「創作」という言葉。あたかも自分の魂を搾れるだけ絞って生み出すかのような重い言葉に感じる人もいるかもしれない。僕も、過去の創作家の作品に触れて、その作者の叫びを目の当たりにしたかの様な経験を何度かした。そんな僕が、そういった種の「創作」があることを否定できるはずがない。しかし、僕が普段「創作」という言葉を使う時は、そのような、肩が凝ってくるような概念は意識していない。むしろ、誰もが持つ日々のちょっとした出来事の中から生み出せるものだと思っている。料理でもいい。日曜大工でもいい。買い物でもいい。仕事でも恋愛もそうかもしれない。僕は「創作」という言葉を、頭の片隅におきながら生活することが、僕の人生においては、素晴らしいことであるという確信を持ったから、「創作」をライフワークにすることにした。ただそれだけのことである。もちろんライフワークにするからには、何度か作品を公にする機会を持たないことには話にならないと思ってはいるが、ベストセラー小説を書いたり、著作権収入で億万長者になることは、まあ無理だろうと高をくくっている。スタートが遅いことはよくわかっているし、そもそも、この仕事は、あまり意識してやろうとするものでもない。といいながら、うまくスケジュールがかみ合いそうなコンクールやアートイベントへの出品を狙ってはいる。以前、何度か機会も頂いたが、やはり、甘くはなかった。一生、僕ごときには創れないのではないかという絶望も味わった。今の僕の態度は、それゆえのひらきなおりなのかもしれない。しばらくは、日々、「創作」で遊んでいてもいいかなとも思う。それにしても「創作」よりもっとうまい言葉があればいいのだけれど。ブログの表題に含めた「夢想家」でもよいかな。もしくは「想像(妄想?)家」とか。「創作」なんて言葉にするほどのものでもないと最近思ったりもする。

フランス語学習、早くも火の車。なんといっても発音。母音が16種類もあるのがやっかい。さらに鼻母音というフランス語独特の発音記号。英語を発音する時の癖がついていることも拍車をかけているようですぅ。フランス語では、アルファベットの表記どおりに読まない箇所があったり、あいまいな発音があったりするのですが、ついつい英語と同じように読んでしまうことがあります。英語と相対化して学習・・・とか思ってましたけど、そんなに甘いものじゃないですね。まず発音とあわせて、文法をみっちり覚えて、少しでも英語にレベルを近づけるのが先決のようです。語学学習の基本ですね。今日、来年の合唱サークルの練習で、演奏会で歌う楽曲のCDをメンバーの方に頂き、早速、家で聴いているところです。その中にフランス語の楽曲もあり、何度か聴いてみたのですが、正直、発音の細かい所までは解読不能です。ハーモニーを作りこむための参考にはなりそうですけど。フランス語を日本で学ぶ大変さを身をもって感じています。合唱でフランス語を使う機会がある僕は、ぜんぜんましなのかもしれませんね。実践の機会を自ら作らないと、挫折する可能性が高い言語かもしれません。


「女にとって、愛することは、悩むことと一緒なの。」(鈴木清純監督映画「陽炎座」より


久々にドキッとしたセリフです。セリフを発したのが加賀まり子だっただけに余計。誘いなのか、脅しなのか、、、、男を惑わせる、裏のある言葉。


「陽炎座」は「鈴木清純」と「松田優作」という名前で、条件反射的に飛びついた作品です。幻想的なカット撮りが印象に残っています。残念ながら途中までしか見れなかったので、再度鑑賞予定。久々に鑑賞記でも付けますかね。


今週はお盆休みで、「今週の言葉」もお休みとします。

お盆休みと所用のため、更新が滞ってしまいました。創りたいものがなかなか創れない日々がもどかしいですが、これも僕を試す運命と受け入れ、淡々と生きるのみです。


僕は、ここ数年で本当に欲張りな男になりました。世の中の様々な物事に興味を持つようになり、さらに、あろうことか、もっともっと知りたいという愚かな欲求が体中をかけめぐるのです。反面、焦点の絞り方が甘く、結局せっかく手に入れた興味ももてあましがちになり、成果もまだまだ今ひとつです。今一番欲しいもの。「明確な成果」です。本当になんでもいい。そのためにはここで焦点を絞る必要があるのかもしれません。


人生は長き道のり

わかっているのに心は焦るのみ


先の見えない暗闇の先に

ほんの少しでも光を灯して欲しい

悲しげな祈りの声が聞こえる


ただ生きていくこと

ただ生きるのみだ


「基礎」を固めることが、物事の成就において大切であることはもはや言うまでもない。「基礎」を固めること自体にも、深い意味があるが、何より、基礎を固める過程での試行錯誤により価値がある。試行錯誤から経験が生まれ、困難にぶつかった時、この経験が、役に立つはずだからである。料理を考えるとわかりやすい。基本的な食材や料理方法を覚えることよりも、実際に頭と体を動かして作ってみたことから得ることの方がはるかに多い。味付けを誤る、手を切るなどの手痛い失敗もしながら、学んで次に生かしていくことから、経験という暗黙知が蓄積されていく。基礎を作ることは人間を作る、そして経験は、人間にとって無二の財産となる。この経験こそがいわば独創性なのかもしれない。この独創性が経験なしに備わっているのであれば、もはや天才と呼ぶしかないが、自分はそんな人間ではないと考えた方がいい。基礎を固めることに躊躇したり、おろそかになることなら、時間の無駄なので、やめたほうが良い。「基礎」を作ることは地道で手間のかかるものであるし、私自身も苦労が絶えないが、あせらずゆっくりと事を起していく開き直りが大切だと思う。


前段が長くなってしまったが、最近「基礎」の軽視、錯誤が世間の空気となってから久しい。ボクシングの亀田の騒動を見て、なおさら思いを深めた。いや、亀田にボクシングの基礎がないと言いたいのではない。むしろ10代という年齢を考えれば、十分だと思う。だからこそ世間は彼に期待をする。しかし、世間のものさしにはかなりの誤りがあると言わざるを得ない。何より、彼が持っているはずの「基礎」が見えてこないことが気持ちが悪く、美しくない。「親子愛」という概念にすり換えて欲しくない。「親子愛」の表現は、映画や小説が、役目を果たせばいい。生身の人間がそれを口にした途端に嘘を感じる理由は、私の疑念に尽きるのみか。もっと本当の彼を見てみたい。ボクシングに対する真摯な気持ちをリングの上で爆発させる姿。それだけで十分なパフォーマンスだと私は思うのだが。ひとつの山の頂を制覇することは、確かに意義深いが、それはいくつかの山の中のひとつを極めたに過ぎない。ボクシングの世界チャンプになることは、ものすごいことだと思うが、それだけでは渡れないのが世間というものである。私もその過程だが、いくつかの挫折と、人との出会いのおかげでなんとか生きている。無敗のチャンプなんてつまらない。負ければいい。世間の冷たい風をまともに味わえばいい。堕落すればいい。その時こそかけがえのない人との出会いが、君に転機をくれるはず。期待してるぞ、亀田興毅。登山家の心境を持って。

街を歩こう。できれば人の少ない、普段行かないところへ。岡本太郎も寺山修二も言っていた気がする。あなた方の言葉をお借りしないと私の話が進まないのでとお詫びして先に進むことにする。できれば何の目的もなく、気楽に歩くのがよい。その方が、街が優しく包み込んでくれて、いい出会いがあると思う。空間を五感を協調させることで、世界を超越する。大げさな表現だが、うまく言葉に表すことができないということにしておいていただきたい。カメラや画用紙を持ち歩くのは悪くないと思う。瞬間にして、心から惹かれたものには、きっと「自分」があるのだと信じていいと思う。気になる店を見つけたときも同様だ。時間があるなら立ち寄って、お店を眺め、人がいるなら会話をしてみてもいい。それが忘れえないものなら、その街を再度訪れる契機となるからである。新たな「自分」と街で遭遇することほど、繁華街は人間に神経が行き過ぎるのであまりよくない。また、ブティック、遊技場、飲食店、歓楽場ばかりで味気ない。僕は、繁華街を歩くのは、歩かされている気がして昔からあまり好きでない。ただ、人間を感じる場としては、ある意味で繁華街は最適である。


今年の冬に買った「Tarzan」を見つけました。年間計画で身体を変化させるという内容です。ふと、今年の上半期、身体の不調に悩まされたことが頭をよぎりました。今の状態では、身体にかかる負担に耐え切れない。変えなければならない。四季の訪れのような、確かな意思が沸きだします。長梅雨の終わりを待ちわびたかのように、身体をしめつけるような暑い日が続いていますが、私は、解き放たれた矢のように、心に迷いがない今夏。身体を鍛えはじめるきっかけにもなりやすいこの時期。やがて訪れるであろう秋を少しうとましく思います。今の自分ではいられない気がするから。なんとなく静かに、しかし確実に移ろいゆく。そうあればいいと思います。


あえて、比喩表現を多く使ってみましたが、無理やり搾り出している感じです。書いている僕がそんな調子ですから、読む人には混乱をまねくだけかもしれません。僕もあまり比喩は好きではありません。ただ、日常を観察する意識を高めればもっと自然な比喩表現が生み出せるかもと思いました。五感の使い方が甘いようですね。



「どこまで」主張すれば認められるのか。

「どこまで」動けば目標にたどり着けるのか。

「どこまで」無駄を増やして利益を得ようとするのか。

「どこまで」嘘を繰り返せば真実にたどりつくのか?

「どこまで」争いを繰り返せば終わりになるのか。

きっと神様はお見通し。

私たちを笑っているよ。

いっそうのこと「おわり」にしてしまおうかと。


僕たちが住む世界は、いうまでもなく限界のある世界。それなのに、そこに住む人間は限界がないかのような振る舞いをしてしまう。最初は「分を守って生きる」という、自戒をこめて書いていたのですが、そのうちに、ふと自分が小さく見えてきました。宇宙の大きさから見れば、僕なんてあまりにもちっぽけ。それなのに世界を広げるためにあがく悲しき性。限界があることはどこかでわかっているのに。ふらっとどこかへ旅に出たくなりました。

所用のため訪れた都内の街で、いくつかの発見があった。突然だが、発見とは頭の中で思想している物事を引き寄せる「念力」だと思う。何も特別な能力だと思わないが、「念力」といってしまった自分に少し寒々しく思う。その発見のひとつが、フランス語の語学学校だ。大通りから少し外れた脇道を入り、ややきつい坂を1分少々上っていった所に、それはあった。たまたまこの期間はお休みで、programmeについて伺うことはできなかったが、何よりも目についたのは、この施設のたたずまい。見た目は、田舎の小学校のような素朴な校舎で、都内にある語学学校とは思えない。この素朴さが本当のフランスの姿かもしれないと僕は思った。学習施設の他に、フレンチレストランとフランス語図書の専門店もある。僕はここにしばらくいたいという思いを引きずりながらも、再びここに来るだろうと確信を持ちながら帰路についた。庭の一角にあった日本庭園風のスペースがあった。その姿は不釣合い、でもどこかでその施設の空気に溶け込もうとしているような気がして、そのイメージが今も頭を離れない。