昨年末より、舞踏家の最上和子さんから稽古をつけていただく幸運に恵まれている。私は埼玉在住だが、千葉県の稽古場に伺う。最近思うこと。すごい人は、都心から少し離れた郊外にいる。

最上さんのブログ
http://valhallam.blog67.fc2.com

最上さんとの出会いのきっかけとなったご当人作成のブログ。ご自身が追究されていることをここまで言葉にするとはすごい、と心底驚いた。
身体表現、身体そのものを追究する方、一度は目を通して欲しい。
それにしても、初めてブログを拝見したのが、昨年の始め。そのあと、鹿島踊りと出くわすわけだが、今思うと、このブログの出会いから、踊りの世界にひきつけられてたんだな。

今日が私自身、3回目の稽古。正直、今日は、稽古に入る寸前までやる気がおきず、ボロボロだった。
というのも、最上さんの稽古はかなりの集中力を必要とする。寝そべった状態から脱力、そして脱力した状態をキープしつつ、立つという行為に10分、歩く行為に10分、など、とにかく日常よくある所作を、時間をかけて行う。
これがどれだけしんどいか、想像できるだろうか?興味のある人は、ぜひ試して欲しい。おそらく、今日の僕は、日常生活で抱えた焦りを持ち込んで、しまった気がする。それで、こんな状態で集中できるはずない!と思ってしまっていたかも。

今日の最初の立ち稽古で、疲れているね、と、最上さんからも指摘があった。確かに脱力できないことにとても神経質になった。なかなか立つことができないことにイライラもした。
身体は正直だ。日常を反映するのだろうか。

しかし、回を重ねてきたせいか、最上さんからのアドバイスもあって、だんだんと落ち着いてくる。身体は、丁寧に扱うことで、どんどんと練られてくる。身体は、身体を通す天地をつなぐ軸を中心に、その場とともに、立ち上がる。イメージが身体を変化させる。

服を脱ぐ、という所作を時間をかけて、開くというテーマを持ち込んで行う。見たて、と、最上さんは言っていたが、服を脱ぐという行為自体に、何らかの象徴が隠されている。殻を破るとか、皮をめくるとか、そういう設定が付け加えられるだけで、脱ぐ衣服との関係性すら変わってくる。衣服も生きたものに変わる。

言葉では簡単に思えるけど、実際は、
時間がかかる奥の深い世界。僕もまだまだぜんぜんわからない。しかし、だからこそ、面白い、宝の山が眠っている。鹿島踊りの研究にも確実に活かせそうである。また、最上さん、また稽古のメンバーとのちょっとした会話も刺激的で毎回目からウロコが落ちることばかりだ。

劇団では、心を使って演ずることを教わってきたが、精神を酷使した結果、身体が伴わず、結果、故障したのではないか。心身は表裏一体というが、心と身体をゆっくりと結びつけていきたいと思う。
昨日、最近お世話になり始めた大塚にあるマスミスペースで、音羽菊公さんのわざおぎ塾に出て。また、最近お世話になっている最上和子さんのブログを読んで思ったこと。

変身ってことをぼくは難しく考え過ぎていたかも。キーワードは、なりきることを思い切って!誠実に!やりきる!ということ。役割を明確に自覚すること。普段やらないことをやる。歌うとか、最上さんの言うようにアフォーダンスダンスなんて、とても素敵。もちろん高い水準でやるのは、めちゃくちゃ大変なことなんですけど、なりきろうとすることなら誰だってできる。こういう、誰だってできるっていう部分を伝えたいんですね。芸術とか考え過ぎると何かありがたい物にし過ぎて、門外漢が近づきがたいものになる。芸術と言われるものに少なからず関わっている人間に問題がある。もちろん私も含めて。
空になる!ってなったら、四の五の言わず、なってみる。花嫁になる!っていったら、男じゃないからなれないと言わずなってみる。音羽さんの酔っ払いになる話は本当に目からウロコでした。千鳥足で、くねくね歩くんじゃなく、まっすぐ歩こうとするけど、歩けない、というのをやる。そのような状態を心で作る。心は自由なんですね。柔らかくも、硬くもなれる。自由であるということを素直に信じることが大事だと思います。

さあ、今日も踊りながら、歌いながら、外を歩こう。
きっと誰だってできる。警察に気をつけて笑

iPhoneからの投稿
ものすごい雪でしたね。
しかも、今朝は雨、溶けた雪が川のように流れていました。

さて、今日は、京橋にある、東京国立近代美術館フィルムセンターへ行ってきた。
企画は。。。じゃーん^ - ^
photo:01



これだけでわかる人は、かなりのマニアですね。

そう、「東京物語」「秋日和」など、たくさんの名作映画を作った、昭和の名監督、小津安二郎監督の展覧会です。
「小津安二郎の図像学」という企画で、近くまで来たので、よってみました。
燕来軒は、「秋刀魚の味」に登場するラーメン屋。東野英次郎が主人、娘が杉村春子という、ある意味すごい店。

作品中に出てくる美術作品、冒頭の作品名、スタッフ、キャスト紹介の画面のデザイン、カット毎に色分けされた演出ノート、作品に出てくる家やお店の写真や部屋割りの図面など、小津監督らしいきめ細かいセンスの光る展示物が多く見られます。

こういうのみると、やっぱり監督とか演出家って、すごいなあと憧れてしまう。日常生活から、衣服とか、食器、インテリアなどなど、生活を彩る細かいところに目が行き届くようになりたい。とはいえ、正直、普通に暮らしているとなかなか難しいのですが、センスのいいカフェ巡りでもしようかな。
あと、小津監督の空間作りのこだわり、例えば、なぜ、このシーンで、絵を飾ったのか、とか、なんでこの色合いなのか、とか、もっというと、俳優の所作との関わりまで細かく観ていきたい。絵とか写真とか、丁寧に見るのもいいかもね。あ、昔やってたな。

そうそう、関わり。関わり。
関わりの中から形象が生まれる。

3月末までやってるようなので、お近くまで行かれたかた、ぜひ足を運んでみてください。

東京国立近代美術館フィルムセンター
http://www.momat.go.jp/fc.html

今日は、古巣の劇団の公演を見に行った。ドイツの劇作家、ブレヒトの作品「コーカサスの白墨の輪」。戦乱に揺れるグルジアの民衆の混乱を描いた作品。ちなみに、グルジアって知らない人いるかもしれないけれど、今、冬季オリンピックが行われているソチのすぐ南にある国。古来から交通の要衝であり、大国に挟まれていたことから、紛争が絶えない地域でもあったが、それだけに、他にはない独特な文化が花開いたのではないか。偉大な芸術家もずいぶん輩出しているらしい。日本だと、沖縄が近いのかな。気質はだいぶ違うと思うけど、歴史的に置かれてきた状況は近い気がする。
強いものに蹂躙されながらも、民衆は、自分たちの意志や感情をなんとか伝え、受け継ごうとする。昨日のブログの続きみたいになるけど、その手段の一つが歌なんだろう。この作品にも、演者が歌うシーンがずいぶんと出てくる。その中には、時代が変われど、我々現代人が共感できる歌詞が出てくる。今も昔も変わらない何かがあると、改めて気づかされる。

では、権力は永遠に絶対だろうか。
強いものの前では、弱いものは、永遠に、ただただ従い続けなくてはいけないのか。歴史の変遷を考えれば、簡単に状況が変わるとはいえない。が、少なくとも、そうではないという考えを引き継いで、伝えていく必要がある。 この作品の意義はそこにある気がする。また、グルジアにしろ、沖縄にしろ、自分たちの生活が脅かされる中でも、それぞれのやり方で、自分たちのアイデンティティを守ろうとしてきたはずだ。その知恵は、全世界にとって有益なものとなるのではなかろうか。
その辺りを探求するのも、自分のライフワークかな、と思ったり。

芝居はいつもよりも自由な感じで、純粋に観客として楽しみました。
この作品を観ると、いつも元気が出ます。エネルギー発散するぞ!

東京ノーヴイレパートリーシアター
http://www.tokyo-novyi.com/japanese/pg372.html
ブログを書こう。久しぶりに。

一昨年、劇団をやめてから、祭りに興味をもった。演劇と同じように、祭りは独特の異空間を創造することで、人を変身させる。どうも僕は、この変身ということに異常なこだわりがあるようだ。祭りの本来的な意義を知ることで、演劇、俳優の原点にたどり着く、そんな狙いもあった。劇団にいる時からいつかは通る道と思っていたが、こんなに早く訪れるとは思わなかった。
もう亡くなったが、伊豆の伊東市に住んでいた母方の祖父が鹿島踊りという民俗芸能の保存会の会長を務めていた縁もあり、鹿島踊りを昨年半ばから調べ始めた。10月の秋祭りでは、実際に踊りを目にすることができた。そして、先月、ようやく今後の研究のガイドラインが固まった気がしている。音曲、踊り、祭祀、来訪神伝説、伊豆や渡来人の歴史、神道、とにかく、分野は多岐にわたり、幅広い。生涯のライフワークと考えてゆっくりやればいいと思う。が、まずは、僕は、変身、トランスというものをもう少し突き詰めていきたいと考えている。変身ということに、民俗芸能が現代まで引き継がれているエネルギーの根源があるように思うのだ。13日は、板橋の田遊びを拝見する。都内では歴史も古く、有名。田んぼでの仕事を擬似的に演じる、という祭りだ。まさに変身というテーマを考えるには、うってつけの祭りだと思う。
研究といっても、僕は文章を書くだけでなく、あれこれ体験しながら、対象に近づいて行くのが好きだ。たとえば、鹿島踊りには、歌があるが、たとえば、歌うという表現を体験することで近づいて行く、というのも面白いと思う。先日、伊東市を訪問した際に、漁師が船を見送るときに歌った「御船歌」の大変貴重な資料を、著者のご親族からいただくことができた。鹿島の歌のルーツということではなさそうだけど、伊東の鹿島は、踊りや音曲とともに、なんといっても漁師の生活、海の民の生活が継承されてきたはずだ。今は、漁師をやる若者は少なくなった。しかし、目にはみえないが、そういった時代の変化を超えて、残されている魂が必ずあると、信じている。

昨日は、昨年よりお世話になっている高麗神社の神職男女お二人が主催されている雅楽の合奏会で、本当に著名な先生のご指導の元、駿河歌を歌う機会に恵まれた。鹿島の歌ともとても似ている。ある程度、楽理の知識も必要、と実感したが、それよりも感覚をつかむことが大事だと思う。洋楽よりもふんわりしていて、呼吸の自然なリズムを大切にしている印象を受けた。
直会では、先生とお世話になっている神職の兄さんに、かなり日本酒を飲まされて笑、少々飲みすぎ、途中離脱。だけど、神職の姉さんと久しぶりに真面目に話ができて、うれしかった。まず、自分がこれと思う歌と出会うこと。これがまず大切で、譜面にする、というのは二の次だと、激励を受ける。漁師の歌と出会うことで、僕の眠っていた何かが開き、変身するかもしれない。楽しみだ。お二人は、神職の傍、雅楽や舞を長年されておられ、日本にある古来からの芸能を伝えて行こうと活動されている。僕など比べものにならない、熟練した方だが、兄さん姉さんのように接してくださり、本当にありがたい。研究や生活が八方ふさがりになると、本当にいやになることもあるが、あきらめずにやっていれば、出会いや出来事が必ず助けてくれることは、いつまでも変わらない。

今後は、少しブログを更新していければと思います。
最近ぜんぜん文章を書かなかったが、久しぶりに書いてみる

今日は早かった
起きたの3時半
やけにすっきりだったので、二度寝しないでそのまま起きてみる

目が開くと最近ようやく寝起きに欠かさなくなった腹圧呼吸をする
実に健康的な目覚め
が、同時に寝起きのタバコも欠かさないため、プラマイゼロだったりするが
腹部の六箇所を順番に抑えながら、深呼吸するが、今朝はみぞおちが痛い
昨日、勤めのあと、祝杯だ!とかいいながら、駆けつけで夜空の下で飲んだ500㎖氷結が、いまだに地味に効いてとでもいうのか

ふん、この技を覚えた俺にとって、500㎖氷結のボディブローなど児戯に等しいわ

ん?やっぱり痛い
まさか家に帰って晴れ晴れとした余韻に浸って飲んだ焼酎の一発か?
おそるべし晩酌

ふん、負けんぞ
フー
痛いけど痛いだけに効いているはず
さらに深く親指で腹をえぐる

朝3時に何やってんだろ

サッカーでも見るか


げ?

予想以上につまらねー

本でも読むか

ときおり鳥のさえずりが聞こえる
あの小さな身体のどこにあの美しい響きの秘密が隠されているとでもいうのか

たぶん身体からではなくどこかから呼び寄せた響きを鳥は素直に伝えているのではないだろうか

それがどこから来るのか僕は知らない
それが何を伝えているのか僕は知らない
でも
何かを僕は鳥から受け取り
僕は鳥に何かを伝えたいような気がする

そうやって不思議な世界に包まれて僕は今日も生きる
昨日とは違う空のしたで
昨日とは違う人々と出会い
昨日とは違う気持ちを味わいながら
今日も生きるのだろう


まだ出勤までしばし時を過ごす
iPhoneからの投稿
また思いついたように書くこのブログ。最近は、何してたっけな~

仕事。稽古。読書。ストレッチ。
飲み。(笑)
たまに文章を書く。

うん、しばらくずっとあまりかわらない。周りの人みてると、うらやましく思えることも多いけど、まあ、こんな生活にけっこう満足している。今この瞬間がすでに完璧で、満ちたりているんだな~っていう感じを味わうのってけっこう幸せなことじゃないかなと思う。

今までいろいろなことやってきたけど、これからどうなるのかな~とふと思ったりする。
芸術家としての大志や野望もありつつ、彼女ほしいな、とか、旅行いきたいな、とか、お金ためよう、とか、っていう月並みな願望もありつつ、、日々過ごしている。
うん、たぶん叶うよ。夢って必ず叶うから。でも、手に入るタイミングはわからない。ある時にふと、あれ?もしかして、叶ってましたか?って感じ(笑)すべて与えられてきたんだな、って、いきていることが本当にありがたくて、文句や不満ばかりで、ごめんなさい~って、思う。この前祈りって映画のラストシーンを観ながら、そんなこと思った。

タイミング=timing
時は計り知れないものだよね。
忙しくて、時間がないとかあり得ないな~って最近はよく思う。
とにかく与えられたことを誠実に
こなそう。
自分の狭い世界観にとらわれず。

久しぶりに、ブログ書いてみる。小説の執筆以外なかなか書く時間がとれないでいたが、やっぱり電車の中しかないかなということで、ただいま電車で、iPhone使って書き込み中。あんまりアプリ使ってないけど、携帯よりも文字が打ち込みやすい点は助かっている。

小説は、原稿用紙30~40程度のスケッチが終わり、第一稿を書き上げようとしているところ。どうしても加筆も出て来て、欲張ってしまうが、とりあえずつなげてみるのが大事かも。今月中と思っていたが、来月二週目までに持ち越す。
哲学的な演劇、とは?というところから始まった哲学書乱読だったが、結局、ニーチェに落ち着いた。ハイデガーはまだ難しく、ヘーゲルは莫大だった。いや、ニーチェも十分難解で、莫大なんだが、なにしろ今まで一番読んでいる哲学者なので、親しみはあるというところ。ちくま文庫の権力への意志の上巻を読み上げた。なぜかパスカルのパンセのことをよく引用している点が気になったので、パンセもチラ見しながら、読んでいく。なぜかイギリス経験論も、知っておこうと思いたち、ヒュームも読み出す。正反対のようで、共通点もあるような気もする。結局、軸を決めてもいろいろ読むことになるが、今自分が何を追究しているかを自覚して、パースペクティブを明確にすることが大事だ。
肝心の哲学的な演劇ということについては、まだはっきりとした答えが出ない。哲学とは何か?という問いに答える必要があるが、哲学者の考えをヒントに自分なりの答えを出すのが目標。もちろん、ブレヒトの弁証法についての考えも十分参考になると思う。
先月から始めた仕事も悪戦苦闘だが、楽しんでいる。コンサルじゃないので、なかなか抜本的な改革ができないため、単純なデータ処理に終始してきていて、煮え切らないところもあるが、何より管理者の大変さというものを味わさせていただいて、いい体験をさせてもらっている。人を支配しようとする気持ちが自分にもあることをみとめ、それでも時として、従ってもらわなくてはいけないことを伝えなくてはいけない。とにかく人に自分の考えを伝えるためには、本気でなければダメだと思う。まだまだ甘いと痛感したが、周りのメンバーに助けられて、なんとかやっている。やっぱり、人の出会いは恵まれていると感じる。来月で、今回のプロジェクトは終了する予定だが、もっと深くメンバーと向かいあって、助けたい。そして、少しでも今回のプロジェクトから何かを得てもらえればと思う次第。

最近ようやく、一日少しづつ、新しく進歩しようとすることの大切さを実感してきた。
演劇だけじゃなくって、生活の中に見直せるものはたくさんある。考え方、心の持ちよう、習慣、交友関係、人のの接し方など。
日々おなじような人生なんてつまらないから工夫するしかない。

生活を立て直すために、先日、実家に戻ってきました。都市圏から若干離れるのですが、仕事で、都内に出るのはそんなに苦になりません。サラリーマンをやっていれば、安定した収入が入ってきて、ひとりぐらしも楽なのですが、昨年から今年にかけてしばらく満足に働けない期間があったし、一人暮らしすると、どうしても自堕落になってしまう性も手伝っての結果です。まあここまでくると、自分の性も笑うしかないのですが、逆にいうと、自分に選んだ道にまだまだ覚悟が足らず、自分が進む軸がしっかりしていなかったのかもしれません。実家は、ひとりぐらしに比べて、環境は雲泥の差です。どうあろうと支えてくれる両親に心から感謝をして、今まで以上に強い覚悟を決めて、やると決めたことをやるだけです。

中でも、この夏頑張りたいのは、執筆と読書です。執筆の方は、興味を持てる題材が見つからず、滞っていましたが、自分の今までの心の動きを書くだけでも、形になるのではないか?と思います。哲学、文学と出会った時の心のときめき、今の劇団の芝居を観たときの衝撃、サラリーマンをしながら、俳優のトレーニングをうけていたときの熱い気持ち。。。昔書いた日記には、自分の心の動きがかなり克明に描かれていて、我ながらあとから読んで、かなり面白い内容なのですが、日記から掘り起こした題材を、今の自分の目で見て、加工していけば、何かができるかも。世界は、自分が思っている以上に広く、世界を規定するのは、自分の精神活動次第だということ。夢、希望、自由というものも、おそらく、精神活動の内容いかんにかかわることだということを、書くことを通じて探究したいですね。最近読んでいるヘーゲルの精神哲学の本でも、精神と自然との関係が描かれていますが、精神が自然と矛盾して葛藤していく中で、精神が高次の存在に近づいていく過程が興味深いです。内容は平易とは言えないですが、思ったよりは読みやすく、のめりこんでしまいます。「精神現象学」における弁証論の研究も含めて、この夏のドイツ哲学探究はヘーゲルで終わってしまうかも。が、できればマルクスや社会学関連の書物にも手を出したいところ。

池袋の図書館で借りた「ロシア革命」の書籍は期待外れでした。事実の羅列だけで、教科書を読んでいるみたいでした。出来事の流れを知るのは重要ですが、文章から、ロマノフ王朝の専制王政とはどういうものだったのか、専制王政がもたらした様々な影響力、抑圧された民衆の反発心を読み取れる描写が少ない気がしたのは残念です。ブレヒトが書いた、パリ・コミューンがあった頃のフランスを描いた「コミューンの日々」をこの前読みましたが、革命的な出来事が起こった時の人間模様がよく書かれていました。ロシア革命当時の小説や戯曲も交えて、研究していくと、より面白いかもしれませんね。それにしても、ロシアの資料は、やはりあまり多くない。とりあえず読めるものは片っ端から読むか。

昨日、誕生日でした。朝からたくさんの人からお祝いのメッセージを頂き、仕事の仲間も、仕事の後、飲み屋で祝ってくれました。飲みすぎてしまったのは玉に傷ですが、ぼくも、俳優という仕事をはじめて、いろいろな世界を渡り歩くうちに、たくさんの友人ができたんだな、と思いました。友人からのメッセージで、人間としての僕についていきたいといってくれる人がいてうれしかった。自堕落になるのも、どうも自分は孤独だと思い込みすぎていたせいかもしれないなあとしみじみ思う。今までは、どうせ自分なんて理解してくれる人はいないと、はっきりいえばいじけていた。もちろん、100%分かり合える人はいないと思う。しかし、自分も自分のことがどれだけわかっているというのだろうか?もしかしたら、自分が意識していない自分の性質を他人は知っている、ということもありうるのではないか?飛躍しすぎかもしれないが、、普段周りにいる人から自分を知ることができる。日々、自分の中にある様々な精神を明確な理念を含む言葉にしていく作業が必要だと思う。言葉にすることで、精神の有限性を知ることができる。有限性を知ることで逆に精神の無限を知るのだという。ブレヒトの言った哲学的な演劇ということにもつながる作業だと思う。最終的には、作品や役の中にある精神性を、明確な言葉にし、自分自身の精神性とリンクさせることだ。今日はここまで。

夏は読書。

12月はブレヒト公演。ブレヒトの思想をどこまで自分のものにするかが鍵。
そうなると、やはり、ドイツの精神について考えなくてはならない。
ドイツの哲学書を読めるだけ読む。まずは、なぜかフィヒテに飛びつく。次は、誰に行こうか。まだ読んだことのないヘーゲルに行きたい気もするが、やっぱりニーチェかな、という気もする。やっぱり、ブレヒトの作品もたくさん読む。

ふとしたきっかけで、ロシア人に演劇を教わる人生を歩んでいるが、日露関係を考えることをライフワークにしようかな、と思ったりしている。
司馬遼太郎の坂の上の雲をひさびさに再読しているところだが、ストーリーがすっかり頭に入っているので、人間模様や、その他細部に目が行き届き、面白い。日露戦争の描写は、12月に公演するブレヒトの戯曲のヒントにもなる点が多い。
歴史とは何か、というE.H.カーの名著を読み出した。恥ずかしながら、この人がロシア史の研究家であることをはじめて知った。日露戦争からロシア革命あたりについて書かれているカーの著書を探してみようと思う。

夏は体づくり。
しなやかで、伸縮性に富み、軽快な動きができる身体を目指し、日々体操、ストレッチ、整体。

そして夏は恋愛笑
いまめっちゃ恋愛体質や

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