『神曲』煉獄登山11.煉獄門の前で登山を待機するフランス王たち | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

ブログの説明を入力します。

フランスの王たちの集い

 

  イタリアの王たちの隣に、フランスの王たちが集っているのが見えました。そしてまず、小鼻の男が優しそうな男と、次のように話している姿が目に入りました。

 

  またあの鼻の小さな男は、一見優しそうな男と密議をこらしている模様ですが、敗走の途中死んで百合の花を汚しました、ごらんなさい、胸を打って慟哭しています。もう一人は、ほら、頬杖をついて溜息をもらしています。二人はフランスの禍の父と岳父に当たるので、この無軌道で低劣な生活を知っていますから、それに胸を痛め悩んでいるのです。(『煉獄篇』第7歌103~108、平川祐弘訳)

 

  このわずか6行の詩句を解読するためには、まず当時のフランス王国が置かれている情況を見ておく必要があります。

 

ダンテの時代のヨーロッパ地図(略図)

  「あの小さな鼻の男 (quel nasetto)」(nasoの縮小語)とは、別名「大胆王(le Hardi)」と呼ばれるフランス王フィリップ3世(Philippe III)です。フィリップ3世は、ルイ9世の次男として生まれましたが、長男ルイ(父王と同名)が1260年に16歳の若さで死去しましたので、1270年の父王の死去と同時にフランス王位を継承しました。イタリアにおいて重要人物カルロ・ダンジョは父王の末弟ですので、フィリップ3世にとっては叔父にあたります。1262年、フィリップ3世は、アラゴン王ハイメ1世(Jaime、英語名:James)の娘イザベル(Isabelle d'Aragon)と結婚して、1268年に次の国王になるフィリップ4世を生みました。そして、その息子フィリップ4世は、ナヴァラ王エンリケ1世(スペイン語:Enrique、英語:Henry)の王女フアナ(スペイン語:Juana、フランス語:ジャンヌJeanne)と結婚しました。そしてまた、エンリケ1世には他に子供がいなかったので、フィリップ4世とフアナの夫婦が、フランス王国に加えてナヴァラ王国も治めることになり、両国は同君連合国になりました。

  フィリップ3世は、「大胆王:ル・アルディ(le Hardi)」と添え名で呼ばれたように、勇猛な王ではありましたが、単純で軽率な性格であったと言われています。フィリップ3世は、地中海帝国を夢見ていた野心家の叔父シチリア王カルロ・ダンジョを尊敬していました。カルロ王が「シチリアの晩祷事件」で、アラゴン王ペドロ3世によってシチリア王国を追われたときも、叔父を復権させるために出兵しましたが、結果は惨敗に終わりました。

 

 注:ペドロ3世は、カルロ・ダンジョがシチリアから追い出したマンフレディ王の娘コンスタンツァ (Constanza)の娘婿にあたります。『煉獄篇』第3歌114で「アラゴンの誉れ (l’onor d’Aragona)」と書かれていますが、それは、コンスタンツァの息子アルフォンゾ (Alfonso)またはハイメ(スペイン語:Jaime、イタリア語:ジャコモ (Giacomo)のことです。

 

    さらにまた、彼と「密議をこらしている (stretto a consiglio)103」「一見優しそうな男 (colui c’ha sì benigno aspetto)104」とは、前出のナヴァラ王エンリケ1世であると言われています。そしてまた、前述したことから分かるように、そのナヴァラ王エンリケ1世とフランス王フィリップ3世との関係は、それぞれの息子(フィリップ4世)と娘(フアナ1世)を結婚させた「舅同士」ということになります。その「密議(consiglio)」とは、「同君連合」を指していると解釈することもできるでしょう。当時のアラゴン王国は、有力な海軍を持っていて地中海全体に勢力を伸ばしていました。アラゴン王ペドロ3世は、「晩祷事件」を機にカルロ・ダンジョを追い払ってシチリアを占拠しました。カルロ・ダンジョを後援していた時の教皇マルティヌス4世は、ペドロ3世を破門して、フィリップ3世にアラゴン王位を授けました。教皇から「アラゴン征伐十字軍」という「錦の御旗」を授かったフィリップ3世は、叔父のカルロ・ダンジョと連合軍を組織して、さらに同君連合国であるナヴァラ王国の援助を受けて、陸海両面からアラゴンへ侵攻しました。しかし、アラゴン軍の抵抗は激しく、逆に反撃にあって形勢が不利になりました。そして、1285年9月30日と10月1日の両日、ピレネー山脈の東の端に広がるパニサルス峠で両軍の運命的な合戦が起こりました。いわゆる「パニサルス峠の戦い (英語:Battle of the Col de Panissars、仏語:Bataille du col de Panissars)」と呼ばれている合戦です。フランス連合軍は敗れて、退却することになりました。そして、フランス王フィリップ3世は、その撤退の途中、自国領ペルピニャン(フランス語:Perpignan)まで辿りついた時、赤痢に感染して亡くなりました。

 

 

百合の花を汚す(disfiorando il giglio)

 

  フィリップ3世は、アラゴンとの戦いに敗れて、「敗走の途中死んで百合の花を汚しました。(105)」この詩句の「百合の花 (il giglio)」とは、フランス王国の紋章に使われている「フルール・ド・リス (fleur-de-lis)」のことです。神聖ローマ帝国と肩を並べる勢力を誇っていたフランス王国の王たちの中で、フィリップ3世は、教皇から十字軍の御旗を受けた官軍であるにも関わらず、惨敗を喫して逃げ帰り、さらにその途中で病死してしまいました。それは、フランス王国を汚す行為なのです。そのことをダンテは、「百合の花(=フランス)を汚した」と表現しているのです。そして、「もう一人の男 (L’altro)=ナヴァラ王エンリケ1世」の方は、「頬杖をついて溜息をもらしている (ha fatto a la guancia de la sua palma, sospirando, letto) 直訳:溜息をつきなら、掌を頬の寝台にしている」107~108」姿が見えました。フィリップ3世は、「胸を叩いて (batte il petto)106」激しく嘆いていましたが、エンリケ1世の方は、頬杖をついてさめざめと泣いている姿でした。

  

 

フィリップ4世

 

   フランス王フィリップ3世とナヴァラ王エンリケ1世の二人が嘆いているのは、アラゴン王国との戦いに敗れたことだけではありません。もっと重大な原因があります。それは「フランスの禍の父と岳父 (Padre e suocero son del mal Francia)109」であるからです。その「フランスの禍」とは、言うまでもなくフィリップ4世のことです。このフランス国王は、1268年生まれなので、1265年生まれのダンテとは、ほぼ同年代ということになります。フィリップ4世の現代においての歴史的評価は高く、フランス王国を神聖ローマ帝国に比肩する強国にしたフィリップ2世、敬虔なキリスト教徒であったので「聖ルイ(サン・ルイ:Saint-Louis)」という添え名で呼ばれたルイ9世と共に、フランスの三大名君と評価されています。しかし、ダンテはフィリップ4世に対して、かなり厳しい批判を浴びせています。歴史に残っているフィリップ4世が行った最も有名な出来事は、教皇庁をローマからプロヴァンスのアヴィニヨンに移転させたことです。その移転は、イタリアのキリスト教徒からは、古代の「バビロン捕囚」に因んで、皮肉を込めて「アヴィニヨン捕囚」と呼ばれています。

  フィリップ4世が亡くなった1314年11月29日の時点では、ダンテは『煉獄篇』を執筆中であったかも知れません。それゆえに、そのフランス王を痛烈に批判していますが、作品中に王の名前を一度も見つけることはできません。たとえば、この先の煉獄第5環道で浄罪しているフランス王家の始祖ユーグ・カペー王が、フィリップ4世のことを「非常に残忍な新ピラト (il novo Pilato sì crudele)第20歌91」と、キリストを殺害した王に喩えています。しかし、『天国篇』の執筆時には、フィリップ4世が死去した情報がダンテにも伝わっていたので、次のように記述しています。

 

  そこにはまた贋金を拵えて、あの男がセーヌ河畔にもたらした呻き悲しみほどが記されてあるだろう、あの男は猪の一撃を喰らって死ぬことになっている。(『天国篇』第19歌118~120、平川祐弘訳)

 

  上の詩句は、『神曲』ではしばしば用いられている「予言形式の表現」です。ダンテが地獄・煉獄・天国を巡る冥界訪問は、1300年(第1回聖年)の聖金曜日から一週間でした。その時点までに起こった出来事は史実として描写され、それ以後に起こったことは、未来時制を用いて「予言」という形式で表現されています。

 

 

 

     フィリップ4世は、1285年、父王フィリップ3世がアラゴンとの戦いに敗れて死んだ時に王位を継承しました。彼は、勢力の拡大をねらって、経済的に豊かなフランドルに侵攻しました。しかし、1302年のコルトレイクの戦い(別名「金拍車の戦い(Battle of the Golden Spurs)」において敗北してしまいました。それでも、彼の国土拡大願望は止むことはなく、膨大な戦費を調達するために教会にまで課税を行いました。そしてさらに、大量の粗悪な金貨を鋳造しました。当時の最も信用度の高い金貨は、フィレンツェ共和国が発行している「フローリン金貨」でした。その金貨が24金であったのに対して、フィリップ4世が発行した「マス・ドール(Masse d’or)」と呼ばれる金貨は22金でした。王国が国王の名の元に発行したのですから、ダンテが非難しているように、「贋金を拵える(falseggiando la moneta)」ほどの悪行ではなかったかもしれません。フィリップ4世の金貨は、フランスで最初に流通させた通貨として評価されている反面、その粗悪さのために、かえってフランスの信用を失墜させることになったとも言われています。『地獄篇』の第8圏谷の最深部である第10濠(ボルジャ)に贋金を造った罪で火刑に処せられたアダモ師匠(maestro Adamo)という名工がいましたが、彼は「奴らは私を唆して、3カラット分の卑金属を加えたフィオリーノ金貨を打たせた(e' m'indussero a batter li fiorini ch'avevan tre carati di mondiglia)地獄篇30歌89~90」と告白しています。3カラット分の屑鉄(tre carati di mondiglia)を混ぜた金貨は21金の品質で、粗悪さに関してはフィリップ3世が造らせた22金のマス・ドール金貨と大差はありません。フィレンツェ出身のダンテにとっては、フィリップ4世の金貨など「贋金」同然であったことでしょう。

 

フィリップ4世の死因

 

   一般的に知られているフィリップ4世の死因は以下のようです。パリの北50kmにあった森ポン=サント=マクサンス(Pont-Sainte-Maxence)で狩りをしている時に脳梗塞をおこして倒れました。そして、それから数週間後の1314年11月29日、パリから南へおよそ55kmの町で、王の出生地でもあるフォンテーヌブロー(Fontainebleau)の宮殿で息を引き取りました。ダンテは、そのフィリップ4世の死を「猪の一撃で死ぬだろう (morrà di colpo di cotenna)」と記述しています。おそらく、イタリアには、王の死因が「猪の一撃説」で伝わっていたのでしょう。しかし、前述したように、ダンテは「死ぬ (morire)」を未来形で「死ぬだろう (morrà)」と予言形式で叙述していますので、フィリップ4世は物語上ではまだ生存していることになります。

   フィリップ4世の実父(フランス王フィリップ3世)と岳父(ナバラ王エンリケ1世)は、まだ麓とはいえ曲がりなりにも煉獄にいますので、いずれかは天国へ昇ることができます。しかし息子のフィリップ4世の行き先に関しては、何も言及されていません。しかし、ダンテはフィリップ4世に対しては辛辣な批判をしています。その王の生き様を「無軌道で低劣な生活 (la vita sua viziata e lorda)」と悪し様に言っていますので、地獄へ堕とす予定であったことでしょう。おそらく、フィリップ4世が死んだ1314年よりも後に、『地獄篇』を執筆していたならば、その王を地獄のどこかに堕とした状態で描いていることでしょう。

 

カルロ・ダンジョ

 

   フランス王フィリップ3世とナヴァラ王エンリケ1世の次ぎに視界に入ってきたのは、シチリア王カルロ・ダンジョと彼をシチリアから追い払ったアラゴン王ペトロ3世が一緒に賛美歌「幸あれ、女王様 (Salve, Regina)」を歌っている光景でした。そして、その様子は次のように描写されています。

 

   男らしく鼻筋の通った男と唱和している筋骨たくましい男は、あらゆる徳を身に備えた人でした。もし彼の後ろに坐っている若者が彼の死後王位を継いでいたならば、徳は父から子へと伝わったでしょうが、他の世継ぎたちについてはそうは申せません、ヤーコモとフェデリーゴが王国を領していますが、二人とも父親を凌ぐような才は継いでいないのです。(『煉獄篇』第7歌112~120、平川祐弘訳)

 

   この上の詩節は難解なので少し解読をしておきましょう。「男らしく鼻筋の通った男 (colui dal maschio naso)直訳:男らしい鼻をした者」はカルロ・ダンジョで、彼と一緒に唱和している「とても筋骨たくましい男 (Quel che par sì membruto)」はペドロ3世です。生前は対立していた二人の王が、煉獄では仲良く隣り合って賛美歌を歌いながら浄罪をしているのです。彼らの背後には、一人の若者が座っていますが、その者がペドロ3世の死後にアラゴン王位を継承していたならば、父王の徳はアラゴン国に残っていたであろう、と言っています。その若者(lo giovanetto)が誰を指しているのかは、解明されておりません。ペドロ3世には3人の息子の名前が知られていて、「ヤーコモ (Iacomo:ハイメ2世のイタリア名)」と「フェデリーゴ (Federigo:フェデリーコ2世のイタリア名:ドイツ名フリードリッヒ」の二人の息子の名前は出ています。それゆえに、その「若者」は名前の出ていない長男のアルフォンソ3世を指していると、大方のダンテ学者は考えていました。しかし、確かにアルフォンソは27歳の若さで死去しましたが、父王の死後(1285年)、アラゴン王を継承していますので、「彼(父王)の死後王位を継いでいたならば (se re dopo lui fosse rimaso)115」という仮定文(時制は接続法大過去)は成立しません。それゆえに、近年のダンテ学者は、ペドロ3世とコンスタンツァの間には4人目の息子ペドロの存在を想定して、その「若者」に該当させています。

   私は個人的には、「その若者」は、通説通りに「アルフォンソ3世」を指していると解釈するのが妥当だと考えます。確かに、ダンテは、フィレンツェ時代も亡命後も、政治・外交の中心にいました。そして、ボッカチオの証言によれば、亡命後にフランスへ旅行してパリでの滞在経験もあると言われています。信憑性が乏しいのですが、イングランドへも足を運んでいたという説もあります。それゆえに、ダンテは、フランス以西の情報も豊富に持っていたに違いありません。そこで、1327年まで生存した次男ハイメ2世も、1337年に死んだ三男フェデリーコ2世も、ダンテにとっては「同時代人」なので、現実的で冷静な目で見ることができたことでしょう。それに引き替え、長男アルフォンソ3世は、ダンテと同じ1265年生まれなので多少の親近感を持っていたとしても不思議はありません。しかも、アルフォンソ3世が27歳の若さで亡くなった1291年という年は、ダンテにとっては、天下分け目のカンパルディーノの戦い(1289年)に弱冠24歳で騎馬兵として初陣を飾り、政界にデビューして政治家として活躍し始めた頃でした。アルフォンソに対する情報不足はあったかもしれませんが、その王に対する同情と共感は強かったかも知れません。その反面、まだ生存している二人の王(ハイメ2世とフェデリーコ2世)に対しては、かなりの皮肉が込められていたに違いありません。すなわち、長男のアルフォンソが父王ペドロ3世の跡を継いでいたら良かったのに、能力の劣る次男ハイメと三男フェデリーコが父の王位を継いだので、政情不安になって人民が苦しんでいる、とダンテは言っているのです。

   さらに、「人間の清廉潔白さというものは木の枝を伝って上ることは滅多にあることではない (Rade volta resurge per li rami l’umana probitate)121~122」と、ダンテは考えています。そして、次のように描出しています。

 

   そのことは鼻筋の通った男についても、彼と唱和するペドロについてと同様いえるので、プーリアやプロヴァンスが泣いているのはそのためです。(『煉獄篇』第7歌124~126、平川祐弘訳)

 

アラゴン王ペドロ3世の二人の息子が父王よりも劣っているのと同様に、「鼻筋の通った男 (nasuto)直訳:大鼻の男」すなわちカルロ・ダンジョにも同じことが言えます。カルロ・ダンジョの息子カルロ2世・ダンジョは父王よりも遥かに劣っていました。カルロ2世は、ペドロ3世にシチリア王国は奪われましたが、プーリア地方のナポリ王国だけは統治することができました。また、母親ベアトリスからプロヴァンス伯も継承していました。しかし、カルロ2世の統治能力が劣っていたので、彼が治める「プーリアとプロヴァンスが泣いている (Puglia e Proenza già si dole)120」と、ダンテは批判しているのです。

 

  次ぎに続く3行の詩節は、極めて難解です。

 

   種に比べると生えた木はいかにも見劣りがしますが、その様はコスタンツァが夫の自慢をして、ベアトリスやマルグリットを見下げるのと同じです。(『煉獄篇』第7歌127~129、平川祐弘訳)

 

   上の平川訳は非常に分かりやすく訳されていますが、イタリア語の原詩は次のようになっています。

   上の原詩に沿った訳文になっているのは野上素一訳の方です。その訳文は次のように表現されています。

 

   そのために木が種に劣るごとく、コスタンツァはベアトリーチェやマルゲリータにまさって、自分の夫を誇りにしているのです。

 

   さらに分かりやすく意訳(パラフレーズ)してみましょう。

 

  種(=父王カルロ1世)に比べると生えた木(=息子カルロ2世)は劣っている。シチリア王カルロ1世・ダンジョの前妻ベアトリス(Beatrice、イタリア語読み:ベアトリーチェ)と後妻マルグリット(Margherita、イタリア語読み:マルゲリータ)が彼女たちの夫を自慢しているよりも、コスタンツァ(Costanza、普通はコンスタンツァ: Constanza)が、自分の夫のアラゴン王ペドロ3世を、さらにもっと偉大だと自慢している。なぜならば、ペドロ3世は、あらゆる戦いにおいてカルロ・ダンジョに勝利しているから。

 

  因みに、平川訳の注釈には「シャルル2世がシャルル1世に劣るさまはシャルル1世がペドロ3世に劣るさまと同様だというのである。」と説明されています。

  おそらく、以上のような意味だと言えますが、三人の夫人名を並べたダンテの意図は解明されていません。煉獄門に通じる前庭にいる霊魂たちは、ダンテとほぼ同時代のイタリア王やフランス王やアラゴン王やナヴァラ王たちで、すべて男の登場人物ばかりです。しかもこの箇所は、『神曲』を構成する要素の中でも、歴史的な事象を描いた、いわゆる「歴史層」に当たりますので、女の人物名も添えておく必要があったのでしょう。

 

 注: カルロ・ダンジョに関しては、「『神曲』地獄巡り40.歴史に残ったプッリア地方の惨劇」の「カルロ・ダンジョ」の箇所を参照してください。

 

ヘンリー3世

   あそこに一人で坐っている質素な生活を送った王様をごらんなさい、イギリスのヘンリーです。この王は自分の枝から恵まれた芽を出しました。(『煉獄篇』第7歌130~132、平川祐弘訳)

 

   上の詩節中の「イギリスのヘンリー」の原文は〈Arrigo d’Inghilterra:アッリーゴ・ディンギルテッラ〉です。そして、英語名は「ヘンリー(Henry)」で、ドイツ語名の「ハインリッヒ (Heinrich)」と同じ名前です。英国ではヘンリー王子(Prince Henry)を、通称(愛称)でハリー王子(Prince Harry)と呼ぶことが普通です。英語名「ヘンリー」もドイツ語名「ハインリッヒ」も、イタリア語名では、一般的には「エンリコ (Enrico)」と呼びますが、その他にも「エンドリーゴ (Endrigo)」、「アンリコ (Anrico)」、「エリーゴ (Errigo)」など多くの呼び方がされます。そして、ダンテは「ハインリッヒ」と同様に「ヘンリー」も「アリーゴ (Arrigo)」という呼び名を使っています。 

ハインリッヒ7世に関しては「『神曲』煉獄登山10」を参照。

 

   イングランド王ヘンリー3世の父王ジョンが国王権力を制限するために議会との間に結ばせられた憲章『マグナ・カルタ(Magna Carta)』は、時の教皇インノケンティウス3世によって無効と宣告されました。しかし、ジョン王を継承したヘンリー3世は、彼自身の失政によって、さらにグレードアップした制約内容で、すなわち王の権力を制限して議会の権利を強めた憲法を認めさせられました。『マグナ・カルタ』は、イギリス王家からすれば屈辱的な内容ではあっても、世界史的にみれば先進的で画期的な法典であることは確かです。この煉獄門前で賛美歌『サルウェ・レギーナ』を唱和している名だたる王たちの中で、ダンテがイングランド王ヘンリー3世を「質素な生活を送った王様 (il re de la semplice vita)130」と表現した理由は分かりません。ルネサンスの黎明期にあってその華やかな文化の中心で生活していたダンテの目には、ヨーロッパの辺境にあったイングランドという国自体が「センプリーチェ・ヴィータ(英語のシンプル・ライフ:simple life)」の国のイメージに映ったのでしょう。しかも、他の王たちは優れた後継者には恵まれませんでしたが、そのイングランド王だけは「この王は自分の枝から恵まれた芽を出しました」とダンテは描いています。そのヘンリー3世の長男で後継王は、エドワード(Edward)1世のことです。煉獄門前にいるすべての王たちの世継ぎ(rede:eredeの古語)はみな父の優れた徳性を受け継いでいませんでしたが、この英国王エドワードだけは「恵まれた芽 (migliore uscita)直訳:より優れた発生」と、ダンテは褒めています。

   確かに、エドワード1世は、国内的には祖父王ジョンや父王ヘンリー3世が進めてきた(進めさせられてきたと言うべきか)議会制度をさらに進歩させて、代議制議会を成立させました。しかし、エドワード王は、外交的には、隣国のウェールズやスコットランドへの侵攻を繰り返し、フランスとも対立を深め、後の百年戦争の火種を作ったことでも有名になっています。前述したように、フランス王フィリップ3世の実子でナヴァラ王エンリケ1世の婿にあたるフィリップ4世や、アラゴン王ペトロ3世の跡継ぎハイメ2世とフェデリーゴ2世や、カルロ・ダンジョの息子カルロ2世に対しては、親の器量を受け継ぐことはできなかった、とダンテは批判しています。ところがその反面、イングランド王エドワード1世に関してだけは、「父より優れた世継ぎ」だと称賛しています。しかし、ダンテがその王を高く評価する理由は見当たりません。他の王たちと比べてヘンリー3世とエドワード1世の父子が優れていたという明確な根拠は存在しないのではないでしょうか。ダンテの主観的な印象であったと解釈すべきかも知れません。ただ言えることは、ダンテはイングランドに対しては好意的であった、ということです。

   ダンテと共にフィレンツェの行政長官(プリオーレ、Priore)を務めた歴史家ヴィッラーニ(Giovanni Villani)も、ダンテを尊敬して止まなかったボッカッチョ(Giovanni Boccaccio)も、ダンテが1310年ごろパリに滞在していたことを証言しています。その証言が真実ならば、ダンテはドーバー海峡まで足を伸ばして、イングランドの白い陸アルビオン(Albion)を眺めたとしても不思議ではありません。また、白亜の岩壁の向こうに広がるイングランドの地に思いを馳せていたことでしょう。ダンテにとってイングランドは、「質素な生活を送っている王」と優れた世継ぎのいる国であり、彼の憧れの国であったかも知れません。

 

注: エドワード1世は、ナポリ王カルロ2世・ダンジョや、フランス王フィリップ3世や、コンウォール伯エドマンドとは、母親エレオノールを通じて従兄弟同士でした。