プラトンとアリストテレスが携えている本 | この世は舞台、人生は登場

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私は、十数年前からパソコンの待ち受け画面に同じ画像を使っています。それは、古典ギリシア・ローマ文学を愛好し、ルネサンス文学を研究している私には、まさしく西洋学問の「曼荼羅(まんだら)」(仏教的宇宙の真理を表すために仏や菩薩や守護神などを一枚に描いた図画)と呼ぶに相応しい美術作品です。その作品とは、『アテナイの学堂』(この日本名がscuola di ateneで検索すれば、多くの鮮明な画像が見つかります)と名付けられたラファエロ・サンティによる壁画です。



  ラファエロといえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブオナローティと並び称されているルネサンスの三大画家であることは誰もが知るとことです。ラファエロは、時のローマ教皇ユリウス2世からの依頼によりバチカン教皇庁の四つの部屋の壁にフレスコ画を創作しました。その四部屋は「ラファエロの間」と呼ばれ、その中の一つ「著名の間」という部屋の壁面に、「西洋古典の曼荼羅」と私が勝手に呼んでいる『アテナイの学堂』が描かれています。この壁画には、ソクラテス、ピュタゴラス、アルキメデス、ディオゲネス、プトレマイオス、エピクロスなど二十数名の古代ギリシアの哲学者や科学者が描かれています。

アテネの学堂のプラトンとアリストテレス

そしてその作品の中央には二人の哲学者が描かれていて、指で天を指しているのがプラトンで、手のひらを地面に向けているのがアリストテレスです。プラトンのその仕草は観念論哲学を表し、アリストテレスの仕草は経験論哲学を表してる、と解釈するのが一般的です。またそのモデルに関しても、プラトンがダ・ヴィンチで、アリストテレスがミケランジェロであったといわれています。その他にも、この作品に関しては、いろいろな研究者がいろいろな方面からいろいろな意見を出しています。しかし私がこの作品の中で最も興味を感じているのは、プラトンとアリストテレスが持っている書物です。

プラトンの携えている本 

  では、プラトンが左手に抱えてる書物に注目してみましょう。その書物の背文字を判読すれば、“TIMEO(ティメオ)”と読むことができるので、それから判断すれば、彼の自著『ティマイオス』であることに疑いの余地はありません。しかし不思議なことがあります。プラトンは古代ギリシア人ですから、もしその自著を持っていると想定するならば、ギリシア語で“TIMAIOS(ティマイオス)”と表記すべきです。ラテン語が公用語のバチカン宮殿内の仕事ですから、せめてラテン語名で“TIMAEUS(ティマエウス)”と書いてあれば説明もできます。しかし“TIMEO”はイタリア語です。バチカンといえどもイタリアの中にあるといってしまえば、なるほどと納得もできますが、当時の時代背景から判断すれば簡単に片付けられる問題ではありません。それと同じことが、アリストテレスの書物にもいえます。



アリストテレスの携えている本

  アリストテレスが持っている本の背文字は、その一部が手のひらに隠れているためプラトンのものより判読しづらいのですが、通説では“ETICA(エティカ)”と書いてあることになっています。それは、我が国の学界では『ニコマコス倫理学』と呼ばれている本です。当然、原題はギリシア語で、「ニコマコスの倫理学」を意味する“ĒTHIKA(エティカ) NIKOMACHEIA(ニコマケイア)”です。ラテン語でも「倫理学」は“ETHICA(エティカ)”なので、ラファエロが使っている“ETICA”もプラトンの本と同様にイタリア語なのです。


  それでは、なぜラファエロは、古代ギリシア人の携える書物にギリシア語を使わないでイタリア語を使ったのでしょうか。確かにこの絵をシニカルな目線で見れば、ただラファエロの勘違いかギリシア語に対する無知から時代考証を誤ったに過ぎないと言い放ってしまうこともできるでしょう。しかしルネサンス芸術の中でも荘厳さにおいて屈指の作品『アテナイの学堂』に相応しい重厚なロマンを、この間違った背文字から読み取ってみましょう。
 古代ローマ時代の日常語はラテン語でしたが、ギリシア語を使うのはエリートの証であったようです。それを証明するエピソードを一つ紹介しましょう。「ブルータスよ、おまえもか」といって死んでいったのはユーリウス・カエサルでした。シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』では、“E tu(エトゥ), Blute(ブルーテ)”とラテン語で怒鳴ったことになっていますが、実際には、カエサルの叫びは“kai su, teknon(カイ シュ テクノン)(息子よ、お前もか)”とギリシア語であったという説が有力です。カエサルほどの人物は、死を間近にしても日常言語のラテン語ではなく、ギリシア語を叫んで死んでいったのでしょう。
 ローマ帝国の分裂(396)により、ギリシア語の使用は東ローマ帝国(ビザンティウム)の中だけに限定され、西ローマからは、最初は徐々に、最後には完全に消滅しました。父親から徹底的にエリート教育をうけたダンテ(1265~1321)でさえもギリシア語を学ぶ環境にはありませんでした。ソネットの達人ペトラルカ(1304~1374)は、アヴィニヨンに滞在していた東ローマ人バラムという学者から、近代ヨーロッパ人としては初めてギリシア語を習い始めました。しかし、その先生は途中で帰国してしまったので習得することはできませんでした。最初のギリシア語習得者は、ペトラルカの友人で『デカメロン』の作者ボッカッチョ(1313 ~1375)です。彼は、1360年、カラブリアにいた東ローマ人ピラトゥスをギリシア語教授としてフィレンツェに招き、近代ヨーロッパ人としては初めて、ギリシア語を習得しました。1453年、オスマン・トルコによってコンスタンティノポリスが陥落して、ギリシア語学者が大量に西ヨーロッパへ逃げて来ましたので、ギリシア語学習も容易になりました。そして1463年頃、メディチ家の援助を受けてプラトン・アカデミーが創設され、ギリシアの研究も盛んになってきました。ダ・ヴィンチ(1452 ~1519)もミケランジェロ(1475 ~1564)も、そして最も年少のラファエロ(1483~1520)も、当時のギリシア研究の本拠地フィレンツェで活動しています。それゆえにラファエロは、プラトンもアリストテレスもギリシア人で、彼らの著書がギリシア語で書かれていたことを知らなかったはずはありません。なぜ、ラファエロが『アテナイの学堂』に描いた二つの書名をイタリア語で書いたのか、その真意は私にとって謎です。やはり、ラファエロはギリシア語を知らなかったのか。たとえそうだとしても、誰かから教えを受けることはできた筈です。そしてまた、わざわざイタリア語を使わなくても、せめて背文字を描くだけのラテン語能力ぐらいは持っていた筈です。私の推測にしか過ぎませんが、その理由を考えてみましょう。
 ルネサンスという時代は、ギリシア語やラテン語を重要視する傾向がありました。しかしその反面で、自国の言葉を洗練し豊かな言語に成長させようとする運動も興り、イタリアにおいても自国語(vulgaris(ウルガーリス) lingua(リングゥア))で文学を創作しようとする気運も高まりました。イタリア語の重要性を主張してラテン語で『俗語論』を書いたダンテも、彼の大作『神曲』はイタリア語で書きました。ペトラルカもいくつかの叙事詩はラテン語で書きましたが、彼の名を後世に知らしめることになった抒情詩『カンツォニエーレ』はイタリア語の作品です。近代ヨーロッパ最初のギリシア語習得者ボッカッチョでさえも代表作『デカメロン』はイタリア語で書かれた作品です。その様な気運のさ中にあって、ラファエロも、プラトンとアリストテレスの母国語ギリシア語ではなく、また当時のエリートの言葉ラテン語でもなく、あえて自国語であるイタリア語で二つの背文字“TIMEO”と“ETICA”を描いたのではないでしょうか。