『神曲』煉獄登山55.ドナーティ家の親友フォレーゼと怨敵コルソ | この世は舞台、人生は登場

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   『神曲』は、『地獄篇』、『煉獄篇』そして『天国篇』の三部構成になっています。さらに、それぞれの構造もその中の場所に従って細かく分かれています。そして、それぞれの場所に、その場所を解説する役割を担った登場人物が配置されています。たとえば、『地獄篇』では多くの場所は先達ウェルギリウスによって説明されますが、第2圏谷のフランチェスカ第3圏谷のチアッコ第6圏谷のファリナータ・デリ・ウベルティ第7圏谷第2円のピエール・デッラ・ヴィーニャ、同じく第3円のブルネット・ラティーノなどが有名です。

 

 

    『神曲』に収められている『地獄篇』、『煉獄篇』そして『天国篇』の三篇の作品の特徴を、エリオット(T.S.Eliot)の言葉を借用して簡潔に纏めてみましょう。最初に収められている『地獄篇』は、作品全体が寓意(allegory)に満ちていて明晰な視覚的影像(clear visual images)で構成されています。それゆえに、『地獄篇』は物語の展開それ自体を楽しむことができます。一方、次の『煉獄篇』は、「哲学的命題を直接的に記述した(a straightforward philosophical statement)」場面が多く、また最後の『天国篇』は「徐々に純化して現実世界から離れていく至福の状態(more and more rarefied and remote states of beatitude)」を描いています。それゆえに、物語の展開が「絶え間なく移り変わる走馬燈のごとき光景(the continuous phantasmagoria of the Inferno)」である『地獄篇』とは異なり、他の二篇は哲学的記述(philosophical expositions)が多いために、それぞれの場所での説明役の重要性が増大することになります。煉獄第6環道の説明役を担当するのは、フォレーゼという名の霊魂です。

 

 

   煉獄第6環道の霊魂たちは、生前に犯した貪食・美食の罪を浄化しているために、目が黒くかすんで凹んでいて、顔は青白く、余りにも衰弱していて、皮膚が骨格のままの形をしていました。それゆえに、彼らのどの顔も、みな「宝石のない指環anella sanza gemme煉獄篇23歌31」の形をしていて、Mの文字の中にOの文字を二つ挿入しただけの容貌をしていましたので、生前の姿を知ることができませんでした。その霊魂たちの中から、親しみを込めて近寄ってきたフォレーゼという親友も、生前の姿とはあまりにも変わっていたので分かりませんでした。しかし、次のように声を聞いて初めて彼だと分かりました。

 

   その顔だけ見てもわかりようはなかったが、その声を聞いた時に、私には表情から消え失せていたものが、はっきりとわかった。この〔声という〕火花が、変わりはてた容貌(ようぼう)の思い出に火を点じた。そしてフォレーゼの面影がありありと浮かんできた。 (『煉獄篇』第23歌 43~48、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   私は、顔においてだけなら、決して彼を識別できなかったであろう。しかし、彼の声の中で彼は私に明瞭になった。声とは、彼の中で顔の表情が覆い隠していたものである。この強烈な光(=声)は、変わり果てた姿とのすべての私の交友の知識に再び火を着けた。そして、私はフォレーゼの顔を認知した。

 

   上の詩句は難解な表現にはなっていますが、簡潔に言えば、フォレーゼがあまりにも変わり果てていたので、顔立ちだけでは識別できなかったが、声を聞いて彼だと分かった、と言っているのです。その説明役として登場してきた霊魂フォレーゼとは、ダンテの親友だったフォレーゼ・ドナーティ(Forese Donati)のことです。その家族名が示すようにフィレンツェの名家「ドナーティ家」の人間でした。ダンテにとっては、彼の妻ジェンマ(Gemma Donati)がドナーティ一族の出身なので、フォレーゼとは妻を通じた縁で義理の従弟にあたります。若い時の二人は悪友で、ダンテもジェンマとの間に子供がいるにもかかわらず、放蕩三昧をしていたと言われています。ダンテは、フォレーゼのことを彼のニックネーム「若い方のビッチ(Bicci novello)」で呼んでいたようですが、その由来は明らかではありません。イタリア版「ウィキペディア」によれば、彼の父方の祖父と同名であり、さらにニックネームも同じであったので、区別をするために「若い方の(novello)」という修飾語がつけられたと言われています。フォレーゼは、異常な食いしん坊であったようです。ダンテの青年の頃に書いた『詩集Le Rime)』の中で、フォレーゼのことを「貪食のために多くの財産を費やしていたper la gola tanta roba hai messa28:3」(hai messa はmettere「費やす」の近過去2人称単数)と言っています。ダンテがフォレーゼを煉獄第6環道に登場させているところから推測されるように、生前の彼は大食のために肥満体であったことでしょう。そのために、煉獄で出会ったフォレーゼは骨と皮だけの激痩せ状態だったので、見わけがつかなかったのです。フォレーゼの余りの変わりように、ダンテは驚いて凝視していると、彼は次のように訴えました。

 

   「ああそう見つめないでくれ」と彼がいった、「僕は肌の色も失せた。これは乾性の瘡(かさ)だ。肉も痩せさらばえたこの身だ。 (『煉獄篇』第23歌 49~51、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   お願いだから、注視を払わないでくれ、私の皮膚を変色させている乾燥肌の疥癬に対しても、私が持っているはずの肉体の欠損に対しても(注意を払わないでくれ)。

 

   煉獄を巡礼するダンテがフォレーゼに対して最も驚きを感じたのは、肥満体であった彼が骨と皮だけになっていることだけではありませんでした。煉獄の巡礼者にとって第6環道の霊魂たちが激痩せしていることは想定内であったはずです。それよりもむしろ不思議であったのは、ダンテたちが第6環道にいると想定されている1300年4月12日の時点に、およそまだ4年前の1296年7月28日に死んだはずのフォレーゼと出会ったことでした。そこで、ダンテは、フォレーゼに次のように尋ねました。

 

   そこで私がいった、「フォレーゼ、君が世を変えて、より良い生にはいった日から算(かぞ)えて今日までまだ五年と経(た)っていない。罪をそれ以上犯す力が君から消えて失せたには、たしか人が神とまた結ばれる良い憂いの間際のことだった。だとするとどうしてはや君はこの上まで来たのか? (『煉獄篇』第23歌 76~82、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   そして、私は彼にこう言った》フォレーゼよ、君がより優れた生命(煉獄)に向けて(現世から)世界を変えたとことのあの日(臨終の日)から、この時点までに5年も経過していない。私たちを神に再び結び付けるところの良い苦痛の時間(臨終)が起こる前に、たとえもっと多くの罪を犯すという力が君の中で終わっていた(懺悔をしていた)としても、なぜに君はもう(5年ぽっきりで)こんな上(煉獄第6環道)に来ているのか?

 

 

 

浄罪の異例な早さ

 

   ダンテは、フォレーゼが死んでから煉獄第6環道に到達するのに「5年も経過していないcinq’ anni non son vòlti)」と言っています。ダンテにとっては「5年」とは煉獄の年暦を算える最小単位だったかも知れません。正確には、1296年7月28日に死去したフォレーゼが1300年4月12日の時点に第6環道にいるのですから、滞在年月はまだ3年と8ヶ月ほどしか経過していないことになります。それなのに「君はもうこんな上に来ているse’ tu qua sù venuto ancora)」と、ダンテは驚いています。死んでから5年足らずで煉獄第6環道まで到達していることが、いかに驚くべき早さかということかを見ておきましょう。

   ダンテとウェルギリウスは、煉獄巡礼の途中の第5環道から第6環道へ抜ける坂道で、浪費の罪を浄め終えたばかりのスタティウスに出会いました。そのローマ詩人はウェルギリウスの次世代の人間で、彼が現世を去って煉獄に来たのが紀元後96年頃です。ということは、300年4月12日の時点で煉獄第6環道にいるスタティウスは1200年以上も浄罪の旅を続けていることになります。その長さからすれば、同じ場所にいるフォレーゼがまだ「5年も経っていない」のですから、巡礼者ダンテが驚くのも無理からぬことです。

   煉獄前域で、ダンテは、神聖ローマ皇帝の子でシチリア王マンフレーディと出会いました。その王は、次のように証言していました。

 

   聖なる教会から破門されて死んだ人は、たとえ末期に前非を悔いたとしても、不遜に過ごした時の30倍の時を山の外れのこの谷で過ごさねばならぬというのは事実だ、善良な人々の祈りで、この掟の時間が短縮されれば別だが。(『煉獄篇』第3歌136~141、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   聖なる教会からの破門の状態で死ぬ者は誰であろうとも、たとえ死の間際に悔い改めようとも、人がその人の慢心の状態であったそれぞれの期間の30倍、ここの断崖(壁)の外側に留まらなければならない、と言うことは真実である、もし、そのような掟が、善良な人の祈りによって短くなることがなければ。

 

   上の詩句の数字「30倍」を単純に当てはめれば、50歳まで生きて七つの罪をフルコースで犯したが、辛うじて地獄落ちは免れて煉獄に来ることが許された霊魂がいたと仮定します。そのような人間が現世で罪を犯した(=生きた)年数50年を30倍しますと、それぞれの環道に1500年ずついることになります。そしてさらに、煉獄前域を加えた八つの環道でそれぞれ1500年ずつ浄罪期間を過ごせば、浄罪完了までに最短で12000年掛かることになります。しかし、そのような計算に該当するような罪深い人間は、煉獄には来ることができずに地獄で永遠の拷問を受けていることになっているでしょう。

   おそらく煉獄を通過しないで、直接、天国へ昇ったであろうと推測される霊魂もいます。聖母マリア、ベアトリーチェ、聖ピエトロ、聖パオロなどの聖人たちは、煉獄を通らないで天国へ昇った、と言うことになるでしょう。また、辺獄に幽閉されていたノアやモーセ、族長のアブラハムやダビデ王など旧約聖書の聖人たちも、十字架刑の死によって人間の原罪を贖うことに成功したキリストによる辺獄下降によって、直接、天国へ連れ出されたことになります。

 

   スタティウスの浄罪期間とまでは言わないのですが、煉獄における罪の浄化には非常に長い年月が掛かります。先出したフォレーゼの場合のように「5年足らず」で第6環道まで昇ることができたのは異例のことなのです。それゆえに、それほど立派でもなかったフォレーゼが煉獄の高い場所まで昇っているのをみて、次のように驚いています。

 

   君はあの〔現世の〕時と同じだけの時を償(つぐな)いのために送らねばならぬ下の麓(ふもと)の方にいると僕は思っていた。 (『煉獄篇』第23歌 83~84、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   時間が時間によって弁償されるところの、ここより下層部で、私は君に会うものだと思っていた。

 

   罪を犯した時間に応じてその時間だけ償う所とは煉獄のことでしょう。そして、その「下層部sotto)」とは第6環道よりも下の環道のことで、さらに「その下方の場所là giù)」とは、煉獄の最下層部すなわち煉獄前域(Antipurgatorio)を意味しているのでしょう。前述したように、モンタネッリ著『ルネサンスの歴史』によれば、若い頃のダンテとフォレーゼは悪友で、ふたり連んで放蕩の限りを尽くしていたと言われています。ダンテは、この『神曲』を次のように書き始めました。

 

   私たちの人生という旅路の半ばで、私は、気が付くと、正しき道が見失われてしまう迷いの森の中にいた。 (『地獄編』第1歌1~3、筆者訳)

〔原文解析〕

 

 

   ダンテは「正しき道が見失われていたla diritta via era smarrita)」と言っていますが、その出来事は、幻想的な作品を書き上げようとした詩的虚構ではなかったのです。まさしくそれは、ダンテ自身の放蕩生活のことが念頭にあったのかも知れません。そして、その正しき道を見失っていた堕落生活を回心したのは、ウェルギリウスに先導されて地獄を巡り煉獄登山を終えて罪の浄化を終えた時であった、ということです。それは、ダンテの生年月日から推測しますと1300年4月13日で、彼の35歳の時になります。それは、悪友フォレーゼが亡くなって4年足らずの年でした。正確には、フォレーゼが死去したのは1296年7月28日なので、彼は、ダンテよりもずいぶん早く放蕩生活を回心したことになります。そのことは詩的虚構だと読み流しておきましょう。

   以上のような詩的矛盾はさておき、巡礼者ダンテは、死んで5年も経っていないフォレーゼなので、まだ煉獄前域で登山を待機しているものだと思っていたのです。そこで、そんなにも早い煉獄登山の理由を尋ねると、フォレーゼは次のように答えました。

 

   僕の妻のネラが涙して祈り、僕にすぐ呵責(かしゃく)の甘い苦酒(にがざけ)を飲ませるために、こうしてここへ連れて来てくれた。敬虔(けいけん)な祈祷(きとう)と嘆息とでもって彼女は僕を予定されていた場所から連れ出し、他の環道も通り越して、上へ僕を引きあげてくれた。僕がこよなく愛した妻は、ただ一人善行を施している。それが類(たぐ)い稀(まれ)なだけに、神の御意(ぎょい)にかない、神に愛でられているのだ。 (『煉獄篇』第23歌 85~93、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   かくのごとく、私のあのネラは、沢山の涙を止めどなく流して、私を敏速に導いてこの苦痛の甘く苦い酒を飲ませた。彼女(妻)の信心深い祈りと嘆願によって、彼女は人々が待機している坂道から私を連れ出して、(この第6環道の)他の(第1から第5の)環道から私を救い出した。私がこの上なく愛した私の未亡人は、良い振る舞いにおいて唯一無二であるので、神にこの上なく愛されて、またこの上なく愛おしく思われている。

 

   聖人でも偉人でもない大飯食いのフォレーゼが、普通の霊魂ならば何百年もかかる浄罪を5日足らずで終えることができたのは、彼の賢妻ネルラの「信心深い祈りと嘆願con suoi prieghi devoti e con sospiri)」の賜物でした。すなわち、煉獄界の中で現世の罪を浄化している霊魂たちにとって、浄罪の長さと苦しみを軽減してくれるものは、現世の者たちの祈りの力なのです。それゆえに、煉獄にいる霊魂たちのことを「浄罪が早くなるように現世の者が祈ってくれることをひたすら懇願していた霊魂たち(原文は下に添付)」と表現しているのです。

 

 

   また、煉獄前域でファーノ市国の貴族でボローニャの行政長官(podestà)でもあったヤコポ・デル・カッセロ (Jacopo del Cassero)の霊魂の霊魂に出会いましたが、彼からも次のように現世の者たちへの依頼を受けました。

 

  どうかファーノの市(まち)で皆に鄭重(ていちょう)に頼んで、私がこの重い罪を浄めることのできるように、私のために祈りをあげてもらうよう取り計らってくれないか。 (『煉獄篇』第5歌70~72、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   あなたは私のために、ファーノではあなた自身で懇願するのを惜しまないでください。私のために十分に祈りをするようにと(懇願してくれ)、そうすれば私は重い罪を浄化することができるだろう。

 

   霊魂のヤコポは、ダンテが生きて現世に帰ることを知って、煉獄での浄罪が早く終えることができるように、「私のために礼拝してくれper me si adori)」というファーノの市民へ伝言をダンテに依頼しています。すなわち、煉獄の霊魂たちは、浄罪が早くなるように現世の者が祈ってくれることをひたすら懇願しているのです。そして、フォレーゼの場合は、その懇願が成就した状態なのです。彼は、妻ネラの信心深い祈りと嘆願のお陰で、何百年も掛かる煉獄の浄罪を5年足らずで終えることができたということになるのです。

 

 

フォレーゼの妹ピッカルダ・ドナーティ

 

   フォレーゼは、フィレンツェの名門ドナーティ家に、父シモーネ(Simone Donati)と母コンテッサ(ContessaまたはTessa)との間に生まれました。兄はフィレンツェを支配したコルソ・ドナーティ(Corso Donati)で、妹は『天国篇』の中の第1天である「月光天」の主役に抜擢されたピッカルダ・ドナーティ(Piccarda Donati)でした。前述しましたように、ダンテにとっては、彼の妻ジェンマ(Gemma Donati)がドナーティ家の出身なので、フォレーゼとは妻を通じて遠縁にあたりました。ピッカルダは、誕生日も没年月日も不明です。しかし、ダンテがフォレーゼに「ピッカルダはどこにいるdov’ è Piccarda)」と尋ねているので、1300年の4月の時点には現世を去っていることは確かです。それゆえに、ダンテの質問に対して、フォレーゼはピッカルダのことを次のように話しています。

 

   僕の妹は、美人といおうか善人といおうか言葉に迷うが、いまではもうオリュンポスの高みで、冠(かんむり)を戴いて嬉々(きき)として勝ちほこっている。 (『煉獄篇』第24歌 13~15、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   私の妹は、美人と言った方が良いのか、善人と言った方が良いのか、どちらであるのか私には分からないが、今では彼女は冠をかぶって高いオリュムポス山の中で幸せに勝ち誇っている。

 

   フォレーゼは、ピッカルダが「高いオリュムポスの中ne l’ alto Olimpo)」にいる、と答えています。言うまでもなく、オリュムポスとはギリシア神話の神々がその山頂に住んでいるとされた山です。ここでは、天国を意味していることは確かですが、異教の山であることは否定できません。「オリュムポス」という山の名称は、『神曲』の中でもこの個所以外では使われていませんので、天国全体を指すのか、それともピッカルダのいる月光天だけを指すのか、その正確な意味を判断することは不可能です。たとえ比喩的であるとしても、キリスト教的な事物を異教的な名称で喩えることは、極めて稀なことです。たとえば、ダンテの詩想の中には、ウェルギリウスの『アエネイス』の中で使われている次のような「オリュムポス」のイメージが蓄積されていたことでしょう。

 

   これらのことは神の意志なくしては起こらない。また、汝がここからクレウーサを同伴して連れて行くことを、いと高いオリュムポス山のあの王は、神意として許さない。(ウェルギリウス『アエネイス』第2巻 777~778、筆者訳)

〔原文解析〕

   上の詩行の中の「オリュムポス」を「天国」、そこの「王」を「イエス」および「父なる神」と置き換えて解釈することができます。そして、ピッカルダは、修道院に入っていたところを兄コルソ・ドナーティによって無理矢理に還俗させられて、ロッセリーノ・デッラ・トーサ(Rossellino Della Tosa)と政略結婚させられました。しかし早世だったので、1300年4月の時にはすでに天国に昇天していることになります。彼女については、私のこのブログ・エッセイが天国の月光天に昇ったときに詳しく見ることにしましょう。兄のフォレーゼが「美人で人柄も良いbella e buona)」と褒めているので、ピッカルダに逢うのを楽しみにしましょう。

 

フォレーゼの兄コルソ・ドナーティ

 

  コルソ・ドナーティは、フィレンツェを支配したドナーティ家の領袖として、絶大な権力を持っていました。前述したように、ダンテは妻ジェンマがコルソの従姉妹になるので、家族ぐるみの交友があったようです。前で見たフォレーゼともピッカルダともきわめて友好的な関係であったことは、『神曲』の中の描き方で容易に推測できます。しかし、ドナーティ家の中でも、コルソだけはダンテにとっては不倶戴天の敵になりました。ダンテとコルソとのライバル関係を知るためには、彼らが生まれる前まで遡らなければなりません。とくにその二人の運命を変えたのは「カンパルディーノの戦い(Battaglia di Campaldino)」でした。

 

 

天下分け目のカンパルディーノの戦い

 

カンパルディーノの戦い地図

 

 1216年頃のフィレンツェは、神聖ローマ皇帝に共鳴するギベリーニ(Ghibellini)党とローマ教皇に親近感を持つグェルフィ(Guelfi)党の二派に分かれた対立が先鋭化してきました。そして長い間、両勢力が交互に勝敗を繰り返し、ギベリーニ党の党首であったファリナータは、1248年の政争では勝利をおさめて、グェルフィ党員をフィレンツェから追放しました。しかし数年後にはグェルフィ党は復活して、1258年には、逆にギベリーニ党が追放されることになり、党首のファリナータはシエーナに亡命することになりました。ところが、1260年9月4日、モンタペルティの平原で、シエーナ軍(ギベリーニ党)20,000人とフィレンツェ軍(グェルフィ党)35,000人との間に熾烈な「モンタペルティの戦い(La battaglia di Montaperti)」がありました。兵の数ではフィレンツェ軍が圧倒的に優位でしたが、シエーナ軍が勝利をおさめました。ファリナータは、再びフィレンツェに戻って来て、有力なグェルフィ党の名門家はすべて追放し、ギベリーニ党の独裁を確立しました。ところがまた、1264年、ファリナータが逝去すると、今度は、グェルフィ党が政権を略取することに成功しました。以上のようにフィレンツェの国の内外で、長い間、両勢力の政権の奪い合いが続きました。その両陣営の権力闘争に完全に決着がついたのは、1289年のカンパルディーノの戦いでした。

 フィレンツェ共和国は、イタリア全土に及ぶグェルフィ(教皇派)都市連合の中心国になっていました。次々とギベリーニ(皇帝派)都市国家は、教皇派に吸収されました。最後に残った国はアレッツォ自治国だけになりました。その国は、武闘派司教ウベルティーニ(Guglielmino degli Ubertini)によって統治されていました。そして勢力を弱めたギベリーニ党支持者たちが最後の牙城としてアレッツォへ集結してきました。

   1289年6月2日、シチリア・ナポリ王シャルル・ダンジュー(Charles d'Anjou、1227~1285:イタリア名、カルロ1世ダンジョ)のフランス時代からの腹心の部下アメリーゴ・ディ・ナルボーナ(Amerigo di Narbona)を総大将として、フィレンツェ軍を主力に、シエナやルッカやピストイアやプラートからの援軍を加えた総勢11,900人のグェルフィ軍が、アレッツォへ向けて進軍しました。そして6月11日、アルノ川の上流カセンティーノ(Casentino)渓谷に広がるカンパルディーノ平原で、総勢10,800人のアレッツォ軍が迎え撃ちました。しかし、その戦いは一日で決着がついて、フィレンツェ・グェルフィ軍が勝利をおさめました。そして、ギベリーニ(皇帝派)は、総大将のウベルティーニも戦死し、二度と勢力を挽回することができず、壊滅しました。『煉獄篇』第5歌の中心人物として描いているボンコンテ・ダ・モンテフェルトロ(Bonconte da Montefeltro)は、アレッツォ軍に味方して、その指揮官として戦いましたが戦死しています。

 

白党と黒党の内乱

教皇派と皇帝派の権力闘争は教皇派の圧勝で決着が着いたので、これでフィレンツェにも平和が訪れるかと思われました。ところが、支配権を手に入れた教皇派グェルフィ党内に存在していた市民富裕層の支持を受けた白党(Guelfi Bianchi)と教皇との結びつきを重視する貴族たちの支持を受けた黒党(Guelfi Neri ))の対立が先鋭化してきました。そして、土地の有力な二大門閥のドナーティ家のコルソ(Corso Donati)が黒党を、チュルキ(Cerchi)家のヴィエーリ(Vieri de' Cerchi)が白党を率いるようになり、支配権争いが複雑化してきました。ダンテは、妻ジェンマが党首コルソの従妹でした黒党に入るように思われましたが、彼とは気が合わなかったので白党に所属したと言われています。しかし、結果としてローマ教皇ボニファティウス8世とフランス王の弟カルロ・ド・ヴァロアの助けを受けた黒党のクーデターによって、ダンテは失脚しました。そして、死刑宣告を受けたので祖国を脱出して永遠の流浪の旅に出ました。

 

 

   コルソ・ドナーティは、黒党の党首としてフィレンツェ共和国の権力を掌握しました。しかし、コルソの独裁を好まない貴族や有力市民が彼に反旗をひるがえしました。皮肉にもその首謀者は、妹ピッカルダの夫すなわち義理の弟ロッセリーノだと言われています。そして、コルソの末期の模様は、ダンテと同時代の歴史家で、共にフィレンツェの行政長官(プリオーレ、Priore)を務めたジョヴァンニ・ヴィルラーニ(Giovanni Villani、1276頃~1348)が『新年代記(Nuova Cronica)』(第8巻96章)の中で記述しています。その箇所は、平川祐弘先生が自身の翻訳本に「訳注」として、次のように添付されていますので、そのまま引用しておきます。

 

   彼はただ一人で逃げ出したが、ロヴェッツァーノの近くで馬で追って来たカタラーニ某の一隊に捕まった。彼は連行されてサン・サルヴィの坂に来た時、逃がしてくれれば沢山金をやると一行に懇願したが、彼らが上司に命ぜられた通り彼をフィレンツェへ連行しようとしたので、コルソは敵の手中に落ちて人民裁判にかけられることを恐れ、わざと馬から落ちた。すると上記のカタラーニ家の一人が地上に落ちた彼の喉に槍で致命的な一撃を加え、そこへそのまま死体を遺棄した。サン・サルヴィの坊さんが彼を寺へかつぎこんで、翌日葬ったが、当局をはばかって式もごく内輪ですませた。〔平川祐弘訳〕 

 

『コルソ・ドナーティの最期』(ジョヴァンニ・ヴィルラーニの『新年代記』に挿入された細密画)

 

   『天国篇』はいうまでもなく『煉獄篇』も、また『地獄篇』でさえも、『神曲』の登場人物はみな「予言能力」を持っています。しかも、的中率は百発百中です。巡礼者ダンテが『神曲』の中で旅を行っている物語上の年月は1300年4月の復活祭のことで、しかし実際にその場面を創作し始めたのは、早くても亡命地をルニジアーナに求めた数年後の1306年から1307年のことでしょう。ダンテが1302年1月27日に死刑宣告を受けてフィレンツェを出奔した後に、ダンテ家は打ち壊しになりました。その時に、妻ジェンマによって保存されていた『地獄篇』冒頭7歌の原稿が、ルニジアーナに亡命中のダンテの手元に届きました。その時が『神曲』の書き始めではないにしても、創作を続けようとした引き金にはなったことでしょう。安息と終焉の地ラヴェンナに身を寄せた時には『地獄篇』を完成・出版させていて、世間にダンテの名声は知られていたようです。

 

ダンテ流浪の道筋

 

 

  以上のことから、地獄・煉獄・天国の三界での出来事は、1300年4月に行われたので、それ以前に起こった出来事は歴史的事実として描かれ、それより後に起こった事は予言として語られます。それはまさしく起こってしまったことを予言するのですから、ダンテの知識不足さえなければ的中率は百発百中です。

  ドナーティ家の三兄弟妹の中で、『神曲』執筆時には、フォレーゼとピッカルダはすでに亡くなっていることが分かります。しかし、ダンテを失脚させた張本人コルソは、まだ煉獄滞在中は生存していたので、彼の死は予言の形式を採って、弟フォレーゼによって次のように語られています。

 

   では行きたまえ、僕には見える、罪が消えることのない谷間の方へ向かってその破滅の最高責任者が獣(けだもの)の尾に括(くく)られ引(ひ)き摺(ず)られてゆくのが。獣は一歩ごとに歩を速め、速さを増し、男を散々叩(たた)きのめした挙句、醜悪に変わりはてた死体を捨ててゆく。(『煉獄篇』第24歌 82~87、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕 

   さあ、行きなさい。なぜならば、そのこと(フィレンツェの破壊)についてさらにもっと重い過ちの責任を持っているところのあの人が、決して身の証を立てることのない圏谷の方へ、一匹の野獣の尻尾で引きずられて行くのが、私には見える。その野獣は、一歩一歩だんだんと歩みを早くして、絶えず増大して、その男を殴打してむごたらしくバラバラに引き裂いた胴体を放置する。

 

   「そのことについて最も重い責任を持つものquei che più n’ ha colpa)」すなわち「フィレンツェを崩壊させた張本人」は、史実的にはローマ教皇ボニファティウス8世ヴァロア伯カルロだと言えます。しかし、ダンテ個人にとっては、コルソ・ドナーティこそが不倶戴天の敵でした。おそらく、ダンテの死刑宣告に深くかかわっていたのはコルソだったかも知れません。煉獄登山が設定されている1300年という年のダンテは、フィレンツェの行政長官(プリオーレ:priore)に選出されて、政治家としての全盛期でした。しかし、それからおよそ1年半後に失脚して亡命生活を余儀なくされました。その後にフィレンツェを独裁したのがコルソでした。しかし、彼も失脚して悲惨な最期を遂げたのですが、そのことを彼の弟フォレーゼは予言して述べているのです。

   弟の予言によれば、兄コルソは「決して身の証を立てることのない谷la valle ove mai non si scolpa)」へ落ちることになります。それが地獄であることは容易に推測できます。煉獄であるならば、「谷」ではなく「」と表現するでしょう。また、煉獄は「身の証を立てる所ove si scolpa)」すなわち「現世の罪を浄罪する所」なのです。

   『煉獄篇』では、コルソを殺した「獣(la bestia)」が「馬」であることは、共通の解釈です。そして、彼は落馬したあと、馬に引きずられたあげく、蹴られて死んだことになります。しかし、先述したヴィルラーニの『新年代記』に書かれていたことが史実であるならば、コルソは、彼の義理の父親でピサ、ルッカ、フォルリ、アレッツォなどの行政長官を歴任した皇帝派のウグチョーノ(Uguccione della Faggiola)と結託して政権を独裁しようとしました。それを嫌ったフィレンツェの貴族と上級市民は、彼の館を襲撃しました。コルソは、徒歩で東郊外ロヴェッツァーノ(Rovezzano)まで逃れましたが、遂にカタロニア兵に捕らえられて、その中の一人の兵によって喉を刺さされて命を落としました。現在のスペイン北東部の地中海岸に存在していたカタロニア国の兵士がコルソ暗殺事件に登場する理由は説明されてはいませんが、第11代フランス国王フィリップ4世弟ヴァロア伯カルロのフィレンツェ侵攻と何らかの関係があるのかも知れません。

 

   ドナーティ殺害事件に関して、ダンテの落馬説が正しいのでしょうか。それとも、ヴィルラーニのカタロニア兵による殺害説が正しいのでしょうか。どうみても、ダンテの方が不利なのは火を見るより明らかでしょう。その殺害事件が起こった時、ダンテはフィレンツェから遠く離れた亡命の国にいました。しかし一方、ヴィルラーニの方は、フィレンツェにいて殺害の情報に直に接しているはずだからです。ダンテのもとに届くまでに、色々な変形や脚色がなされたことでしょう。ダンテは、その歪んだ情報に基づいてフォレーゼに予言させているのです。

 

このブログの主な参考文献:

チャールズ・シングルトン編注の『神曲:煉獄篇』のテキストおよび注釈書(プリンストン大学出版)です。

原文: C.S. Singleton(ed.) “Purgatorio”2: Commentary, Vol.1.Pt.2 of Dante Alighieri, The Divine Comedy, 3 vols., Princeton U.P.

モンタネッリ&ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史』(中公文庫)。