今日も、あとはもう寝るだけです。音楽の練習は明日の朝、時間があればできればいいな。昨日あまり眠れなかったので、今夜は心地好く眠れることだけを祈ります。明日も仕事はりきってやらなくてはいけないからね。自分がアウトプットする内容にもっとこだわりたい。他人から見て、明確で、わかりやすいアウトプットとは何かをいつも頭にいれて。「明確で、わかりやすい」というのは、最近、ようやく読む気になった参考書「ビジュアルコミュニケーション」の受け入りです。伝えるべき情報をいかにわかりやすく伝えるか、その方法論を学ぶことが、今後の創作活動のために必要だと思ったからです。内容としては、やや浅いので、色彩論、レイアウトの方法論等は、また別に深く学ぶ必要があるだろうとは感じているが、いますぐやるかについては決めかねている。今の仕事に直結させるなら、浅く広くなめていくべきだが、なにぶん興味のある分野で、深くえぐりたい好奇心も捨てられず、少しそれが悩ましい。こういう前向きな悩みならいくつでも抱えてもいいかもな。
お前は何も間違っちゃいないんだ。そのままでいいんだ。そんなに自分を卑下して何になる。そんなに自分を傷つけて何になる。もっとわがままに生きてやれ。もっと自分を強く主張していいんだ。自分を出さずに悔やむより、自分を出して悔やむほうがよっぽどいい。他人の中傷などものともしない、もっと強い自我を育てよ。
一日ぽっかり予定のないお休み。今日は誰にも会いたくない。ひとりでぼんやりしていたい。そう考える。でも久々のお休みだからあれもしよう、これもしよう、ってついつい色色なことを想像してしまう。そう思うことが、ちょっとつらかったりする。思い付きのままに、家の掃除をしてみる、いつもは気づかない部屋の汚れが目に付いてしまう。あ、お風呂もそうじしなくちゃ。そうそう玄関も、流しも。かえって疲れてしまう自分に気づく。休みだというのに、心が、ちっとも安まらないな。かぎられた時の中で、今の思いと折り合いをつけながら今日もくらす。そんなじぶんをなだめようと、今、すっかりぬるくなった紅茶を口にする。こうブログを書いていても、眠くなってきさえする。一日ねむれるとしたら、どんなに気持ちのよいことだろう。でも、なぜかねむりをこばむじぶんがいるんだ。一日をとりとめのないことで満たそうとするじぶんがさ。さあ、まちにでかけようか。
いきなりですけど、自分の事書くこと、あきましたね笑。毎日、大してかわりばえないですからね。仕事して、食事して、風呂入って、歌って、ピアノひいて、本読んで寝る。今日は、一日のほとんどの時間を、DM発送の準備に費やした、ただのサラリーマンです。いや、今週ずっとこんな感じか。時間に追われるのって苦手みたいです。急いでやってなんていわれるとついついあわててしまうのです。プレッシャーに弱いんですよね。人の言葉が心に突き刺さってくるんです。ついつい気にしてしまうのです。正直、仕事には、いろいろトラウマもあって、苦しいこともあるんですけどね。ただ、もう少しで光明が見える気もするんですよ。少しだけどやる気が出てきたというのか、やらなくてはいけない気になってきたというか。仕事って面白いんですよ。絶対。やればやるほど。その感覚を思い出したいんですよ。以前はあった気がするんです。久しぶりにビジネス誌を買ってみました。「見せる書類」についての特集があったことに惹かれました。コンビニでたまたま目に入ったのですが、なんとなくコレを買わなくてはいけない気になったのです。ただ、難しいです。他人に見せるということ。自分がいいと思うものって他人にとってはどうでもいいことだったり、その逆だったり、もしくは、変にこりすぎて、自分の伝えたいことがうまく伝わらなかったりする。音楽でもしかり。まだ見せるレベルに達していませんが、きっと、このままやり続けて、ある地点で、この「見せる」ということについて深く悩む事が来る気がします。他人に見せること。仕事の中では自分をさらけ出すわけではないから、周りにこてんぱんにされながらも、軽い気持でぼちぼちやっていきます。きっとプレッシャーに強くなる訓練も兼ねるでしょう笑創作家たるもの、周りからたたかれることからは逃れられないのですから、予行練習にはちょうどいい。
コメント、ありがとうございます。無二の友人だからこそわかる自分を言葉にしてもらい、うれしく思います。最近、ひたすら目の前のことを追いかけながら、合間をぬって飲んでいる感じですが笑正直、自分を見つめ直す時間がとれないのです。毎日、つきあっている自分のことさえ、うまく話せないのはもどかしいのですが、今話すと嘘になってしまう気がするのです。もう少し落ち着いたらお話できるかもしれませんが、今は日々思うことを書くことで精一杯。でも、今プライベートで取り組んでいることには嘘はないと確信しています。仕事は嘘だらけです笑
さて、「若葉」ですが、また読み直しました。うーん、一言で言って、読みがかなり浅かったですね。家族が、失明した叔父の面倒を敬遠する視点をもう少し理解しながら読むべきでした。主人公の女学生の叔父への恋慕に似た思いにばかり目をとられて、家族の視点を「冷たい」の一言で片付けてしまいました。戦傷者は最初は「名誉の戦傷」とかいって、もてはやされるでしょうが、時間がたてば、かえって近所から腫れ物を見るような目で厄介者扱いされることもあったでしょう。また、目の不自由な人間の面倒を見ていくというのは、いうまでもなく経済面・生活面で大変な負担です。作中でも、叔父は、将来の生計を自らたてるために、失明軍人専門の職業訓練学校に行くのです。ましてや戦局いよいよ激しくなりつつある折、気の毒だということだけで、おいそれと面倒を引き受けるわけにはいかないというのが、大人の事情なのかもしれません。この現実、真実を理解してこそ、女学生の心情というものをもっと深く理解できるのではないでしょうか。いうまでもなく、女学生には大人の事情ましては世の中のことなど、まだわからないのです。ただただ、叔父さんが可哀想でならない。なんとか救ってあげて欲しい。そんな心の美しさ。若葉という言葉はその象徴なのでしょう。逆に、大人の事情がわかっていながら、ただただ可哀想というのでは少し気味が悪いです。あ、昔の俺か。もう少し考えてみたいですね。相対する考えもしっかりと読み取っておくべきだと実感。叔父の立場についても同時に考えながらと思いましたが、感情移入しきれませんでした。一読で、複数の人の心情に感情移入するなんて、ほとんど天才ですよね。僕は普通のひとなのでもう何度か読みます。
最近考えるべきこととそうでないことがなんとなく判ってきた気がします。以前、考えて悩んでいたことというのは、自分の力だけではどうにもならないことばかりだった気がします。自分がその気になればなんとかなることをやるのが近道かも。自分ひとりでもできることってけっこうある。はじめたてはおっくうになることもあるけれども、はじめてしばらくすればきっと楽しくなる。そう思えるまで僕はかなりの時間を費やしましたね。所詮、全てが完全な人生なんてありえないし、それがあたりまえなのに、パズルの足りないピースを求めるかのごとく、ひたすら何かを求めていたのでしょうか。何かを見つけようとする人には何も見つからない。明確なものを探す人には、何かが見つかるかもしれないし、何も見つからないかもしれない。諦めって言葉、とても嫌いだったけど、最近少しわかってきました。頭のどこかにおいてもいいかもしれないって思います。でも全ては諦められない。それで、きっとうまくバランスがとれるでしょう。
自分ひとりではどうにもならない何かにぶつかった時こそ出会いのときかも。でも黙ってたって何もないぜ。ベイビー。
通勤中に、芹沢光治良の「若葉」という短編小説を読みました。今週末の読書会での題材です。昭和14年6月号の「新女苑」という女性向けと思われる雑誌に掲載された作品で、戦争で失明した叔父のことを案じる女学生の心情がつづられています。一回通読してみて、体が不自由な叔父を邪険にする他の家族の冷たいしぐさや言葉が、女学生の心情をさらに美しく際立たせているように感じました。30分強の通勤時間で読めるぐらいの分量ですから、主人公である女学生の立場だけでなく、失明した叔父の立場、その叔父に邪険な家族の立場にたって、様々な角度で何度か読み返してみたいと思います。長編をじっくり読むのもいいですが、短編小説を何度も読み返してみる事が、読書人としての成長、そして偏りのない見方を形成することにつながる気がします。通勤時間で読みきれる分量の小説、他にもあるのでしょうか。芹沢光治良を知らない人が多いと思いますが、昭和を中心に活躍した作家です。若い頃からは、家族の天理教への信心、フランス在住時の肺結核など、苦労の絶えなかった人のようですが、34歳から、亡くなられる(97歳)直前まで創作活動を続けてらっしゃいます。たまたま、私の自宅の近くで読書会が催されていて、先月参加したご縁から、先生の著書を読み進めることとなりました。著書の中に「人間の運命」という本があります。読了するのに一年近くかかりそうな大変な長編ですが、読書会の参加者の方にお借りして、先生の創作への執念をかみしめながら、読んでいるところです。きりのいいところで、ぜひご紹介したいところです。では。
今日は会社で精神的にくたばって、ぼろぼろの状態で帰宅。いやーホント疲れたよ~。さっそくお風呂に安らぎを求める。ややぬるま湯にお湯を貯める。アロマオイルを湯船に落とす。そして、肩以外の全身をお湯にひたして、詩を読みふける。いつもはこれが至福なんだけど、なぜか今日は、文字が頭に入っていかない。今日は音楽だと思い、流していたクラシックの曲に耳を傾ける。ふー、心が妙に楽になった気がした。お風呂からあがり、そのままキーボードへ向かう。毎日数分づつでも必ず弾いているので、大分慣れてきた気がする。とはいえ、今は、Cの長音階とC→F→G7→Cと和音をならす練習だけで超初歩的。しかし、この優しい段階だからこそ、先生に言われたことを確実にこなしていくつもり。ヘンな癖がつかないようにね。歌の方は、タイやスラーで結んだ複数拍のシンコベーションに苦戦中。アクセントの位置が変わるので、気をつけていないと訳がわからなくなる。少し理論武装も必要な気がしている。これを覚えると、音楽がさらに楽しくなるって本で読んだけど。今のところ、むかつくだけだわ。急がずゆっくりとやろう。今週はまだ長い。明日も無理せず、気張りすぎず、出来る範囲のことをやれればそれでいい。
心も体も疲れている金曜日。毎日平穏に暮らせればいいんだけど、なかなかそうはいかないね。明日も仕事頑張ります。今夜は映画2作品を見る予定。今「広島やくざ戦争・・・山上光治の生涯」を見終わったところ。本編の広島やくざ戦争を見てるときから思ってたけど、小沢仁志はかなり文太兄貴を意識していると思う。なぜって広島弁のイントネーションを聞いてて、そう思った。おそらく「仁義なき戦い」を何度もみたんだろうな。広島やくざ映画やるならって・・・ついつい見てしまう役者の気持ちを想像してしまう。仁義な気戦いも10回以上見ているんで、どうしても比べてみちゃうんだけど、正直「仁義なき戦い」と比べると役者の格が堕ちるからね。小沢仁志はかなりいい線いってる気するけど、AV男優も出てるくらいだしなw本作品は、ラストが興ざめ。死に場所となる民家を人がとりかこんでちゃまずいでしょ。たしか、山上光治はひとりでひっそりと死んだと思うんだよね。しかも銃口はこめかみではなく、口の中。それにしても死を迎える前の山上の気持ちはどうだったんだろうって思う。結局、村上を殺すことはできなかったし、やりきれない気持ちが心を占めていた気がする。その心を無理やり静めるように、命をみずから絶ったではないか。まあ殺人者の気持ちは正直いくら考えてもわかりませんけどね。ちょっとマニアックだけど、かなりの広島やくざおたくなんです。私。ハイ。小沢仁志といえばなんといっても「スクールウォーズ」の水原。チェーン回しながら滝沢と川で喧嘩したシーンが忘れられません。さて、お次は黒澤明の「白痴」。この前途中で寝ちゃったから、もう一度。あるワンシーンで、他の映画ではお目にかかれない、原節子が見れた気がした。激情というのかなんというのか、言葉にするのは難しいが、それがとても印象に残っている。ではまた。