『神曲』地獄巡り4.智者たちの地獄リンボ | この世は舞台、人生は登場

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智者たちの地獄リンボ(辺獄)

リンボの港

 三途の川の渡し守カロンは、地獄の本土側の船着き場まで罪人たちを送り届けます。嫌がる亡者は、櫂で叩き降ろします。一方、ダンテは昏睡状態になり、気がつくと冥界の本土に着いていました。その様子は次のように描写されています。

 激しい雷鳴が頭の中の深い眠りを破った、無理やりに叩き起こされた人のように私はがばと跳ね起きた。そしてまっすぐに立ち上がると、疲れのとれた目を動かして、私がいる場所がどこかそれを見定めようと、しっかりと視線をすえた。私が立っているのはまちがいなく嘆きの谷の深淵の縁だった、そこには際限ない叫喚が集まり、雷鳴のように轟いている。(『地獄篇』第4歌1~9、平川祐弘訳)

 「嘆きの谷の深淵」というのは、言うまでもなく〈地獄〉のことです。そこで刑罰を受けている罪人たちの呻き声が落雷のように轟いてきました。昏睡していたダンテは、その轟音によって目が覚めたのです。地獄とは、星明かりもない漆黒の闇の世界です。上の詩句に続いて、「その谷は暗く、深く、霧も濃くて、いくら谷底を見つめても、何も見分けることができなかった」と表現されています。『神曲』の地獄は光のない暗黒の空間で、その反対に天国は光に満ちた世界です。そしてどちらの世界も、人間の肉眼では見ることのできない「超自然の世界」です。『神曲』の読者は、本当は何も見えていない地獄の光景が鮮明に見えているような錯覚をするのです。地獄を降りれば降りるほど、ますます暗黒の度合いは増すのですが、読者の視野は冴えてきて、映像は鮮明になって行きます。『天国篇』に入るとその逆の現象を体験することになります。天国を上に上がるほど明るくなるのですが、眩しくて輪郭は不鮮明になって行きます。
 暗黒の中を進むと、別名辺獄(リンボ)とも呼ばれる第1圏谷の森に入りました。そこから聞こえていた雷鳴は、拷問や呵責の呻き声ではなく、悲しみの溜息の声でした。ウェルギリウスも涙を流しながら、この辺獄のことをダンテに話して聞かせました。


   かれらは罪を犯したのではない、徳のある人かもしれぬ、だがそれでは不足なのだ、洗礼を受けていないからだ、洗礼はおまえが信じている信仰に入る門だ。キリスト教以前の人として崇めるべき神を崇めなかったのだが、実は私もその一人だ。こうした落ち度のためにほかに罪はないのだが、私たちは破滅した、ただこのために憂き目にあい、天に上る見込みはないがその願いは持っている。(『地獄篇』第4歌34~42、平川祐弘訳)

 いかに高徳な人であろうと、キリストの贖罪以前の者は天国へ上ることができないのです。その様な人は、他の罪人のように拷問などの責め苦を受けることはないのですが、神からの祝福を受けることもありません。ただ例外が一度だけありました。

キリストの辺獄降下

 人間の原罪を贖うことに成功したキリストは、天国の父のもとに凱旋して帰る前に地獄へ降下しました。その目的は、サタンによって辺獄に幽閉されていた旧約聖書の聖人たちを救い出すためでした。イエス・キリストが十字架に磔(はりつけ)によって処刑されたのが紀元後30年頃だといわれています。その時から遡ることおよそ50年前の紀元前19年、ウェルギリウスはこの世を去って辺獄にやって来た、ということになります。その頃、ウェルギリウスは、キリストの地獄下降を目撃したことになるのですが、その時の模様を次のように証言しています。


 私がここへ来て間もなくの頃、勝利のしるしを頭につけた力ある方が一人ここに来るのを見た。そのお方は第一の父アダムやその息子アベル、ノアや法を立てまた神によく仕えたモーセ、族長のアブラハムやダビデ王、イスラエルとその父や子供たち、そしてイスラエルが忠実に仕えたラケル、その他大勢の人の魂をここから連れ出して、祝福を与えた。おまえに知ってもらいたいことは、それ以前には、人間の魂で救われたものは無い。(『地獄篇」第4歌52~63、平川祐弘訳)


アンドレア・ディ・ボナイウートAndrea di Bonaiuto,(1343 - 1377)
アンドレアディボナイウト

 キリストの辺獄下降の伝承は、キリスト教のすべての宗派に共通したのものではないようです。さらに、辺獄の存在自体も、認知している宗派は少ないようです。しかし、古典ギリシア・ローマ文化の復興と回帰を目指すルネサンスという時代の黎明期に活動するダンテにとって、尊敬する詩人たちが洗礼を受けていないという理由だけで地獄の底に追いやられることは耐えられなかったことでしょう。如何に尊敬する先輩詩人であっても、教理を歪めてまで天国に住まわせることはできません。そこで、辺獄を整備して、洗礼を受けられなかった古代の偉人たちや賢人たちや幼い無垢な幼児たちを、そこに安住させたのです。

尊敬する四大詩人との歓談

 ダンテが辺獄に入って最初に出会ったのは、四人の偉大な詩人でした。ウェルギリウスはダンテにその四人を紹介して、次のように言いました。

 ほかの三人の前に立って王者のように手に剣をもって進んで来る人を見るがいい。あれが詩人の王ホメロスだ。次に来るのが風刺詩人ホラティウス、オウィディウスが三番目で最後がルカヌスだ。(『地獄編』第4歌86~90、平川祐弘訳)

下の絵画は上の情景をニコラ・コンソーニ(Nicola Consoni, 1814~1884)が描いた作品です。
四大詩人と歓談

 四人の詩人にウェルギリウスが加わり、古典文学の最高峰に位置する五人の詩人がしばらく談笑した後、ダンテに向かって微笑んで、彼を六番目の詩人として仲間に招き入れました。すなわち、ダンテは彼自身を六大詩人の一人として後の世に位置づけられると言っているのです。私個人としては、ダンテを世界最高の詩人だと評価しております。
 ダンテは、ギリシア・ローマの先輩詩人たちと歓談しながら、一緒に立派な城の下に着きました。その城は、高い城壁が七重に取り囲み、周囲を小川が流れていました。ダンテ一行は水面を土の上を歩くように渡りました。そして城壁の七つの門を一つ一つ潜り抜け、緑の野原に着きました。そこで古代ギリシア・ローマの有名な偉人や賢人に出会いました。城内の芝生の園に集い、憩いの時をすごしている人々の群は、大きく二つのグループに分かれていました。それは、哲学者のグループとそれ以外のグループに別れていました。


哲学者以外の古典の偉人たち


 最初に出会ったのは〈それ以外のグループ〉でした。先ず沢山のお供を連れたエレクトラが見えました。古代ギリシアには多くの〈エレクトラ〉がいますが、この辺獄にいるエレクトラは大神ゼウスと交わってトロイア王家の祖ダルダノスを産んだ人物です。それ故に、このグループにはウェルギリウスの『アエネイス』に登場する人物が多くいました。トロイア王子ヘクトルとアエネアス、アエネアスの末裔を自認するカエサル、ラティウムの女傑カミラとアマゾネス女軍の女王ペンテシレイア、イタリア・ラティウムの王ラティヌスにその娘ラウィニアがいました。さらに、王制ローマ最後の王タルキヌス・スペルブスを追放して共和制を確立し、初代執政官になったルキウス・ユニウス・ブルトゥスがいました。また、スペルブス王の息子セクストゥス・タルキヌスに強姦されので自害した貞淑な女ルクレチアが見えました。この事件は後にシェイクスピアによって物語詩『ルクレチアの陵辱(The Rape of Lucrece)』に書かれたことでも有名です。

アエネアスからアウグストゥスまでの系譜
初代執政官ブルトゥス

 ここまでに辺獄で出会った人物は、すべてキリスト教以前、すなわち紀元前の偉人や賢人たちでした。しかし、この古典ギリシア・ローマの雰囲気の中で違和感を漂わせている人物がいました。その人は、「皆から離れて一人きり」でいたイスラム国の王サラディンです。この回教徒の王は、寛容な精神を持った名君であったとしても、十字軍と戦ったキリスト教に敵対する国の王です。ダンテは、同時代のローマ法王でさえ地獄の底で処罰を受けさせています。それなのに、キリスト教の敵に辺獄で安楽な生活を送らせる、という設定には違和感を覚えます。実は、ダンテは読者に違和感を覚えさせようとして場違いなイスラム教の人物を挿入しているかも知れません。
 ダンテは、このイスラムの王を辺獄の定住者として描かない、という選択肢もあったはずです。しかし彼がサラディンをこのメンバーに加えたのは、彼の神学上の疑問を読者に投げかけるためであった、と私は考えています。天国界の木星天で、鷲の形に結集した正義の魂に対して、ダンテはその具体的な疑問を投げかけます。


 誰かインダス河畔で生まれたとする、その地にはキリストについて語る人も、読んで教える人も、書いて記す人もいない。その男の考える事、為す事はすべて人間理性の及ぶかぎりでは優れている。その生涯を通じ言説にも言動にも罪を犯したことがない。その男が洗礼を受けず信仰もなく死んだとする。その彼を地獄に堕とすような正義はどこにあるのだ?彼に信仰がないとしてもそのどこに罪があるのだ?(『天国篇』第19歌70~78、平川祐弘訳)

 このダンテの疑問は、古代ギリシア・ローマ時代のことを対象にしたものではなく、キリスト教以後の人々に向けられたものです。すなわち、キリストの時代にあっても、キリストを知る環境にない異教徒の中にも良い行いした立派な人がいます。しかしキリスト教徒ではないという理由だけで地獄へ堕とされることにダンテは疑問を呈しているのです。このダンテの疑問は、私のような異教徒には当然に湧き起こるものです。しかし、この疑問自体がキリスト教には禁断で、中世期ならば異端宣告されたかも知れません。キリスト教以外の世界が目に入るようになったのは、また目に入れても許される状況になったのは。なんと言っても世情が〈ルネサンス〉へと向かっている証拠だと言えるのではないでしょうか。
 ダンテの疑問に対しては、異教徒の私には満足できる回答は得られません。鷲の形に結集した正義の魂は、その様な疑問を持つダンテに向かって、「おまえは何者だ、判事の座に坐ろうというつもりか」と非難します。それは聖書に書いてあることで「神意」なのだ、とダンテの疑問を一蹴しました。同じ異教でも、ギリシア・ローマ神話の神々への認知は好意的に進みつつありましたが、イスラム教に対しては厳しいかったようです。辺獄に独りぽつんとたたずむサラディン王の姿にダンテの疑問の強さを感じ取りましょう。


哲学者たち ― 知識(sophia)を愛する(philos)人の意味から科学者も含む

 もう一つの集団は、哲学者たちです。ダンテの時代は中世からルネサンスへの移行期なので、最も重要な哲学者はアリストテレスでした。「哲学者(ラテン語:philosophus、イタリア語:filosofo)」といえば《アリストテレス》を指しました。『地獄編』のこの箇所でも固有名詞は使われていません。その哲人のことは、「ものを知る者たちの師(il maestro di color che sanno)」と呼んでいます。アリストテレスに続いてソクラテスとプラトンが見えました。その次は、私のブログ名「この世は舞台、人生は登場」を唱えたデモクリトスが立っていました。その他、ディオゲネス、キケロ、ユークリッド、プトレマイオスなど合計21名の哲学者が続いていました。

名簿(カタログ)の不自然さ

 そのカタログの奇異なところは、ギリシア悲劇詩人の名前が一人も出ていないことと、オルペウスとリノスのギリシア神話上の人物を挙げていることです。
 ダンテの時代のヨーロッパはラテン語が標準語で共通語でしたので、重要書類や公式文書はラテン語で書かれていました。一方では、俗語と呼ばれる各国のラテン語方言で文学を書こうとする運動も起こりました。ダンテも彼の著書『俗語詩論』で、イタリア語によって詩作する重要性をラテン語で書いています。ダンテが『神曲』をあえてイタリア語で書いたのは、その運動の一環でした。
 ラテン語の達人ダンテも、ギリシア語の知識は、ほとんど皆無でした。まだ西ヨーロッパにはギリシア語を習得できる環境が整っていませんでした。(ギリシア語の復活の詳しい過程は私のブログ『プラトンとアリストテレスが携えている本』を呼んでください。)そのため、ダンテは古代ギリシアの知識に関して多少の弱点を持っているようです。先程のホメロスの姿の描写にしても、「ほかの三人の前に立って王者のように手に剣をもって進んで来る人」と描いています。ホメロスは盲目の吟遊詩人というイメージが定着していますので、「王者のように手に剣をもつ」というイメージはホメロスには似合いません。ダンテは、その詩人がトロイア戦争を題材にした作品を書いたので、手に剣を持った武将ホメロスの像を作り上げてしまったのでしょう。また、哲学者の中に「オルペウス」と「リノス」を加えたことも、古代ギリシア事情に暗かったことが原因だといえます。この二人は、ギリシア神話に登場する詩人であり音楽家ですが、一般的には、あくまでも架空の人物です。まだ、ホメロスなどの詩人のグループに入れたのであれば納得できます。しかし、アリストテレスやソクラテスと同じグループのカタログに書き入れたのは、古代ギリシアに関しては知識不足であったと言わざるを得ません。ダンテにも筆の誤りがあるのです。


 辺獄散策に最初から付き合ってくれたホメロス、ホラティウス、オウィディウス、ルカヌスの四人の先輩詩人と別れて、ダンテとウェルギリウスのふたりは光のない暗黒の第2圏谷へと降りて行きました。