『神曲』地獄巡り26.生臭坊主(教皇)たちの刑場 | この世は舞台、人生は登場

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足で泣いている教皇たち

プリアモ・デッラ・クェルシャ聖職売買者
プリアモ・デッラ・クェルシャ作「聖職売買者の刑罰」

ローマ教皇ニコラウス3世


 第3ボルジャの谷底で最も激しく足をばたつかせていた亡者は、ダンテが近づくと大声で怒鳴りつけました。

 おまえはもうそこに来たのか?おまえはもうそこに来たのか、ボニファチオ?〔予言の〕書物に記された時と数年もちがうぞ。おまえはもうあのお宝にあきがきたのか?あれを手に入れるために美しい婦人を、平然と騙し取り、しかもそれを売物にまで出したくせに?(『地獄篇』第19歌52~57、平川祐弘訳)

 その亡者がダンテと勘違いした「ボニファチオ(BonifazioまたはBonifacio)」は、正式名(ラテン名)を「ボニファティウス(Bonifatius)」8世と言います。最初に聖年を考えついた教皇です。(「地獄巡り23.ボニファティウス8世の聖年大勅令」を参照。)
 私が信じている暦に従えば、物語の時間では、ダンテが地獄の第8圏谷を旅してこの亡者と対話している年月日は1300年4月9日の聖土曜日のことです。そしてボニファティウスが亡くなったのは1303年10月11日なので、彼がこの地獄の穴に落ちてくるのは、ダンテが冥界訪問してから3年6ヶ月先のことでした。

 


悪徳教皇ボニファティウス8世と
臆病風に吹かれたケレスティヌス5世


 ダンテの言う「美しい婦人(la bella donna)」とは「ローマ教会」のことで、ボニファティウスは卑怯な策略を弄して教皇の座を手に入れたと言われています。その教皇が行ったと信じられている策略(inganno)を紹介しておきましょう。


 第176代ローマ教皇インノケンティウス3世(在位1198~1216)が即位してから第184代グレゴリウス10世が1276年にこの世を去るまでの80年ほどで、神聖ローマ皇帝やその他の国王に対するローマ教皇庁の権威は高まり、安定期が続きました。第191代ニコラウス4世が1292年4月4日に死去したとき、枢機卿団(コンクラーベ)が開催されました。しかし、枢機卿や諸侯の思惑がなかなか一致しなかったので教皇の選出ができませんでした。教皇が空位のままの異常な状態が2年ほども経過してしましました。その事態を憂いたピエトロ・ダ・モローネ(Pietro da Morrone)がコンクラーベのメンバーの一人のもとに、選出を促す手紙を送りました。ピエトロは、洗礼者ヨハネの生き方に従って、禁欲主義と隠遁生活を送っていましたが、奇跡を起こす聖者として名前は知られていました。そこで、彼の手紙がコンクラーベで紹介された時、そこのメンバーからピエトロを教皇に推す意見が出され、本人の意思を無視して決定されてしまいました。ところがピエトロは、教皇になる気などまったくありませんでしたので、その場を立ち去ろうとしましたが、無理やり引き留められました。結局、彼は、1294年7月5日、第192代ケレスティヌス5世として即位はしました。しかし、就任して数ヶ月後の1294年12月13日、やはり彼には教皇職は適していないことを実感して、もう一度また清閑な生活に戻るため辞職しました。ダンテは、地獄の前庭で無気力な人間を「臆病風に吹かれて大きな位を捨てた者の亡霊(『地獄篇』第3歌59~60、平川祐弘訳)」と非難していますが、それはケレスティヌス教皇のことだと解釈されています。
 ケレスティヌス5世の辞任の裏には、ボニファティウスの陰謀があったとも言われています。ケレスティヌスは、政争に巻き込まれることを嫌って、教皇職を辞任する方法を側近の枢機卿ベネデット・カエターニ(Benedetto Caetani)に相談しました。この枢機卿は野心家で、自分が教皇になりたかったので、ケレスティヌスを一刻も早く辞任させようとしました。その時の模様をインドロ・モンタネッリ(Indro Montanelli,1909~2001)が、ジャーナリスティックに書いていますので、下に紹介しましょう。


 ローマ教皇庁の陰謀の渦の中で、この聖人はなすすべを知らなかった。夜な夜な耳もとでささやく声が聞こえる。「予は汝のもへ遣わされた天使。いと慈悲深き神に代わって汝に命ず。ただちに教皇職を辞し、隠者の生活にもどれ」。その声は実は天使ではなく、カエターニ枢機卿が、ひそかに壁に備え付けた伝声管を通じてささやいていたのである。気の毒な教皇は、隠者の生活にもどることしか考えられなくなった。教会法に暗いケレスティヌスは、どうしたら辞められるのかも分からなかった。一方、カエターニ枢機卿は福音書よりもずっと教会法にくわしい人だったので、教皇辞任の手続きと論拠を教えてやった。後年ダンテはこの辞任を「大拒否」と呼んで蔑んだ」(モンタネッリ/ジェルヴァーゾ著・藤沢道郎訳『ルネサンスの歴史・上』34)

 1294年に書かれたとされる『フィレンツェ人の年代記(Cronica fiorentina)』にも、同じことが書かれていますので、カエターニ枢機卿の悪行とケレスティヌス教皇の腰抜け振りは、ただの作り話だけではなかったようです。前に引用しました「臆病風に吹かれて大きな位を捨てた者の亡霊」という詩句の原詩は‘l'ombra di colui che fece per viltade il gran rifiuto’となっています。簡単にイタリア語の原文を分析しておきましょう。「臆病のために(per viltade、ペル ヴィルターデ)」「大拒否(grande rifiuto、グラン リフィウート)」を「行ったところの人(colui che fece、コルィ ケ フェーチェ)feceはfare〈行う〉の遠過去三人称単数」の「亡霊(ombra、オンブラ)」となります。すなわち、「大きな位を捨てた」とはケレスティヌス5世の「大拒否」のことであろうと解釈されています。教皇が生きている間に教皇職を辞任するなどということはありえないことでした。記憶に新しいところでは、2013年2月28日に第265代教皇ベネディクトゥス16世が生前辞任をしましたが、それはケレスティヌス5世が辞任した1294年12月13日以来のカトリック教の大事件だったわけです。



教皇庁を私物化したボニファティウス

 教皇ケレスティヌス5世を騙して教皇庁から追い出したベネデット・カエターニ枢機卿は、思い通りに次の第193代教皇ボニファティウス8世になりました。この教皇は、辞任した前教皇の復権を恐れて、隠遁者の生活に戻っているケレスティヌスを捕らえてフモーネ(Fumone)城の独房に幽閉しました。ケレスティヌスは、すでに80歳を遥かに超え90歳に近い高齢であったので、投獄されて10ヶ月後に病死してしましました。また、ダンテにとってもボニファティウスは怨恨を抱く敵でした。
 ダンテの故国フィレンツェにおいては、長年続いた教皇派(グェルフィ党)と皇帝派(ギベリーニ党)との戦いも、前者の勝利で決着が着きました。しかし、フィレンツェには平安が訪れることはなく、勝者の教皇派が二つに分裂しました。貴族階級の支持を受けコルソ・ドナーティ(Corso Donati)を党首とした黒党(Guelfi Neri)と市民富裕層の支持を受けヴィエーリ・チェルキ(Vieri Cerchi)を党首とした白党(Guelfi Bianchi)が激しく支配権を争いました。ダンテは、妻ジェンマがコルソ・ドナーティの従兄でしたので黒党につくのが自然でしたが、なぜか白党に所属しました。(フィレンツェの抗争については「地獄巡り71314を参照。「フィレンツェの政治制度は、複雑を極める上に変動が絶えないので、正確に把握することは不可能である」とモンタネッリも告白しています。)
 時の教皇ボニファティウス8世はフィレンツェを自分の支配下に置こうと画策をしました。この教皇の干渉がなかったならば、黒党と白党の内戦は身内の内輪もめ程度で済んでいたとも言われています。ダンテの所属する白党が優勢を保ち政権を掌握していました。そして、黒党党首ドナーティが政権の転覆を画策しましたが失敗に終わり、フィレンツェから追放されました。ダンテは、1300年6月から2ヶ月間、行政官(プリオーレ:priore)に選出されましたが、その在任中に、フィレンツェの属国ピストイア(Pistoia)において白党による黒党員の大虐殺が起こり、ボニファティウスはフィレンツェの国自体を破門しました。さらに、教皇はフランス王フィリップ4世の弟シャルル・ド・ヴァロワ(Charles de Valois)をフィレンツェの鎮圧のために招集しました。ダンテは、教皇・フランス王子連合勢力と対峙することになってしまいました。その調停のために、ダンテは教皇庁に赴きましたが、その隙をついて黒党がクーデターを起こし政権を奪取したと、伝記作家ディーノ・コンパーニ(Dino Compagni)が言っています。この説は、広く信じられていますが、モンタネッリは否定しています。フィレンツェは選りすぐりの数千の兵を擁していましたが、数百のフランス騎兵軍に降伏したと、彼は述べています。そしてその敗北により、ダンテは、1302年1月27日に死刑判決を受けましたが、その前にフィレンツェを脱出して、二度と帰れない亡命生活に入りました。
 まさしくダンテにとってボニファティウスは、彼のフィレンツェ追放を仕組んだ憎き張本人の一人に違いありません。しかしその割には、意外にもこの教皇への非難の言葉は、「お宝を手に入れるために美しい婦人(教会)を平然と恐れもなく騙し取って、彼女に暴行までした」という程度にとどめています。そのボニファティウスへの非難の言葉に較べると、ダンテが12歳から15歳の頃に教皇職に就いていたニコラウス3世への攻撃の言葉の強烈さは違和感を感じさせられます。
 ダンテをボニファティウスと思い込み、穴の中から叫んだ亡者が、「私が誰かそれが知りたくて、わざわざ堤を越して来たというのなら、教えてやろう」と言って、次のように話し始めました。


 私は生前大きな法衣をまとっていた。事実、私は熊の子なのだが、子熊たちを出世させようという欲にかられて、現世では金を、ここでは自分を財布に詰めこんだ。この私の頭の下には私より前に聖職売買をやった他の法王どもが引きずりこまれて、岩の裂け目に隠れてうずくまっている。私が先刻、性急な質問をした時は、おまえを別の男と勘違いしたのだが、そいつが来れば、私もまた下へ落ちるはずだ。(地獄篇 第19歌69~78、平川祐弘訳)


 実は、ニコラウス3世は、最後まで一度も名前を名乗っていません。その亡者は、自分のことを「私は熊の子(figliuol de l'orsa)」で「小熊たちを出世させるため大いに貪欲になった(cupido sì per avanzar li orsatti)」と自己紹介しました。ニコラウスが教皇になる前の本名は、ジョヴァンニ・ガエターノ・オルシーニ(Giovanni Gaetano Orsini)と言いました。このフルネームから分かることは、オルシーニ家系のガエターノ家のジョバンニであると言うことです。彼は、もともとオルシーニ家というローマの貴族階級の家柄に生まれました。そしてその「オルシーニ(Orsini)」という一族名は、「メス熊」を意味するイタリア語「オルサ(orsa)」や、「小熊」を意味する「オルサット(orsatto)」から採られていると言われています。そのことは、下に添付しましたオルシーニ家の紋章に描かれた子熊の図柄からも窺い知ることができます。


   オルシーニ家の紋章
オルシーニ家の家紋

 ニコラウス3世は、教皇職を公然と私物化した人物でした。彼は、在位(1277.11.25~1280.8.22)していた短い間に、親族のために財産を殖やし、大邸宅を建て、7人の枢機卿を増員して、そのほとんどに親族(甥)を就けました。さらに、もともと教会に所属していたサンタンジェロ城を私物化して甥のメッセル・オルソーに与えたとも言われています。フリードリッヒ2世以来悪化していた教皇庁との仲を修復したいと願っていた神聖ローマ皇帝ルドルフ1世は、1279年にロマーニャ地方をニコラウス教皇に寄進しました。その時、その教皇は、彼の甥ベルトルド・デッリ・オルシーニ(Bertoldo degli Orsini)を伯爵にしてその国の領主しました。ニコラウス3世の同族偏重主義(nepotism)は、十代半ばの若いダンテには許せるものではなかったのでしょう。聖職を私物化した代表者として最も重い刑罰を与えています。


ローマ教皇専用の地獄穴

 第3ボルジャの穴は、一人一穴ではなく、職種別になっているようです。ダンテが地獄滞在中に対話しているニコラウス3世の亡魂が入れられている穴には、次にはボニファティウス8世が落ちて来ることになっています。するとこの穴は、ローマ教皇専用の地獄穴と言うことになるようです。次の聖物売買をした教皇が来るまで、逆さになって足をばたつかせ続けるわけです。そのために、ニコラウスもボニファティウスが落ちて来るまで足をばたつかせることになります。そうなることを、ニコラウスは次のように話しています。

 私がこうして上下逆さに押し込められ、両足を焼かれるようになってから、もう長い時が経った、だからそいつは来てもそう長く赤い足で逆立ちはすまい。(『地獄篇』第19歌79~81、平川祐弘訳)

 ここで言う「私」すなわちニコラウス3世が死んでこの穴に入ったのは1280年で、ボニファティウス8世が落ちて来ることになっているのが1303年ですから、「時間が長く経っている(più è 'l tempo)」と言っているのは、具体的には23年という年数のことです。しかし次に来るボニファティウスは早く地中に潜ることができるのですが、その訳を次のように言っています。

 そいつの後から西から無法な法王が来るだろう、することなすことが輪をかけて邪悪だから、これにはそいつも私も及びがつかぬ。マカベヤ書に出てくるヤゾンの再来といおうか、ヤゾンにたいして〔シリアの〕王が軟弱だったように、フランス王も奴に対してはだらしがないに相違ない。
(『地獄篇』第19歌82~87、平川祐弘訳)


西方から落ちて来る教皇

 先に添付しました「ローマ教皇の系譜」を参照すれば分かるように、ボニファティウスの後任はベネディクトゥス11世です。しかし、この教皇はヴェネツィアの北30キロの町トレヴィーゾ出身であると言われていますので、「西の方から(di ver' ponente)」来る「無法な法王(原文は‘pastore’羊飼い)」には該当しません。しかもベネディクトゥスは、二つの重大事件に遭遇して、就任8ヶ月でこの世を去りましたので、聖職売買などに関係する余裕などありませんでした。その二大事件とは、まず最初は「アナーニ事件」と呼ばれているものです。絶対王制を目指すフランス王フィリップ4世は、1303年9月7日、ボニファティウスの抹殺のためフランス軍を派遣して、アナーニの教皇庁離宮に滞在中の教皇の捕縛を試みました。しかし教皇庁の護衛に助け出され、同月13日に無事にローマに帰りつきましたが、しかし1303年10月11日に、怒り狂って亡くなりました。(ただし、この事件には諸説が多くあります。)第二番目の事件は、教皇庁をローマからフランスのアヴィニヨンに移した出来事です。それは、ローマカトリック史上、最大の屈辱を言われていますので、旧約聖書に書かれたイスラエル人がバビロンに捕虜として強制連行された「バビロン捕囚」になぞって「アヴィニヨン捕囚」と呼ばれています。
 この二大事件の間で教皇職を務めたベネディクトゥス11世は、8ヶ月という短い在位期間でしたが、心労は並大抵ではなかったはずです。ベネディクトゥスは、教皇庁とフランス王との間に挟まれた重圧で病死してしまいました。または、フランス王によって毒殺されたとも言われています。それゆえに、ベネディクトゥス教皇は、この地獄の聖職売買者の穴に落ちることはありません。ということは、「ボニファティウスの後から西からやって来る無法な法王」は、ローマの西方フランスからやって来るクレメンス5世のことです。



聖書外典『マカベヤ書』

 ダンテから質問を受けているニコラウス3世は、フランス王フィリップ4世と教皇クレメンス5世の関係を『マカベヤ書』に出るヤゾンとシリア王との関係に喩えています。『マカベヤ書』(『創世記』や『出エジプト記』と同じく『マカバイ記』とも呼ぶ)は、ユダヤ教と聖書研究にとっては重大な書物ですが、一般人には馴染みの薄いものです。キリスト教の旧約聖書の一書ですが、私たちが普通に手にする聖書には含まれていません。旧約の神話がヘブライ語に書き留められて編纂されたとき、そこから抜け落ちた物語を『第二聖典(deuterocanonical book)』とか『聖書外典(apocrypha)』と呼びます。この『マカベヤ書』は、ヘブライ語聖書の中には含まれていませんが、紀元前2世紀ごろヘブライ語を読めない者たちのために翻訳・編纂されたギリシア語訳聖書『70人訳聖書(Septuaginta)』やローマ人のために紀元後4世紀末にラテン語に翻訳された『ウルガータ(Vulgata)』には含まれました。さらに、『聖書外典』は、近代英語の形成に重大な影響を与えた聖書『欽定訳聖書(The Authorized King James Version)』には、1611年の出版当初から274年間は、旧約と新約の間に挿入されていましたが、1885年の改訂版からは削除されています。しかし、1970年に、オックスフォードとケンブリッジの両大学が協力して現代英語で翻訳し直した『新英語聖書(The New English Bible)』には、『聖書外典』のすべてが挿入されています。
 『マカベヤ書』は4巻から成っていて、ヤゾンとシリア王との話は2巻の4章の中で書かれています。その舞台は、下に添付しましヘレニズム世界の黄色で塗られたセレウコス王朝の国のイスラエルで、その物語の概要は次のようになります。



紀元前3世紀のヘレニズム世界(ギリシア版「ウィキペディア」より)
ヘレニズム時代の世界地図
アレクサンドロス大王の死後、大王の帝国は四つに分割された。
アンティパトロス朝(緑)、リュシマコス朝(オレンジ)、セレウコス朝(黄)、プトレマイオス朝(青)


〔マカベヤ書の概要〕

 時代は、紀元前2世紀中期のセレウコス(Seleucos)4世の時です。ユダヤ教の最高位であるエルサレムの大祭司はオニアス(Onias)3世でした。その地位をねらっていたシモン(Simon)は、セレウコス王にオニアスの悪口を言いふらしました。しかし王は、その讒言に惑わされませんでした。さて、セレウコス王が亡くなり、アンティオコス(Antiochos)4世が王朝を継承すると、オニアスの弟ヤゾン(『神曲』中では「イアソン(Iasón)」、英語では「ジェイソン(Jason)」は、アンティオコス新王に取り入りました。そしてヤゾンは、360タラント(大型トラック1台分、約10トン)の銀と、他の財源から80タラントを献納することを条件に、ユダヤ教の最高位である大祭司職に就きました。さらに、150タラントの献金で、エルサレムの青年たちのための鍛錬場を建設し、またエルサレムの人民をアンティオコス王の臣民として認めさせました。そして、ヤゾンはイスラエルにおいて実権を握り、ユダヤ文化と国民を徹底的にギリシア化しました。しかし、その後、シモンの弟メネラオス(Menelaos)がヤゾンよりも多くの献金を納めましたので、彼が大祭司職を手に入れ、ヤゾンは失脚しました。


フランス王フィリップ4世の傀儡〔かいらい〕クレメンス5世
 それともフィリップの方がクレメンスの操り人形


 「ヤゾンにたいして〔シリアのアンティオコス〕王が軟弱だったように、フランス王〔フィリップ4世〕も奴〔クレメンス5世〕に対してはだらしがないに相違ない」とダンテは、ニコラウス3世に言わせていますが、現代の歴史的解釈はその反対です。
 フィリップ王の重圧を受けてボニファティウス8世が死去して、その跡を継いだベネディクトゥス11世が在位8ヶ月でこの世を去った後、およそ一年の教皇空位の時代がありました。そしてその後、1305年11月14日に、フランス・ボルドーの大司教でしたベルトラン・ド・ゴー(Bertrand de Gouth)が、フィリップ王のごり押しでクレメンス5世として第195代教皇として就任しました。そして9人のフランス人枢機卿を選任しました。
 クレメンス教皇は、結局、ローマには一度も足を踏み入れたことはなく、1309年3月9日に、教皇庁をアヴィニヨンに移しました。ダンテは、その行為をフランス王がクレメンス教皇に軟弱だったからだ、と言っています。原文を直訳して解釈すれば、「フランスを治める者(フィリップ王)に対して(lui chi Francia regge)、彼(クレメンス教皇)はその様にするだろう(così fia)」となり、「その様にする」とは、「人々がマカベヤ書の中で読む(si legge ne' Maccabei)イアソン(=ヤゾン)がする様に」という意味です。ということは、本物のイアソンがシリア王に対して行ったと同じことを、新しいイアソン(nuovo Iasón)すなわちクレメンス教皇がフランス王に対して行うであろう、と言っているのです。すなわち、エルサレムでイアソンが多額の賄賂をわたしてシリア王アンティオコスを操ったように、クレメンス教皇もフランス王フィリップを操っていると、ダンテは考えていたようです。その考え方は、現代の歴史的評価とは正反対です。まさしく、クレメンス教皇の方がフランス王に操られていたのです。教皇庁のアヴィニヨン移転の頃は、ダンテはフィレンツェ共和国から追放されて北イタリア地方で亡命生活を送っていました。そのために遠く西方のアヴィニヨンでの出来事には情報不足だったかもしれません。それゆえに、クレメンス教皇がローマに来ないのは、彼の我がままだと判断していたのではないでしょうか。



ニコラウス3世を叱るダンテ

 自分のことを棚に上げてボニファティウスやクレメンスの悪口を言うニコラウス教皇を、ダンテは思わず激昂して(troppo folle)叱りつけます。ダンテがその教皇への憤怒の言葉は、全長28行(90~117)にも及んでいます。平川先生の翻訳は、ダンテが使っていない固有名詞が入っていますので、注釈がなくても理解が可能です。聖職売買をしなかった実例を上げて、それを行った教皇を咎めています。その要約は次のようになります。

 イエスは、ペテロに天国の鍵を委ねましたが金品を要求しなかった。使徒たちの会計係を任されたにもかかわらずイエスを裏切ったイスカリオテのユダの後任になったマチア(Matthia、伊語ではMatia)から、ペテロにせよ他の誰にせよ金銀を受け取ってはいない。ニコラウス教皇は、ナポリ・シチリア国王シャルル・ダンジョウ(Charles d'Anjou、1227~1285)に自分の姪と結婚させようとしたが断られた。その時、東ローマ皇帝ミカエル8世パライオロゴス(Michael VIII Palaiologos, 1225~1282)がシャルルに対するシチリア人の反乱を促すために、ニコラウス教皇に資金を提供した。それが、1282年に起こった「シチリアの晩祷(Vespri siciliani)」と呼ばれるフランス人の虐殺事件に繋がった。

更に語気を強めて、ダンテは足だけを出しているニコラウスへ次のように言いました。


 おまえが現世で握っていた尊い鍵にたいして敬意を払えばこそ、まだ口をつつしんでいるのだ、さもなければ、なお一層痛烈な言葉を使うところだ。(『地獄篇』第19歌100~103、平川祐弘訳)

 これまでは、「お前(tu)」とか「お前に(ti)」と単数形を使って、ニコラウス3世にだけ向けられていた非難の的が、「お前たちは(voi)」とか「お前たちの(vostra)」と複数形を使うようになり、教皇全員に向かいました。


 なにしろ、おまえらの貪欲のために、善人が沈み悪人が浮かぶ悲しい時世となった。四海に君臨する女〔ローマ〕が諸国の王と淫をひさぐさまを見た時、ヨハネはおまえらのような法王の出現を予見していた。その夫〔法王〕が美徳を慕っていたかぎりは、七つの頭もって生まれた女〔ローマ教会〕は、十の角〔十戒〕を証に栄えることができた。(『地獄篇』第19歌104~111、平川祐弘訳)

 上の訳詩の中から括弧の部分を抜いたものが、『神曲』のその箇所の原詩だと考えて良いでしょう。そしてその源泉は新約聖書の『黙示録』の第17章であることは通説になっています。
 「四海に君臨する女」と訳されている箇所は、原文では「海の上に坐る女(colei che siede sopra l'acque)」であり、「ウルガータ」の『黙示録』では「多くの海の上に坐る大娼婦(meretricis magnae quae sedet super aquas multas)」となっています。そしてその娼婦は「大都市(civitas magna)」のことであると、『黙示録』では書かれています。「七つの頭(sette teste)」とは、ローマにある「七丘(septem montes)」のことで、「十の角(diece corna)」とは『黙示録』では「十人の王(decem reges)」のことですが、ダンテでは、平川訳にあるようにモーゼの「十戒」を意味していると解釈するのが妥当でしょう。
 以上のような事柄に関しての平川訳とダンテの解釈は統一が取れていて、伝統的でもあります。しかし平川訳で「ヨハネ」の名前が出ていますが、原文は固有名詞ではなく普通名詞の「福音書の著者(Vangelista)」となっています。現代では、福音書を書いたヨハネと黙示録を書いたヨハネは別人であるとするのが定説ですが、ダンテの時代では同一視されていたようです。それゆえに、現代人からすると、『ヨハネの福音書』を書いたヨハネが、別のヨハネが書いた『黙示録』を使って教皇たちを非難していることになります。



ダンテはコンスタンティヌスに八つ当たり

コンスタンティヌス皇帝の寄進上
ラファエロによって描かれたコンスタンティヌス皇帝によってローマ教皇に領地を寄進する旨を報告する場面(ヴァティカン宮殿内のラファエロの間に所蔵)

 コンスタンティヌス(272~337)といえば、最初にキリスト教をローマ帝国の宗教として公認した皇帝でした。ダンテも、当然、そのことを高く評価していて、皇帝を天国の木星天に配置しています。しかし、コンスタンティヌス皇帝は、330年にローマを捨て、交易に便利な東方の植民地だったビュザンティオン(後のコンスタンティノポリス、現在のイスタンブル)に遷都しました。そのことがローマに生臭教皇が横行する原因になったと、次のように皇帝に対して八つ当たりして、次のように言っています。


 ああコンスタンティヌスよ、おまえの改宗を悪いとはいわぬ、だがおまえはとんでもない悪事をしでかした、おまえが貢いだから、ついに成金の法王が世に出たのだ。(『地獄篇』第19歌115~117、平川祐弘訳)


第8圏谷の第3堀(ボルジャ)を去ります

 ダンテが第3ボルジャの堀に降りる時は、ウェルギリウスの腰に乗せられて脇に抱えるような格好でした。恐らく、下に添付しましたブレイク(William Blake)の挿絵が、堀へ降りる姿を描いたものでしょう。



ダンテを抱えて堤を降りるウェルギリウス

堀の底での用件を終えたダンテは、また降りてきた道を今度は登ります。

 先生は両腕に私をかかえると、胸の上に私を抱き上げて、降りてきた道を引き返し、上に登った。私を抱いていてもいっこうに疲れた気配もなく、第四の堤から第五の堤に通じる橋の上まで私を連れ戻した。(『地獄篇』第19歌、124~129、平川祐弘訳)

 この土手の登り方は、下のプリアーモ・デッラ・クェルシャ(Priamo della Quercia)の細密画に描かれている形だ考えられます。


ダンテを抱っこして堤を登るウェルギリウス

 その道は山羊でも通るのが難しいほど険しい岩道でしたが、その上に上がると、次のボルジャが、眼前にひらけました。そこには、占い師や預言者たちがいます