日本経済新聞文化面右上に「発見された技十選」というコラムが掲載されているのはご存知だろうか。絵画修復家である吉村絵美留が、修復した絵画を題材に、画家の隠された画法を紹介しているコラムだ。昨日は、佐伯祐三の「ガス灯と広告」。佐伯祐三は、パリに2度にわたって滞在し、その間に、パリの風景を多く描いた昭和初期の画家である。「ガス灯と広告」は、国立美術館の所蔵作品でホームページでも見ることができる。壁に描かれた広告とガス灯。広告のひとつひとつが、芸術作品のようだ。しかし、ガス灯の光の様子は、ブラウザに表示されている画質では、はっきりとしない。吉村はこの作品を修復する際、しっくい剤の材料である白亜が絵の具にまざっていることを発見する。こうすることで、絵の具の乾燥を促し、時間をかけずに重ね塗りができ、作品を一気にしあげることができるという。このように早急に作品を仕上げていった佐伯だったが、30歳の若さで客死する。佐伯は、人生をも急ぎすぎたのでないかと吉村は指摘する。急いだのか、それとも急がされたのか。パリの風景の美しさが、佐伯を、できるだけ多くパリを作品として残したいという甘い誘惑に誘い込んだのではないか。そして、フランス人ではなく、佐伯は、あくまで日本人であった。日本経済新聞を購読している人はぜひ目を通されることをお勧めしたい。パリの風景画といえば、青山のユニマット美術館で見たユトリロもよかった。以前、僕は、ユトリロの作品について「絵の中に吸い込まれる」という表現を使ったことがある。今、ユトリロの作品について再び考えて思いついた言葉。「原風景に限りなく近い、しかし独自的」な逆説的な世界。ユトリロが、佐伯と同じように、壁の材料のひとつである炭酸カルシウムを絵の具に混ぜて、家の壁面を描いたことを、このコラムから知った。もしかしたら、、あの時の僕が抱いた感情は、彼の作品におけるリアリズムの追求に原因があったのかもしれない。ユトリロの作品は、町田にある西山美術館で目にすることができる。「パリで生きること自体が芸術である」。パリを紹介する本の中で見つけた言葉だ。パリは「芸術の都」と呼ばれ、芸術に憧れを持つ世界中の人々をひきつけてやまない。僕も佐伯のように、パリに魅せられている。必ずパリの土を踏みたい。日本では得られない何かがあるのではないかという淡い期待か。再び仏語の学習を始めた。

最近、さくらやの使用期限ぎりぎりのポイントを使って、ポータブルオーディオを買った。久しぶりに、我ながらいい買い物をしたものだと頭をなでつけてやりたくなる。こんなに生活が豊かで素敵になるだなんて!「フィガロの結婚」の冒頭のバイオリンの音に身を躍らせ、「木星」に宇宙を思う。この前、バイオリンとピアノの演奏を聴く機会があり、初めて人が演奏するのを目に見たが、すばらしい演奏とともに、体を揺らして優雅に、かつ激しく演奏している姿が今も目から離れない。弦楽器は、なんとなく遠ざけていたが、そんなことをしたことがもったいなかった感がある。正直眠気を誘うという点はあるのですが、それも瞑想に誘われると思えばまたそれもよしか。そろそろ写生文に挑戦してみたい。自分のことばかり書くのにあきたんですよw自分がたずねた街の様子を、文章にする。写生文というと、蕪村、子規、虚子、漱石あたりを思い出すが、このあたりの作家の作品は今まで手をだしたことがない。ニ三、参考に目を通してみますか。さすがにそのときはポータブルオーディオは手にしないことにしよう。

日曜日にLOCUSの全体練習であわせる曲。昨日、メンバーのごろーさんから音源を頂き、帰りの電車の中で、買ったばかりのポータブルオーディオで楽譜を見ながら、ずっと聞きっぱなしでいた。リズムをとりながらうんうんうなっている僕は、かなり変な人だっただろう・・・4ヶ月前から、個人レッスンを一時休止し、本業やら翻訳やら文学やらに注力する時間が増えたため、音楽の勉強からは、かなり遠ざかっている。まだ思い通りに音を作れない自分を見ると、僕には音楽のスキル・知識の部分で足らないことが多すぎるのではないかと悩むこともある。実際、LOCUSの練習に出て、先輩方の発言を聞いていると、自分は、和声の勉強や調別に音階を歌う練習(へ調とかニ調)をしなくてはいけないなあと思う。でも、時間という恐るべき人間の限界を考えるならば、この今はLOCUSの曲目に集中することが大事なんだ!精一杯練習してこの曲をものにする中で、何かをつかめるはずさ!そのほうが効率的だ。うん、そうに違いない。あ、Viri Galilaei。ルネサンス時代の曲で、ラテン語の歌詞。テンポが早く、ついていくのに必死。でもばっちり歌えたらホントかっこいいだろうな。そんな自分の姿をイメージして今日も歌う!!

最近、生活に秩序が生まれてきたと思う。ようやくここまで戻れたかと、少しほっとしています。しかし、今からが、自分の人生をよりよく生きるための大切な時間が始まるのだと、自分を叱咤しながら、心を新たにしているところです。今の状況に自分を戻すまでに、大変な時間を要してしまい、今振り返ると、しなくてもよかった無駄も明らかに多かったため、それは「過ち」として素直に受け入れなければならないけど、一方、それも「必要」なことだったのだという受け入れ方も持ち合わながら生きることにしています。やはり自分の力で何とかできるという過信があったのでしょう。今は、自分の無力な部分もよくわかり、自分はいろいろなものに支えられて生きているのだと実感しています。常にいろいろな人に助けられ、許されていること。だから生きていられる。そうやって、自分の生が保たれていることに驚き、自分の生が思っている以上に偉大であることを知る。自分の根源の力を知る。生きていることに毎日感謝して、つらいことも苦しいこともたくさんあるけど、それでも明るく生きていたいと思う。こういうことを書くと、君は、宗教でも入ったのかと言われそうですが、あいにく、僕は無信仰で、いまだに神の教えはわかりません。ただ、素直にそう思うだけです。新しいチャレンジとして、先週から、英文翻訳の学校に通い始めました。このことが生活に秩序を生んでいるのかもしれません。めざすべき目標、将来の希望が少しづつ明らかになるのに従って、思考や行動は、切れを増し、具体化する。今は、いろいろな情報に目を通し、それを血肉に変えていくこと、言語の論理性を追求すること。もちろん、英文を読み、語彙や文法を学ぶこと。そのために何ができるかっていつも考えています。歌も細々と続けています。来月、コンサートなので、発表曲を中心に練習。ルネサンス時代の曲で、リズムがとりにくい曲があり、苦戦中。歌については、もうひとつ上のレベルにいくためには何をしたらいいのかなと思案中。文学については、短編を読んで、感想を文章にまとめる訓練を始めようと思案中。自分が作者の立場にたって、文章を読む姿勢が求められる。まずは、モーパッサンというフランスの作家の短編集を購入。

最寄り駅の沿線が、人身事故でダイヤが乱れているという報告が、先に会社に出かけた母からあった。そのため、僕は、別の沿線の駅まで30分ほど歩くことにした。運動不足のからだにはちょうどいいと、意気ごんだはいいものの、歩きはじめると、うだるような熱気がからだを包み、汗がとまらない。Yシャツの下のTシャツ、パンツにまで汗がしみ込み、目に汗が入ってくる。このどうしようもない暑さを、花よ、木々よと周りの風景に目をやりながら忘れようと考えるが、そんなことを考えているうちにも、時間は過ぎていき、ともかく歩くしかない。なんとか目当ての電車の発車時刻ぎりぎりに、駅にかけこみ、ホームで水をがぶ飲みする。なんとおいしかったことか。今日は、この数十分だけで終わりでいいと思った。でもそういうわけにはいかないですね。愛とは、お互いを結びつける何かに、お互いが気付いた時に成立するのだろうか。それを確かめようとすることは何と恐ろしく、しかし、どうしようもなく僕をひきつけるのだろうか。そしてそれが叶わないと、なぜに僕の心は、激しく揺れて、痛み、そして愛の対象である相手に憎しみの心を持つのだろうか。そんな自分のエゴに気付いてしまうと、自分の愛に確信が持てなくなる。さて、もう少し仕事すんべえ。

夜は涼しく。安らかな眠り。朝が来るのが、少し恨めしい。日中はまだ暑い。外に出ない仕事なので、まだ救われているが。季節の変わり目。そのリズムに合わせきれないのか。3連休は、軽い風邪をひく。結果、会社に仕事しにいく以外は、ほとんどの時間を家で過ごす。読みかけの本を読む。眠たくなったら眠る。起きたらまた読む。本があると、どうしても出かけるのがおっくうになる。たまにはこんな休日も良し、というしかないか。こう生きていると、人に迷惑をかけている時が誰でもあると思う。ただ、僕の場合、場合によると、その事実にさえ気付けなかったり、気付いていても、無視してしまったりすることがある。ああ、嫌な奴だよ。俺は。無意識に、居場所によって自分をつかいわけているのではとさえ思う。30を迎えた、いまさらながら自覚したことだが、自分は、大切なものが抜けている。周りに自分以外の他人がいるのだという意識。他人と調和していく自分。そのために変わらなくちゃいけない自分がここにいる。人とのふれあいの中で、人から送られる言葉はもちろん、見えないサインに敏感でありたいと思う。それが自分を変えるヒントになるはずだから。そのことをいつも感じ取れる余裕が欲しい。今日は。ひたすらパワポと格闘。色がさえない。緑を主に使ったので、使える色が限られているからだが。うーんパワポの画面が目にあまりにも慣れすぎてきて、判別がつかなくなってきた。中身は・・・う~んまた明日見直し。空気が恋しい。

翻訳学校の説明会のため、久しぶりに、青山に足を運んだ。説明会は一時間強で終了。説明会を聞いて、まずは、需要が大きいと思われる実務翻訳を中心に学習することに決めた。文芸翻訳は、折を見ながら、洋小説の読解など、当面、独学で行っていけばよいと思う。説明会の帰り道、ギャラリー、美術館に寄る。美術については、専門的なことは何一つわからない。が、それが逆にいいのか、ただ作品をじっと見ていることが楽しくて、とにかく飽きることがない。実は、青山のギャラリーについては、今月号の「美術手帖」の特集で、前もって目星はつけていた。が、最初に、翻訳学校から一番近いからと、当初予定していなかった「SPACE KIDS」というギャラリーに寄ってみることにした。民家の中に突如出没するギャラリーで、対面には、今にも崩れ落ちそうな家屋が二軒並んでいる。失礼ながら、思わず大丈夫かよと思いながら、あまり期待せずに入室したが、意外にも好感触。アットホームな雰囲気が、見学者をなごませる。薄い絵の具で描かれた女性の顔。お化けのようなあいまいなタッチだが、はかなく見えて、なんだか愛しくなった。展示されている作品を作った作家さんがいて、話を聞けるのも面白いと思う。このあと、ワタリウム美術館に寄る予定だったが、ふと「シャガールとエコール・ド・パリ コレクション」という展示会を見つけてしまったため、急きょ、青山墓地通りにある青山ユニマット美術館に向かうことに。こういう気まぐれが許されるのも、街を歩くことの魅力。様々な作品が展示されていたので、素人ながらいろいろ言いたいことはあるんですけど、まずはやっぱりシャガール。絵の前で、作品の意味をうーんうーんと考えさせられる。絵の中にいろんな物が登場するせいか、構図が複雑なせいなのか、よくわからないんですけど。その中で「花と恋人たち」という作品になぜかひきつけられました。椅子の上で、仲良く寄り添って眠っている男女。二人の安らかな寝顔が、永遠の愛を想起させる。そしてそれを象徴する沢山のバラ。ただ、このバラの色と背景の色が暗色であることが、死に向かう二人を象徴しているようにも見えて、少し悲しい。エコール・ド・パリコーナーは、はじめてみる絵ばかりで楽しませてもらいました。書いていると尽きないのですが、藤田嗣治の裸婦像の凛とした表情、キスリングの作品に見られる鮮やかな色使い、ローランサンの「チューリップと女性」に描かれる女性の神々しいまでの美しさ。キース・ヴァン・ドンゲンの描く、当時のパリ社交界の女性の華麗さ。今にも絵の中に吸い込まれそうになるユトリロの風景画。あー、僕は、ピカソはだめみたいですね。実験的な作品が多いのでしょうが、どうしても意味が理解できない。芸術というより科学?頭の使い方が違うのか?エコール・ド・パリ時代の作品は、作家の特徴がわかりやすいので、何度も鑑賞しているうちに、作品を見ただけで、誰が描いたかわかったりして面白いかもしれませんね。結局、青山ユニマット美術館での鑑賞で時間を費やしてしまい、目を付けていた現代美術系のギャラリーを、2、3件しかまわれませんでした。しかもあんまり感じるものがなく、残念。結構「有名」な作家さんなんですけどね。青山は、「SPACE KIDS」は、無名の若い作家の作品が多く展示されているようです。今度は浮気せず、小さいギャラリーをしらみつぶすことにします。

俺って恵まれてる人間なんだなあって、最近つくづく感じます。ほんの少しのことで、泣きごといったり、愚痴言うのがばかばかしくなってきてね。結局、ガキの頃から甘やかされて育ったんで、考え方甘いんですよね。情けない話ですけどね。最終的に、自分の力しかないんですよ。操作できることは。もちろん他の力もあると思うけど、それも自分の力でひきよせるんであってね。必死で生きてるふりしてたんですかね。自分よりも熱くがんばっている人の存在を見ようともしないで。そういう人を素直に認められるようになりたいですね。でも、自分のペースを変える気もありません。考え方甘いのも、考えようによっては、長所かなと思ったりもするので。ふとこんなことを考えるのも、少しは成長したからですかね。

 芹沢光治良先生の読書会に参加しました。作品は「運命」という作品で、第一次世界大戦後のフランスで暮らす日本人たちと彼らを取り巻く環境について書かれた作品です。発表されたのが、太平洋戦争終戦まもないころということで、敗戦に至った遠因として、当時の日本という国、また、日本人の性質を暗に批判するような精神が感じられました。中には、現在の日本にも、未だに通じるのではと思える批判もあって、興味深かったですね。ただ、自分自身の読後録は、周りの方に、やや批判的に受け止められてしまった気がします。まとまっていなかったのもありますが、擁護したい点と批判したい点を明確にして、話すべきでしたね。次回はばっちりまとめて臨みます。また、他の方の読後談を聞くことで、作品を深く知ることができました。例えば、ある方は、文章中に頻出される言葉に着目されていました。後で、読み返してみると、主題の読解のために、大変重要な箇所が含まれていました。基本的なことかもしれませんが、作家が何度も同じ語句を使用するということは、それなりの意味があるということですね。今後も、この読書会に参加したり、著書を読み進んでいくことで、文学、ひいてはモラリスト文学の真髄について学んでいくつもりです。


 合唱サークルの活動では、北川昇の「シャーガルの木の葉」とルネッサンスの曲を練習しています。「シャーガルの木の葉」は、何箇所か音がとりづらいところがあります。他のメンバーに言わせると、「和音の転回が複雑だから、和音や直前の旋律を感じて」ということ(のよう)ですが、和音について知識が浅い僕には、ちょっと難儀な所。音楽って、やはり耳も大事だななんて思っていたところ、思わぬところからヒントが。読書会の帰り道の音楽学校のポスターの「ソルフェージュ」という言葉。今日調べてみたら、簡単に言うと、耳の訓練のことをいうようです。一人で訓練するのは難しいので、今週のレッスンで先生に相談するつもり。ルネッサンスの曲は、音程はまずまず?ですが、複雑なリズム、テンポの速さに対応するのが課題。とにかく歌って慣れるしかないです。ここ最近、音楽については、少し慣れてきたのか、ややマンネリというか、実践、理論ともに、基礎がおろそかになりつつあるので、再び基礎を大事にすることを心がけていたいと考えています。また、いい演奏を聴いたり、新しい理論を勉強したりして、刺激も受けたいところですが、さて、そこまで可能かどうか?


ブログに文章を書く暇がないほど、一日が早く過ぎていきます。そんなことをいいながら、実際書きはじめると、かなりの長文になっちゃいましたが。時間がいくらあっても足らないほど、したいことがある。先日、三十を迎えました。振り返ると、大きな犠牲を払った二十代でした。しかし、今の心境をつかめたことに、今は心から感謝しなければと思いたい。青春とは、年齢にかかわらず、血が沸き立つような心を持つことを指すではないのでしょうか。同時に、今が、人生の大きな転機になるだろうなあと予感しながら、毎日を過ごしています。

リーマン仕事を、定時でばっちり切り上げる。その足で、六本木ヒルズにある森美術館へ。目当ては、ル・コルビュジェの展覧会。ル・コルビュジェは、20世紀初頭から半ばにかけてフランスを中心に活躍した建築家です。安藤忠雄が、「彼を知ったことが建築家をめざすきっかけになった」と、自分の著書で書いています。そんなこともあってか、今、日本でも、知名度の高い建築家なのではないでしょうか。今回の展示会では、建築作品だけでなく、絵画、家具、彫刻等、彼が創作した作品が幅広く展示されています。彼の創作は、建築ではなく絵画から始まりました。最初は、三角、四角、丸といった、幾何学的な形状を使って、シンプルな絵画を描いていたようです。しかし、描画のスタイルは、けっして一定ではなく、様々な観点から創作を試していたようです。そのような創作姿勢を経た後に、複雑な形状を描いてみたり、独特の手法を作品に表現していく。この姿勢が彼の創作精神を欲表しています。描かれた意味が理解できない絵も多かったのですが、今思うと、実は、彼自身も試行錯誤の段階だったのかもと勝手に想像。建築に注力しはじめてからも、その精神は揺るがなかったのでしょう。会場でBGMとして使われていた、エリック・サティのピアノソロ曲から、ふと、「建築のような音楽」という彼の言葉を思い出しました。音楽と建築って、共通するところがあると思うんですね。キーワードは「数学を背景とした規律」「全体と部分「空間芸術」「人間生活との関連性」かな。最後の「人間生活との関連性」については、前から頭にあったテーマだけど、この展覧会でまた深く意識することに。建築も音楽も、古来から、人間の生活に深く関連している。また、様々な創作家たちが、人間が人間らしくよりよく生きるためにはというテーゼに対する提言を込めて、ひとつの作品を作り上げてきた。その魂は、時をこめて綿綿と受け継がれていくだろう。しかし、現代を、そしてこれからを生きる人間は、その意味をどこまで理解するのだろうか?その問いに対しては、自分自身を含め、一抹の不安を感じるのです。