昨年の6月頃、伊豆伊東市、富戸の鹿島踊りの文章を一通り書きまとめた後、土地と労働との関わり、そして、芸能の誕生というテーマが浮かんだ。伊豆といえば、相模湾と駿河湾という豊富な漁場を生かした漁業が頭に浮かぶが、こと、この富戸という地域では、石にまつわる労働があったことを私の祖母から、ちょうど鹿島踊りの取材で富戸に滞在していた時に聞かされた。それが、昨年の春だったか、その後、書こう書こうと思いながら一向に手が伸びずにいたが、怠け者の私も、そろそろ、この石にまつわる労働がどんなものであったか、話を残しておく必要があると思ったわけである。今の所、情報も少なく、途切れ途切れになるかもしれないが、陳腐なことと自分が思ったにせよ、今ある限りのことを書き綴っていくことが、こういう内容については、特に大切なことだと感じるのである。芸能の誕生というところまでたどり着くには、やはり、富戸伝統のボラ漁まで遡らなければいけないが、やはり、祖母の思いを大切にする意味でも、まずは、石ということに焦点を絞りたいと思う。
こんなに暇な夏休みは、久しぶりだ。昨日、中学の友達と今年最大級のバカ飲みをして、いつかしらか、二次会のカラオケから記憶がないが、家になぜか帰れていたらしく、起きたら、自分の部屋のベットにおって、しかし、目が覚めた時の気分と言ったら、今日、自殺するなら、天気も良く、いいかもな、と思ったり、金もないくせに、ろくすっぼ、仕事もすることなく、こんなに平和でいいのかしら、と思ったり、さすがに罪悪感にさらされて、がばっと起きてはみたものの、自分の存在の薄さが透けて見えたり、ただ、昨夜の酒が思い切り残っていて、テンションだけはやたら高く、勢いで、仕事の電話をしてみては見たものの、やはりアポがとれる訳もなく、せっかくの夏休みなのに、プランニングが甘すぎる性癖が、思い切り災いして、やっぱり今日も何の予定もなく、友達に電話してみるものの、出てくれたのは、お盆だっていうのに、仕事中で、それにもかかわらず、出てくれた自由な男のみで、最後の切り札、LINEで、女の子誰か、遊んでくれねえかな、と思いつつ、やりとりしてみるものの、相手も予定があったり、あれ?そういえば、俺、金ないじゃん?というおもいが、相手を誘うのを邪魔したり、なかなかうまくいかず、でもこのまま、夏を終わらす訳にはいかん!という、訳のわからない気合が、終わりかけている今頃、ようやく出てきて、明日明後日に全てをかける!と盛り上がっている真昼間、ソファに寝転がり、私は、高校野球放送を流しつつ、上の空で、ブログを書いているのでした。やっぱり今年の夏もダメかな 笑
最近できなくなっている、電車内スロー。
吊革をゆっくりつかみにいったり、腕をゆっくり上げたり、思いつきで適当にやるんですが、さすがに、齢38を迎え、恥ずかしくなってきたからか 笑
というか、言い訳になるが、暑くなってから非常に入りにくい。暑いところから急に冷えたところに入るからか、単に身体がだるいからか?いずれにしろ、正直10分やろうと思うとしんどいので、一瞬スローってのを試してみようかな、と思う。歩いているときに急にゆっくりしてみたりとか、買い物中に、お金払うスピードをゆっくりしたりとか。ほとんど嫌がらせか 笑

歩き。ぶっちゃけこれが一番しんどい稽古です。まず、何より暑いから  笑
そんな中、背腹を詰めつつ、小足。たまに、左右交互に斜になって歩く。さらに色々考え事をする。テーマを決めて、次考える時間につながるようにすること。じゃないと、夜、酒飲んだら全部忘れるから 笑 だから、思いついたら、友人に伝えたり、メモに書き残すようにしている。

うんちスタイルで、左右に足を動かす。平たく言うと、股割りです。毎朝、駅のホームでやっていたが、先日、いつものように、しゃがんだら、スーツが破けました 笑
このとき、なるべく股関節を開きつつ、左右に動かす。だいたい100回くらいでしょうか。最近は、あたま、上体、下半身をそれぞれ、丸いと、意識して、動かしています。それぞれがうまく歯車のように、かみ合いつつ、回るようになれば、動きも滑らかになるはずです。

まだまだ、日常的にできる稽古を探しつつ、また整理していきます。
本当は、本格的な体術と素振りを、日常生活にうまく取り入れたいのだけど。
夏ですな。
とにかく暑い。汗が止まらない。
しかし、鍛錬には最高かもしれない。
考えなくなるから。
意外に汗かくのは気持ちいい。

背腹を詰めるトレーニング。腹だけでなく、背中から詰める。その配合をいろいろ試す。背中からの圧を強めたり、丹田あたりをまっすぐというだけでなく、横腹から詰めるというのもあるし、あるいは上腹、会陰からとか。
眼差しスロー。と呼んでいるトレーニング。主に電車の中でやっている。乗客の中で、相手を決める。一目見たら、あとは凝視せず、心の中で見続ける。近づいたり、遠ざけたり、入り込んだり、触ってみたりする。たまに実際に相手の様子を伺うのはよい。相手と交流している感覚を養う。心眼を鍛えるといってもいいかもしれない。演劇の師は、内的注意のトレーニングと呼んでいた。何やってんだろ、アホらしい、となりがちだが、信じられるかどうかがこのトレーニングの最大の鍵。
掌を伸ばすトレーニング。剣術における手の内を作るために、暇な時は、掌を広げて、手首をあえて曲げにくい方へ伸ばす。剣術では、ネコ手、いわゆる曲げやすい方に手首が曲がっている状態を死に手と言って、厳しく禁じられるが、ネコ手を徹底的に嫌うことで、エネルギーが直に剣に伝わる手の内が作られるという。肩から上腕、手と伸ばすとさらに効果的。できれば、太極拳のように、スローでやりたいが、街中でやると、さすがに怪しすぎる。

1日に行うべきトレーニングを整理したいのですが、まだ莫大にあるので、また書きます。
昨日は、約二か月振りの、舞踏の全体稽古であった。この二か月あまりに、仕事の合間を縫って、剣術に打ち込みつつ、ちょっとした空き時間、駅のホームで電車を待っている時、電車の中で、歩いているときなどに、ちょっとした鍛錬をする、はたまた休みで家にいるときは個人稽古と、身体と向き合うことを今までよりかなり増やした。稽古場に来る人たちは、みんなすごい人たちだし、稽古の感想や、様々な話を聞いていると大変勉強になる。
昨日は、蛇のイメージを使って立つ、というのをやった。形状はよくわからなかったが、僕にとって、蛇のねっとりした動きがなんとなく助けになった。参加者の感想の中に、蛇は足がないから、どうやって立ったらいいか、わからなくなった、というのがあったが、そう言われてみれば、と、目からウロコだった。足がないけど、立つ、という意識は、人間にはない。それは、蛇は立つということではないのかもしれない。このように、人間以外の意識を入れていくことで、身体がもっと濃くなる気がする。
最後にみんなで踊ったときも思ったが、もっと濃くできる、と思った。先生にも言われることが多いが、みせるという意識が邪魔しているのかも。みせたいという気持ちが、時にパワーになると感じるんだけど、そのエネルギーをさらに内面に向け続ける、というかな。簡単に発散しないで、我慢していく先に何かがあるかな。
まだまだですが、最上先生の稽古を始めて、1年半。ようやく劇団にいた時のように、いろいろ思案しながら、稽古に打ち込むことができるようになり、楽しくなってきました。あくまでじっくりですが、きっとまだまだよくなると思います。
稽古後、アイスランドに行く仲間の送別会で飲み(^。^)私は、風邪気味でイマイチでしたが、いろいろと面白い話が。
芸術家とその運命。稼ぎたいけど、なかなかそうはいかない苦悩。しっかりと考えて後日書くとします。
仮面のことに少し触れて、前回のブログは終わったが、そのつづきをそこはかとなく、書いてみる。
仮面ということについて、特に知識があるわけでもないのだけど、最初に言葉として触れたのは、俳優の師である、渡部朋彦さんのワークショップだった。人間は仮面をつけて生きている。当時の僕がかぶっていた仮面は、よっぽど息苦しかったようで、とにかく外したい、そんな思いで感情解放やリピテーションのトレーニングをやっていた。そんな体験もあってからか、仮面をかぶるということは、世の中に従属するような、なんとなくネガティヴなこととして、僕の中に長い間置かれていたような気がする。
しかし、よくよく考えてみると、仮面を完全に外して生きることは難しいし、そもそも、全ての仮面を外すという概念自体がないのではないか。仮面は無限に存在するのだ。俳優の役も、複合的な仮面ではないか。
舞踏を始めてから、お面というモノ、いわゆる小道具だが、たびたび見かけたり、たまにだが、身につけることになった。正直明確な変化を感じたことはないけど、お面との交流を通じて、お面のキャラクターに自分が変化するということがあるのだろうか。会社でも、怒りをこらえざるを得ない時に、怒りのお面をかぶって表現できたら、ユーモラスだな笑
一方、お面は、恐ろしさもある。岡本綺堂の修善寺物語という作品では、面作者、夜叉王が、何度作っても、死相のあるお面しか作れず、悩むが、それは将軍頼家の死を暗示していたという話。俳優の世界でも、役作りに没頭するあまり、役という仮面に食われてしまうこともある。
日常生活でも舞台でも、自由に仮面をかぶったり、外して、別の仮面をかぶったりしたいなあ、と思う。息苦しくなったら、迷わず脱ぎ捨てて、別の仮面を探す。快適な方がいいに決まってる。まだ書き足りない気がするが、とりあえずここまで。

約一年半振りですか。ずいぶん黙っていましたが、久しぶりにブログを書きます。ちょこちょこFACEBOOKやTwitterでつぶやいていましたが、やっぱりしっかり自分の考えを表明するという意味では、ブログじゃないと難しいですね。今までブログをかけなかったのはやっぱり仕事が忙しいとか、めんどくさいとか、もはやキャラじゃないとか、色々あったわけですけど、ああでもない、こうでもないと、ダラダラと(←ここポイント)文章を綴ってみる、しかも、それを人様の前にさらす、ってことは大事だな、という考えに至ったわけでございます。


最近は、仕事がやっぱり一日の大半を占めるわけですが、合間を縫って、舞踏や剣術の稽古をしています。もちろん稽古場での稽古は大事で、できればたくさんやりたいところですが、工夫次第で、日常生活を稽古にできるという確信があるし、実際、劇団にいた時から時間に追われる中でそうしてましたから、そういうものだと思っています。しかし、ただ今の生活を繰り返して耐えていればいい、いつか道が開けると、自分を納得させるのは、嘘だなと思いました。だいぶイライラしているし、人生はやっぱり修行じゃない。やりたいことを思いっきりやる場所だ。やっぱりみんなでつくるってこと、そして公の場で表明するということからは、劇団をやめてから離れてしまっていて、とてもつらいです。昨日、知人の文学音楽イベント行ってきたんですけど、やっぱりああいう場は理屈なしに楽しい。やっぱり芸術へのあこがれは永遠に消え去ることがない。周りにいる人みんなで何か作りたいっすね。


ブログを再開したのも、文章を書く習慣を取り戻そうという試みです。電車の中で、日記はたまに書いているのですが、あれは人に見せるものではない。やはり人様に対して書く文章は、外向きのエネルギーが生まれる。慎重にもなるんだけど、人に伝えようというエネルギーはやっぱりいいね。ブログをこうやって書いていても、身体にビンビン感じる。つまるところ、表現欲求ってやつだ。とにかく出すこと。あきらめないこと。最初は人にわかってもらえなくても気にしないこと。出しているうちにだんだんと繊細になるはずだから。そういう意味では、僕の表現も再構築だ。いろいろ難しいこと学んだけど、何が伝えたいのかってとこはまだまだ曖昧だ。それを明確にするために、文章を書く事ってとても有効だ。前書いていた小説、また書き足してみようか。その小説も表現欲求について書いた。仮面を外して語る、仮面をあえてかぶり、語る。いろいろあるが、とにかくありのままの自分を認め、伝えることは誰にとっても大事なことなのではないだろうか、とそう思う。

昨年末より、舞踏家の最上和子さんから稽古をつけていただく幸運に恵まれている。私は埼玉在住だが、千葉県の稽古場に伺う。最近思うこと。すごい人は、都心から少し離れた郊外にいる。

最上さんのブログ
http://valhallam.blog67.fc2.com

最上さんとの出会いのきっかけとなったご当人作成のブログ。ご自身が追究されていることをここまで言葉にするとはすごい、と心底驚いた。
身体表現、身体そのものを追究する方、一度は目を通して欲しい。
それにしても、初めてブログを拝見したのが、昨年の始め。そのあと、鹿島踊りと出くわすわけだが、今思うと、このブログの出会いから、踊りの世界にひきつけられてたんだな。

今日が私自身、3回目の稽古。正直、今日は、稽古に入る寸前までやる気がおきず、ボロボロだった。
というのも、最上さんの稽古はかなりの集中力を必要とする。寝そべった状態から脱力、そして脱力した状態をキープしつつ、立つという行為に10分、歩く行為に10分、など、とにかく日常よくある所作を、時間をかけて行う。
これがどれだけしんどいか、想像できるだろうか?興味のある人は、ぜひ試して欲しい。おそらく、今日の僕は、日常生活で抱えた焦りを持ち込んで、しまった気がする。それで、こんな状態で集中できるはずない!と思ってしまっていたかも。

今日の最初の立ち稽古で、疲れているね、と、最上さんからも指摘があった。確かに脱力できないことにとても神経質になった。なかなか立つことができないことにイライラもした。
身体は正直だ。日常を反映するのだろうか。

しかし、回を重ねてきたせいか、最上さんからのアドバイスもあって、だんだんと落ち着いてくる。身体は、丁寧に扱うことで、どんどんと練られてくる。身体は、身体を通す天地をつなぐ軸を中心に、その場とともに、立ち上がる。イメージが身体を変化させる。

服を脱ぐ、という所作を時間をかけて、開くというテーマを持ち込んで行う。見たて、と、最上さんは言っていたが、服を脱ぐという行為自体に、何らかの象徴が隠されている。殻を破るとか、皮をめくるとか、そういう設定が付け加えられるだけで、脱ぐ衣服との関係性すら変わってくる。衣服も生きたものに変わる。

言葉では簡単に思えるけど、実際は、
時間がかかる奥の深い世界。僕もまだまだぜんぜんわからない。しかし、だからこそ、面白い、宝の山が眠っている。鹿島踊りの研究にも確実に活かせそうである。また、最上さん、また稽古のメンバーとのちょっとした会話も刺激的で毎回目からウロコが落ちることばかりだ。

劇団では、心を使って演ずることを教わってきたが、精神を酷使した結果、身体が伴わず、結果、故障したのではないか。心身は表裏一体というが、心と身体をゆっくりと結びつけていきたいと思う。
昨日、最近お世話になり始めた大塚にあるマスミスペースで、音羽菊公さんのわざおぎ塾に出て。また、最近お世話になっている最上和子さんのブログを読んで思ったこと。

変身ってことをぼくは難しく考え過ぎていたかも。キーワードは、なりきることを思い切って!誠実に!やりきる!ということ。役割を明確に自覚すること。普段やらないことをやる。歌うとか、最上さんの言うようにアフォーダンスダンスなんて、とても素敵。もちろん高い水準でやるのは、めちゃくちゃ大変なことなんですけど、なりきろうとすることなら誰だってできる。こういう、誰だってできるっていう部分を伝えたいんですね。芸術とか考え過ぎると何かありがたい物にし過ぎて、門外漢が近づきがたいものになる。芸術と言われるものに少なからず関わっている人間に問題がある。もちろん私も含めて。
空になる!ってなったら、四の五の言わず、なってみる。花嫁になる!っていったら、男じゃないからなれないと言わずなってみる。音羽さんの酔っ払いになる話は本当に目からウロコでした。千鳥足で、くねくね歩くんじゃなく、まっすぐ歩こうとするけど、歩けない、というのをやる。そのような状態を心で作る。心は自由なんですね。柔らかくも、硬くもなれる。自由であるということを素直に信じることが大事だと思います。

さあ、今日も踊りながら、歌いながら、外を歩こう。
きっと誰だってできる。警察に気をつけて笑

iPhoneからの投稿
ものすごい雪でしたね。
しかも、今朝は雨、溶けた雪が川のように流れていました。

さて、今日は、京橋にある、東京国立近代美術館フィルムセンターへ行ってきた。
企画は。。。じゃーん^ - ^
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これだけでわかる人は、かなりのマニアですね。

そう、「東京物語」「秋日和」など、たくさんの名作映画を作った、昭和の名監督、小津安二郎監督の展覧会です。
「小津安二郎の図像学」という企画で、近くまで来たので、よってみました。
燕来軒は、「秋刀魚の味」に登場するラーメン屋。東野英次郎が主人、娘が杉村春子という、ある意味すごい店。

作品中に出てくる美術作品、冒頭の作品名、スタッフ、キャスト紹介の画面のデザイン、カット毎に色分けされた演出ノート、作品に出てくる家やお店の写真や部屋割りの図面など、小津監督らしいきめ細かいセンスの光る展示物が多く見られます。

こういうのみると、やっぱり監督とか演出家って、すごいなあと憧れてしまう。日常生活から、衣服とか、食器、インテリアなどなど、生活を彩る細かいところに目が行き届くようになりたい。とはいえ、正直、普通に暮らしているとなかなか難しいのですが、センスのいいカフェ巡りでもしようかな。
あと、小津監督の空間作りのこだわり、例えば、なぜ、このシーンで、絵を飾ったのか、とか、なんでこの色合いなのか、とか、もっというと、俳優の所作との関わりまで細かく観ていきたい。絵とか写真とか、丁寧に見るのもいいかもね。あ、昔やってたな。

そうそう、関わり。関わり。
関わりの中から形象が生まれる。

3月末までやってるようなので、お近くまで行かれたかた、ぜひ足を運んでみてください。

東京国立近代美術館フィルムセンター
http://www.momat.go.jp/fc.html