先々月から、バイト、表参道なんだけど、目をひくような素敵な女性が多く、ドキッとすることが多い。ていうか、あの界隈はやはりといおうか、かなりレベルが高い。加えて、粒ぞろい。ということは、油断している暇などないということ。気付けば、俺の目がきょろきょろと挙動不審に動き続ける。だが目が合いそうになると、びびるみたいなことを繰り返しているうぶな俺。もっと観てもいいのではないか、凝視でなければ!この際多少不快感を与えることを恐れてはならない。イタリア人ならそういうはずだ。そして、きっと女性も注目されたいはずだ!と自分に都合のよい妄想がどんどんひろがっていくが、とどのつまりは、せっかくのナイススポットで働いているんだから、もっとエンジョイしたいと今日も心は叫んでいるのであった。もっとそこんところ自由になりたいやんす。それにしても自分と似たような妄想を日々繰り広げているブラザーが多くいることを知り始めた、俺は変態じゃなかったと、胸に手をあてて安心するのである。男は皆変態だ。

今日は完全オフ。午前中まで寝て、カラダを休めて、午後からはひたすら「白痴」を読む。

で、また寝て笑、これから食事して、お風呂入ってまた読もうかなというところ。

昨日までの疲れをリフレッシュして、明日からまた再スタートです。

ブログも、4か月ぶりに書きますが、このまま再スタート、といきたいなあ。

最近、まわりにアメーバブログやっている人が増えてきたけど、まあ

そういうことなのかも。

機能もいろいろ増えているみたいだけど、まあぼちぼち書きためていきます。


白痴は、ちょうどラゴージンがムイシュキン公爵の宿に現れて、そのショックからか、

公爵が「てんかん」の発作で倒れるところまで読み進めてきましたが、

ドストエフスキーの作品って、登場人物の感覚を自分なりにこうでもない、

ああでもないと想像しながら読んで行かないといけないので、一瞬も気が

抜けないんですね。今日はあまり集中力がなかったせいもあり、上巻を

読み終えようと思ったけど、ちょっときついかな。


まず、自分の現状というものを冷静にとらえることが大切だなと最近思います。

そしてどこに向かうのか、そのために必要な行動は何か、どんな

道のりなのか、どんな障害があるのか、すべてを明らかにすることは

難しいけど、やっぱり考えることは大切。

日々やれることは多いようで、意外と少ない。積み重ねることをおろそかにしない。

そして何を積み重ねるか、試行錯誤することを嫌がらない。

地道なこと、地味なことを喜んでやる。

傲慢になりがちな自分にはとても大切なことです。



すべてのひとびとに感謝を、一瞬を大切に生きていきます。

昨日は、両国のシアターXで、私が所属している東京ノーヴイ・レパートリーシアターとゆかりがある、韓国のMIRレパートリーシアターによる、チェーホフの「アンクル・ワーニャ」を観ました。日本で言うと「ワーニャおじさん」ですね。この作品は、途中でピストル騒ぎこそありますが、淡々と流れて行くので、油断していると眠りそうになるくらい(失礼)ですが、このお芝居を見ると、生活とは、なんとたくさんの愛にあふれていることか、といつも思います。最後のソーニャの言葉は、いつも泣けてきて、何があっても生きていこう、すべてはうまくいっているのだと、力をもらうんです。


チェーホフ祭のパンフレット作りをお手伝いしながら、チェーホフは、作品を通じて、伝えたかったことって、何だろうと気になってました。もちろん、作品ごとに、いろいろなテーマがあると思うのですが、いつも共通して流れている何かがあるのではないか。思い切っていってしまいますと、やっぱり愛だと思うのです。ほんとうは傷ついているのに、みんなの前では、笑った顔をして、さんざん悪態をついて、怒って、でもやっぱり寂しくて泣く。たとえば、お芝居の中で、こんな人を見つけると、誰かとつながりたいんだな、そして自分もそうだなと、思わず感じ入ってしまいます。


現代は孤独の時代だという人がいます。しかし、そんなことは、ことさら言うまでもなく、どんな時代においても、人間はどこまでも行ってもやっぱり孤独です。孤独のつらさや寂しさは、情熱的恋愛でも、仕事への熱中、将来の夢への熱望、友人との熱狂でも決して埋められないと思うのです。

ですから、チェーホフは、つながりたいとする心を受け入れつつ、誰かを愛するとか愛されるといった関係を越えて、今、自分という存在を通して現れる愛そのものをもっと冷静に見つめなさいと言っている気がするのです。


下北沢から愛を。チェーホフから愛を。






窓からみえる細くしなやかな枝をつけた木
冬はじっと耐えて冷たい風に身をまかせていたが
今ではぷっくりとした葉を身にまとい
気持ち良さそうにたたずんでいる
目を移せばたおやかなピンクの花をつけた木が
春が来たよと歌っている
ああ、生きているのだねと話しかける

楽しいこと、うれしいことに遠慮したり、罪悪感を感じたりしない
つらいということ、きついということ、さみしいということも
ただ認め、抱きしめるだけでなく、素直にだせる自分になりたい

情熱をすべて開放する
ただ感動する
それが生きることの喜びにつながるはず

昨日のEdgeProjectの稽古はとても実りがありました。 受け入れられてない感情、身体的な課題にはっきりと
気付かされました。 本当に、メンバーに、そして主宰の渡部さんに感謝します。 ていうか、ぼくより後に参加してきた人たちが ものすごい成長していることに驚いています。 また、みんなから謙虚に学ぼうとする気持ちが強くなり、 以前より、実際得るものが多くなっています。

4回の公演を通じて、自分自身も大きく成長したと思う。 僕は俳優として生きていくという志が強くなっていることに 驚いている。

しかし、一方、結果がなかなか手に入らないことに正直あせりも 感じている。嫉妬もある。これらは俳優的エゴといわれるかも しれない。 でも、このエゴを愛して、受け入れるだけだ。 可愛い奴だぜ。ベイビー・・・
また成果は急に現れることがあることも昨日わかった。 人をねたましいとおもうなら、その人のいい部分を学び、
吸収することだ。

そう、あせり、ねたみは、神なんだぜ。 先輩方の勧めもあり、また、このあせり、ねたみに乗じて、今日からEdgeProjectで10日間の集中クラスを体験した人 のみが参加できる「中級クラス」に参戦する。

人生常に修業といえる要素はありますが、 はい、今日から修業強化期間です。 世田谷に移ってから、自分の欲求に超正直に生きてきたが、 ともすればそれは楽なところに振れすぎるきらいもあり、心が乱れ、 狂気もみた。
その心の乱れ、狂気と呼ぶものを直視し、自分を深く掘っていく ことになる。 そんな時間があることが何より幸せだ。 一皮向いて、さらにいい男になるぜ。 待ってろ!女性たち!!そして合コン!! はい、調子に乗りました、ごめんなさい笑

早くEdgeProjectのみんなで芝居したいなあ。
とりあえず、新作「桜の園」稽古、昨日で一段落です。

といっても、まだ全幕通せていないので、今月追加稽古を することになりました。助かります。

今回いただいた役は、自分の本質かどうかはおいといて、 自分が持っているキャラクターに近く、割と素でできて しまうので、演じていて、かなり楽なのですが、それだけに 楽に押し流さすぎず、細かい役作りが大切になりそうです。

昨日、恒例の反省会で、仲間と話したのですが、 他の人物との関係性、シーン以外の行動について具体的に設定していくと、キャラに幅が出てきて、 セリフがなくて、ただ立っているだけのシーンでも 味が出てくるんだと思います。 まあ究極、楽しければいいんですけどね。

さあ、4月です。とりあえずバイトも決まって、仕事 する時間が入るので、生活も変わるかな。 幅を広げていくか、深く掘っていくか。 自分をみつめながら、ともかくわくわくする方へ進め~ まあ今週、来週は、桜と酒に酔わんかな。

この土日は、ひさびさにゆっくりとひとりで家で休みをとりました。しかし、さみしさからですかね、ひとりでいると、どうしてもこれでいいのだろうかとか、不安に襲われたり、昔のことを後悔したりすることもあるのですが、今新作で取り組んでいる、チェーホフの「桜の園」のエピホードフのセリフにもありますが、「結局のところ、結局なんだが」って話で、先のことも今考えたところで、先に起こることは、今考えることと違うだろう。また前のことは、今どうしようと取り返しがつくわけでもない。
(しかし、それがわかっていながら、ピストルを持ち歩くエピホードフの心境たるやいかに。。。)

だからぜんぶ受け入れましょう。うん。その方が心が豊かになるから。
迷ったら心が豊かになる方に進む。そう、今きめよう。

人との会話が本当に貴重なものに思えます。「人間が神である」という言葉の意味が最近よくわかるようになりました。この休みも、公演も近いので、友人に公演案内したり、いろいろアドバイスしたり、されたり、わいわい話したりする時間がありましたが、内容ももちろん、相手との間に流れる、情緒を含んだ空気を感じていると、いろいろな発見があるのです。もちろん、その場では、ただ流れていくだけなのですが、自分の中に受け入れたくないものがあることに気づかされるのです。相手が怒ってそうだと思ったらすぐ身をひく。落ち込んでいる自分にたじたじとする。相手を傷つけるかもしれないと思って、なんていったらわからなくなる。ついつい余計なことをいってしまう。

うん、これもぜんぶ受け入れましょう。そしてありがとう。

きっとお芝居も同じことがいえて、むしろ普段よりシビアで、繊細でなくてはならないのだけれど、正直まだまだだなあ。

昨日、芸術監督のアニシモフさんと、稽古後、伊勢参りの報告がてら、お話をした。

いわく、「演劇は祈りである」と。

昨日の稽古で、その感覚を少しつかんだ気がする。

稽古中、アニシモフさんに、デリケートに、優しく(最近の劇団ではやりの言葉だが)と注意されるのだけど、頭ではわかっていても、なかなかうまく表現できなかった。その時、「伊勢にお参りした時のことを思い出して下さい」と、言われて、あ、その感覚なのかと、セリフを話す相手に祈るような気持ちで話しかけてみたら、自分の心というか、からだの内側で何かが動き始めるような気がした。それに気づいてからは、自然とセリフが出てきて、行動もできた。

神様の前では、自分をあけぴろっげにして、心もこめて感謝と願いを捧げる。演劇が祈りであれば、舞台の上でも同じ。そして、舞台空間を信じ、仲間を信じ、観客を信じ、そして僕たちを見守ってくれる存在がある事を信じる、という気持ちが必要なんだ。今までなんとなくぼやけていたものが、一本の線でつながった気がする。もう難しく考えない。迷わない。ただそれだけのために舞台に立つということだ。

そして4月4日、とりあえず今シーズンの総決算。


チェーホフ「イワーノフ」公演
http://www.tokyo-novyi.com/japanese/repertory/iwanohu.html

4月4日(日) 13:00~ 下北沢劇場 
南口から歩いてすぐです
http://www.tokyo-novyi.com/japanese/access.html
携帯の方はこちら
http://www.tokyo-novyi.com/mobile/mobmap.htm

前売3000円

新橋のオーラカフェ2012で、「サイキックカウンセリング」なるものを受けました。

オーラカフェ2012

http://ameblo.jp/auracafe/

サイキックカウンセラーのHanielさんとは、新橋のオーラカフェ2012を初めて訪れた時にお会いしたご縁。事前にカウンセリングをお願いしていて、日程を打診中だったのですが、僕がたまたまカフェを訪れた日に、お会いするのを約束していたわけではなかったのに、必然のようにカフェにいらして、カウンセリングが始まったのでした。

嘘だと思いますか??世の中、不思議ですよね。


サイキックカウンセラーのHanielさんのページはこちら↓

http://profile.ameba.jp/haniel3/


最初にエネルギーについての話をいただいてから、カウンセリングへ。俳優の道を進む前後から、自分は、人より感じやすいのでないかと気付いて、エネルギーについて考えてきました。お話を伺っていて、やっぱりと思える部分と、新たな発見もあって参考になりました。俳優は、エネルギーを観る人に届ける仕事。もっと具体的に勉強するべきだと思うわけです。


カウンセリングは、Hanielさんとはじめてお会いした時も思ったのですが、やはりいろいろ見える方なのでしょうか、お話をきいていくたびにどんどん腑に落ちていって、からだのしこりも取れていく気がしました。このあたりが「サイキックカウンセリング」なのでしょうか。かといって、全然あやしい感じはなく、心理療法のように、理にかなった形でセッションがすすんでいきます。女性の話と演劇に関する話が中心でしたが、いずれにしても自分がエネルギーを注ぎ込む所、関わる所をはっきりさせようと思いました。すべてに公平になんて無理なんだなあと。セッション後もこのテーマについて考えているのですが、次々と自分の癖や、考えが頭に浮かんできて、感覚が広がったように感じています。


最後に、タロットカードを引くと、でてきたのが「Illumination」というカード。情熱をもって人生をアートする錬金術師とのこと。何かかっこいい~。ただし燃やしきれないと「sorrow」になる。これ本当にわかる気がする。確信を持って生きていこうと思いました。自分が主役になっていいんだと認める。かといって人をぞんざいにするというわけではなく、同じように認める。


ご本人もブログでおっしゃているように、目標・夢をもつかたや失敗のパターンをもつひとが運命を転換させるためには、判断、行動のパターンを知り、変えていく必要があるのですね。サイキックカウンセリングは、その助けになると思います。このあたり、芝居とも通じるなあ。芝居も、人生を見せることで、自分を知り、また癒されて、受け入れて、行動や判断を変えていくためのツールだと思うから。勉強の意味もこめて、今後Hanielさんのカウンセリングを利用してみたいです。Hanielさん、ありがとうございました。




昨日の夜、酔いに任せて、ウィスキーをやりながら、クシシュトフ・キェシロフスキの「愛に関する短いフィルム」を観た。先日からポーランドという国を、今年から追いかけ続ける事に決めたのだが、そのポーランドの映画監督がつくった作品。


・・・・


なぜか泣けた

酒が入ってたから感傷的になっていたのか

でも単純によかった

女視点だとまた違うかもしれないけど

19歳の男の純粋な気持ちがよく出てて

感動した

自分がこの年にもし年上の女性に恋を

したらどうだっただろうかと想像しながら

観ていた

笑えるシーンもあった

19歳の男と一緒にすんでいるおばあちゃんの

男に対する溺愛ぶりとか

カメラ割りも面白いのがあったなあ

音楽はいらねえと思ったシーンもあったけど


今日返却日なんだけど

もう一回観たいな

次々見るより

監督や役者の意図を感じながら

じっくり研究したい感じ


ああ

何か俺もこっち側の人になったんだなあ


ポーランド映画の傾向が見えてきたら

また詳しく書きます

ひらめきの言葉をたくさんくれる、巫女のような夫婦と下北沢で出会ったこと。

友人から、書く事をもっとやった方がいいとアドバイスをもらった。

芸術監督から「私がありがとうっていってるのに、あなたはいつもありがとうって

言わないね」って、冗談混じりながら指摘されたこと。

「ロシア女性は愛の言葉に弱い」という広告を観たこと。

ひらめいたこと。

あなたは子供の時のように無邪気に言葉を信じ、愛しなさい、

ということだった。


昔から言葉は好きだった。幼稚園に入る前から、新聞や英語の文字を読み、

小学生の時には、シナリオを書いていたらしい。

吉川英治の小説に夢中になって、文学館を訪ねた。


時はたった。ほとんど本を読まなかった高校、大学。

学生時代の反省から、当初、ビジネス本が中心だったが、20代後半から、

突如哲学や文学の書籍を乱読した社会人。

今は俳優という立ち位置にいて、読むことはもはや日々の習慣。

書くこともインターネットを通じて発信する。たまに個人的な日記も記す。

今も、書くことも読むことも好きであるとはいえる。

しかし、いつからだろうか、手放しで、言葉を愛せなくなっていたのだ。


それは


言葉でいくら言っても、人に伝わらず、さみしい思いをした自分があった

言葉でうまく表せなくて、もどかしくて苦しんでいた自分があった

書いた言葉に苦言を呈されて、落ち込んでいた自分があった

氾濫する、心ない言葉、言葉、言葉・・・傷つき、怒りに震えた自分があった


言葉で何が伝わるだろうか

それでも一人ノートにわめきちらした日々

自分を救う言葉はないか

答えを求めて必死で本にかじりついた日々

言葉の中に自分はあるのだろうか

言葉への疑いが日々増すばかりの日々


今ふと思うこと

僕の言葉が未熟であることも知っている

言葉が万能ではないことも知っている

それでも僕は言葉で伝えなくてはならない


他人がくれる言葉から僕はどれだけ助けられていることか

そして自分の言葉で癒される人がいることも知った


テキストだけでだめなら歌や芝居にのせてみよう

そんな仲間たちと今僕はつながっている


すべて表せなくてもかまわない

僕が言葉を求められて、僕が言葉を求め続ける限り

僕は言葉を愛する



えーとそれでは・・・まずは女性を口説く文句からと・・・・うん???


おあとがよろしいようで・・