『神曲』地獄巡り25.聖職と聖物を売買した罪人たち | この世は舞台、人生は登場

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聖職と聖物を金儲けの道具にした罪人たち

マレボルジェの見取り図

 地獄の巡礼者ダンテとウェルギリウスは、第8圏谷マレボルジェの第3袋(ボルジャ)に進みました。その地獄は、魔術師シモン(Simon mado)から名を取った責め苦の場所でした。その堀の形をした袋(ボルジャ)には、自分の利益のために聖職を悪用したり聖物を売買したりしたえせ聖人たちが罰を受けていました。先ずダンテは、その堀に架かった石橋に近づいたとき、次のような呪いの言葉を投げかけました。

 おお魔術師シモンよ、おお哀れなシモンの徒よ!本来は美徳と結ばれてその花嫁になるべき聖物や聖職を、おまえら盗人は金や銀と引き換えに売りひさいでいる。おまえらが第三の濠にいる以上、いまこそ宣告のラッパが高鳴ってしかるべき時だ。
(『地獄篇』第19歌1~7、平川祐弘訳)

 この地獄の第3ボルジャにおける魔術師シモン(Simon mago)の役割は曖昧です。第2圏谷のミノスや第3圏谷のケルベロスや第7圏谷第1円環血の川プレゲトンのケンタウロスなどのように、罪人たちを罰したり番をしたりする役割の登場人物なのか、それともギリシアの英雄アキレウスやカパネウスやアレクサンドロス大王などと同じ罪人として罰せられる側なのか判断が困難です。シモンといえば、新約聖書『使徒行伝(英語The Acts of the Apostles:ラテン語Actus Apostoloum)』の第8章に登場している人物です。もう少し詳しく聖書の内容を確認しておきましょう。


『使徒行伝』の「シモン」の箇所の要約

 イエス・キリストが地上を去って間がない頃、直弟子である12使徒のひとりピリポは、サマリヤの町でキリストの教えを説いていました。彼は、悪霊に憑かれた者たちには除霊をしてやり、病気の者たちは癒やしてやったりして、町の人たちを喜ばせました。しかし、サマリヤには以前から魔術を使って人々を驚かし、自分は偉い人間であると吹聴して回っているシモンという者がいました。人々も彼のことを「『大能』と呼ばれる神の力」そのものであると尊敬していました。(「大能」はラテン語訳聖書『ウルガータ』では「マグナ(Magna)」、ギリシア語訳聖書『セプトゥアギンタ』では「メガレー(megale:megasの女性形)」と呼ばれています。)
 まだサマリヤの人たちがシモンの魔術に驚かされている最中に、ピリポが神の国とイエス・キリストの教えを説きにやって来きました。すると人々は、シモンの魔法よりもピリポが行う奇跡の方を信じて、続々と彼の元にやって来て洗礼を受けました。ついに最後には、魔術師シモンまでも洗礼を受けて、ピリポに付き従うようになりました。そしてピリポが数々の奇跡を行うのを見て驚きの連続でした。
 サマリヤで洗礼を受ける者が多くなったという情報を聞いたエルサレムの本部は、さらに有能は使徒のペテロとヨハネを遣わして、信者たちに聖霊を与えるという高度な洗礼をすることにしまいた。シモンは、二人の使徒が人々に手をかざして聖霊を授けるのを見て、自分にもその能力がほしくなりました。そこで、金を差し出して、自分にも聖霊を授ける能力を与えてくれるように交渉しました。そこでペテロは次のようにシモンを諭して言いました。
 「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。おまえの心が神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない。だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすれば、あるいはそんな思いを心にいだいたことが、許されるかも知れない。おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。
(『使徒行伝』第8章20~23)

 そのペテロの諭しの言葉にシモンは、「仰せのような事が、わたしの身に起こらないように、どうぞ、わたしのために主に祈ってください」と後悔して答えました。その後のことは聖書に記述されていないので分かりませんが、魔術師シモンは、金で神の能力を手に入れようとしたことを悔いて、正しい信者になったはずです。それなのにシモンは、永遠に罪を犯した側に分類されてきました。キリスト教徒を迫害する側にいたパオロが、回心したらキリストの使徒に認定されましたが、それと比べると、シモンの待遇は悪すぎます。現在でも、「聖職売買者」のことを「シモン風の行為をする者」という意味の「シモニアック(simoniac)」とか「シモニスト(simonist)」と呼ぶのは、まさしくシモンの悪人像が継続していることになります。


第3ボルジャの形状

 見渡すと、両の斜面もその底も一面に鉛色の石で、そのいたるところに一様に円い穴が幾つも幾つもうがたれていた。フィレンツェのサン・ジョヴァンニ〔洗礼堂〕の洗礼用につくられた鉢と見た目には大差がない。その洗礼盤の一つを、まだ数年も経たぬ前のことだが、私が毀した。溺れかけた子供を救おうとしたのだから、この言葉を証しに、みな誤解をといてもらいたい。
(『地獄篇』第19歌13~21、平川祐弘訳)句読点は読みやすいように原文とは変えてあります。

 マレボルジェという別名を持つ第8圏谷の全体構造は、「鉄色をした岩(pietra di color(e) ferrigno)」から成っていて、その周りをとりまく崖も坂も同じ鉄色でした。そして、この第3の堀を築造している材質は、壁になっている側面(costa)も敷地(fondo)も全体構造と同じ石材ですが、色違いで「鉛色の石(pietra livida)」と記述しています。(「地獄巡り23.悪の袋マレボルジェ:女衒と色魔の地獄」参照)

 地獄は、基本的には漆黒の闇の世界です。地獄だけでなく煉獄も天国も冥界というものは、もともと人間の肉眼では見ることができない超自然の世界ですから、霊感によって見ることになります。とくに西洋の詩人たちは、芸術の女神ムーサ(Musa、イタリア語では「ムーザ」と発音します)から与えられる霊感を使います。ダンテの場合は、ムーザの姉妹たちの他にアポロンからの霊感も使うことがあります。(『天国篇』第1歌13~27を参照)。マレボルジェの築造に使われている建材は「石(pietra)」ですが、暗黒の中では黒い鉄色をしていました。しかし、この第3ボルジャには、罪人たちを焼くための炎が燃えていますので、黒い石も「鉛色に青白く(livido)」光って見えているのでしょう。


ダンテの人生の出発点サン・ジョヴァンニ洗礼堂


 石で造られた地面には、多くの穴があけられていました。その大きさは、ダンテもそこで洗礼の儀式を受けたサン・ジョヴァンニ洗礼堂の洗礼鉢と同じくらいだと言っています。ダンテは、彼の私的な個人情報を作品の中には表現しない詩人だと言われていますが、ここでは珍しく、洗礼用の鉢を壊したことの言い訳をしています。ダンテにとっては、聖物を汚した罪人たちを閉じ込めたこの地獄で、彼自身の聖物破壊の弁明をすることは大切であったかもしれません。しかし読者にとっては、彼がサン・ジョヴァンニで洗礼を受けたことを、この詩文から推測できることのほうが興味深いものです。ダンテの個人史を辿るときは、必ずこの洗礼堂から出発します。


サン・ジョヴァンニ洗礼堂

前方の建物が、サン・ジョヴァンニ洗礼堂(Battistero di San Giovanni)ウィキペディア(英語版)より。1128年着工、1202年完成
後方の建物は、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(Santa Maria del Fiore) 1296年着工、1436年頃完成。



逆さに生き埋めにされた聖職売買者


プリアモ・デッラ・クェルシャ聖職売買者
プリアーモ・デッラ・クェルシャ(Priamo della Quercia)の細密画「聖職売買者」


 さてその穴のどの口からも逆立ちした罪人の足と脛とが脹脛(ふくらはぎ)のところまで突き出していた、あとの残りは穴に埋まったままだ。みなの足の裏には左右ともに火がついていた、関節をはげしくばたつかせるから、細枝や緒も断ち切ってしまいそうな勢いにみえた。油がしみついたものに火がつくと炎はきまって表面だけを走るものだが、踵から爪先にかけて炎が走る様もそれと似ていた。(『地獄篇』第19歌22~30、平川祐弘訳)

 聖職を利用して蓄財した亡者たちは、火が燃える穴の中に、頭から逆さに放り込まれてもがいていました。両脚は外に出ていましたが、苦しさの余り、必死になってばたつかせていました。その激しさは「細枝や緒も断ち切ってしまいそうな」ほど強いものでした。この詩句の中の「細枝や緒」と訳されている原文は、‘ritorte(リトルテ) e strambe(ストランベ〕’です。前者「リトルテ」は、昔ヨーロッパの百姓が細い枝を編んで作った帯状の紐のことです。後者「ストランベ」は、北アフリカで使われた、丈夫でしなやかな繊維の草を乾燥させ束ねた縄か綱でした。おそらくダンテの時代には、最も強い結束道具だったと推測されます。この地獄で苦しむ罪人たちの必死にもがく力は、その様な強力な紐や縄までも切ってしますほどでありました。

 逆さに穴に埋められて足をばたつかせている亡者たちを眺めながら、第3堀(ボルジャ)に架かった橋を渡り第4ボルジャの手前の堤に着きました。その時、ダンテは、ひときわ激しく炎に焼かれ、足をばたつかせている亡者を見付けました。そこでダンテは、堀の下へ降りて、その亡者の口から犯した罪科を聞きたいと、ウェルギリウスに頼みました。すると先達は、ダンテを第3ボルジャの底へ連れて降りました。その時のウェルギリウスの降り方は、ダンテが「彼は腰から私を降ろさなかった」と表現しています。原文では、「善き師匠は(Lo buon maestro)」、「彼の腰から(ancor de la sua anca)」、「私を降ろさなかった(non mi dipuose)」(43~44)とありますから、おそらく堤の上から堀底まで「脇にかかえて」運んだと解釈するのが良いでしょう。下に添付しましたブレイクの絵画がこの情景を正しく描いていると思われます。


ダンテを抱えて降ろすボルジャ

 ウェルギリウスは、ひときわ足をばたつかせている亡者の側にダンテを降ろしました。するとダンテは、「口がきけるなら、話せ」と、その亡者に言いました。そして、その時の心境を、直喩を交えて次のように表現しています。

 奸計にたけた人殺しは、つかまって逆さ吊りに埋けられても、なお死期をのばそうとして神父を呼ぶが、私はその懺悔を聞く神父のような立場となった。(『地獄篇』第19歌49~51、平川祐弘訳)

 この上の詩文の中でダンテが記述している内容は、実際に存在していました。すなわち、「逆さ埋め」の地獄の責め苦を考案したのはダンテではなく、中世ヨーロッパにおいて広く行われていた刑罰であったということです。この死刑が執行される罪人は、暗殺者で、とくにラテン語では「シーカーリウス(sicarius)」、英語では「アサシン(assassin)」と呼ばれる、他人に雇われて要人を殺害する刺客であった殺人者でした。彼らは逆さに穴に入れられて、これから土で埋められようとするとき、少しでも命を長らえようとして「他にも罪を犯して告白したいので聴罪司祭(confessor、上の詩句では‘frate’)を呼んでくれ」と叫びました。すると司祭がやって来て、耳を地面に近づけ、穴の中で話す罪人の告白を注意深く聞いたと言われています。ダンテは、その史実を彼の地獄の描写のなかで再現しているのです。

さていよいよダンテは、聖職と聖物を勝手に売買した罪人たちと近くで話を聞く機会が与えられました。その地獄にいるほとんどの罪人は、歴代のローマ教皇たちでした。


ギュスターヴ・ドレの聖職売買者たちの地獄
ドレの聖職売買者