ブログを書こうと思い、iPhoneのアメーバアプリを立ち上げ、先に、しばらく会ってない友人や知り合いのブログを読む。偶然にも、いかにハッピーに毎日を過ごすか、というテーマで書いている人をふたり見つける。笑ってみたり、ダンスを踊ったり、歩きながら歌を歌ったり、人それぞれ違うけど、ハッピーでいようとすることは、単純なことだと思う。何がハッピーか?って考え始めると、わからなくなる人もいるかもしれないけど、そんなに難しいことではないと思う。ハッピーと思うことに素直に自分を傾ければいい。えーと、何を書こうとしたんだっけ、無理やり何かにつなげようとしている気がする。一回忘れて。
まあ、ハッピーでいたいって思う裏には、やっぱりハッピーじゃないなあってどこかで思っている自分がいるからかもしれない。悩んだり、心配することもやっぱり人間誰しもあるだろう。もうどうしようもないと思うこともあるだろう。僕は、そんな自分を笑ったりする。やわな自分が面白い。悩む自分も悪くないな、と思ったりする。そして、追い込まれた、今後どうなるんだ?というスリルを楽しもうとする。そんなことを心の中で繰り広げているうちに、予想だにもしない出来事が起こったりする。これが人生の面白いところだ。
いつの時代でも、幸福、ハッピーということは、人間のテーマだ。しかし、今の世の中、とりわけ現代の日本では、少々難しいと思う人も多いだろう。真面目に現実を捉えようとする人ならとりわけそうだろう。だから、もうどう考えても憂鬱なら憂鬱でいいのだと宣言してしまおう。憂鬱の中に、少し希望を抱えてみる。滑稽なミックスだけど、意外と悪くないな、と気づく。季節は春だ。薄靄の中にうっすらと見える太陽に微笑む。生暖かい優しい風と抱擁し、好きな人を思い浮かべたりする。ココロが動き出せば、自然と何かしたくなる。歌う。踊る。絵を書く。ものを作る。人と話す。
やっぱアートだな。前もこんなことを書いた気がするけど、美術館とかギャラリーに行かなくても、毎日の生活の中に素材があって、テーマが見出されて、あなたが生きることで何かが起こりうるんだ。それだけで素晴らしいじゃないか。自分だけの美しい人生を生きよう。
5月に、僕が所属する東京ノーヴイ・レパートリーシアター主催の、俳優向けのワークショップが開催されます。俳優向け、とうたっていますが、アーティスト、セラピストなど、心理系の仕事をしている人、お坊さんなど、多種多様な人たちが参加してきたイベントです。

思えば、僕が、俳優として舞台に立ったきっかけとなったのも、このマスタークラスでした。
詳しくは、ブログ↓
http://ameblo.jp/kotaroad/entry-11200646011.html

創造性を開きたい人、下北沢に集まれ!!

☆才能は限りなく開く!!☆
【ロシアの演劇理論「スタニスラフスキー・システム」研究家・
レオニード・アニシモフの俳優のためのマスタークラス】

今回のテーマ
「スタニスラフスキー・システムにおける『役と一体になる』とは!?」

『役と一体になる』、それは、役に与えられた設定の中で、本物の欲求や感情と共に『行動する』ということ。 スタニスラフスキーは、役と一体になるために、俳優は、欲求や感情が本物のものかどうか、判断する感覚を養う事が重要である、と、言っています。
今回のマスタークラスでは、この『真実感覚』をいかに養い、いかにして『役になる』かを、実践を通して学んで行きます。

□『真実感覚』が手に入るとこんなにいいことが!
・自分の役の行動に確信をもてるようになり、現場、舞台や稽古が楽しくなる!
・存在感のある俳優だね、っていわれるようになる!
・受ける前と心の持ちようが変わって、日常生活も楽しくなる!かも(笑)

講師プロフィール・過去のマスタークラス受講者の感想など、詳しくは
http://www.tokyo-novyi.com/japanese/master.html

【日程】
2012年5月1日、2日、7日、8日、14日、15日、21日、22日、28日、29日
全10回、18:30~22:00
※基本的に、月曜日と火曜日、5月2日のみ水曜日
※全日程の参加が難しい方は、ご相談ください。
※見学も受け付けています。一回5000円 要予約

【会場】東京ノーヴイ・レパートリーシアター
東京都世田谷区北沢2-13-6 第一マツヤビル3F(下北沢駅南口から徒歩80歩!)

【定員】20名 少人数なので、お早めに!!

【受講料】68000円

【お問い合わせ】
東京ノーヴイ・レパートリーシアター
TEL:03-5453-4945
HP:http:www.tokyo-novyi.com
E-mail:info@tokyo-novyi.com


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5月に開催される俳優のためのワークショップ・マスタークラスをいろいろな人に紹介するにあたって、スタニスラフスキーについて書いたノートを引っ張り出して、今回のワークショップのテーマのひとつである真実感覚ということについて、考えている。なにしろ真実感覚って人に言ったところで伝わらないし、自分自身でも少し具体的に考えてみたかった。
俳優が役になるためには、役の設定の中で本物の欲求や感情と共にあることだという。そのために、真実感覚が必要となるらしい。当然役の設定の理解が必要だ。役の設定に、想像上の虚構を結びつけることで理解が深まる。自分の体験を思い出しながら、設定と似たものを探していくわけだが、最近体験の結果にこだわりすぎている気がしてきた。体験のプロセス、つまり、ある出来事が起こった背景、出来事に関わる人の心情など、言ってしまえば、戯曲を分析するのと同じくらい熱心に掘り下げることが必要だ。また、他人の体験でも、共感できるなら使える気もする。そして、設定の理解が進んだら、行動の課題を見つける。最初は繊細に考えていく。ここがまだ甘いなと気づく。普段の生活も、無数の行動で出来上がっているが、なぜ自分がある行動に至ったか、もっと細かく意識に落としていきたいと思った。例えばなぜコーヒーを買ったのか?タバコをおいしく吸うためか、口がまずいため
か、眠気をさまそうとしたせいか?それらが複合しているのか?さらにいうと、その課題は、僕の精神にあるどんな性格が生むのか?複数の課題の中でもっとも本質的なものは何か?ある課題と別の課題の関連性など、繊細にしていく要素は多い。なにしろ、欲張りが災いしてか、いきなり大きな課題にたどり着きたくなるせいか、細かい行動の課題について考えることをおろそかにしがちになる。直観的に、設定を体感できるものは、それでもいいかもしれないが、やはり普段の生活から丁寧に考えるくせをつけるべきだなと痛感。さっき、性格が課題を生むという言い方をいたが、性格から導かれる観念と言った方が近いのかもしれない。役の性格を今まで以上に細かく分析することで、より説得力のある、正確な
行動を考えていく。うまい行動の言葉がなかなか見つからないというのは、俳優にとって永遠の課題だが、逆にいうと、僕の場合は、性格分析についてもっと努力すれば、楽になるかもと思う。観念→判断→課題→目的
うまい行動の言葉というのは、カラダに根付いた言葉だ。うん、僕の中では、だいぶ整理できてきた。

しかし、どうしても人に説明しようとすると、難しく、また長くなる。僕たちがやっている演劇は、潜在意識を動かしていきたいわけで、そのために意識的にいろいろな準備をすることになる。上に書いたことは、時間をかけて積み上げていくことだが、舞台にあがる前は、カラダの緊張を抜いたり、集中力を保つための仕掛け、やりかたは人それぞれだが、僕の場合は呼吸に集中したりする。スタニスラフスキーは心のお化粧、役の内的準備といい、必要な準備の要素の一つが完全に正しく、本質的に、完全によみがえれば、他の要素も呼び起こされるという。一つだけ完全であればいいと思うと少し気が楽になる。また、究極的には、相手役が一緒に舞台にたってくれているということをもっと活かせれば、もっと気が楽になる。
ただ、気をつけなくてはいけないのは、一つの間違った感覚が、全てを破壊するということ。気にしているようで意外と抜けるところだ。準備に一生懸命になっているということもあるが、間違っているということを認めるのは誰にとっても恐ろしいことだからだ。常に自分は間違っているかもしれないと頭の片隅において、行動する。だが、思い切ってやる。これが真の謙虚さというものだろう。
さて、どう伝えればいいだろう。
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僕が、今のように、舞台に立つようになったきっかけは、3年ほど前、マスタークラスという、劇団の芸術監督のレオニード・アニシモフ氏のワークショップに出たことがきっかけだった。ロシア功労芸術家であるアニシモフ氏が、俳優1人1人に、事細かく、優しく(笑)指導してくださる場で、今考えても、ぜいたくなことだが、このワークショップへの参加が、僕の人生をガラリと変えた。

大学を卒業、会社員として暮らしていた僕は、世の中を変えたいという思いから、起業家にあこがれた。しかし、世の中に起こる様々な出来事、自分自身の体験を通じて、何が本当のことかわからなくなり、おかしくなった。
文学や哲学、そして、芸術を求めた。しかし、救いを求めすぎるがゆえに、世間的な、普通の感覚から離れて行く。人が信じられなくなり、親とも衝突、親友と呼べる友達も何人か僕から去って行った。心身ともに不安定な日々が続き、なんとか自分を変えたいという葛藤が続いた。
芸術を求め始めた頃、あるアーティストのイベントで今の劇団の俳優の先輩と出会い、数カ月後、公演を観に行くことになった。演劇は、学生以来、まったく観ていなかったが、ライブで、観る人の心に強烈に訴えかけるイメージがあり、その時の僕の心境や考えともフィットするものがあったが、実際、予想以上に衝撃的だった。心が震えるとはこういうことをいうんだな、と思った。それから、何度か公演を観たが、仕事が忙しくなり、しばらく演劇と離れた。しかし、一年半後、ある作家のイベントで、劇団の俳優の先輩と再会、これをきっかけとして、劇団の公演を観るために、週末は下北沢に通うようになり、その数カ月後、いま思うとなぜか、だが、先輩から俳優のトレーニングに参加しないかと誘いを受けて、月に何度か、感情開放やコミュニケーションのトレーニングを受けるようになった。
自分と徹底的に向き合い、徹底的に正直であることが、トレーニングの空間では許された。表現したいことはたまりにたまっていた。最初は、感情を出すということさえよくわからなかったが、だんだん表現できるようになり、さらに、自分と向き合うことで、徐々に自分で作っていた殻に気付き、破っていった。これは、先輩のところで、トレーニングをしなくなった今でも、無意識に続けており、貴重な精神活動の財産だ。

本当は、そのトレーニングを受け続けることで、十分だったのかもしれない。もともと作家には興味があったが、俳優をする気はなかった。しかし、今思うと、トレーニングを通じて知った自分を表現したい、皆に見てもらいたいという欲求にかられ始めたのかもしれない。前からマスタークラスの存在は、一緒にトレーニングしていた、先輩の女性からも聞いていて、受けると成長が早いと言われていた。トレーニングばかりではなく、実際に戯曲を稽古したいという気持ちもあった。インスピレーション、とは何か?というテーマにもひかれた。演劇の世界に深くのめり込み始めることで、会社での立場もあやうくなってきた。
先輩のトレーニングの先生からは、慎重に考えるよう、言われたが、結局、劇団のマスタークラスの担当の方の後押しもあり、参加することになった。

ワークショップでは、チェーホフ作品のかもめを題材にすることが決まっており、その中で、トレープレフを演じることにした。母親との葛藤、女性への届かない思いに共感したのかもしれない。当然、戯曲の分析など知らなかった。文章を読みながら、目に見えるようなイメージを膨らますことから始めた。そして、シーンにおける行動の課題や目的を考えながら、行動を決める。あとは相手役と交流する。それまでにトレーニングしてきたことが、大いに役立った。セリフはなかなか頭に入らなかったが、仕事の合間を縫い、戯曲と向かいあった。

最終日。四幕のニーナがトレープレフを訪ねてくるシーン。不思議なことが起こった。演じている自分と相手役が見えている感覚、とでもいえばいいのか。意識が身体から抜け出して、外から見ているような感覚といった方が近いのか。今まで1番つらかったことを思い出してくれ、と言われ、辛すぎた恋愛のことを思い出したら、涙が止まらなくなり、そのままセリフを話しただけだった。
このワークショップ終了後、劇団の第一スタジオに誘われることとなり、いろいろあって(はしょりすぎ??)、今に至る。
トレープレフの時のことは、アニシモフ氏にとっても、衝撃的だったのか、未だに話題に昇る。この前も、本番終了後、いろいろ演じた役について指摘をいただく中、「あの時、君の優しさという創造性が生まれた」みたいなことを言われた。僕もあの出来事の直後は、なぜあんなことが起きたのか、アニシモフ氏のエネルギーのなせる技か?などと考えたが、その結果をまた求めるのもどうかと思って、極力あの時のことは考えないようになり、実際にやり始めると、演劇を通じて、インスピレーションにたどり着くことの難しさを実感したせいか、インスピレーションについて考えることもあまりしなくなった。また、最近では、ぜいたくなことだが、舞台の中での小さなインスピレーションを喜べなくなっているのかもと思う。あの経験は、幸か不幸かよくわからないけど、こうやって、僕が俳優として舞台に立つきっかけとなったマスタークラスのことを振り返ると、やはり一つの原点なんだなと、思わずにいられない。そういう原点をたまには掘り下げることで、根が深くなるかなと思う。舞台の出番が一段落、しばらくインスピレーションということを生活の中から、演劇に結びつけて考えていきたい。インスピレーションといっても、いろいろな段階がある。まずは大げさなことでなく、ちょっとした中にあふれるインスピレーションを探そう。
最近、生業の仕事に時間をとられて、なかなか演劇のことを考えられずにいた。昨日の本番もそれがモロに出た。考えていたところは、形になることがある。ほっといているところは、確実に形にならない。あたり前すぎることだが、日々少しづつの積み重ねの質を高め、様々なバリエーションを増やしていくことが、今後求められる。舞台の結果につながるかどうかはおいて、毎日、印象でも考えでも、舞台の設定でも、具体的な行動プランでも、なんでもいいから、明確な言葉にして、書き込んで行くことだ。やっぱり役者やっているからには、いろいろな役を経験したい。そのためにも、今向き合っている役ともっと丁寧に向き合うことが必要だ。
一ミリの積み重ねを喜んでやる。そして、一ミリの発見や成果を喜ぶ。
今日は久しぶりの一日休み。たまりにたまった洗濯物を片付け、食事をして、友達とメールしたり、やっぱり役のことを考えたりする。
今日から三月。外に出ると、ひな祭りの歌を歌っている女の子がいたが、おひな様をお日さまと間違えていて、一緒にいたお母さんが、おひな様だよ、と注意している姿がいじらしい。
な、がうまく言えないのかな。この際、お日さまでもいいよね。
近くの駅の近くのタバコ屋の隅で、タバコを吸っていると、目の大きな、可愛い女性がタバコを同じように吸い始める。まさか、こんなところで、ナンパはできないと思いながら、ひさびさに男気が燃えあがる(笑)ふと、目が合う。一瞬彼女の目がびくっと動いたが、タバコを吸い終わると去っていた。今度会うことがあれば、間違いなく声かける(笑)

さて、こんなトレーニングやってます、その二。
やっぱり、俳優のベースは、日々の人間観察だと思う。どんなに時間と金がなかろうが、これなら、外にいさえすれば、毎日できる。
4年ほど前に、演劇の道にいくか、それまで続けていた音楽を続けるか、悩んだことがあったが、演劇はその気になれば、毎日の日常生活がそのまま稽古になるから、時間やお金がなくとも、始める時期は遅くとも、モノになるかもしれない、と思い、演劇を選んだ。今でもこの選択は正解だったと思うが、実際は今のように日常を演劇と結びつけて考えられるようになるまで、かなりの時間を費やした。また、音楽だけでなく、他の芸術も、おそらく、人間を観る、ということが、大切なのではと思ったりする。
で、何を観るか、やはりまず、顔。表情から何を考えているか、何を感じているかを読もうとする。そうすると、なんとなくその人のキャラクターのイメージがパンと頭に浮かんでくるときがあるのね。言葉になるときもあれば、なんとなくイメージだけだったりすることもある。助けになるのが、深く相手のイメージに入りこむトレーニング。電車の中とかでやっているんだけど、劇団では、内的注意のトレーニングといっている。プロセスは企業秘密だけど、簡単にいうと、相手のことを深く思いやろうとするとき、誰もがしていることを意識的にやるだけ。
さっきの女の子の話じゃないけど、可愛い、って思った瞬間に、僕の注意は、無意識に彼女に向いているわけね。その気を感じて、彼女も、僕を見て、目が合った。不思議なことのように思う人もいるかもしれないけど、よくよく考えると、当たり前のことなんだよね。
観る人の行動とか、癖とか、話していることも、観察している。相手から何を得ようとしているんだろう。足を絶えず動かしているリズムはいったい何なんだろう。この人が話す言葉の根底にある性格の質や考えはなんなんだろうとか、想像したりする。あ、この行動、次の舞台で試してみようかな、とか、このキャラクター、いつか使って見たい!とか、引き出しにしまいこむ。こんなことしながら毎日が過ぎていくわけです。

昨年の半ばぐらいまでは、正直、観察していても、よくわからなかった。でも、最近は、相手のことが前よりよく見えるようになってきた。あと、自分自身も同時に観察する。何をしているか、何を考えているか、何を感じているか。このレベルもさらに高める。相手との間にある障害となっている自分の質を把握して、修正する。こういう作業を日々続けることで、創造的な状態、開かれた、明晰な自分自身を常にキープ、さらに進化させていくことになる。僕の先生は、瞑想のようなものといっていたが、まあそうだと思う。
こうやって振り返り書くと、思わぬ発見があって、面白い。本当は、さらに先があるが、そこは僕の精神世界の根幹になるので、秘密!

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誰に迫られたわけでもないが、俳優としてこんな生活をしてます、みたいなことをたまには書きますね。僕のような若輩が語るのはどうかなあと思うところもあるが、ジャンルや俳優それぞれの考えによって、さまざまな俳優の道があるので、僕の語ることも一例だと思って読んでもらえればいい。ただ、なぜ今まであまり書かなかった俳優としての一面を書いてみようと思ったかといえば、特に、テレビとか映画に出ずに、舞台の道で生きている俳優は、何か世の中に誤解されている所が多い気がしたからだ。お金もないのに、飲んで遊んでいるだけ、と思っている人もいるだろう。もちろんそういう一面も、人によってはありうるが(笑)この前、仕事先の人に、劇団から給料はないって言ったら、え、趣味?って返されて、正直少しカチンときた。母には、たびたび、何をやっても儲からないと意味がない、といわれるのは茶飯事だし。仕事先の人や母のいうことに、一理あることはよくわかってますよ。銭の力がものをいう世界だからね。ただ、俳優は、舞台に立つことだけが仕事じゃなくって、そのために、日々いろいろなことをしていることを、心ある人には知ってほしいと思う。
今回は第一弾ですが、いきなりちょっと変なことかきますね。って、前置きしないと、誤解されそうだから。
昨年から、ほぼ毎朝、自己催眠のトレーニングをしている。最終的には、自分がありたい姿を潜在意識にすりこむわけだが、その姿が実現されるかは、置いておいて、自己催眠のプロセスが、いいトレーニングになっている。
自己催眠のプロセスでは、正当化する力、集中力、そして、想像力が鍛えられる。基本的に催眠は、信じやすい人で、平均以上の知性のある人がかかりやすいといわれる。正当化とは、本当に文字どおりなのだが、自分の行動を正当なものだと信じること。人生でも迷いがあると、何もできなくなるのと同じで、催眠も、所詮イメージの世界で嘘っぱち、こんなのバカバカしいと、疑いはじめるとやりたくなくなる。だから、嘘かもしれないけど、僕にとってはほんとうだ、と信じ込むことが大切になる。
正当化がうまくいったとして、次は、プロセスに集中する。リラックスできるよう、心の中で暗示をかけたり、いろいろなイメージ、ふわふわした雲とか、チーズが溶け出している様子とか、昔懐かしい思い出を描いたりする。しかし、どうしても、いろいろな雑念が出てきてしまうんですねえ。何食べようとか、お金どうしようとか、昨日あった女の子、かわいかったなあ、とか頭の中でぐるぐるしてくる。今朝もそうだった。昔のオレゴンのホームステイ先のことを思い出していたつもりが、気づいたら、昨日喫茶店でみかけた、とても素敵な女性たちに心が移っていた。何か久しぶりに、心が暖かくなったというか、花が咲いたというか、まあそういう感覚を思い出すためにたぶん役にたつので、無駄にはならないと思うことにする(笑)
俳優のトレーニングを始めた当初、こういう心理的なトレーニングをたくさんやった。先生からは、雑念が出た場合、その雑念があることを認めつつ、プロセスに集中しなさいと、教えられた。今でもその教えは、舞台の上で生きているなあ、と思う。その先生から離れて、しばらく心理トレーニングをおやすみしていたので、自己催眠を始めた当初は、集中力がだいぶ衰えていることを感じたが、今日は、以前トレーニングしているときにたまに感じていた、創造にとってよい状態を感じることができた。この感覚を思い出したことは大きい。しかし、時間がかかりすぎたのが課題。本番では、時間がとれない場合もあるから、なるべく早くいい状態を手にしたい。雑念を認めながら、集中しようと思うことも、とても大事なんだが、あせると難しくなることがある。そのため、想像の世界でもっと遊べれば早いな、と最近思う。一言でいうと、想像力ってやつですな。今まではめていた枠、記憶の引き出し、想像のイメージ、想像のプロセスを取り壊して広げている感じ。こういうときはこの記憶とこのイメージ、とか、こういう風に想像しなくちゃいけない、みたいな決めつけがあるように思う。
今まであまり触れなかった過去を思い出すことや、いつもと違うイメージや想像のプロセスをあえて試してみようとすることで、少しづつ何か変わるかな。どうしても本番では、いわゆる「鉄板」と思っているイメージを使いたくなるが、それをなるべく封印することにする。想像の世界を研究する、という意識を高めるのが、今の課題。

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レパートリーシーズンに入って、一週間が経とうとしています。今週は、新しく始めた仕事で、なれない環境でバタバタしていますが、10日は、「白痴」、今週末11日の土曜日は、出演作品の「イワーノフ」が初日を迎えることになります。僕が初舞台を経験したのもこの「イワーノフ」で、今年で個人的には3年目、チームとしては、4年目になります。4年の間、メンバーもずいぶん変わりましたが、難解な作品をなんとかここまで継続してきたことは素晴らしいことです。4年もやると、自分自身も作品全体も、どんどん変わって行きます。もちろん停滞もあるけど、植物と同じように、水をあげ続ければ、新しい命が生まれてくる。僕が、観客として、劇団と関わっていたときから感じていたことです。本格的に俳優活動を始めて、そろそろ3年。この作品で、今までにない新しい命を生み出してみたいですね。それこそ、今まで作ってきたものをぶち壊して、かなぐり捨てるのは大変だけど、そうしないと、作品も成長しないし、自分自身も面白くならない。監督も、新しい、面白い「イワーノフ」を作れ、といって、ロシアに帰って行きました。新作の「白痴」ももちろん観て欲しいけど、「イワーノフ」でチャレンジする姿にもぜひご注目ください。

イワーノフのことを書きながら、創造へと駆り立てるものが何かを知っておくことが大切なんだな、と改めて思いました。責任感や使命感が今まで大きな力になったけど、そういえば、僕は、新しい自分を見つけるために演劇を始めたのかもなあ、そしてそれが楽しくてはまったのかなあ、とふと思いました。原点回帰。自分を見つめ直し、最初からやるつもりで挑みます。
昨日、レパートリー公演、白痴で、初日を迎えました。

公演前の稽古が、ぜんぜんダメで、とうなるかと思ったけど、逆に開き直って、なんとかうまくいくよう、祈るしかなく、本番になれば精いっぱいやるしかなく、仲間や先輩に助けられて、自分が舞台でしなければならないことがなんとなく見えて、必死でやり通した。

演技の質は、どうあれ、舞台で生きました。もちろん、まだまだ足りないことがたくさんある。実際、最近、芝居のことを考えるのが嫌になることがある。それはおそらくとめようがない、厳粛で、偉大な芸術の魂の中に流れて生きているからであろう。自分のような小さき人間に、何が出来るであろうか?そんな迷いが、そして僕の弱さが、芸術を自分から遠ざけようとするのだろうか?

思考とは、おそらく人間の偉大な活動である。とはいえ、正直、今の自分の能力、状況を考えればとてつもないものを前にしているように考えることが通常であろう。
しかし、僕はあえて自分の無力をさらけ出し、かといって卑屈に流されず、あくまで求めれば手に入る、手を伸ばせば与えられる、ということにかけてみたいのだ。ベートーヴェンは、言った。運命以上の自分になれ、と。
肉体が求める理想の中にいなくても、せめて、精神は求める理想に常に手を伸ばしていよ。それは、日々の心掛け、高き願い、心底からの祈りの中より発するのだと信じること。つかまえられよ。自ら求めよ。今、そのことを切実に、今まで以上に切実に感じるのである。

私は哲学する。そして舞台で示す。
2月から、とりあえずバイトを再開するため、その前にやれることをやろうと、少々あせっている月末。
だが、それにしても、自分を見つめ直して、ゆっくり休めたこの数ヶ月はよかった。最近読んだ、先生と慕う作家の小説の中に「荒野の中に美を作る」という言葉があった。まさに、今こそ、芸術家に与えられた役割だと思う。荒野を耕し、その中から光を見いだす。どんなに困難な状況でも、人間は、美意識と尊厳をもって生き得ると伝えたい。
お金も時間も求めれば与えられると信じている。自分が正しいと心から信じることを行えば、全ては与えられるのだと思う。この祈りに対して、あとは自分がどこまで誠実かどうかだと思う。意志だけでなく、明確なビジョンを創造し続けようの。

昨日は、湯島にある、知り合いの料理人の方の食堂にパンフレットをおかせていただくために訪問、ランチを頂きながら、料理人の方に、「雨月物語という作品を研究したいと思っている」という話をしたら、近くに座っていたお客様をご紹介いただく。雅楽をされている男女と静かな「水」のようなインド人の男性だった。

オーガニックの料理をいただきながら、お話をする。「雨月物語と雅楽あいそうですね。」と料理人の方もおっしゃていたが、2人にも雨月物語のことを聞かれて、今自分が思うところを話した。雅楽と、あの世とこの世を行き来する物語の情景は、とてもよく合うのかもしれない。とはいえ、ちゃんと雅楽を聞いたわけではないので、音楽のことは考えてなかったが、2人の演奏を聞いて見たいと思った。

インド人の男性は、不思議な雰囲気を持った方だった。厳しくも温かい。さまざまな体験をされたんだろう。はっきりとした信念を短い言葉で伝える人だった。なんだか聖人と話すような畏れ多い気持ちになった。その人は如水と名乗っていた。命は、変容し、つながっていく、水のように。life In art. そしてart in life. あっという間に時間は過ぎた。

別れ際に、雅楽の女性の方に、もう他人のような気がしない、と言われたのは、嬉しかった。僕もそう思う。三人とはいつか必ずまた出会うだろう。人は日々出会い、別れて行く。これからも、少しでも多くの人達と心がつながれればと想う。この日いただいた様々な愛をまた伝えて行こう。