「基礎」を固めることが、物事の成就において大切であることはもはや言うまでもない。「基礎」を固めること自体にも、深い意味があるが、何より、基礎を固める過程での試行錯誤により価値がある。試行錯誤から経験が生まれ、困難にぶつかった時、この経験が、役に立つはずだからである。料理を考えるとわかりやすい。基本的な食材や料理方法を覚えることよりも、実際に頭と体を動かして作ってみたことから得ることの方がはるかに多い。味付けを誤る、手を切るなどの手痛い失敗もしながら、学んで次に生かしていくことから、経験という暗黙知が蓄積されていく。基礎を作ることは人間を作る、そして経験は、人間にとって無二の財産となる。この経験こそがいわば独創性なのかもしれない。この独創性が経験なしに備わっているのであれば、もはや天才と呼ぶしかないが、自分はそんな人間ではないと考えた方がいい。基礎を固めることに躊躇したり、おろそかになることなら、時間の無駄なので、やめたほうが良い。「基礎」を作ることは地道で手間のかかるものであるし、私自身も苦労が絶えないが、あせらずゆっくりと事を起していく開き直りが大切だと思う。


前段が長くなってしまったが、最近「基礎」の軽視、錯誤が世間の空気となってから久しい。ボクシングの亀田の騒動を見て、なおさら思いを深めた。いや、亀田にボクシングの基礎がないと言いたいのではない。むしろ10代という年齢を考えれば、十分だと思う。だからこそ世間は彼に期待をする。しかし、世間のものさしにはかなりの誤りがあると言わざるを得ない。何より、彼が持っているはずの「基礎」が見えてこないことが気持ちが悪く、美しくない。「親子愛」という概念にすり換えて欲しくない。「親子愛」の表現は、映画や小説が、役目を果たせばいい。生身の人間がそれを口にした途端に嘘を感じる理由は、私の疑念に尽きるのみか。もっと本当の彼を見てみたい。ボクシングに対する真摯な気持ちをリングの上で爆発させる姿。それだけで十分なパフォーマンスだと私は思うのだが。ひとつの山の頂を制覇することは、確かに意義深いが、それはいくつかの山の中のひとつを極めたに過ぎない。ボクシングの世界チャンプになることは、ものすごいことだと思うが、それだけでは渡れないのが世間というものである。私もその過程だが、いくつかの挫折と、人との出会いのおかげでなんとか生きている。無敗のチャンプなんてつまらない。負ければいい。世間の冷たい風をまともに味わえばいい。堕落すればいい。その時こそかけがえのない人との出会いが、君に転機をくれるはず。期待してるぞ、亀田興毅。登山家の心境を持って。