「社会契約論」という、とっても難しい本を読んで、かなり頭が疲れている夜です。小説でも読みながら、うとうとと眠りにつきたい。。。ただ、自分としては、ただ読んでいるだけじゃ、もうだめだと思っているんですね。受動的読書から能動的読書への切り替えが大きな課題。読んでるだけじゃ、所詮、自己満足の世界だし、理解も深まらない。そこで、何か書かないと・・・とは思うんだけど、そう思うと、構えてしまって、アイデアがでなかったり、貧困な構成になったりする。どうせいいもの書けるわけないんだから・・・って開き直るしかないか?そんな精神論はともかくとして、アウトプットの方法論、平たく言うと、文章を書く時の頭の使い方と訓練が必要だなあ。あとぶっちゃけ、時間。さいわい、この連休で、当面読みたいと思っていた本はとりあえず読みとおしたので、今週は、残業(と酒)を押さえることにして、アウトプットを前提として読む本を絞って、何か書ければいいが。自分のやりたいことに対して、時間は足らないことはもうわかりすぎているので、いつも時間を大切にすることを考えていたい。
朝5時からの読書を終えて、まもなく、会社に出勤です。今朝は、「文章表現法」という本と、シラーの「美的教育」を読んでいました。「文章表現法」では、志賀の「城崎にて」と谷崎の「細雪」の一節を読みながら、各人の表現の特質を追ってみました。観察すべきポイントを把握しきれていないようなので、前の章をおさらいするべきかも。文体を学ぶことは、自分が書く文章を「適切」な形に整えるのに役立ちそうですね。この「適切」というのが曲者で、頭を悩ませますが、家にある日本の小説を読みながら考えていきます。読書する際に、気を使う点が増えます。「美的教育」は、文章理解につまづいて、一章読むのが精一杯でした。一段落ずつ、要約文を書いて、理解を進めることを試みています。これも、いい練習になるかもしれません。ただ、いいかげんな要約文を書いても、書いた後にまた考えるロスが出てきてしまうので、書いてある文面に頼りすぎず、自分の言葉に噛み砕いて、要約することが大事と思います。週末は、絵を見るとか、音楽を聞くとか、少し気分転換したいですね。今夜、少し考えてみるか。
感銘を受けた小説・エッセイから、再読したい本をピックアップ。
○若きウェルテルの悩み(ゲーテ著・高橋義孝訳・岩波文庫)
ゲーテを一躍有名にした作品としてあまりにも有名。それだけではなく、この本が出版された18世紀のヨーロッパの若者に驚異的な影響を及ぼした問題作。題名にあるウェルテルという若者は、こともあろうに、許婚者のいる女性に激しい恋情をいだいてしまったことで、激しく苦悩します。結局、その苦しみのあまり、ウェルテルは自殺してしまうのですが、この時、作品を読んだヨーロッパの若者が、ウェルテルをまねて自殺するということが、相次いだらしいのです。この作品を発禁にした国もいくつかあったとか。確かに作品の結末を聞くと、そのような現象が起こったこともわからないではありません。あえて、この結末を丸飲みして読んだとしても、生きることの無常と空虚をどことなく感じてしまうことでしょう。生きることに、幸福とか不幸とか、そんな概念を追いかけざるをえないことが、人間の宿命だとするならば、です。この作品は、ウェルテルが幸福だったか、不幸だったかを考えることではない。、読者に、ウェルテルが、苦悩の中で、それでも生きる意味を見出そうとする姿を黙って見つめることを要求する。作中に時折出没する、自然についての描写が詩的で、非常に美しいです。
○ヘンリ・ライクロフトの手記(ギッシング著・平井正穂著・岩波文庫)
「知的生活の方法」(講談社現代新書)のなかで読書を愛する人として、挙げられていたのが、著者のジョージ・R・ギッシングであります。このイギリス人は、日々のパンを犠牲にして、勉学に励むという人生を、生涯突き通した人です。この作品は、ギッシングの自伝的手記といった内容です。ここでちょっと、話はギッシングのことからそれますが、この前、クールべという、フランス第三共和制前に活躍した、画家の伝記を読みました。この人も、若い頃は絵の修行のために、それは、悲惨な生活を送ったようで、何度も病気にもなるなど、災難続きだったようですが、彼は、絵が描けるという、そのことだけを心の支えに、必死に勉強して、やがては世に認められる作家となりました。ヘンリ・ライクロフトの手記を思い返すにあたり、ギッシングにも、クールベと似た部分があるように思えて、つい書き添えてみました。これが芸術家のの真実だとは言いすぎでしょうか。いや、ギッシングの生涯を想像すれば、貧乏と孤独で、苦しいと思うことは、それこそ何度となくあったはずなのに、なぜか作中から、悲壮な思いはほとんど伝わってきません。むしろ、知を求めることを生活の糧として生きることへの喜びと、感謝の念を感じずにいられない。クールベは若さゆえの好奇心と時代の影響を強く感じましたが、ギッシングは、自分の性分と運命を受け入れた、何にもゆるがない、成熟した大人の姿を感じるのです。彼を支えたもの。それをさらに深く味わいたい。抽象的思索についての描写も興味深い。
未読書に目を通す時間にかまけて、一度読んだ本を読み返す機会がほとんどないのが、今の悩みです。偉大な作家の言葉を借りるまでもなく、再読かつ熟読することが、理解を深めていく方法だということはわかっているので、あとは、時間を死守するのみ。芹沢光治良の長編小説は、マメに読み進めるとして、未読書の購入・読解は、しばらく控えめにしないといけないようです。それにしても、読書計画の甘さを痛感。僕が再読したいと思っている本は、大きく2通りです、ひとつは、難解すぎて、途中であきらめたり、理解できなかった点を残したまま、読了としてしまった本。もうひとつは、作品の主題や表現の巧緻性に感銘を受けた本です。
今日は、前者をいくつかご紹介。
○宗教の理論(ジョルジュ・バタイユ著・湯浅博雄訳・ちくま学芸文庫)
なぜか今年の春先に、「宗教って何なんだろうな」という疑問が深まり、アマゾンで購入。僕は、正直それまで宗教とか信仰とかいうものに抵抗があったんですけど、最近は、宗教を信仰している人と普通に出会うせいか?割と自然になっています。さて、この本は、さすがバタイユと思わせる、非常に難解なものでした。ひとつの文章でさえ、何度も読み直さないと、理解できないことがありました。2回、目も通したはずですが、今、本を開いて、自分が傍線を引いたところを読んでも正直チンプンカンプンです。哲学系の本全般に言えるのかもしれませんが、節ごとにメモをとりながら、噛み砕いて読んでいきたいと思う本です。
○純粋理性批判(カント著・篠田英雄訳・岩波文庫)
デカルトの「方法序説」を読んだあとに、勢いで手を出した、生涯2冊目の哲学書です。かなり一生懸命読んでいた記憶がありますが、いかんせん能力不足で、残念ながら、上巻の半分過ぎでギブアップしてますね。文章自体は割と素直な日本語に訳されてる気もしますが。哲学独特の用語が頻出するので、用語辞典か辞書がないと理解に苦しみそうです。ちなみにこの本は中巻、下巻があり、さらに続編として「実践理性批判」「判断力批判」という書があります。よって、読み進めると、どっぷりはまり過ぎて、日常生活に支障をきたしそうで、手が出しづらいのですが、時間があれば、ぜひぜひ読了したい本です。
○社会学の根本概念(マックス・ウェーバー著、清水幾太郎著)
たしか、大学で経済学を学んでいた友人に勧められて読んだ本ですが、今となっては全く記憶になし・・・この書も、かなり難解で、通勤列車で読める本ではなく、ノートをとりながら、腰を落ち着けて読みたい本です。
○芸術哲学入門(ジャン・ラコスト著・阿部茂樹著・白水社)
美の真理について、時系列に、美学、芸術家、想像力、表現といったテーマを絞って論じられています。内容は、そこまで深いものではないようなので、題名どおり、入門として自分の興味を探る目的で読む書だと思います。美学に関する章を中心に、その他興味のある項目をかいつまみながら、じっくりと読み返したい本です。
明日は小説・エッセイの中からご紹介。
事情により、現在、自宅でネットを利用できないため、ブログ更新が滞っております。先月から、ブログ作成を細々と再開したわけですが、ブログに書くことの意味をあらためて考えます。ブログに書くことは、自分以外の外部に伝わるわけですから、自分以外の人が読んだとき、興味や意味を感じるものでないと、わざわざ、公の空間に出す意味なんてないんですよね。日記や自分が思うことであれば、本来、日記帳で十分ですからね。自分の生活から、ブログのネタを考えると、本当にありふれたことしかかけない。文才がないせいか、生活が地味なのか、余裕がないせいか、わかりませんけど、人に語るような物語はそうそうないですよ。たとえ書けたとしても、ブログにするかは別問題だし、かなりの脚色が入るでしょうね。そんなこと言ってると、何にもかけなくなりそうだけど、表現って、それなりの緊張感って必要だと思いますよ。何も出来ない自分が偉そうだけどね。リアルな場のことを考えたらわかるけど、表現って、とても怖いものですよ。芸術とか、大げさなことじゃなくて、普段のコミュニケーションを考えたらわかるでしょ。例えば、会社とか学校とか。毎日続く人間関係を考えると、表現することに、過敏にならざるをえないよね。それが、このインターネットという空間だと、「いいたい事をいってよい」とみんな思ってしまう。そんなこと、あるわけないんですよね。やっぱり、すでに暗黙のルールはあるはずだし、今後、明文化していく必要があると思う。「インターネット憲法」なんていうのができてもおかしくない。それくらい、インターネットの存在が大きくなっているのが、現代でしょう。電車の中で、携帯で、ネットゲームやったり、SNS見たりしている人、よく見かけますものね。ちょっと話が横道にそれたけど、インターネットでコミュニケーションが完結される世の中になったら、正直恐ろしいよね。数メートルしか離れていないので、携帯メールで話す・・・とか。インターネットを介したコミュニケーションの方が痛みは少ないはずなんですよ。生の人間の姿が見えないし、自分が属す空間が嫌になれば離れればいいしね。でも、そんな環境の中での表現がほんとに「自己表現」たりうるのか?まあ、自己表現というのがあるのかどうかは置いておくとしても、表現は、他人の視線を意識することが大事だよ。僕も何度か、コンサートで音楽を通して、他人と通じることのできる舞台を少ないながらも経験しているけど、緊張や練習不足のせいで、自分の演奏の事しか考えられないこともまだまだ多い。でも、今思うと、それこそが、本当の自分なんじゃねえの?と妙に納得できたりする。僕は、音楽でいえば、他人という存在を意識しながら、演奏することが今の目標である。だから自分は何をしなくてはならないのか、どうあるべきなのか?って考えていく。これは、なかなか難しい。普段から舞台に立っているわけではないから、なかなかリアルにならない。そう考えると、今は、レッスンの先生の存在が大きいと思う。とても熱心に教えていただいているので、少しでも上達して、教えていただいたことを表現していきたいという思いでやっている。いつもうまくいくわけじゃないし、最近、教わることが高度になって、伸び悩みも少し感じるけど、今の段階を乗り超えれば、自分の実力との向上とともに、先生との音楽を通じた関係のなかにも、新しい何かが生まれるように思う。これが他人と関わることの醍醐味だよな。そう考えると、仮想空間上で、見えないつながりを持っても、正直、あまり意味が無い気がするわ。いや、体験談的にいうと、ないことはないか・・・?うん、いろいろ考える事ができて、有意義だった。ところで、今後、ブログで何書こうか?コレがさらに疑問だわ。。。。
仕事や生活については、ちょっと考える時間が必要ですね。溜まってる感じです。いや、変な意味じゃなくてね笑。来週は人に会わないで、考える時間をとりたいですね。溜め込むだけでは、消化不良で破裂してしまうのはわかっているんですよ。でもどう出していったらいいか、わかりかねているのです。何ですかね。僕は、世間というものがよくわからなくなっているんです。世間という構造の中で、自分がどうあるべきかということ、難しい問いですわね。正直、自分が世間で「成功」を手にいれる自信は、昔に比べると、なくなりつつあります。かといってやる気がないわけでもなく、希望もあるけど、、自分ができることをやってだめならしゃーないやないか、なるようになれという感じ。逆に、プライベートではもっともっと溜め込まんといかんなあという感じです。いや、まあ音楽とか文学とかの話ですけどね。やればやるほど、読めば読むほど満たされなくて、それを満たすためにはどうしたらいいかって考えちゃちゃうんですよね。それこそ、嫌なほど課題が頭に浮かんでくるんです。こちらは、人が見る見ないにかかわらず、アウトプットはとても旺盛といえます。でも、出したら出したで、不満を感じているんですね。贅沢な話ですよ。二人分の人生を生きてるように感じることもあって、疲れることもあるんですけど、自分で選択してやっていることですからね。とにかく毎日やれることやるしかしょうがないですよ。明日のことばかり考えてもしょうがない。今日感じた幸せをかみしめながら、今日の不満を明日の糧にする。それしかないじゃないですか。やることできてるなら、あとは神にお任せですね。アホみたいな話ですけど、こんなこと言い続けて生きていくんですかね。
声楽の音程練習を終えて。ほっと一息。明日のレッスンのパートがまだ不安なので、明日の朝に小一時間練習をするつもりです。合唱の練習曲の楽譜の見直しもあるので、朝から忙しそうだ。正直、ここから上のレベルを目指すなら今より時間をかけないと厳しいのかもしれない。でも、考えてみると、今の生活を考えると、土日の練習時間を増やすくらいが精一杯だろう。音楽だけではなく、少し考える時間が今、必要だと思う。これからどのように生きていくのか?自分の仕事は?家庭は?経済は?趣味は?このように、矢継ぎ早に頭の中に思い浮かべると、混乱しそうになり、反射的に考えないようになる自分に気づく。まずはひとつひとつ整理したいと思う。それからゆっくり考えたいと思う。今日、ある人の文章のなかの「僕は僕の為に」という言葉にひかれた。自分が好きだと思うもの、譲れないものにこだわる生き方。自分が好きだと思うもの、譲れないものというのはわかってきた気がする。僕は純粋さを愛する。美しいものを愛する。理路整然さを愛する。人間の生の姿を愛する。真実を愛する。思いつくままに書いたけど、どれも抽象的な概念で、その具現化された姿には様々な形があるだろう。たぶん答えはないのだろう。ただ、大切とするものを求めたり、表現しようともがいてあがいている、自分の生の姿を、瞬間でいいから、もっと感じて生きられればと思う。自分をとりまく今の環境が、そんな生き方から遠ざけようとしても、生きるのは、まさに自分次第だ。もうこれ以上人に迷惑をかけず、感謝して。でもやっぱり自分の為に生きよう。
会社から池袋が近い。今のところ、訪れることが少ないのだが。池袋は高校時代から馴染みのある街である。通学中、必ず通る街だったこともあり、学校が終わると、友人とよくカラオケやゲーセンにいったものだった。渋谷や新宿の方が栄えているのはわかっていたけれども、なんとなく垢抜け切れない池袋がなんとなく好きだった。当時の僕は部活ひとすじで、普通の高校生とはかけ離れていた生活を送っていたので、渋谷や新宿という街がどんな街だかさえ、よくわかっていなかったが、なんとなく人から聞くうわさで恐怖感を持っていたということもあるかもしれない。最近、池袋に行くことを想像しながら思いついた場所が、東京芸術劇場と新文芸座だった。なぜか。先日、東京芸術劇場へ行ってみた。コンサートのちらしを貰ってきた。劇場前の広場はなんだか雑多というか、一言で言うと汚く、芸術という言葉からはかけ離れているようにも思える。今日は新文芸座によってみたいと思う。
今日は手のあれがひどく、病院でもらった強めの薬に手を出してしまいそうな、そんな夜です。いきなりわけのわからないことをいってしまいましたが、小雨の夜ってなかなかいいですね。ひんやりと冷たい空気と、雨垂れの音が全身にしみこんでいくようで、なんとなく落ち着くのです。さあ、寝ましょう。明日も朝からやること多いのです。天気がよければ洗濯。時間があれば、ピアノと音程練習。駅前の喫茶店で、コーヒーと軽い食事を嗜みながら、仕事の準備。少し楽しみな明日。ほんの小さな期待でも、幸せは感じられるんだな。