OOOOありき | Kotenjiのブログ

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後天時代の本当の意味と価値を理解し、ふさわしい生き方をしたい。
正午定着、影のない時代と言われているが...

最近よく「OOOOありき」という表現を耳にするのですが、それで思ったのは、特に私も含めてこの運動に関わりを持った人の傾向として、「結論ありき」というのがあるのではないかということです。それに対する自覚と、その影響について自覚が必要ではないかと思った次第です。

何が正しく、何が間違っているかを知ることは、人間である限り誰にとっても重要なことだと思います。しかし、「何が正しく、何が間違っているか」(客観的真実)ということと、「何が正しく、何が間違っているかについて自分が信じていること」(自分の考え)とは、必ずしも同じではありません。そこで問題は、「客観的真実」以上に、「自分の考え」のほうを優先し、執着するようになってしまうところにあるのではないでしょうか。

つまり、自分が正しいと考える結論が、「結論ありき」となると、その結論を肯定するものは喜んで受け入れ、その結論を否定したり、挑戦する可能性のあるものは、ことごとく拒絶するような姿勢が出てきます。それが客観的真実であるかどうかが重要ではなくなり、自分の出した結論のほうが重要となっていきます。

おそらく宗教の教派分裂や、宗教同士の抗争なども、この「結論ありき」という姿勢の問題を解決しない限りは、どこまでいっても解決できないのではないでしょうか。つまり自分の考えを持つことは重要であったとしても、客観的事実以上に自分の考えに執着するところに抗争の要因があるのであり、それは狂信的テロリストと根が同じなのではないかと思います。継続すればするほど、単なる上から目線を超えて、人に対する憎しみや軽蔑心、侮辱、不信感、嘲笑、「サタン視」などますます根深くなっていきます。

そういう意味で、わが運動の近年の混乱状況は、ある意味ではすべての関係者にとって必要なプロセスであり、それを通して何が正しく何が間違っていたのか、という点をすべての関係者が深く反省せざるをえない状況に追い込まれているのではないでしょうか。そういう中で自分なりに下した結論を「結論ありき」として、それに合致しないと思われるものにひたすら噛みつくのも一つの選択かもしれません。

しかし同時に、そういう噛みついている姿を見ながら、それを「何がそもそも我々の抱える根本的問題だったのか」という客観的事実に目を開くための材料とすることもできるわけです。つまり、噛みついている姿は一般的に言えば、同じ家族、兄弟である人に対して、こういう扱いをするだろうかと思われるような(醜い)姿になっているからです。

少なくとも、「結論ありき」に固執した場合の問題は、それによって自分を自分でも気が付かないうちに一つの狭い箱の中に閉じ込めてしまうことです。たとえば、自分が誰か特定の個人を神格化(または神様の如き絶対的な権威を認める)して、その人は完全な人であって何の間違いも誤りもしないと信じることは各自の勝手だと思いますが、そう考えた瞬間に自分は自分の意志で自分を一つの狭い箱の中に閉じ込めてしまうことになると思います。

ある人を尊敬し、敬愛することと、その人を神格化することとは、決して同じことではありません。私は文先生を尊敬し、敬愛していますが、それは人間という限界性を持ちながらもそういう中で真の愛の実践を様々な限界を超えて実践されてきたという点であり、そこには教派を超えた普遍的な価値を見出します。しかし人間である以上は、それに伴う様々な限界や弱点もあるというのは当たり前のことだと思います。

いろいろな情報が暴露されてくる中でこそ、自分の考えに対する執着心を捨て、客観的真実の前に謙虚になるべきときではないでしょうか。
 

 

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