『神曲』地獄巡り27.占い師たちの刑場 | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

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第8圏谷の第4袋(ボルジャ)の予言者たち

マレボルジェの見取り図

 第4ボルジャに架かる橋の上から円環状になった堀の底を見ると、涙を流しながら黙々と歩いている行列が目に入りました。その姿は次のようでした。


 驚いたことに、どれもこれも首が顎と胴体の上端の間であべこべについている。顔が臀の方を向いていて、前方を見ることができぬから、後向きに進まざるをいない様子だ。麻痺のせいで、あるいはこうした風に、すっかり身のよじれた者もいるかもしれないが、しかし私は見たためしがない、いるとも思えない。・・・私たち人間に似たこの姿は、近くから見ると、首がねじれているから目からあふれた涙が、筋を引いて流れての臀を濡らしていた。(『地獄篇』第20歌11~24、平川祐弘訳)


占い師たちの刑場プリアモ・クェルシャ画
プリアーモ・デッラ・クェルシャ(Priamo della Quercia)の細密画


 この地獄の刑場では、幾人かの占い師の名前が上げられています。ダンテが紹介する順に説明しておきましょう。


予言する義士アムピアラオス

 まず最初に目に入った亡者は、アムピアラオスでした。ダンテでは「アンフィアラオ(Anfiarao)、ギリシア語では「アムピアラオス(Amphiaraos)」、ラテン語では「アムピアラウス(Amphiaraus)」と言います。この亡者は次のように描かれています。

 テーバイの人々の眼前で口を開けた大地に呑みこまれた男だ。その時皆が口々に叫んだ、『どこへ落ちる、アンピアラオス、なぜおまえは戦場を捨てるのか?』彼は下へ転がり落ちたが、ミノスに掴まった。ミノスは罪人は誰一人見逃しはしないからだ。見ろ、彼は背を胸にかえている、あまり先の事を見すかそうとしたから、後ろ向きにされ後ずさりして道を行くのだ。
(『地獄篇』第20歌31~39、平川祐弘訳)


 アンピアラオスは、テーバイを攻めた七人の将軍の一人でした。第7圏谷第3円環にはテーバイ攻めの戦友カパネウスが、神を冒涜した罪で火炎を浴びていました。(「地獄巡り19参照)。一方、アンピアラオスのほうは妖術を使う占い師として、この第4ボルジャで刑罰を受けています。古代ギリシア神話・伝説の中のアンピアラオスは、思慮深く高潔な将軍として登場します。
 テーバイ王オイディプスの二人の息子ポリュネイケスとエテオクレスは、王位を一年ずつ交代で就くことを約束しました。しかし、エテオクレスが王位に就いたとき、ポリュネイケスに譲ることはしないで、兄弟を国外に追放しました。追放されたポリュネイケスはアルゴスに逃れ、その国の王アドラストスの娘アルゲイアを娶って王の婿になりました。そして、アドラストス王は婿ポリュネイケスにテーバイを奪回させようとして七人の勇将を招集しました。アンピアラオスは優れた予言者で、テーバイ攻めは失敗に終わり、アドラストス以外はすべて戦死すると予知して、この遠征に反対しました。しかし彼の妻はアドラストスの妹でしたので、彼女の依頼を断ることができませんでした。彼は自分も死ぬことは分かっていましたが、出征することになりました。戦いの結果は、アルゴス勢の惨敗で、アンピアラオスは退却している途中で、ゼウスが雷電を放って大地を引き裂いたので、その中へ戦車もろとも地中に落ちてしまいました。アイスキュロスの悲劇『テーバイを攻める七将』では、アンピアラオスは、6番目のホモロイデス門攻めを割り当てられて戦いますが、敵方の総大将エテオクレス王も彼のことは称賛して、次のように言っています。


 禍いなるかな、正義の人を不敬な者どもと交わらせるこの運命は。万事において悪い交わりほどに有害なものはないし、そこから収穫は取り入れるべきではない。迷妄の畑は死の収穫をもたらす。何かの悪事に熱狂している船乗りたちと一緒に船に乗り込んだ敬虔な男は、神に忌み嫌われる人々と共に破滅する。またたとえ義しい人であっても他国人に敵意を抱き、神々をなおざりにするような市民と共にあれば、不正な者たちと同じ網にかかり、神が揮う見境い無しの鞭に打たれて滅びる。そのようにかの予言者、すなわちオイクレースの子アムピアラーオスは、賢明で正しく、勇敢で敬虔な男であり、また偉大な予言者でもありながら、不敬な連中と交わり、その心に背いて不遜な口を利く者どもと共に、引き返すには遠すぎる旅路につき、ゼウスの意思によってもろともに破滅に引きずり込まれることだろう。(アイスキュロス『テーバイを攻める七人の将軍』597~614、池田黎太郎訳)

 アンピアラオスという将軍は、「正義の人」で「賢明で正しく、勇敢で敬虔な男」なのに、不敬なアルゴス人たちと交わっているので、「引き返すには遠すぎる旅路」すなわち「死出の旅」に出ることになる、と敵の王からも同情されています。またこの将軍が戦車もろとも地中に落ちた場所には神殿が建てられて、予言が行われたと言われています。紀元前5世紀に書かれたヘロドトスの『歴史』(第1巻52)には、莫大な富を持ったリュディア王クロイソス(紀元前595~547)が、純金製の楯と槍をアンピアラオスの神殿に奉納したという記事が書かれています。


 
ギリシアで最も有名な予言者テイレシアス


 見ろティレシアスを、彼は男から女になったが、その時容貌が変わって、体つきもすっかり違ってしまった。そして次にまた男の体に戻ろうとした時も、まず二匹のからみあった蛇を笞で打たなければならなかった。(『地獄篇』第20歌40~45、平川祐弘訳)

 ギリシアの予言者と言えば真っ先に浮かぶ名前はテイレシアスです。『神曲』の中では当然イタリア語で「ティレシア(Tiresia)」と呼ばれていますが、もともとの名前はギリシア語で「テイレシアス(Teiresias)」と言います。上の平川訳の「ティレシアス(Tiresias)」はラテン語です。

このブログに登場するギリシアの地名
ギリシアの古代主要国

 テイレシアスは盲目の予言者ですが、彼の盲目と予言能力に関する神話・伝説にはいろいろな話があります。もっとも広く知られている盲目の原因は次の物語です。テイレシアスがキュレネ山奥にいたとき、二匹の蛇が交尾しているのを見付けました。彼はそれを棒で打ったところ、男から女に転身してしましました。そして7年間、ヘラの巫女として生きて、結婚もして何人かの子供も産みました。そしてその時、予言能力も授かりました。その女でいた期間には有名な娼婦であったとする物語もあります。テイレシアスは、7年後(9年後とする話もあり)に、また蛇が交尾しているところに出会いましたので、またそれを棒で打ちました。すると今度は、女から男に転身しました。大神ゼウスとその妃ヘラが、性交のとき男と女はどちらが快楽が大きいかという問題で口論になりました。両性を知るテイレシアスに意見を聞くことにしました。その予言者は女のほうが遥かに(9対1で)快楽が大きいと答えました。それに怒ったヘラはテイレシアスを盲目にしてしまい、哀れに思ったゼウスが彼に予言の能力を与えたと言われています。この話は、ローマの詩人オウィディウスが『転身物語(Metamorphoses)』(第3巻316~338)の中でも描いています。
 紀元前6世紀の神話学者シュロスのペレキュデース(Pherecydes of Syros)の話は、上の有名な神話よりも面白いかも知れません。テイレシアスは、アテナ女神が水浴している全裸の姿を見てしまいました。そのため女神が彼の両眼を両手で覆ってしまったので、彼は盲目になってしまいました。その代わりに、女神はテイレシアスに予言能力を与えたということです。

 文学に登場したテイレシアス

 テーバイを攻める7人の将軍を扱った物語には、アンピアラオスがアルゴス側の予言者として登場しますが、テイレシアスはテーバイ側の予言を担当する役割を担います。ホメロスの『オデュッセイア』(第11巻)の中で、オデュッセウスがイタケに帰国する前に、キルケの勧めで冥界訪問をします。その目的は、テイレシアスから帰国のための託宣を聞くためでした。なぜならば、テイレシアスは、死後も冥界の女王ペルセポネイアから予言することを許されていたからです。ただし、ホメロス以外は、テイレシアスの死後の予言能力は、ゼウスから許されたとする説話も多いようです。
 その他にもテーバイを舞台にしたギリシア悲劇には、しばしばテイレシアスが予言者として、また賢者として登場しています。たとえば、この予言者は、ソポクレスの『オイディプス王』では、オイディプスの素性を明かす役割を果たしています。また、エウリピデスの『バッコスの信女たち』では、キタイロン山で狂乱する信女たちを探索するため、年老いたテーバイ王カドモスを案内して山を登る同伴者になっています。どちらの作品でもテイレシアスは敬意を受けて「学びとる知識においても、言い表せない神秘においても、また天のことも地のことも、すべてを見通すテイレシアス殿」とか「英知に満ちた言葉を話す賢者」とか呼ばれています。



カエサルの勝利を予言したアルンス


 次にやって来たのはアルンスという予言者でした。

 あれがアルンスだ、背中をティレシアスの腹につけて行く、ルーニの山中では、その麓に住むカルラーラの人々が石を切り土を耕しているが、アルンスはそこの白い大理石の洞穴を住居とし、そこから思いのままに星や海を見て〔占いをして〕いたのだ。(『地獄篇』第20歌46~51、平川祐弘訳)


 アルンス(Aruns)は、ルカヌスの『内乱もしくはパルサリア(DE Bello Civili sive Pharsalia)』の中に登場する占い師です。この人物はいろいろな名前で呼ばれています。ダンテは「アロンタ(Aronta)」と呼んでいますが、最も正当な名前はルカヌスが使った「アッルンス(Arruns)」ということになるでしょう。ルカヌスの『内乱』は、カエサルとポンペイウスの戦いを描いた叙事詩で、何人かの占い師が登場します。ダンテは『地獄篇』(第9歌19~30)で、『内乱』の「第6巻(507~830)」に登場している「エリクト(Erichtho)」という名の女占い師のことに言及しています。ローマの内乱においてカエサルの勝利を決定付けたのは、ギリシア北部の国テッサリアのパルサルスでの戦いでした。その決戦前夜に、この女予言者エリクトは、ポンペイウスの息子セクステゥスによって召し出されて、今後の戦況について占わせられました。(私のブログ『地獄巡り11』を参照)
 一方、アルンスはローマ内乱の初期に登場する予言者です。カエサルがローマ元老院の警告を無視してルビコン川を渡った、という情報がローマに届きました。それを知ったローマ元老院たちは動転して、わざわざエトルリア(現トスカーナ地方にあった国家群)からアルンスを呼び寄せました。ルカヌスはこの予言者を次のように記述しています。


 古来からの慣習に従ってエトルリアから予言者たちを招集しました。その者たちの中で最長老はアルンスでした。彼は、荒廃した町ルカに住んで、雷の進路や、温もりのある内蔵に刻んだ傷跡や、中空を舞う翼が与える予兆などを解き明かす占い師でした。(『内乱』第1巻584~588、筆者訳)


アルノ川とルビコン川
必ず武装を解いて越えなければならないと決められたルビコン川が、どの川であったかは不明です。いくつもの川が、その名誉を競っています。最も可能性が高いと言われているのが上の地図に示した場所です。アルノ川とルビコン川を結んだ線が、ローマ本国と属国の北の境界であったと言われています。



 アルンスの住んでいる場所についてのダンテの記述に従えば、彼の住処(sua dimora)はルーニの山々の中で(ne' monti di Luni)、周囲が白い大理石で囲まれた(tra ' bianchi marmi)場所にある洞窟(spelonca)でした。そこの麓に住んでいるカッラーラ一人(lo Carrarese di sotto alberga)が険しい鉱山にはいって採掘する大理石は、古来より「カッラーラ・ビアンコ(Carrara bianco)」と呼ばれて有名でした。ミケランジェロのダビデ像などに用いられてきました。


ミケランジェロのダビデ像

女予言者マント

 次にやって来たのはマント(Manto)という名の女予言者でした。マントは、前出のテイレシアスが女に転身している間に産んだ子供でした。彼女が現れた時の姿は「結い上げていない髪の毛で両乳房を覆っていて(ricopre le mammelle・・・ con le trecce sciolte)52~53」、「毛深い肌のすべての部分(ogne pilosa pelle)54」は向こう側を向いているので、ダンテたちの側からは見えない状態でした。



女占い師の刑罰
占い師の刑罰(フェラーラの細密画:ヴァチカン図書館所蔵)
髪の毛で乳房を隠しているのが女予言者、そうでない者が男の予言者。




 マントはテイレシアスの娘なのに、父のすぐ後から、または並んで歩いているようには描かれていません。むしろマントは、この第4ボルジャの中心登場人物として設定されています。その目的は、ダンテの地獄巡りの先達ウェルギリウスの故国マントヴァとこの予言者マントとの関連を説明するためです。
 マントは、テイレシアスを父としてではなく、母として生まれ、テーバイで育ちました。アルゴスの7将が、アドラストスを総大将としてテーバイを攻めた時は失敗に終わりました。(前出の「アムピアラオス」の箇所を参照)。それから10年後、あの7人の将軍の子供たちが父の汚名挽回のため、アムピアラオスの子アルクマイオンを総大将としてテーバイを攻めました。その部隊のことを「子孫たち」という意味のギリシア語「エピゴノイ(Epigonoi)」と呼びます。
 ついにテーバイは陥落して、テイレシアスも落ち延びる途中で命を落とし、マントは囚われの身となってしまいました。テーバイ遠征軍は、勝利の暁には戦利品の中の最もよいものを献納するとアポロンに誓っていましたので、マントをデルポイの神殿に差し出しました。その後のマントは、転々と世界を遍歴して、各地に神話と伝説を残すことになりました。アエネアスのトロイア脱出からラティウムに辿り着き、ローマ帝国の礎を作ったという伝説を模倣したようなマントの物語が、詩人ダンテによって作り上げられます。

 先達ウェルギリウスは、地獄の巡礼者ダンテに向かって、マントとマントヴァの結び付きについて、次のように話し始めました。


 あれがマントだ、あの女が諸国を遍歴した挙げ句、やっと落ち着いた先が、実は私の生まれた故郷なのだ、だから私を少し喜ばすつもりでひとつ話を聞いてもらいたい。あの女の父親〔ティレシアス〕がこの世を去り、バッコスの町が隷従の境遇に陥るに及んで、あの女は長い世界遍歴の旅に出た。(『地獄編』第20歌55~60、平川祐弘訳)


 女予言者マントは、「多くの土地を探し求め(cercò per terre molte)」て、「バッコスの町〔テーバイ〕が隷従の境遇になった(venne serva la città di Baco)」時に、「長い年月の間、世界を遍歴をしました(gran tempo per lo mondo gio)」。女予言者マントが遍歴した「諸国(terre molte)」については、諸説入り乱れています。あの有名なテイレシアスの娘ですから、多くの土地が名誉を求めてマントにまつわる伝説を作り上げています。
 マントはアポロンの命により諸国を旅することになりました。そして小アジアにやって来てクラロス市を建造しました。そこでクレタの海賊ラキオスに拉致されて、有名な予言者モプソスを産みました。ただし、モプソスは、マントとアポロン神との子であったという伝説もあります。その後のマント伝説はイタリアへ移りました。




女予言者マントの航海地図
女予言者マントの予想された航海地図


ウェルギリウスの出生地マントヴァ近辺地図


 美しいイタリアの北、アルプスの麓に湖がある。ベナーコという名で、ティラルリの北でドイツと接している。そのガルダ湖とカモニカの谷とアペニンの間の土地は、幾千余の泉の水で灌漑されているが、その水が流れてその湖へ注ぐのだ。(『地獄篇』第20歌61~66、平川祐弘訳)

 現代のガルダ湖は、ダンテの時代には、「ベナーコ(Benaco)」湖と言っていました。上の原文でも「ベナーコという名の湖(un laco ・・・c'ha nome Benaco)現伊語は湖はlago」と呼んでいることからも分かります。それゆえに「ガルダ(Garda)」とは、湖畔の町の名に過ぎませんでした。また、「ティラルリ(Tiralli)」は、現代イタリア語では「チローロ(Tirolo)」で、日本では「チロル(Tirol)」と呼んだ方が馴染みがあります。『サウンド・オブ・ミュージック』のマリアの出生地としても有名で、イタリアと(神聖ローマ帝国の)ドイツの国境、現代ではオーストリアとの国境に位置していました。当然、『神曲』の原文では「ドイツ」の当時の呼び名「ラマーニャ(Lamagna または La Magna)」と呼ばれています。下に添付します地図を参照すれば、よく分かるはずです。

マントヴァ周辺の古地図
シングルトン(Charles S. Singleton)による注釈書に添付されている地図に筆者が加筆したものです。(The Divine Comedy, Inferno 2:Commentary, Princeton U.P.)p.354の対面頁。


 湖の中央に島があるが、トレントの司祭でも、ブレシアやヴェローナの司祭でも、そこへ行けば祝福を授けることができる。湖畔でいちばん岸が低いあたりに、美しい堅固な要塞ペスキエーラが聳えているが、ブレシアやベルガモの軍勢に備えてのことだ。ベナーコの胸の中におさまりきれない水は、そこからことごとく溢れでて、緑の野を一条の川となって流れくだる。水はいったん流れだすともうベナーコではない、ゴヴェルノーロに至るまでミンチオと呼ばれる、そこでポー川に合するのだ。湖を出てほど遠からぬあたりに低地帯があって、そこに水が溢れて沼をなすから、夏はとかく不健康地となっている。

『地獄篇』第20歌67~81、平川祐弘訳)

 ダンテは、その湖の中央に(nel messo là)に「ある場所(loco現伊語ではluogo)」があると言っていますが、当然「島」のことでしょう。上の地図では、正確な位置は曖昧ですが、当時は「フラーティ島(Isola de' Frati)」と呼ばれた今日の「レーキ島(Isola Lechi)」のことだと表示しています。ただし、現代の一般的な地図では確認が取れませんが、ガルダ湖の古地図には、「フラーティのガルダの島(Isola de Garda de' Frati)」という記述があります。すなわち、現代の「ガルダ島」のことだと推測されます。その島には、トレントとブレシアとヴェローナの三つの教区が共同で管轄する教会があったようです。



女預言者マントが北イタリアに到着

 マントヴァという地名は、予言者マントに因んで名付けられたという伝説は普通に流布しているものです。ウェルギリウスが彼の『アエネイス』の中で次のように明言しています。

 あのオクヌスもまた祖国の地から軍勢を呼び寄せた。この者は予言者マントとトゥスキアの川との息子で、マントゥアよ、汝のために城壁を築き、汝に彼の母の名を与えた者。マントゥアは、祖先に恵まれていた。しかしすべての者が一つの同じ家系(genus)から出ているのではなく、三つの種族(gens)がいて、それぞれの種族から四つの市民(populus)が出た。マントゥアはそれら市民の首都(caput)となり、その力はトゥスキ人の血統から出ている。(『アエネイス』第10巻198~203、筆者訳)

 「トゥスキア(Tuscia)」とは、「エトルリア(Etruria)」の別名です。一般的なイタリアの歴史地図を考えると、エトルリアはローマ付近からアルノ川までの地域を指します。しかし科学的検証のできない伝説の世界のエトルリアは、イタリア半島の西海岸全域とマントヴァまでを含んでいたようです。マントや彼女の父親テイレシアスがいて、カパネウス、アドラストス、アムピアラオス、その子アルクマイオンなどテーバイの七将が活躍した時代は、トロイア戦争で活躍したアキレウス、オデュッセウス、アガメムノン、ヘクトルなどの時代よりもさらに前であったと考えられています。考古学によって証明されている限りでは、トロイア戦争は紀元前1200年頃であったと言われていますので、オクヌス(OcnusまたはアウクヌスAucnus)が母の名「マント(Manto)」に因んで「マントゥア(Mantua、現代のMantova)と名付けたのは、更に昔であったということになります。科学的時代考証をすると矛盾に満ちてしまい、歴史として成立できなくなる伝説の時代です。
 『神曲』の中では、マントヴァ建設の模様が先達ウェルギリウスの言葉で次のように語られます。


 荒くれた娘〔マント〕はそこへ通りすがり、未開の無人の土地を沼の中に見つけだすと、そこに自分の手下を連れてとどまった、人間との交わりを避けて妖術を行うためだ、そこで生涯を送り魂の抜けた骸を遺した。そのあたりに散らばっていた人間が、後にその島に集まった。場所は周囲を沼に囲まれているから守りが固いのだ。その女の骨の上に市をつくり、最初にその場所を選んだ女にちなんでマントヴァと名づけた、ほかに案がなかったからだ。
(『地獄篇』第20歌82~93、平川祐弘訳)


 マントは地獄に落ちた亡者なので、厳しい描写になることは当然ですが、上の平川訳は、ダンテの原文以上に悪人仕様になっています。現在マントヴァのある土地は、昔は「沼地の中(mezzo del pantano)」で、「未開で無人(sanza coltura e d'abitanti nuda)」の荒れ地でした。その地へ、マントは「セルヴォ(servo)」を連れて来ました。そのイタリア語は、もともとは「召使い、下僕」という意味です。マントが盗賊ならば「手下」となり、教祖ならば「信者」となります。妖術なのか予言なのか占いなのかは不明ですが、何か「術(arte)」を行うために、マントはその地に定住して、人生を終えました。その後、「そのあたりに散らばっていた人間(uomini poi che 'ntorno erano sparti)」がその場所に集まって来ました。それは、『アエネイス』で述べられた「三つの種族」を指しているようです。ただし『神曲』には、マントの息子オクヌスは登場しません。マントヴァと名付けたのは、そこに住んだ市民たちでした。ダンテは従来とは、少し異なった説を展開しています。それゆえに、マントに関する説明を、次のような表現で締め括っています。

 ところで注意しておくが、私の生まれた国について、これとは違う由来を聞かされても、その種の偽説に惑わされるではないぞ。
(『地獄篇』第20歌97~99、平川祐弘訳)

 以上、見てきたようにマントは、人を惑わす異教の予言者として第8圏谷第4ボルジャに閉じ込められています。しかしダンテは、『煉獄篇』第22歌で浪費の罪を浄め終えた叙事詩人スタティウスに出会います。その時、スタティウスは「辺獄(リンボ)」には誰がいたかとウェルギリウスに尋ねます。するとウェルギリウスは、「テイレシアスの娘(la figlia di Tiresia)」すなわち「マント」の名前も上げます。おそらく、このマントの二重存在はダンテの不注意による誤りだといわれています。



ギリシアのトロイア遠征軍のお抱え予言者カルカス


 女予言者マントの次に通りかかった亡者は、エウリュピュロス(Eurypylos、『神曲』ではエウリピロ‘Euripilo’)という予言者でした。

 両の頬から髯を茶色の両の肩の上に垂らしている男は、ギリシャが男ひでりになって、男子は揺り籠の中にもまるで見かけられなくなった時に占い師だった男だ、彼がカルカスとともにアウリスで錨を抜く時を告げたのだ。名前をエウリュピュロスという、私の崇高な劇詩にも、どこかで登場している。全作品に通暁しているおまえだ、よく分かっているだろう。(『地獄篇』第20歌106~114、平川祐弘訳)

 この詩文に登場している占い師は、トロイア攻撃に成人男子は全て駆り出されてギリシア本土には小さな子供しか残っていない時代の人物で、ギリシア艦隊が攻撃前に集結したアウリス港で「カルカスとともにアウリスで錨を抜く〔錨綱を切る=出港する〕時を告げた(diede 'l punto con Calcanta in Aulide a tagliar la prima fune)」エウリュピュロス」です。しかし彼が予言者であったという神話も伝説も存在していません。ウェルギリウスの口で「私の崇高な叙事詩は、どこかで彼について歌っている(il canta l'alta mia tragedìa in alcun loco)」と言っています。(『神曲』地獄巡り24の喜劇と悲劇の理解を参照。) しかし、ダンテのこの詩文の部分は彼の錯覚であるとするのが、大方の見解です。
 カルカスが、トロイア戦争に同行した予言者であったことは、多くの伝説に書かれています。まず、ホメロス『イリアス』では、アカイア(ギリシア)勢の陣営に疫病が蔓延したので、その対処法をカルカスに尋ねました。その時の様子が次のように描かれています。



 いかさま彼(アキレウス)がこう言い終って腰をおろすと、衆人の中に立ち上がったのは、テストールの子カルカース、鳥占師の中にもとりわけ優れた者とて、現在のこと未来のこと、またその昔の出来事までも知り弁えて、イーリオスへとふかく、アカイア軍の舟勢を率いてきたもの、ポイボス・アポローンが与えたもうた占いの術の力によって。(『イリアス』第1巻68~72、呉茂一訳)

 カルカスがギリシアの名高い予言者であったことは、誰もが知るところです。しかしエウリュピュロスの方も予言者であったという記述は見つかりません。彼はギリシアの武将として登場して、次のように描かれています。

 またエウアイモーンの子エウリュピュロスは、尊いヒュプセーノールを――これは気象すぐれたドロピオーンとて、スカマンドロスの神覡(カンナギ)として国中に神とひとしく敬われていた者の子である、それをいま、エウアイモーンの栄えある息子エウリュピュロスが、自分の前を逃げて行くのを、後ろから追いつきざまに剣をもって跳びかかるなり肩を撃ち、重い手をすっぽりと切り落とした、地にまみれた手が地面に落ちれば、彼の眼をかたく紫色の死と、否応もない運命とが、おっとり込めた。(『イリアス』第5巻76~83、呉茂一訳)

 上の詩文からも分かるように、エウリュピュロスは、神とか予言とは関係のない普通の武将であって、彼が仕留めた武将ヒュプセーノールの父親が、ドロピオーンというスカマンドロス川の神に仕える「神覡」でした。この訳語のギリシア語の原文は「神官・神主」という意味の「アレーテール(arētēr)」が使われています。神官は予言との繋がりが強いので、エウリュピュロスを予言者と錯覚する要素はあります。ただし、ダンテはホメロスに関する知識はほとんど皆無でした。ホメロスの情報さえ乏しく、辺獄の中で「ほかの三人の前に立って王者のように、手に剣をもって進んで来る人」と描いて、私たちが持っている「盲目の吟遊詩人」というホメロスのイメージとは掛け離れたいます。


 ダンテがエウリュピュロスを予言者だと錯覚した原因は、ウェルギリウスの『アエネイス』の次の逸話だと言われています。

 何度もダナイ人は望みました、トロイアを捨てて逃走に取りかかろう、長い戦いに疲れたいま撤退しよう、と。そうすればよかったのに! だが、その行く手を何度も大海の激しい嵐が妨げました。南風の脅威が出発を阻んだのです。とりわけ、すでに楓の梁材を組み合わせてこの馬が立ったとき、全天に嵐雲が轟きを響かせました。不安に駆られ、ポエブスの神託を伺うためにエウリュピュロスを派遣すると、彼は神殿からこの不吉な答えをもち帰ります。(『アエネイス』第2巻108~115、岡道男・高橋宏幸訳)


ディドに物語るアエネアス
ピエール=ナルシス・ゲラン(Pierre-Narcisse, baron Guérin、1774~1833)『トロイアの陥落をディードーに語り聞かせるアエネーアース』

 上の箇所は、カルタゴに漂着したアエネアスが女王ディドに、トロイア陥落の模様を話して聴かせる場面の中でも有名な木馬のエピソードを語る部分です。ダナイ(ギリシア)人シノンは、トロイア人を騙して木馬を城中へ引き入れさせる役割を担って、まことしやかな作り話をしました。この箇所で名前の出たエウリュピュロスが、予言者かどうかは曖昧です。彼は、ポエブスの神殿に赴くのですが、彼自身がアポロン神から直に神託を聞くのではなく、神官が神から聞いた神託を、その神官から又聞きする形式だったと推測されます。それゆえにエウリュピュロスは、神託の受けるために派遣された一人の武将に過ぎないとみなすべきでしょう。ましてや、「エウリュピュロス」という名前は、全篇でこの箇所でのみ一回だけ使われているに過ぎません。ダンテはエウリュピュロスを予言者だから派遣されたと解釈したのかもしれません。



 イタリアの占星術師たちの行進

 次にやって来たのは、イタリア中世時代の亡者たちでした。まず先頭は、ミケーレ・スコット(Michele Scotto, 1175~1235)でした。彼はフリードリヒ2世(イタリアではフェデリーコと呼ばれました)がパレルモ宮殿に召集した優秀な学者の一人でした。彼は英国スコットランド生まれの哲学者で、特にアラビア語に翻訳されて存続していたアリストテレス哲学の注釈などを行いました。また、アラビアの天文学者アルペトラギウス(Alpetragius)をラテン語に翻訳したことが彼の特筆すべき業績です。ダンテも彼のことを「魔法を使った詐欺の遊びを実に良く知っていた(veramente de le magiche frode seppe 'l gioco)」と紹介しています。続いてやって来たグイド・ボナッティ(Guido Bonatti、1296年から1300年の間に80歳代で死亡)も、占星学者としてフリードリヒ2世に仕えていました。彼の著した『占星学書(Liber Astronomiae)』は、その後の2世紀に渡って天文学の教科書になっていました。ダンテが名前を知っている亡者で最後に通り過ぎたのは、「歯抜け」という意味のニックネーム「アスデンテ(Asdente)」と呼ばれる靴職人のベンヴェヌート(Maestro Benvenuto)でした。彼は、また占いの術にも優れていて、フリードリヒ2世の破滅の始まりとなった1248年のパルマの戦いで、皇帝が敗北することを予言したと言われています。そのために、ダンテはアスデンテを地獄に落として、「彼は皮と紐に専念しておれば良かったのに(avere inteso al cuoio e a lo spago ora vorrebbe)119~120」と占い師であったことを後悔させています。そして最後に出会ったのは、名前は知られていませんが、「針仕事(ago)」や「機織り(spuola)」や「糸紡ぎ(fuso)」を投げ出して占い師になった女の亡者たちでした。


 この地獄に落とされている予言者たちは、古代ギリシア・ローマの世界の最も有名だった人物です。むしろ、ダンテが、アンピアラオスやティレシアスやアルンスのような偉大な預言者を地獄に落とした根拠は曖昧です。地獄に落ちている予言者なので、日本語に翻訳するときは「妖術師」とか「魔術師」などと訳すことが多いのですが、しかしダンテは「予言者(augureとか indovine)」と言っているだけです。確かにダンテは予言のことを「魔術の詐欺の戯れ(il gioco de la magiche frode)117 」と軽蔑しています。だからといって、予言者であるというだけの理由で、地獄に落ちなければならないのであれば、新約聖書の三大予言者のイザヤとエレミヤとエゼキエルは、罪人なのでしょうか。さすがのダンテも、彼らは聖人に加えることでしょう。ここでも『神曲』の全篇を貫いている大原則が存在しているようです。それはただ一つで、キリスト教の洗礼を受けているかどうか、と言う点だけです。

 ダンテとウェルギリウスの一行は、マレボルジェという特別な名前をもつ第8圏谷の第4ボルジャを後にして、地獄巡りの経過時刻を確認した後、汚職と収賄をした罪人たちが刑罰を受けている第5ボルジャへの進ます。