『神曲』煉獄登山42. フランスの暴れん坊国王フィリップ4世 | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

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   フランス王朝の祖ユーグ・カペー王は、自己紹介に続いて息子ロベール2世について話しました。そしてそれから、カペー王は、「力こそなかったが悪事を働きはしなかった(poco valea, ma pur non facea male)獄煉篇20歌63」歴代フランス王の治世の後に、「暴力と欺瞞を伴った掠奪(con forza e con menzogna la sua rapina)煉獄篇20歌64-65」を行った末裔たちを紹介しました。その悪事を働いた王たちには、カルロ1世ダンジョを筆頭にヴァロア伯カルロとカルロ2世ダンジョの名がありました。そして最後に、最も悪名高いフィリップ4世について、次のように紹介を始めました。

 

   見れば百合の花がアラーニャに乱入して、キリストの代理者を逮捕した、これには過去未来の数々の悪事も色あせるにちがいない。(『煉獄篇』第20歌 85~87、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   未来の悪行も過去の悪行もより小さなものに見えるようにするために、百合の紋章がアラーニャに入って来て、代理人のかたちでキリストが捕らえられるのが、私には見える。

 

   この詩行の中で詠われている事件は、後に「アナーニ事件」と呼ばれることになった歴史的出来事です。その事件は、1303年9月6日に起こったので、『神曲』の中では予言の形式で叙述されます。そして、その「アナーニ事件」とは、フランス王フィリップ4世の命令によって、王の法律顧問(juriste)ギヨーム・ド・ノガレ(Guillaume de Nogaret、1260-1313)が、イタリアの有力貴族ジャコモ・コロンナ(Giacomo Colonna、通称「シャルラ:Sciarra」1270-1329)の合力を得て、ローマの東南東70kmの町アナーニで静養中の教皇ボニファティウス8世を襲撃して退位を迫った事件のことです。その謀計は失敗に終わりましたが、ボニファティウスはその事件のストレスで、事件から一ヶ月後に亡くなりました。

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   上出の「百合の紋章(fiordaliso)」とは、フランス王家の紋章「フルール・ド・リス (fleur-de-lis)」のことです。さらに、ローマ教皇はイエス・キリストの代理人であるので、その紋章がボニファティウスを捕らえるということは神キリスト自身を捕らえるのと同じことなのです。言うまでもなく、その事件の張本人はフランス王フィリップ4世で、彼の行為は「未来の悪行も過去の悪行もより小さなものに見える(men paia il mal future e’l fatto)」ほど重い罪だと、ダンテは判断しているのです。すなわち、フィリップ4世はダンテにとっては史上最悪の人物である、という意味になります。

   さらに続けて、次のように「アナーニ事件」に言及します。

 

   見ればキリストがふたたび嘲りを受け、ふたたび醋(す)と膽(い)とを嘗めさせられ、挙句にぬけぬけと生きている盗人どもの間で殺されてゆく。(『煉獄篇』第20日88~90、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   もう一度、彼が愚弄されるのが、私には見える。酢と胆汁がまた新しくなり、生存中の大泥棒の間で殺害されるのが、私には見える。

 

   上に描かれている情景は、イエスがゴルゴタの丘で十字架刑にされる場面です。その箇所は、新約聖書の『マタイのよる福音書』の「第27章33~38」で、次のように記述されています。

 

   ゴルゴタ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、そこにすわってイエスの番をしていた。そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。

 

   言うまでもなく、ダンテが描いている事件は「アナーニ事件」で、キリストに喩えられている人物はボニファティウス8世です。そして、『マタイ伝』に述べられているイエスと共に十字架に架けられた「ふたりの強盗」は、『煉獄篇』の「生きている大泥棒(vivi ladroni)」のことで、教皇を拉致するために派遣されたフランス王の家臣ギヨーム・ド・ノガレとジャコモ・コロンナの比喩であると、解釈されています。

 

 

   さらに、フィリップ4世についての記述が続きます。

 

   見れば第二の残忍無情のピラトが、これしきの事では満足せず、法令を無視し、強欲の帆を張って聖堂の中へ乗りこんでゆく。(『煉獄篇』第20歌91~93、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   私には見える。新しいピラトが余りにも残忍なので、こんな事では満足させることはなく、法を無視して、貪欲な帆船を聖堂の中へ乗り入れる(=持ってくる)。

 

 

   ピラト(Pontius Pilatus)は、ローマ帝国のユダヤ属州総督で、イエスの処刑を宣告したことで有名な人物です。その「新しいピラト(novo Pilato)」とは、キリストの代理人である教皇ボニファティウス8世を拉致して拘束しようとした張本人であるフランス王フィリップ4世の比喩的表現です。さらに上の詩行の中にはもう一つの比喩が隠されています。それは「聖堂(Tempio)」という表現で、フィリップ王が壊滅させた「テンプル騎士団または聖堂騎士団(Cavalieri templari)」の比喩的表現です。

 

   テンプル騎士団とは、ダンテとフィリップ4世の時代に、聖地エルサレムとその巡礼者を護るために修道会によって創設された宗教騎士団のことで、聖ヨハネ騎士団とドイツ騎士団と共に三大勢力を誇っていました。そして、テンプル騎士団は、ユーグ・ド・パイアン(Hugues de Payens)によって設立され、1128年に教皇ホノリウス2世(在位:1124-1130)によって承認されました。その騎士団は、エルサレムに本拠を置き、軍事だけでなく財務機関としても活動して潤沢な資金を保有しました。ところが、13世紀の終わり頃、イングランドとの戦争や国土拡張に資金を使い尽くしたフィリップ4世が、テンプル騎士団の財産に目を付けて、弾圧を開始しました。1307年、その国王は、団員を根こそぎ逮捕して、異端審問にかけ、拷問により自白させ処刑しました。上の詩行中の「法を無視して、貪欲な帆船を聖堂の中へ乗り入れる(sanza decreto portar nel Tempio le cupido vele)」という文言は、テンプル騎士団の弾圧を意味する比喩的表現なのです。

 

   フィリップ4世は、容姿端麗であったので「美形王(Philippe le Bel(英語)Philip the Fair)」と呼ばれていましたが、その王の行為は、貪欲と残忍なものでした。ダンテにとっては、フィリップ王は「大泥棒(ladroni)」の首領と呼ぶに相応しい人物だったことでしょう。そしてさらに、フィリップ王のことを、次のように「フランスの禍(il male di Francia)」とまで言っています。

 

   二人はフランスの禍(わざわい)の父と岳父に当たるので、子の無軌道で低劣な生活を知っていますから、それに胸を痛め悩んでいるのです。(『煉獄篇』第7歌 109~111、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   彼らは、フランスの厄難の実父と義父である。彼らは、彼の腐って汚れた生きざまを知っている。そして、そのために、あんなにも彼らを刺し貫いている悲しみが到来している。

 

   巡礼者ダンテは、煉獄門の前で登山が許されるのを待っているフランス王フィリップ3世とナヴァラ王エンリケ1世の二人に出会いました。フィリップ3世はフィリップ4世の父親であり、エンリケ1世はフィリップ4世の妻フアナ(Juana、仏語:ジャンヌ)の父王でした。それゆえに、その二人は、フィリップ4世の「実父(padre)」と「義父(suocero)」にあたりました。そして、詩人ダンテは、その二人の父親に息子フィリップ4世のことを「腐って汚れた生き様(la vita viziata e lorda)」と罵らせているのです。しかし、フィリップ4世の貪欲さは、結果的にはフランス王国の領土拡大に貢献することになりました。

 

敵の敵は味方

   ダンテは、彼のフィレンツェ追放の重要な役割を演じたボニファティウス8世に対して、「怨恨」に近いほどの憎しみを抱いていたはずです。そのボニファティウスへの憎しみから、ダンテはその教皇を地獄へ堕とすことにしていました。

   地獄の第8圏谷の第3濠にはいくつもの穴が掘られていて、聖職を利用して蓄財した亡者たちが、火の燃える穴の中に頭から逆さに放り込まれてもがいていました。両脚は外に出ていましたが、苦しさの余り、必死になってばたつかせていました。そして、その第3濠の出口付近には、ひときわ激しく炎が燃えているローマ教皇専用の穴がありました。先達ウェルギリウスに導かれて、巡礼者ダンテがその穴を通過する時(1300年)に、閉じ込められて刑罰を受けていた教皇ニコラウス3世に出会いました。その教皇は、聖職を公然と私物化した人物で、在位(1277.11.25~1280.8.22)していた短い間に、親族のために財産を殖やし、大邸宅を建て、7人の枢機卿を増員して、そのほとんどに親族(甥)を就けました。さらに、もともと教会に所属していたサンタンジェロ城を私物化して甥のメッセル・オルソーに与えたとも言われています。

 

プリアモ・デッラ・クェルシャ聖職売買者

プリアーモ・デッラ・クェルシャ(Priamo della Quercia)の細密画「聖職売買者」

 

   そのニコラウス3世は、自分の穴の方に近づいてくるダンテに向かって次のように叫んでいます。

 

      おまえはもうそこに来たのか?おまえはもうそこに来たのか、ボニファチオ?〔予言の〕書物に記された時と数年もちがうぞ。 (『地獄篇』第19歌 52~54、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   おまえは、もうすでにそこに立っているのか?おまえは、もうすでにそこに立っているのか、ボニファティウスよ?文書はかなりの年数で私をだました。

 

 

   ニコラウス3世は、逆さに埋められているので、近づいてくるのがダンテだと分からなかったのです。しかし、彼の次にその穴に落ちるのがボニファティウス8世であることは、地獄の亡者に備わった予知能力で知っていたので、ダンテをその教皇と間違えたのです。ただし、史実ではボニファティウスの死が1303年なので、ニコラウスは3年だけ予知を間違えたのだと錯覚したのです。さらにニコラウス3世は、ボニファティウス8世のすぐ後からクレメンス5世がその穴に落ちてくると予言して、次のように言っています。

 

    そいつの後から西から無法な法王が来るだろう、することなすことが輪をかけて邪悪だから、これにはそいつも私も及びがつかぬ。 (『地獄篇』第19歌 82~84、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   なぜならば、彼(ボニファティウス)の次に、もっとおぞましい所業の法を持たない一人の羊飼いが西の方角から来るだろう。そやつは彼(ボニファティウス)と私(ニコラウス3世)を(穴の下へ)詰め込むことになるような人物である。

 

   ボニファティウス8世の次に第3濠の穴に落ちてくる「一人の羊飼い(un pastor)」すなわち教皇は、クレメンス5世を指しています。その教皇は、カトリック史上最大の屈辱である教皇庁をアヴィニヨンに移した張本人です。それゆえに、クレメンスは、イタリアから見た「西の方角(di ver’ ponente)」すなわちフランスから来て、地獄の穴に投げ込まれることになるのです。ということは、ダンテは、同時代の教皇の中でニコラウス3世とボニファティウス8世とクレメンス5世の三人に対して厳しい評価を下していることになります。そして、上述したように、ダンテのフィレンツェ追放に直接かかわったボニファティウスには特別な憎悪を覚えていたに違いありません。しかし、フィリップ4世の描写の中に登場するボニファティウス教皇は、同情的に描かれています。たとえば、前出のアナーニ事件でフィリップ4世に拉致される場面では、ボニファティウスはキリストの「代理者(vicario)煉獄20歌87」と呼ばれています。さらに換言すれば、その教皇は単独で登場するときは、地獄堕ちが決定している悪人なのですが、フィリップ4世との関わりで描かれる時は善人あり、キリストの代理者として登場しているのです。すなわち、ダンテにとって教皇ボニファティウスも天敵のような存在なのですが、それ以上に嫌う敵はフランス王フィリップ4世です。そして、そのフィリップその人はボニファティウスを彼の覇権を邪魔する敵だとみなしています。それゆえに、ダンテの敵(フィリップ)の敵(ボニファティウス)は味方なので、その教皇に対する描写が好意的になってしまったのではないかと判断されます。

 

フィリップ4世は神曲の透明人間

   ダンテ(1265-1321)とフィリップ4世(1268-1314)は同じ時代を生きました。前者ダンテは故郷を追われた不遇な流浪の境遇でしたが、一方後者はヨーロッパの国々を征服してフランスをローマ教皇庁も神聖ローマ帝国も凌ぐ大国に発展させました。しかし、フィリップ4世は、『神曲』の中では極めて登場回数の多い人物だと言えるのですが、彼個人の人名は一度も使われてはいません。すでにこの随筆の中で言及してきましたが、「ユリの紋章がアナーニに入る(in Alagna intrar lo fiordalisa)煉獄篇20歌86」も、「新しいピラト(il novo Pilato)煉獄篇20歌91」も「フランスの厄難(il mal di Francia)煉獄篇7歌109」も、すべてフィリップ4世のことを言っていました。

   さらに、その他のフィリップ4世について言及している箇所を見ておきましょう。前出の悪徳教皇たちが地獄の拷問を受ける専用の穴に、ボニファティウス8世に続いてクレメンス5世も落ちて来ることになっていました。そのクレメンスの描写の中で、フィリップ4世について次のように言及されています。

 

   マカベヤ書に出てくるヤゾンの再来といおうか、ヤゾンにたいして〔シリアの〕王が軟弱だったように、フランス王も奴に対してはだらしがないに相違ない。(『地獄篇』第19歌82~87、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   彼は、人がマカベア書の中でそれについて読むところの新しいイアソンになるであろう。彼の王(アンティオコス4世:Antiochos)があの者(イアソン)に対して優柔不断であったように、フランスを支配しているところの者(フィリップ4世)も同様(優柔不断)になるだろう。

 

   上の詩行の中の「フランスを支配している者(lui chi Francia regge)」とはフィリップ4世であることは明白です。ということは、必然的に「新しいイアソン(novo Iason)」はクレメンス5世ということになります。そして、そのフィリップ像にはダンテの偏見か、または知識不足による歪曲があります。ダンテは、当時のヨーロッパに君臨していた同年代の国王に対して嫉妬心のようなものを感じていたかも知れません。そのフィリップ国王をマカベア書に登場するイアソンに対して「優柔不断な王アンティオコス」に喩えて、王を過少評価したことからも、ダンテの嫉妬心が推測されます。

 

   イアソン(Iasón:ラテン語読み「ヤゾン」、英語読み「ジェイソン(Jason)」)は、聖書外典『マカベヤ書』に登場する人物で、その物語の概要は次のようです。

   時代は、紀元前2世紀中期のセレウコス(Seleucos)4世の時です。ユダヤ教の最高位であるエルサレムの大祭司はオニアス(Onias)3世でした。その地位をねらっていたシモン(Simon)は、セレウコス王にオニアスの悪口を言いふらしました。しかし王は、その讒言に惑わされませんでした。さて、セレウコス王が亡くなり、アンティオコス(Antiochos)4世が王朝を継承すると、オニアスの弟イアソンは、アンティオコス新王に取り入りました。そしてイアソンは、360タラント(大型トラック1台分、約10トン)の銀と、他の財源から80タラントを献納することを条件に、ユダヤ教の最高位である大祭司職に就きました。さらに、150タラントの献金で、エルサレムの青年たちのための鍛錬場を建設し、またエルサレムの人民をアンティオコス王の臣民として認めさせました。そして、イアソンはイスラエルにおいて実権を握り、ユダヤ文化と国民を徹底的にギリシア化しました。しかし、その後、シモンの弟メネラオス(Menelaos)がイアソンよりも多くの献金を納めましたので、彼が大祭司職を手に入れ、イアソンは失脚しました。

   以上のようなイアソンとアンティオコス4世の逸話を、教皇クレメンス5世と国王フィリップ4世との関係を表す直喩として使用しています。その時のフランス王とローマ教皇との事情をもう少し詳しく見ておきましょう。

  フィリップ王の重圧を受けてボニファティウス8世が死去して、その跡を継いだベネディクトゥス11世が在位8ヶ月でこの世を去った後、およそ一年の教皇空位の時代がありました。そしてその後、1305年11月14日に、フランス・ボルドーの大司教であったベルトラン・ド・ゴー(Bertrand de Gouth)が、フィリップ王のごり押しでクレメンス5世として第195代教皇に就任しました。

 クレメンス教皇は、結局、ローマには一度も足を踏み入れたことはなく、1309年3月9日に、教皇庁をアヴィニヨンに移しました。ダンテは、その行為をフランス王がクレメンス教皇に対して優柔不断だった(fu molle)からだ、と言っています。原文を直訳して解釈を加えれば、「フランスを治める者(フィリップ王)に対して(lui chi Francia regge)、彼(クレメンス教皇)はその様にするだろう(così fia)」となり、さらに「その様にする」とは、「人々がマカベヤ書の中で読む(si legge ne' Maccabei)イアソンがする様に」という意味になります。ということは、本物のイアソンがシリア王に対して行ったと同じことを、新しいイアソン(nuovo Iasón)すなわちクレメンス教皇がフランス王に対して行うであろう、と言っているのです。すなわち、エルサレムでイアソンが多額の賄賂をわたしてシリア王アンティオコスを操ったように、クレメンス教皇もフランス王フィリップを操っていると、ダンテは考えていたことになります。その考え方は、現代の歴史的評価とは正反対です。まさしく、クレメンス教皇の方がフランス王に操られていたのです。ダンテ学者シングルトンはクレメンス5世のことを「フランス王の操り人形(a puppet of the French king)」と指摘しています。さらに、ダンテと同時代の歴史家ジョヴァンニ・ヴィルラーニ(Giovanni Villani、1276頃~1348)も同じ説を唱えていました。さらにヴィラーニィは彼の『新年代記(Nuova Cronica)』の中で、クレメンス5世のことを「その人はお金に対してとても貪欲な人間で、聖職売買の罪を犯した人物であったので、彼の宮殿では、すべての恩恵も金次第であった(原文は下に添付)」と記述しています。

〔原文解析〕

 

   教皇庁のアヴィニヨン移転の頃は、ダンテはフィレンツェ共和国から追放されて北イタリア地方で亡命生活を送っていました。そのために遠く西方のアヴィニヨンでの出来事には情報不足だったのかもしれません。または、英雄視されているフィリップ4世に対して嫉妬のようなものを感じていたのではないでしょうか。

   以上見てきたように、そのフランス王に対するダンテの評価は低く、酷評に近いものでした。しかし、フィリップ4世の現代においての歴史的評価は高く、フランス王国を神聖ローマ帝国に比肩する強国にしたフィリップ2世(在位:1180-1223)、敬虔なキリスト教徒であったので「聖ルイ(サン・ルイ:Saint-Louis)」という添え名で呼ばれたルイ9世(在位:1226-1270)と共に、フランスの三大名君と評価されています。しかし、フィリップ4世には、ダンテから批判される要素は十分にあります。まず、彼の満足を知らない国土拡大願望は、膨大な戦費を調達するために教会にまで課税を行いました。そしてまたそのために、大量の粗悪な金貨を鋳造しました。当時の最も信用度の高い金貨は、フィレンツェ共和国が発行している「フローリン金貨」でした。その金貨が24金であったのに対して、フィリップ4世が発行した「マス・ドール(Masse d’or)」と呼ばれる金貨は22金でした。王国が国王の名の元に発行したのですから、ダンテが非難しているように、「贋金を拵える(falseggiando la moneta)」ほどの悪行ではなかったかもしれません。フィリップ4世の金貨は、フランスで最初に流通させた通貨として評価されている反面、その粗悪さのために、かえってフランスの信用を失墜させることになったとも言われています。

 

 

最後の審判で裁かれるフィリップ4世

   天国の第6天である木星天には、生前に正義を愛した聖霊たちが集っています。そこでは、最後の審判の時に使われる善行と悪行が記録された本(『ヨハネの黙示録』20-12参照)が、聖霊たちによって読み上げられます。その中で、フィリップ4世の悪行も、次のように読み上げられています。

 

   そこにはまた贋金(にせがね)を拵(こしら)えて、あの男がセーヌ河畔にもたらした呻き悲しみのほどが記されてあるだとう、あの男は猪の一撃を喰って死ぬことになっている。(『天国篇』第19歌 118~120、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   そこ(最後の審判で使われる本)では、猪による一撃で死ぬことになる者が、金貨を偽造したがために、セーヌ川の上(=フランス)に引き起こす悲嘆が見られるであろう。

 

   ダンテは、そのフィリップ4世の死を「猪の一撃で死ぬだろう (morrà di colpo di cotenna)」と記述しています。おそらく、イタリアには、王の死因が「猪の一撃説」で伝わっていたのでしょう。しかし、一般的に知られているそのフランス王の死因は、脳梗塞だと言われています。フィリップは、パリの北50kmにあった森ポン=サント=マクサンス(Pont-Sainte-Maxence)で狩りをしている時に脳梗塞をおこして倒れ、それから数週間後の1314年11月29日、パリから南へおよそ55kmに位置している王の出生地でもあるフォンテーヌブロー(Fontainebleau)の宮殿で息を引き取りました。ただし、フィリップの死因よりも重要なのは、最後の審判で宣告される彼の最も重い罪業が「貨幣の偽造(falseggiando la moneta)」であると、ダンテが判断していることです。地獄の第8圏谷第10濠には、純金に3カラット分の卑金属を混ぜて21カラットの金貨を偽造したアダモ師匠(maestro Adamo)が刑罰を受けています。それによって、すでに当時から贋金造りは重罪であったことがわかります。さらにまた、そのことから、ダンテは、フィリップ4世を「贋金造り」の罪状によって、アダモ師匠と同じ地獄に堕とす予定だったかも知れません。

 

このブログの主な参考文献:

チャールズ・シングルトン編注の『神曲:煉獄篇』のテキストおよび注釈書(プリンストン大学出版)です。

原文: C.S. Singleton(ed.) “Purgatorio”2: Commentary, Vol.1.Pt.2 of Dante Alighieri, The Divine Comedy, 3 vols., Princeton U.P.

 

パゲット・トインビー著(シングルトン改訂)『ダンテ百科事典』(オックスフォード)。

原文:Paget Toynbee (revised by C.S. Singleton)  A Dictionary of Proper Names and Notable Matters in the Works of DANTE,  Oxford.