ずっと小説を書きたいという思いを抱えながら生きている

「書きたいと思った時が書くとき」

わかってはいるのだけど
僕はものぐさな性格なうえに、「書くならば意味のあるものを
書きたい」というこだわり、虚栄心と「しかしそんなものが僕に
かけるだろうか」「自分を追い込んで苦しめるだけなのではないか」
という恐れが同居しているからなかなか初めの一歩にのりだせないで
いる


が、最近周りに書こうとする人の話をよく聞くようになった
「盟友」も小説を書いている
負けたなと少し自己嫌悪に陥る
僕も書きたいと思う
しかしそんな競争心で書くものだろうか
そもそも僕にそんな時間があるだろうかとと葛藤する


テーマは探っている
昨年から細々と「日本に語り継がれているものとは何か」と
いうテーマで本を読んだり、考えたり、生活している

本居宣長はもののあわれといった
世阿弥は幽玄といった
お茶の世界ではわびさびといわれる

ぱらぱらとその概念を自分なりに読み説いて言った時
「五感では感じ取ることができない、しかし確かにある、
言葉にすることさえもできないもの」を日本人は大切に受け継いで
きているのではないかと思った
ある人はそれを「こころ」というかもしれない
しかしもっと広いものである気もする
で、なぜかやはり日本人の持つ死生観を研究することが大切だと思った

「武士道は死ぬこととみつけたり」
僕はこの言葉にものすごい嫌悪感があった
こんな考えがあるから、一億総玉砕とか人間魚雷とか
神風特攻隊、そして原爆の悲劇が生まれたのではないか
三島由紀夫の切腹も正直よくわからないでいたし
ヒロイズムにかられた行為だと決めつけていた

で、そんな考えとあえて対立させたい気もして
おととい「自死という生き方」をぱらぱら読んだ
須原一秀という哲学者が書いた本だ
そしてこの哲学者はこの本を書き上げた後
自分も自死という道を選んでいる

僕は自ら死を選ぶことを肯定したくて書いているのではない
むしろ本心からいえば自ら死を選ぶなど、僕の人生の主体性、
誇りにかけてあり得ないことだと今は考えている
でも死にたいと思ったことは何度かあった事は認めざるをえないし
人間にとってあたりまえの欲求なのではないか
またこの本を読んで、自ら死を選ぶとはニヒリズムだと虚無だ敗北だと
決めつけるわけにはいかないと思った

なぜなら人生に対して、すがすがしさ、やりきった気持ちが
なければ死を選ぶことはできないと思うからだ
押し寄せる老いの苦しみ、そして死への恐怖から
逃げる気持ちも、人間の弱さを少しでも知っている人なら
理解できるはずだ
安らかな死など幻想にすぎないのだ
死はあくまで肉体的にも精神的にも極限の苦しみに達するのだ
からだの痛み、死への恐怖、周りの人間への罪悪感、辱め
本当に僕はそれを受け入れることができるだろうか
そう思うと少しだけ死の苦しみを実感できた気がした
この本を貫いている思想は人生に肯定的であるかどうかだと
いうことだと思う
だから自然死に立ち向かおうとする人を否定するわけではない
むしろ賞賛さえしている
なぜなら彼にはそれができないからだろう
少なくとも自ら死に向かう事を悲しみの目だけで見るのは
やめようと思った


現代の日本の現状、言葉であらわすなら、
思考停止、事無かれ主義、従属的、無関心、無気力・・・
そこにフォーカスしていくと僕は怒りにも似た気持ちが湧き出て
来て抑えられなくなる
しかしそれだけ抑え込んでいる「目に見えない何か」が日本を
覆っているのかもしれないと思うと、そのことについて考え
なくてはいけないと思う

おとといは公務員の仕事について話を聞いた
公務員の給与システムは民間に比べてはるかによいものであること
それなのに仕事をしない人がいる
無駄な役職
上司のことばかり気にする
愚痴と文句のオンパレード

何か今の日本を投影しているなあと思った



誤解を恐れずいうなら、人間の尊厳を捨ててまで生きることに
こだわるならそれは死よりもつらいことだと
僕は思う
それはすでに日本の歴史が証明しているではないか


この僕たちがいる日本でどんな作品が今必要なのか
考える上で、「坂の上の雲」は正直参考になった
時代歪曲もあるようだが、それは歴史家にまかせればいい

「楽天主義」

これをただ楽しく生きるととらえるか否かで全く意味合い
がかわってくる

僕はこう考えた

運命を天に任せ、受け入れること、自分の人生をまるごと肯定し、
ひたすら自分の使命を全うしようと行動する

この心が明治人の英雄といわれる人たちの中にはあった
のかもしれない

前英雄について書いたことがあるが、英雄の系譜というのも
このラインがもしかしたらひとつありうるかもしれない

「Stand alone」

坂の上の雲の主題歌だが、自立するという意味だろうか
ひとりになることこそ大事かもしれない
この世の中でなかなか難しいことだがひとりになると
いろいろなものが力を貸してくれる
自立はある意味とっくにしている

いろいろ書いてきたが結局死を受け入れる、肯定することが
楽天的に生きることにつながるのではないか
であれば死を恐れない人と、死に翻弄される人の話とか
面白いかなと今は考えている
次は存在と死について考察してみる
そろそろ出番です。
何?って役者笑
東京ノーヴィ・レパートリーシアター第7シーズンが始まっちゃいます~。

作品は昨年も取り組んだ「イワーノフ」。
とりあえず、2月6日(日)を皮きりに全13回公演。
3月~5月は、毎週日曜日本番。
そして、私、芹沢耕太郎はそのすべてに出演。今年はシングル
キャストなのです。
13回やるならいつでもいいや~と思っている諸君!!
面白い芝居見せるから這いつくばっても早くきなさい!

と強気に見せながら正直プレッシャーは徐々に感じてきているかも。
まず、体力的にこなせるかどうかということ。
カラダのことは絶えず気にしているけど、去年は4回だったから
負担が違うだろうということ。できれば翌日のバイトは
休ませてほしい泣
今年は戯曲解釈に行動分析のメソッドを交えていろいろ考え、分析
していますが、台本を読めば読むほど、演出と話せば話すほど
新しい発見があって時は収拾がつかないことも笑

しかし、その発見を取捨選択することが大切なんだなあと思う。
思い付きではないか、戯曲のラインにあっているか、そもそも
その発見で自分の心が動くのか?どうかなど・・・

理想的には、シーンだけでなく、役の人生のすべてをイメージできれば
いわゆるリアルに近づくんだが、まあそのためには何千回という
稽古と、実生活からの数多くの発見が必要なわけですな。

よく稽古って毎日やってるの?って一般の人に聴かれるのですが、
いわゆる稽古は毎日やるわけではないけど、実生活の中にこそ
稽古では得られないヒントがたくさんあるんです。
そういう意味では、四六時中稽古。とはいえ、怠け者なので
やはりさぼります笑
なるべく覚めている時間を長くするのが大きな課題。

やっぱりどうしても本当にいい作品を作るためには時間はかかります。
人間も料理も長く煮込まれた方が味が出るのと一緒。
僕たちのようなスタイル、同じ作品を何年も、何度も
上演することの意味を伝えたかったのですが、伝わったかな??

だからといって、1回1回の思いいれがなくなってはお客さんに
失礼。もしかしたら次回、役者と観客の心がひとつになるような
すごいことがおこるかもしれませんよ~
毎回そう期待して舞台に上がりたい。
だから、今季は、最低でもその時の自分ができることを100%発揮
できるように自分を整えます。また、普段からそうであるように
努めます。
いい俳優なら皆やっていることだと思うし、僕もそれに近づきたい。

今日はどうしても文章が長くなってしまいますが、
まずは2月6日 19:00~ 下北沢劇場で待つ!

アントン・チェーホフ「イワーノフ」
リヴォーフ役で出演

今季のスケジュール
http://www.tokyo-novyi.com/japanese/suke.html
「イワーノフ」とは?
http://www.tokyo-novyi.com/japanese/repertory/iwanohu.html
劇場地図
http://www.tokyo-novyi.com/japanese/access.html

「イワーノフ」でリヴォーフという医者の役にとりくんでいる

今年で2年目

前シーズンは、この人間の嫌な部分や弱さばかりを見ていた気がする

高潔であることを人に言うことも何か嫌味なようにみていた


しかし

たぶんそれは自分の高潔な部分を人に伝えるのが苦手だったり

高潔さをもって闘うことを避けてきた自分がいたからかもしれない


自分の人生をどこまでさげすんでみてきたのだろうか

高潔さをもって闘ったが何度も跳ね返されたからか

しかし俺はそれでも立ち上がった

そしてまだ誇りは失わずにある

そして闘うことを恐れるな


昨日おじさんがうちのおやじのことを評して

何があっても自分の信念を曲げずに人生と向き合っていると評していた


信仰とはそんなに難しいことではない

まず自分の信念に誠実であるかどうかだ

一度挫折したくらいで消える信念など誇りとは言えない

死んでも譲れないもの


自分にとって高潔なこと

どんな困難にさらされてもそのたびにはいあがる

自分を犠牲にしても人を助けること


高潔ではないこと

裏に回ってあれこれと吹聴したりすること

本質を見ずにごまかして生きること


この辺をさらに考えていきたい



昨日は稽古の後、打ち合わせをして、少々疲れた
帰ればよかったが、飲みに行き、帰りは雨の中、ずぶぬれになって帰った
もっとできる、やらなければいけない
頭はそう叫ぶがからだがいうことをきかない
そこで酒で元気になろうとする
酒は、さみしさも悔しさも癒してくれる
明日を生きる力をくれる

そうやって癒しながら、疲れた時のさみしさと悔しさ、無力感を
完全に受け入れた時
俺はもうひとつ強くなれる

戦士よ、今日は静かに眠れ・・・
そして明日を生きよ・・・

そうだ

俺はよりよい、素晴らしい未来のために生きている
今日のさみしさと悔しさは明日のために生かそう
明日のために今日何ができるか考えよう

他人に言っている言葉
それは相手に実際に口にして伝えることも
いえなくてただ頭の中に言っていることも
いろいろあるけど
後で考えてみて
いやその場で気付くこともあるけど
自分に言ってるんだなって気付くことがある

ものすごい才能を感じる男に出会った
おなじアーティスト同士だが
とりわけ言葉を操る能力にびっくりさせられる
はっきりいって俺も書くことはまんざらではないと思っていたが
なんつうんだろうか
子供のようにすなおで無垢
目の前に現れる出来事、自分の中に現れる心情に対して
どこまでも誠実である
そんな文章だ

俺も誠実でありたいと自分では思っている
しかし嘘をついていると思うと自分を許せなくなり
とたんに自信がなくなる

何よりも書くことに対しては自分に必要以上に厳しい
何も書けないような不安に襲われたこともあったし
逆に冗長な文章になると自虐的になる

そのアーティストの文章を読んで、ブログだけでなく
小説とか書けばいいのにと思ったが
今日朝起きてよくよく思ったらこれは自分に言ってるのかな
と思った

最近文学熱が再燃して調べ物や関連書を読む機会が多い
やっぱ好きなんだと思う
ただそれだけに絶対に嘘をつきたくないし
書くからにはそれなりのものを書いてみたい
しかし先達からのプレッシャー・・・・
どう考えても今の俺にドストエフスキーやチェーホフが書いた
ような作品を書けるわけがない

わかっている
俺は自意識過剰だ
しかしこの勘違いこそが俺をここまで成長させたことも事実
勘違いとは自分で物語を想像して描く力
人がなんと言おうと想像することはどこまでも自由だ

さぼってないでそろそろ少しずつ書くかな
書くことで悩むのが怖かったのね
どうせ悩む人なのだから
ていうか頭で書こうとするから悩むのだ
まずは人やものをよくよく見つめて
心に書くことから・・・
心に現れることすべてに誠実に
書くことを意識するとまた生活が変わるだろう


ていうか今の女子やばいだろ
後姿が美し過ぎる
俺は女なんか関心ねえしって格好つけて
通り過ぎるもやっぱ無理
大いなる決心だったはずの思いも
恥ずかしさには勝てない

後ろのおっさんの携帯の着信音が気になったふりして
ちらちらと後ろを観る
俺の目に狂いはなかった
美しいものは後ろからでも前から美しい
表裏一体
陽と陰
そのとき奇跡が起こった
俺の前からまた美しい女性が
うれしすぎる板挟み

昨日は一日芝居漬けだった

やはりというか周りからいろいろな刺激をもらうと

意識の進化は早い

自分だけで考えることやいまの身体でできることなんて

大したことじゃないなあと思わされる

だけど

自分自身を進化させることで、また世界の彩りが変わっていくことも確か

人生の中で少しでも多くの彩りを味わいたい

と思いながらも

どこかでここまでかなと思っている自分がいる

安心や安定を求めている自分がいる

それはそれでとても大切なこと

だが

「夢を追いかけるためならすべてを失ってもかまわない」

パウロ・コエーリョの本のカバーにあった言葉は今日も僕を熱くさせる


まあ両方たいせつにしていこ~

というのも僕は演劇はじめホントにやりたいことばかりやってると

ほんとだらしない人間になる

長く気持ちを抑えてきたものを吹っ飛ばしたから

歯止めがなくなってしまったのかな

無期懲役で出てくるとこんな感じなのかな

今のところバイトがいい緩衝材となっている

いわゆる朝決まった時間に起きて働くことに嫌悪感があった

なんとなくやらされている感があるから

しかし「普通」に生活することこそ僕にとってはもっとも困難な

しかし大切な挑戦かもしれない

家庭・お金・食事・家・服・レジャー・・・


最近バイトでいろいろな人と接すると当然こういう話になる

こういう「普通」のことをわざと見ないふりをしてきた

そんなことは俗なことだ

僕はそんなことは考えず真実に向かう

などと人をさげすんで悦にひたる自分がいたのだった

これが僕の高潔仮面かもしれない

ホントは横目で興味があってうらやましがっているのに

ニヒルに笑って見せる

愛だな・・・

必要以上に高くあろうとしなくても

清くあろうとしなくてもいいのに

そうせざるをえない

僕のサガかな

ここをしばらく内観していく


普通の生活者としてどう生きるか

どう生活を善くしていくか

人間がずっと考え続けているテーマだ

しかしチェーホフもいってたっけ

人間の生活は200年前からちっともかわってない

とりとめのないことに時間を費やして

どうでもいいことに必死になって

そしてそのうちに死んでいく

そうなるのが嫌だ嫌だと抵抗しても

僕自身もやっぱりそんな愚かな人間なんだと

みとめざるをえない

自分の弱さを認めちゃった方がよっぽど潔い

高潔というのはただ高くあろうとするだけでなく

潔いということなんだ

いさぎよいっていい言葉だな

あきらめという言葉にも似ているけどそれよりもっと熱く心に迫る言葉だ


劇団の仕事で、最近日本文学を研究し始めた

潔さって日本人の美点と考えられているけど、どうもこの潔さという言葉があきらめに

偏りがちな気がするんだが、武士道とか仏教とかそのあたりの影響なのか

陰陽でいうと陰に偏りがちというか、ものわかりがあまりにもよすぎる

潔さって僕にとってはもっと強い意志と行動の伴った、明るい希望に満ちた言葉だ。
絶対に手に入れたいものを定め、やれるだけのことはする

そして意志と行動からおこる結果を眺めながら時機を待つ

漁師だな

俺にもその血が流れている

今日はぽんぽん言葉が出てくるなあ

無駄口叩くぜ


人を支配したい・影響を与えたい、トップにたちたい、目立ちたい、


残念だけど、まあ当然というか、まあこんな思いが僕の中にもあるし

周りの人や世の中を観ていて感じること

なんなんだろうね

最近の出来事からちょっと関連しそうなことをつらつら書きながら考えてみよう


昨日たまたま飲み屋のTVに映っていたドラマにたぶん映るよって話を飲み屋のおやじとおかみさんにしたら目の色がかわった


エキストラなんだけど笑

やっぱ世の中の人はテレビや映画にでて初めて役者って認識なんだなあと思った

テレビってやっぱなんやかんやいっても影響力あるよなあ

いっぽうで少し悲しい自分もいる


テレビという文化が根付いて、もう50年以上になるのか

日々の出来事を映し出し、考えさせ、時のスターを映し出し、希望を与えてきた。

ある意味、一緒に見ている家族よりも交流しているのかも

というより、家族との交流のネタがテレビから映し出されるものなのだろう

うちの家族もNHKBSで阪神タイガースの試合を観てたらすっかりファンになりました笑

そういえば法事のときかな、うちのおやじ含め親戚のおじさんたちがテレビの大きさをお互い比べ合っていたのはひそかに面白かった

テレビが神棚のように見えるのだろうか

うちの死んだじいさんは、チャンネルを離さず、半ばぼけてきてからもチャンネルをあっちこっち変えるおもろい人だった

5分同じチャンネルを観ているのが限界笑

まあたぶん何かを受け取っていたのだと思う


人間ってやっぱ孤独でさみしい

何か確かと思われるネタを与えられることで他人と交流する

テレビにはかつて確かであるという信頼が集まっている

今は失墜極まりないが

でも本当はお互いの行動や肉体そのもの、いやただ今ここ在るだけで何者かと交流がはじまっているという奇跡をみんなあまりよく知らない



最近というかだいぶ前から静かなるドンがマイブームなんだけど


あの近藤静也というキャラクターがとても興味深い


デザイナーとやくざの総長という、真逆にも思える二束のわらじ


本人はデザイン一本に絞りたい、組なんて解散すればいいと口ではいっているが、血筋とは恐ろしい


抑えられない何か、狂気というか支配欲というか、


そういうものがあるんだろうね


徐々にいい意味でバランスを見つけていく


周りに支えられることでバランスをとっているともいえる


抑えられないならいっそうのこと出すしかない


人から見て危ういバランスでもそれはそれでいいじゃないか


安心のためだけに人は生きているわけではない



人間っていろいろな人格をもっているんだけど、それを無理やり抑え込むとおかしなことになってくるんだろうねえ。ドストエフスキー「白痴」のナスターシャなんてどうもそんな感じだ。精神分析の世界だと、統合失調とかいうのかもしれないけど、どんどん人格を作りだして、わけのわからないことになるらしい。

普通の人は自分の作りあげたキャラクターにそぐわない何かが生まれた時、それをないことにしてプログラムから削除することで正常に機能するようにコントロールするが、いったん何らかの影響で、制御がきかなくなれば、あらゆる人格が表出、客観的にみて一貫性のない人間にみえるのかもしれない。が、繰り返しのようになるが、それをおかしい、くるっているとしてしまえばそれまでで、一見バランスが取れていないと思えるナスターシャの言動は、ナスターシャという人間の中でまきおこっていることそのものがただ素直に表出されているのにすぎない。真に素直、素直すぎるがゆえにつらい人生を生きる人なのではないだろうか。ムイシュキン公爵が憐憫を掛けたのもわかる気がする。公爵のてんかんもそういうものである気が今はしている。

前のバイト先の社長もそうだった。

穏やかかと思ったら急におかしな切れ方をする。独断専行で周りを不安にさせて、騒がせる。かと思えば、急に弱気になったりして、おちゃめだったりする。正直病的なくらいだとバイトの仲間と話していたけど、うめきというか苦しみのようなものを僕は感じた。はじめて自分の思い通りに動かせる環境を作った。しかしうまく事業がまわらない。あげくの果てに自分自身を制御できなくなる。会社の支配者であれ、所詮一支配者にすぎず、支配しきれない限界をどこかで知る。しかし、一度狂ったタガを簡単に戻すことはできない。王様の悲哀、孤独。支配することは支配されることであり、その逆もしかりなのだ。どこに救いがあるか?僕は、いい意味でのあきらめ、すべてを投げうつことだと思う。形式上支配される側だった僕も理解することこそ愛だなんてきれいごとをいいながら、本当は社長に支配されることが気に食わなくて仕方がなく、逆に支配しようとした。上に立つならしっかりやれとも思ったし、裏腹に嫉妬もあったからだと思う。しかし、ヒエラルキーには勝てなかった。その時のことを思うと、こいつのこと究極気にくわなかったし、俺の思っていることの一つも理解していないと頭にきたこともあったが、その中で戦ってもしょうがないし、こいつもいろいろ抱え込んで大変だろうから、助けたいが、その気持ちが伝わらないなら、理解されないならそれもしょうがない、といろいろ感じ思いながら、一緒に数か月濃い縁を感じる仲間とそこにいて、楽しかった。今、いったん縁はきれたが、大変だったけど、社長が僕の中にあったいろいろなものすべてを表現してくれた気がして、そのおかげで貴重な体験ができて感謝している。これについては書ききれない思いがあって近いうちに文章にしたいと思っている。



血といえば、人間の歴史自体が支配と被支配の繰り返しである

おそらく血をたどっていけば、支配されなかった時期をもつ一族などないのではないか

人間そもそも生まれた時は自由だ

それを支配されるとなればいろいろためこむのだろう

それをクリーンにするといったらまあそれは大変なことだ

一貫性があるように見えるのはそうしくまれているだけ、しこまれているだけ

まあそんなこといってもしょうがないのでそのまんまでいるしかないけどね

一貫性があってもなくてもどっちでもいいんだね


関係ないことも書いたかも

まあいいや

世界は日々複雑になっていったとしても見たくないものが自分の前に映し出されて心が傷つけられても抑えきれないくらい揺れ動いてもそれでもその出来事が自分にとってかけがえのない一歩であり自分にしかないものなのだと信じる。肉体が滅びる、死は人間にとって恐怖の対象だが、これすらもそうなのだろう。大きな出来事ではあるけど、僕という人間がこの肉体をもって生きたことは、どんな生き方であれこの世界の中に何かの象徴として刻み込まれるのだろう。

運命について考えるのが日々の習慣となっています。多分僕が表現活動を続けるなら大きなテーマになるでしょうし、そうでなくてもたぶん一生付きまとうものだと思います。ポーランドのキェシェロフスキやパウロ・コエーリョも前兆という形で運命は日々の出来事から予見できるもので、日々メッセージの重要性を語っています。芹沢光治良やドストエフスキーは信仰が運命と密接に結びついていることを語っています。

ただ、僕にはまだよくわかりません。何の信仰ももっていなければ、彼らのような能力も今はないし、実人生でいえばゆだねてと言えば聞こえはいいが、ただ流されているだけかもしれない。でも今の生活は金はないけど、困るわけではないし、今までになく安心なのです。今の自分を信頼する。素直であること。これが僕にとっての信仰なのかなと思う。




運命というものがあるならそれは受け入れるからこそ乗り越えられるのではないかと思う。

うまく伝えられるかわからんけどとりあえず書いてみる


残業して疲れをカラダに背負って家路につく俺

まっすぐ帰ればいいものをやっぱり居酒屋により道

こんなんで本当にいいのかと少し自問自答

でも今は甘えたい気分だ

夜になってカラダが冷えて人肌こいしくなる

肌で触れ合わなくても心で触れ合い

心が振れあう

なぜこんなに心が開くのだろう


となりに座っていた若い女性に

ただ素直に前向きであれと伝えたかった

日々心が揺れる

それを認めて

今の自分を認めたくない

それを認めて

あなたの心をねじまげないで

ほんとうの思いを聞いてあげてほしい

自分にも言い聞かせながら


今日も人は出会い別れる

また会えるかわからないけど一瞬の出会いの中に

すべてがあると僕は信じている







おとといブログ書いたら、コメントをいただいた


正直うれしい


Mixiやツイッターでリアクションがあれば


やっぱうれしい


バイト先でぼつぼつ応援してくれるというか可愛がってくれる人が出てきた


恥ずかしいし照れるけどうれしい


最近知り合ったスゴイミュージシャンが今度パーティーをやるらしい


悔しいけどうらやましい



やっぱファンは必要だ


ファンなんて実力がつくまで求めないと


格好つけていたバカな俺がいた


いやぜんぜん違う


ファンが未熟な俺にいろいろなことを教えてくれる


ファンがあまりに弱すぎる俺を励ましてくれる


ファンが俺のさみしさを癒してくれる


ファン=fan=楽しさ


人生の楽しさはありのままの自分を受け入れてくれる人に


囲まれて生きることにある