言葉にしなくちゃ伝わらない。いいたいことはたくさんある。ただそれを伝える勇気がないだけ。


ここしばらく、この思いをかかえています。自分が思うことを伝えたい人がいます。でも、今の所、果たせません。頭に浮かんでくることは、機会がないとか、まだ時期ではないとか、いい訳ばかりでした。いい訳したら、人間ぜったいにダメですね。でも、自分の考えがいい訳かどうか気付くのに時間もかかるのです。伝え方も考える必要があるのかしれません。一気に全ての思いを伝えるのではなく、少しづつ伝え、確実に受け取ってもらう。一気に言おうとするから苦しくなるし、躊躇する。それにしても、こんなにも、自分の思う所をわかってもらいたいと思ったのは生まれて初めてかもしれない。人間、そう思ったとき、初めて真剣に相手のことを考えるのかもしれません。相手が受けとりやすい言葉で優しく口ずさむ。文字にする。僕は燃えています。

自分ができること、かつやりたいことに集中することができたら、一体どれくらいのことができるのだろうとふと思った。現状は、仕事もプライベートも、1ヶ月全く掃除をしなかった部屋のように、散乱ぎみ。なぜか今週末はM-1グランプリの予選に出る。まあこれは遊びで、やりたいと思ったから乗ったんですけど(笑)。しかし、冒頭のことを、なぜ考えたのかなあとつきつめていくと、やっぱり現状、時間がないことに行き着く。時間がないから、あせって、いろいろなことに手をだすけど、どうもうまくいかない。そこで「たくさんのことはできない」という諦めが生まれる。だから、自分で優先順位付けして、優先すべきものに集中していくことによって、いい結果をめざす。そうしないと、全てが尻切れトンボになって、時間が流れていく気がしない。自分の欲望を抑えなくてはいけないのが大変だけど。うまいこと、自分の「ヤリタイコト」を一緒にできればラクなんだけどな。そもそも「優先順位」っていうのがくせもので。時が過ぎれば変わるし、人が優先するものをやらなくてはいけないときもあるし。あれ?俺も大人になってしまったのかあ。。。。もっとがむしゃらでいいのかあ。ここのところ、自分と時間との関係が、少し前とは微妙に変わってきた気がしている。感覚的なハナシでお伝えするのが難しいのだが、感覚が変わったことに躊躇しながらも、今後、自分の時間をどのように流していくべきかを、ずっと考えているようだ。澱んでしまった川が、美しく澄んでいくイメージで。余計わからなくなってきた???冒頭からここまで読み返してみた。自分には、思い切りと勇気が必要かもしれない。書いてきたことも間違いではないかもしれないが、自分にとってちょっと違う気もする。もっと自由に考えたい。自分を見つめながら。

恨み。妬み。蔑み。そんなものは持っていないと言い張っても確実に自分の中に存在する邪悪なもの。消し去りたくとも消し去れないこの感情は時に自分を激しく狂わせる。でも「だから自分は弱い人間」だとは絶対に言いたくない。むしろそんな自分の邪悪さを認めて、それでも精神性を高めていくことを怠らない、そんな人間でありたいものだ。ただ一方で、精神の営みを「自分」の中で完結出来るものでは決してない。自分が今ここにあることは、自分以外の存在があるからこそだと、最近強く考える。自分を叱咤激励して引っ張ってくれるメンター。自分についてきてくれる後輩。黙って僕のことを見てくれている先輩、友人、家族。逆に僕をあまり好意的には見ていない人たち。人以外にも、地球の他生命・環境・風景・天候、そして宇宙。それら「世界」との巡り合わせが精神の営みを動かしていく。それを、僕たち人間は「生きている」と呼ぶのだろう。世界は、常に僕が思っている以上の広さと深さを持ち合わせる。決して「私」と同一化しない存在。追いかけるのは無謀だとわかっていても、それでも追いかけずには入られない。僕は、世界と対話し続けたい。いささか大げさな文章になってしまったが、夢想家にはふさわしい文章かもしれない。自分の精神の深層をさらに掘り下げていくことも怠らず、今日も生きる。

今、自分を支えているもの。愛する人と結ばれることを信じていること

歌うことで自分を表現することの喜び。尽きることなき探究心

ああ、熱き思いが湧き上がる。

ああ、人間はこんなにも豊かなのに


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考えてみると、今、自分が最も時間をかけるべき創作活動は、合唱(声楽)だと思います。陳腐な表現ですが、自分の深層に存在するものを一番表現できるものは、歌だと思っているからです。文章を書くことは、新しく始めた仕事のおかげで、十分に鍛えられそうです。モチーフ以前に、基本的な文章のルールを覚えることが必要です。まだまだあせる必要はありません。声楽に関しては、文章以上に、まだまだ未熟です。正確な音程をなかなか声に表すことができていません。そういえば先日、偶然にも、声楽を教えてくれそうな方と、ある近所のスナックで出会いました。謝礼は安くありませんが、ピアノに合わせて練習するので、音感を身に付けるにはいい機会かもしれません。11月には演奏会もあります。一度試しに受けてみようと考えています。

創作が生活を止揚し、生活が創作を止揚する。そう生きることさえ出来れば。





人は、理想と現実にギャップが生じると、ついつい時間がないことを言い訳にする。しかし、それはどうだろうか。本当に自分が日々費やしている時間のなかにムダな時間はないだろうか?また、その時間は、本当に充実しているのだろうか?自分の行動の目的、自分がその場にいることの意味。考えれば考えるほど、その時間を濃くすることができ、ひいては状況を変えることができるはずだ。それでも、自分の時間だけではギャップを埋めることが不可能だというのなら、人の手を頼るという選択肢だってある。むろん、自分のために、人にとって貴重な時間を要求することが、自分の時間を高めていく以上に難しいことはいうまでもないのだが。天気予報によると、関東地方は、しばらく雨がちの天気が続くらしい。気候もずいぶん涼しくなってきた。秋らしくなってきたといえば、聞こえはいいが。このように書いてきた僕も、日々刻々と過ぎている時間と戦っている当事者だ。この問題は、僕も自分なりに乗り越えていかなくてはならない。どのように過ごそうが、人が生きていることにはかわりないし、そのことで、人を中傷する権利は、僕にはない。しかし、僕は、できるだけ自分の納得のいくように生きたいとは思っている。無理なことは決してしない。やれるところまで、何事もやってやろうと思う。紅葉の鮮やかさを愛でる余裕をもちながら。

新しい仕事から約1ヶ月。少し「ゆとり」を持ち始めつつあります。ブログ生活も創作生活も取り戻したい今日この頃。「ゆとり」というものは、自分で「ゆとりはあるんだ~!」と言い聞かせていないと、決して存在しえないものだと感じます。そう感じているのはひとり僕だけ?さらに言わせていただければ、ゆとりがないことは、自分の欲を追い求めることの結果だと思う。いい意味でのあきらめというか、余裕を持っていたいと思う。毎日が平穏であればいい。ダメなときは、じたばたしてもしょうがないなあ。ゆっくりと、あせらず、着実に生きて行きたいと思う。

見えない事・理解できないことが多くなると、頭がもやもやして苦しくなることが、どうやら、僕の生涯の病らしい。しかし、そのような形で自分に起こる現象は、より見ようとすること、より理解しようとする力に変えられると考えたい。自分の生活の中に起こる現象、自分の周りに起こる現象を、丹念に客観視しながら、自分の記憶の中に積み重ねていく。それでも全てを明らかにすることなどできないだろうが、少しは何かの足しになりそうだ。暗中模索しながら、頭の中で「ゆっくり、あせらず、おち着いて」を繰り返す日々だ。時間という概念を、極力頭に置かずに生きていければ幸せだと思った。

あっというまに一日が過ぎていく。そんな日々が続いている。人は充実しているからだというかもしれない。実際、最近の生活は悪くない。ただ、一方で、漠然とした不安も捨てきれないでいる。時間に余裕が持てない毎日の中で、自分がありたい姿、目指したい道を見失うのではないかという不安。将来とは、僕にとって希望であり、夢だが、一方で、大いなる魔物だ。その魔物が僕の中に居ついて離れないのかもしれない。こう書いている内に、自分の時間をと思ったが、ソレも違う気がしてきた。

またまた、更新期間がずいぶん開いてしまいましたが。まずは、ご報告。私事ですが、新しい会社で新しい仕事を始めました。簡単にいうと、社長付の仕事全般といったところです。以前より仕事の範囲がはるかに広くなり、ひーひー言っていますが、やり方次第では、これから大きく成長していく可能性のある会社だと思う。まず一安心です。これから、あせらずゆっくりとやっていければいい。毎日いいことばかりではないけれど、そんな中からもプラスの要素を見出せる思考回路であればハッピーだと思う。そういえば、会社の周辺をまだよく知らない。天気がよくなったら昼休みにでも散策してみようか。

一方で、他の世界への意識も常に持っておきたいと思う。合唱、文章などの創作活動はもちろんだが、何より友人、家族との世界を大切にしていくことこそ大事だと思う。そうすることが、僕をまた新しい世界へと導くのだろう。でも、好奇心だけでおわってはだめだ。僕がここ数年で強く思ったこと。追い続けること。何を追うのかは、自分ではもうわかっている気がする。言葉にすると陳腐だからしないけど、きっと僕が一番熱くなれることだから、それでいい。

ずいぶん、ブログの更新が滞ってしまいました。お久しぶりです。何分遅筆なもので、時間が十分とれないとだめなようです。そういえば、堀江被告も、本日久しぶりに、公の場に現れました。あの世間を揺るがした大事件も今年の1月ですか。なぜか今年の事件とは思えないほど、ずいぶん昔のことのように感じてなりません。それにしても、テレビで報道されている彼の弁明を聞けば、拘置所での生活はいったい何だったかのかと思えてなりません。やっぱり拘置所を出たときの謝罪は演技だったんですかね。また彼をとりまく周辺の動きからも、ある種の醜さを感じてなりません。この国に真実を追う風土は無くなりかけていることが伝わってきます。真実という概念が消え去るようで怖い気がします。かくいう私も、真実という言葉には、日々翻弄されます。真実という概念は幻想ではないかと疑い、時には、目の前が暗く閉ざされることもあります。しかし、不条理・不運、社会、他人、またそれに伴う自らへの疑念といったネガティブなことに翻弄されながらも、それでも真実を追うことを人はあきらめてはならないと思います。それが生きる力となり、生きるという意志につながるようです。創作への意欲も、生きる意思があるからこそ、生命が自ら躍動して、湧き出るものであって、創作したいという意思だけでは難しい気がしております。実は、昨日読んだニーチェの「力への意思」の一説の受け売りなのですが、その一説が、妙に自分にとっては腑に落ちて、救われた気がしました。このことで何かが変わるほど生きることは甘いものではないのですが、知を愛することは、捨てられない気がしております。