約一年半振りですか。ずいぶん黙っていましたが、久しぶりにブログを書きます。ちょこちょこFACEBOOKやTwitterでつぶやいていましたが、やっぱりしっかり自分の考えを表明するという意味では、ブログじゃないと難しいですね。今までブログをかけなかったのはやっぱり仕事が忙しいとか、めんどくさいとか、もはやキャラじゃないとか、色々あったわけですけど、ああでもない、こうでもないと、ダラダラと(←ここポイント)文章を綴ってみる、しかも、それを人様の前にさらす、ってことは大事だな、という考えに至ったわけでございます。
最近は、仕事がやっぱり一日の大半を占めるわけですが、合間を縫って、舞踏や剣術の稽古をしています。もちろん稽古場での稽古は大事で、できればたくさんやりたいところですが、工夫次第で、日常生活を稽古にできるという確信があるし、実際、劇団にいた時から時間に追われる中でそうしてましたから、そういうものだと思っています。しかし、ただ今の生活を繰り返して耐えていればいい、いつか道が開けると、自分を納得させるのは、嘘だなと思いました。だいぶイライラしているし、人生はやっぱり修行じゃない。やりたいことを思いっきりやる場所だ。やっぱりみんなでつくるってこと、そして公の場で表明するということからは、劇団をやめてから離れてしまっていて、とてもつらいです。昨日、知人の文学音楽イベント行ってきたんですけど、やっぱりああいう場は理屈なしに楽しい。やっぱり芸術へのあこがれは永遠に消え去ることがない。周りにいる人みんなで何か作りたいっすね。
ブログを再開したのも、文章を書く習慣を取り戻そうという試みです。電車の中で、日記はたまに書いているのですが、あれは人に見せるものではない。やはり人様に対して書く文章は、外向きのエネルギーが生まれる。慎重にもなるんだけど、人に伝えようというエネルギーはやっぱりいいね。ブログをこうやって書いていても、身体にビンビン感じる。つまるところ、表現欲求ってやつだ。とにかく出すこと。あきらめないこと。最初は人にわかってもらえなくても気にしないこと。出しているうちにだんだんと繊細になるはずだから。そういう意味では、僕の表現も再構築だ。いろいろ難しいこと学んだけど、何が伝えたいのかってとこはまだまだ曖昧だ。それを明確にするために、文章を書く事ってとても有効だ。前書いていた小説、また書き足してみようか。その小説も表現欲求について書いた。仮面を外して語る、仮面をあえてかぶり、語る。いろいろあるが、とにかくありのままの自分を認め、伝えることは誰にとっても大事なことなのではないだろうか、とそう思う。
最上さんのブログ
http://valhallam.blog67.fc2.com
最上さんとの出会いのきっかけとなったご当人作成のブログ。ご自身が追究されていることをここまで言葉にするとはすごい、と心底驚いた。
身体表現、身体そのものを追究する方、一度は目を通して欲しい。
それにしても、初めてブログを拝見したのが、昨年の始め。そのあと、鹿島踊りと出くわすわけだが、今思うと、このブログの出会いから、踊りの世界にひきつけられてたんだな。
今日が私自身、3回目の稽古。正直、今日は、稽古に入る寸前までやる気がおきず、ボロボロだった。
というのも、最上さんの稽古はかなりの集中力を必要とする。寝そべった状態から脱力、そして脱力した状態をキープしつつ、立つという行為に10分、歩く行為に10分、など、とにかく日常よくある所作を、時間をかけて行う。
これがどれだけしんどいか、想像できるだろうか?興味のある人は、ぜひ試して欲しい。おそらく、今日の僕は、日常生活で抱えた焦りを持ち込んで、しまった気がする。それで、こんな状態で集中できるはずない!と思ってしまっていたかも。
今日の最初の立ち稽古で、疲れているね、と、最上さんからも指摘があった。確かに脱力できないことにとても神経質になった。なかなか立つことができないことにイライラもした。
身体は正直だ。日常を反映するのだろうか。
しかし、回を重ねてきたせいか、最上さんからのアドバイスもあって、だんだんと落ち着いてくる。身体は、丁寧に扱うことで、どんどんと練られてくる。身体は、身体を通す天地をつなぐ軸を中心に、その場とともに、立ち上がる。イメージが身体を変化させる。
服を脱ぐ、という所作を時間をかけて、開くというテーマを持ち込んで行う。見たて、と、最上さんは言っていたが、服を脱ぐという行為自体に、何らかの象徴が隠されている。殻を破るとか、皮をめくるとか、そういう設定が付け加えられるだけで、脱ぐ衣服との関係性すら変わってくる。衣服も生きたものに変わる。
言葉では簡単に思えるけど、実際は、
時間がかかる奥の深い世界。僕もまだまだぜんぜんわからない。しかし、だからこそ、面白い、宝の山が眠っている。鹿島踊りの研究にも確実に活かせそうである。また、最上さん、また稽古のメンバーとのちょっとした会話も刺激的で毎回目からウロコが落ちることばかりだ。
劇団では、心を使って演ずることを教わってきたが、精神を酷使した結果、身体が伴わず、結果、故障したのではないか。心身は表裏一体というが、心と身体をゆっくりと結びつけていきたいと思う。
変身ってことをぼくは難しく考え過ぎていたかも。キーワードは、なりきることを思い切って!誠実に!やりきる!ということ。役割を明確に自覚すること。普段やらないことをやる。歌うとか、最上さんの言うようにアフォーダンスダンスなんて、とても素敵。もちろん高い水準でやるのは、めちゃくちゃ大変なことなんですけど、なりきろうとすることなら誰だってできる。こういう、誰だってできるっていう部分を伝えたいんですね。芸術とか考え過ぎると何かありがたい物にし過ぎて、門外漢が近づきがたいものになる。芸術と言われるものに少なからず関わっている人間に問題がある。もちろん私も含めて。
空になる!ってなったら、四の五の言わず、なってみる。花嫁になる!っていったら、男じゃないからなれないと言わずなってみる。音羽さんの酔っ払いになる話は本当に目からウロコでした。千鳥足で、くねくね歩くんじゃなく、まっすぐ歩こうとするけど、歩けない、というのをやる。そのような状態を心で作る。心は自由なんですね。柔らかくも、硬くもなれる。自由であるということを素直に信じることが大事だと思います。
さあ、今日も踊りながら、歌いながら、外を歩こう。
きっと誰だってできる。警察に気をつけて笑
iPhoneからの投稿
しかも、今朝は雨、溶けた雪が川のように流れていました。
さて、今日は、京橋にある、東京国立近代美術館フィルムセンターへ行ってきた。
企画は。。。じゃーん^ - ^
これだけでわかる人は、かなりのマニアですね。
そう、「東京物語」「秋日和」など、たくさんの名作映画を作った、昭和の名監督、小津安二郎監督の展覧会です。
「小津安二郎の図像学」という企画で、近くまで来たので、よってみました。
燕来軒は、「秋刀魚の味」に登場するラーメン屋。東野英次郎が主人、娘が杉村春子という、ある意味すごい店。
作品中に出てくる美術作品、冒頭の作品名、スタッフ、キャスト紹介の画面のデザイン、カット毎に色分けされた演出ノート、作品に出てくる家やお店の写真や部屋割りの図面など、小津監督らしいきめ細かいセンスの光る展示物が多く見られます。
こういうのみると、やっぱり監督とか演出家って、すごいなあと憧れてしまう。日常生活から、衣服とか、食器、インテリアなどなど、生活を彩る細かいところに目が行き届くようになりたい。とはいえ、正直、普通に暮らしているとなかなか難しいのですが、センスのいいカフェ巡りでもしようかな。
あと、小津監督の空間作りのこだわり、例えば、なぜ、このシーンで、絵を飾ったのか、とか、なんでこの色合いなのか、とか、もっというと、俳優の所作との関わりまで細かく観ていきたい。絵とか写真とか、丁寧に見るのもいいかもね。あ、昔やってたな。
そうそう、関わり。関わり。
関わりの中から形象が生まれる。
3月末までやってるようなので、お近くまで行かれたかた、ぜひ足を運んでみてください。
東京国立近代美術館フィルムセンター
http://www.momat.go.jp/fc.html
