表現するために、原理講論では「原罪」とか「血統的な罪」という言葉が使われますが、この「原罪」は、すべての罪の根とも書かれています。そして、「原罪を罪の根というならば、遺伝的罪は罪の幹、連帯罪は罪の枝、自犯罪は罪の葉に該当する」とあり、「すべての罪は、その根に該当する原罪から生ずる。それゆえに、原罪を清算しない限りは、他の罪を根本的に清算することはできない」となっています。

私は、「原罪」を罪の木の「根」に例えたこの説明はとても面白いと思います。つまり、いくら葉を取り、枝や幹を切っても根を切らない限りは葉や枝や幹はそのうちまた出てきます。しかし根を取ってしまえば、木はいずれ死ぬしかありません。但し、ここで面白いと思うのは:

根が切られても、葉も枝も幹もしばらくはそのままの姿で残る
葉はそのうち出なくなるが、枝も幹も、枯れていくとしても形は相当の期間残る
下手すると、気を付けていなければ、小さな根がまた出始めることもある

つまり、いくら根が切られたとしても、何かが突然奇跡のように変化するというのではなく、少なくともしばらくは同じような姿だろうということです。ゆえに「根を切る」というのは教会では「祝福を受ける」ことに相当しますが、祝福を受けたからと言って何かが突然に奇跡のように変わるということではなく、また、自動的に素晴らしい人格になるということでもなく、あくまでも根が切られただけのことなので、その後自分で幹や枝や葉を処理(人間の責任分担)していかない限りは、祝福を受けた(神の血統に生まれ変わった)としても、その「血統の実り」を現すことはできないということになり、この世の中に対しては何の意味も持たないことになります。

ゆえに、顯進様もよく言われているように、「祝福を受けるというのは、天国行のチケットを手に入れるということではなく、真の愛を実践し理想家庭を創る出発点に立つということ」というのは当たっていると思います。それは終着点でなく出発点であると。それは祝福を受けた本人も、祝福により生まれた子女も、真の家庭に生まれた子女も、同じことだと思います。そういう立場に生まれたということはそのゆえに何か素晴らしい素質はあるかもしれませんが、その「血統の実り」を生み出すのは、あくまでもその人次第ということです。

ですからポイントは「神の血統」を持ったという人(祝福を受けた人も含みます)が、真の愛を実践して、「神の血統の実り」をもたらすことにより、世の中がそれによって恩恵を受け、それを歓迎するようになるというのが、いわゆる摂理の要点となるのではないかと思います。つまり、大事なのはいろいろな屁理屈をこねて自分の正当性を証明しようとすることよりも、真の愛を実践して実りを生み出すことにより世の中のためになることのほうであり、その恩恵を受けるのは、いわゆる「神を信じない人」や、「血統」に価値を置かない人をも当然含むわけです。

(続く)

 

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