「血統」というキーワード | Kotenjiのブログ

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後天時代の本当の意味と価値を理解し、ふさわしい生き方をしたい。
正午定着、影のない時代と言われているが...

そもそも多くの食口といわれる人々は、程度の差はあれ、根本的には原理の「血統」という観点に希望を見出してこの運動に関わってきたのではないかと思います。その観点とは、つまり、人間の不幸や諸悪の根本原因を辿ればそれは人間始祖の堕落にあり、堕落とは即ち本来の「神の血統」が「サタンの血統」へと転換してしまったという問題であり、その根本的な解決は「サタンの血統」を「神の血統」へと再転換するところに鍵がある、という観点、そして、その鍵を握った人物としてメシヤという存在があり、そのメシヤにより血統を転換されるところに、諸問題解決の鍵があるという結論になっています。

こういう理解なので、「血統」という問題が、たとえ世の中の人々にとってはそれほど重要でなかったり、荒唐無稽と見えたとしても、食口という人々にとっては重要な問題とならざるを得ないのであり、そうでない場合はその人は食口ではない、というようなキーポイントになっていると思います。

ただ、現象として、その「神の血統」を持っているはずの「真の家庭」の中に様々な問題が出て来るということになると、その「血統」重視の観点そのものを疑うようになる人々が出て来ることも避けられない現実です。そしてその延長上には、文先生のメシヤ性をも意味のないものとして破棄する人々も出て来るわけです。しかし、そういう状況の中でも文先生のメシヤ性の価値を破棄しない人々には、人それぞれかもしれませんが、それなりの理由があるわけです。

私などの場合は、どういう理由かと言うと、いわゆる「原理」の内容というのは、論理的には私としてはつじつまが合っているので、文先生が神の血統を復帰した人として、神の血統の家庭を出発したということは事実でありえると判断しています。ただし、それが本当に原理の主張している「神の血統」であるならば、当然そこにはそれにふさわしい結実(人類にとってプラスとなる結実)が出て来なければならないし、そうでなければ「神の血統」を主張する意味もなくなります。その結実が現れて来る限りは、「神の血統」というものは意味あるものとなり、人類にとって益となるものとなりえます。そしてその延長上には、原理が主張するような全ての問題の解決の道も開けてくる可能性があるわけです。

そういう目で見たときに、多くの食口たちは、その結実と言えるものが見えていたので、希望を感じながらやってきたのではないでしょうか。どのようなところに見えていたのかというと、例えば、文先生という方の生き方、生き様(興南監獄での歩み、ダンベリー刑務所での歩みなども含む)、国際共産主義に対する一貫した姿勢と、それに対する一貫した活動、そしてゴルバチョフや金日成との会見およびそれに前後する様々な事情、そして、単なる宗教指導者の枠を超えて様々な分野で世界的に肯定的影響を及ぼしてゆくビジョンと実践のスケール等々。

しかし、それがその本元の真の家庭自体で、その結実とは到底思えないようなものが目に見える形で次々に現れてきたものですから、食口という人々はそれについての情報量の差は各自あるとしても、そういう状況をどのように受け止めていいのか困惑状態を抜け出せないのではないでしょうか。そういう中で、「実によってその木を知る」という言葉を当てはめれば、「真の家庭」という「実」を見て文先生という「木」を判断するという論理で、ゆえに文先生はメシヤではない、という結論を出す食口がいても仕方ないことかもしれません。しかし、そこでいわゆる「産湯を捨てようとして赤子を捨てる」という例えにもあるように、汚いものとして十羽一絡げで否定することにより、その中にある貴重なものまでも捨ててしまう、という愚を犯してしまう可能性もあります。

現在の「真の家庭(文先生の家庭)」に関わるところで、汚いものがたくさん見える中で、私の目から見て唯一そのような結実の希望が見えるところが、3男の方のもたらしている結実およびその背景にあるいわゆる「天運」的な力です。そして、様々な反対にも関わらずその結実が拡大し、さらなる良い実を結んでゆくことが人類にとっても希望であり、益であると見えるので、そこに「神の血統」というものが見える価値として現れているというのが、今のところ自分なりに出している結論です。

実は、4男の方や、7男の方にも昔、一時期は期待していたのですが、客観的にその言行を研究してみると、現時点ではその期待は空しいものとなってしまいました。それは、たとえ特別な血統に生まれていたとしても、その結果としてある種の優れた素質はあるかもしれませんが、それを人類に貢献する内容として結実させるかどうかはその本人の努力や選択にかかってくるわけですから、有限な人間としての限界を持つことを考えれば、仕方のないことだとも思います。

しかし、特別な血統に生まれた誰にとっても言えることですが、この3男の方とて、その人が絶対的存在であり、何の間違いもしない神のような完全な人間であるということはありえないわけです。当然一人の人間としての限界を持ちながらも、その中で常人を超えた(この点、彼の経歴を多少研究してみると、常人を超えたところは確かにかなりあります)努力をしているという点では、文先生とも通じるところがあります。

(続く)
 

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