「祇園精舎」は西洋古典叙事詩の序歌 | この世は舞台、人生は登場

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国際叙事詩と世界叙事詩

 

   「世界叙事詩」という用語は、世界各国に存在する叙事詩を、それぞれの国の文学が持つ特異性を明らかにする時に使用される学術語ですが、「国際叙事詩」という言葉は、現在のところ文学用語として使用されることはありません。「世界叙事詩」は、英語でいえば‘world epic poetry’となりますが、世界の色々な国に存在する各々の叙事詩をそれぞれの国別の特色を鮮明にするときに使われる用語だといえます。一方、「国際叙事詩」は、英語でいえば‘international epic poetry’となり、世界の色々な国に存在する各々の叙事詩の間に相関関係を発見するときに使われる用語です。私のこのエッセイの目的は、『平家物語』が世界文学の中でも極めて優れた要素を持った叙事詩であること紹介することです。

   『平家物語』は、我が国に存在する叙事詩の中で、最も優れた作品です。それを否定する人は、評価の基準を文学性以外のところに置く人か、叙事詩に対する認識不足の人でしょう。また、『平家物語』を高く評価する人も、世界叙事詩の中の特異な存在として評価します。それゆえに、必ず「国民的な」とか「日本固有の」という限定辞をともなって「日本固有の国民的叙事詩」として優れていると結論付けています。この私のエッセイの目的は、比較文学のテクニックを駆使して、『平家物語』が世界文学の中で特異な存在ではなく、多くの共通要素を備えた国際的叙事詩であることを明らかにすることです。

 

西洋古典叙事詩とは

 

   西洋の叙事詩は、紀元前8世紀ごろのギリシアの詩人ホメロスに始まると言われています。それ以前にも書かれていたかも知れませんが、文字に書かれた作品として現存していないのです。確かに、紀元前2千年ごろに作られたと推定されているメソポタミア文明下のバビロニアでシュメール語を楔形文字で表記した『ギルガメシュ』という叙事詩が存在していたことは証明されています。しかし、粘土板に記録されたものなので、部分的にしか現存していません。それゆえに、西洋叙事詩の始祖と呼ぶことができるのはホメロスをおいて他には存在しません。

   ホメロスの叙事詩は、紀元前4世紀、アリストテレスによって理論化されました。その時点で、西洋叙事詩は、ホメロスの実践とアリストテレスの理論の両面において確立をみることになりました。そして、その詩法は、紀元前1世紀のローマ詩人ウェルギリウスによって完成の域に達しました。そしてさらに、紀元後14世紀のダンテを筆頭とするイタリア・ルネサンス詩人たちに受け継がれ、17世紀のイギリス詩人ミルトンに引き継がれました。以上のようなホメロスの流れを汲む作品こそが西洋文学に存在する正統な叙事詩の系譜なのです。ただし、その系譜の中には、ウェルギリウスやミルトンのようにホメロスのギリシア語原典を読んで直接に影響を受けた詩人もいれば、ダンテのようにウェルギリウスから間接的に受けた詩人もいます。しかし、直接にしても間接にしてもホメロスの影響を受けて書かれた作品を「西洋古典叙事詩」と、私は分類しています。そして、不幸にも歴史からホメロスの存在が消失していた中世時代に書かれた作品や西洋以外の国々の作品は、私の独断と偏見で「非西洋古典叙事詩」という名称で分類します。例えば、古代フランスの『ローランの歌』や、13世紀初頭に成立したといわれているドイツの『ニーベルンゲンの歌』や、アングロサクソン語(別名:古代英語)の『ベオウルフ』などが「非古典叙事詩」に分類されます。当然、我が国の「軍記物語」と呼ばれている作品は、西洋のものではないので、原則的には「非西洋古典叙事詩」に分類されます。

 

西洋古典叙事詩の序歌

 

   西洋古典叙事詩には、どの作品の冒頭にも「序歌」という部分が存在しています。その古典的序歌の短い詩行の中では、物語の開始点における状況が示されているだけではなく、その物語の主題や主人公までも同時に明示されています。その「序歌」は、古典様式の叙事詩では欠くことのできない重要な要素で、アリストテレスも彼の『修辞学』の中で次のように論じています。

 

     悲劇の序幕の中と叙事詩の中には、その主題を提示する部分があります。それは、読者が前もって主題がどの点にあるのかを知るためと、その作品の目的が曖昧なままではないようにするためです。不明瞭さは本筋を誤らせるものです。作品の端緒を読者の手の中へ与える作者は、主題に則して理解する能力を読者に与えます。(アリストテレス『修辞学』第3巻14、1415a12、筆者訳)

 

  物語の不明瞭さや不安定さを嫌う古典叙事詩にとって、その冒頭で主題を提示することは重要な要件でした。一方、非古典的叙事詩の序歌は、物語の開始点における状況を示すだけの機能しかもっていません。たとえば、その種の叙事詩の最高傑作の一つである『ローランの歌』は、次のように描き始められています。

 

   我らの大帝シャルル王は、七年もの長きにわたってイスパニアに進駐して、その気高き国土を海に至るまで征服していた。いかなる城郭もその王の前では防ぐ術もなく、城壁も城市も打ち壊されるままであった。残るは天頂の国サラゴッサのみである。その国の王マルシルは、神を敬わず、神を禁じている。マルシル王は、ムハンマドに仕えて、アポロンに祈りを捧げている。もはやその王は、災いが降りかかることを防ぐことはできない。  (『ローランの歌』1~9、筆者による英語訳よりの重訳)

 

  上の序歌の部分だけを読む限りでは、『ローランの歌』が、主人公ローランの活躍と戦死の物語であることは分かりません。分かるのは、シャルル大帝のイベリア半島のイスラム討伐の物語であろうということだけです。

 

(注1:『ローランの歌』に関しては、私のブログ「『神曲』地獄巡り45の「ローランの角笛」の箇所を参照して下さい。」

(注2:ダンテの『神曲』は例外で、古典様式の序歌を持っていませんが、その他の要素で古典叙事詩の作法に則っています。

 

ホメロス『イリアス』の序歌

 

  ではまず、前述のアリストテレスが彼自身の文学理論を構築する上において模範としたホメロスの『イリアス』の序歌を見ておきましょう。

 

  女神よ、ペーレウスの子アキレウスの呪われた怒りを歌え、その怒りとは、アカイア人たちに多くの苦悩をもたらし、そして多くの勇ましい英雄たちの魂を冥府ハイデースへ送りこんだ。そして彼らを犬やすべての肉食鳥の餌食にした。そして、人々の王アトレウスの子(アガメムノン)と勇敢なアキレウスが、初めて争って不和になった時から、ゼウスの意図は成就していった。(『イリアス』第1巻1~7、筆者訳)

 

  上の序歌は、ホメロスが15000行以上(版によって15685行または15693行)の長きにわたって物語られる『イリアス』の主題と主人公を提示しています。その叙事詩の中には、数々のエピソードが語られ、様々な戦闘が描かれ、そしてまた多くの有名な英雄たちが活躍し、数限りない戦士たちが命を落とします。しかし、それらの出来事はすべてペーレウスの子アキレウスとアトレウスの子アガメムノンとの間に生じた反目に起因しています。そして、その時のアキレウスの怒りが、その叙事詩の根底に流れて、物語全体を支配する主題なのです。

      以上のような物語の主題や主人公までも同時に明示する古典叙事詩の序歌は、ホメロスに追随する詩人たちによって使われてきました。叙事詩は、あらゆる文学ジャンルの中で、もっとも豊富な内容と、もっとも多種多様な形態と、もっとも膨大な詩行からなる集合体です。しかも、それが文学的に高度であればあるほど、複雑な筋が幾重にも絡み合った構成になっていることが多いのです。それゆえに、アリストテレスが指摘するように、叙事詩の冒頭でその物語の本筋を提示することは重要なことなのです。そして、西洋古典叙事詩の序歌の形態と機能を、我が国の『平家物語』の「祇園精舎」の章段も持っていることを例証してみましょう。

 

『平家物語』の序歌「祇園精舎」の章段

 

   初めに、上の「祇園精舎」の章段を「物語の開始点における状況が示す」部分ではなく、「作品全体の主題を提示する」部分であると主張する二種類の異なった学説を紹介しておきましょう。その解釈の違いは、「たけき者もついにはほろびぬ」という詩句の中の「ぬ」という助動詞の解釈の違いから生まれています。

 

永積安明説

      まず、我が国の代表的な中世文学者永積安明氏は、この助動詞「ぬ」を「普遍的真理を表す」ものとみなして、「栄華を誇った者は必ず滅んでしまうものだ」と解釈しています。すなわち、永積氏は、『平家物語』に表現されている思想的側面を重視して、「祇園精舎」の章段を盛者必衰の理法を提示する序歌であると見なしているのです。そして、その理法に従って、平清盛や木曽義仲や源義経など作品に登場する多くの武将たちが栄華を極めては滅んでいく物語であるという解釈です。永積氏の説に従えば、『平家物語』には主役は存在しないが、「盛者必衰の理法」という統一テーマによって物語全体が統合されているのです。永積説を極言すれば、「祇園精舎」という序歌を盛者必衰の理法を提示していると考える点においては一元論ですが、作品全体をその理法に従った登場人物や事物の物語的集合体であると考える点においては多元論だといえます。さらに簡潔に永積説を言い換えれば、『平家物語』序章の無常観が、この物語の展開の方法つまり創作方法を最初から根底的にとらえている、と言うことになります。すなわち、永積説は、盛者必衰の「無常観」を『平家物語』の根底に流れている中心的思想であり主題であることを明らかにしていますが、主人公の存在に関しては重要視されてはいません。それゆえに、永積氏の序歌論には、主人公を設定しようとする姿勢が不足しているので、思想中心の結論になったと言えます。

  参照:永積安明『中世文学の成立』(岩波書店、1964年6月)特に131~167。

 

石母田正説

   歴史学者の立場から『平家物語』を読解した石母田正氏は、「たけき者もついにはほろびぬ」の詩句の「ぬ」を「完了を表す」助動詞と断定して、「滅んでしまった」と解釈しています。そして石母田氏は、その序歌の完了表現を、『平家物語』の本編の最終章段「六代被斬」の最終詩句「それによりしてこそ平家の子孫は永く絶えにけれ」に照応させて、平家一門が繁栄し、そして滅亡してしまうまでの統一的で一元的な筋書きで創作された叙事詩であると結論付けています。永積説が、盛者必衰の「無常観」という思想を物語の主題に設定していのに対して、石母田説は、盛者必衰の運命を辿った登場人物に焦点を当てています。その結果、別巻としての「灌頂巻」を除いて、石母田氏は、『平家物語』を三部に分割して、それぞれの部分にそれぞれの主人公を設定しています。第1部は「巻第1」から「巻第5」で、中心人物は「清盛」です。そして第2部は「巻第6」から「巻第8」で、中心人物は「義仲」です。さらに最後の第3部は「巻第9」から「巻第12」で、中心人物は「義経」です。

  参照:石母田正『平家物語』(岩波新書、1957年11月)特に34~121。

 

   以上のような『平家物語』を三分割して、それぞれに中心人物を設定する方法は、誰もが同意するところです。そして、『平家』の人物論といえば、いつでも義仲論であった近来の平家論に対して、清盛を作中におけるもっとも重要な人物であると主張した石母田説に対して、永積氏も評価しています。しかし、石母田説でも、清盛を中心人物の中の重要人物にすぎないと規定しているだけです。それゆえに、『平家物語』を国際叙事詩と認定するためには、「祇園精舎」の章段が西洋古典叙事詩の序歌の機能を持っていることを実証する必要があります。

 

「祇園精舎」は西洋古典的序歌か?

 

  石母田氏は、「祇園精舎」の章段の「たけき者もついには滅びぬ」の言葉の中に序歌的要素を感じ取って、次のように述べています。

 

   平氏をもふくめて滅亡した過去の人々のこと、あるいはすでに完了してしまった特定の、一回的なことがらを、すでにそのなかにふくめて語られているのであり、したがってそれはたんに一般的な命題や思想をのべているだけではないとおもっている。いいかえれば六代が斬られたことをもって終わる平家滅亡の物語は、すでに巻頭この句からはじまってと、少なくとも現在は思っている。(石母田正『平家物語』38頁)

 

   すなわち、『平家物語』を平家滅亡の叙事詩であり、そのことは巻頭に提示されている、と石母田氏は主張しているのです。しかし、巻頭「祇園精舎」の表現を見れば明らかなことですが、その中には「平清盛」の名前以外に物語中の登場人物は誰一人として上げられてはいません。そこで、石母田氏のいう「巻頭」という箇所が西洋古典叙事詩の「序歌」の機能を持つことを証明するためには、清盛が『平家物語』の主人公であることを実証する必要があります。

   清盛主人公説を拒む最大の理由は、作品の中での清盛の登場場面が少ないということです。実は、西洋古典叙事詩では主人公の登場箇所の少なさは、主人公を決定する上に重要な要素ではないのです。たとえば、ホメロスの『イリアス』を見てみましょう。

 

   ホメロスの叙事詩『イリアス』の主役がアキレウスであることを否定する人はいないでしょう。ところが、アキレウスは、全24巻の中で、第1巻において登場するなりアガメムノンと反目して自分の軍船の中に閉じ籠もってしまい、以後しばらく物語の表舞台に登場することはありません。辛うじて第9巻で、アキレウスの子供時代の養育係ポイニクスを長としたオデュッセウスとアイアスの三人の使節団が彼の参戦を説得するため訪問した時に姿を現します。しかし、その使節団の嘆願を拒否して、また物語から姿を消してしまいます。アキレウスが前面的に再登場するのは、ようやく第18巻からです。『イリアス』に主役アキレウスが登場している場面は、全24巻中でたった9巻だけなのです。そして、彼が登場していない場面では、他の英雄・武将たちが、あたかも主人公であるかのごとく描かれています。さらに注目すべき点は、『イリアス』全巻に登場している唯一の人物が、脇役であり敵役のヘクトルであるということです。以上のことから分かることは、その叙事詩の中でいろいろな登場人物がいかに活躍しようとも、作品の中で起こるいかなる出来事も、アキレウスの怒りが鎮まらず、彼が参戦しないことに起因することなのです。

  『イリアス』の中にヘクトルの悲劇というパラレルな世界を築こうとする読者もいるかも知れませんが、それでもやはり主人公はアキレウスであることを否定する読者はいないでしょう。しかしそれに引き換え、『平家物語』の主人公を平清盛だと認める読者はいないようです。もしかりに、清盛主役説を唱えるとしても、根拠は示すことができないことでしょう。なぜならば、『平家物語』は末尾に添えられた別巻「灌頂巻」を含めれば全13巻から構成されていますが、その中程にあたる「巻第6」の「入道死去」の章段で、早々と物語から姿を消してしまう登場人物を主人公と認定するには矛盾があるからです。しかし、その矛盾も前述した西洋古典叙事詩の規範を当てはめれば容易に説明がつきます。

 

清盛主人公説

 

   登場人物の作品全体に対する重要性を決定するのは、登場する数量の多いか少ないかではありません。重要なのは、直接的、間接的を問わず、作品の中に描かれた個々の出来事に対する登場人物の影響力の強度です。その基準が西洋古典叙事詩の主人公を決定する規範であると言うことができます。それにしたがえば、平清盛の物語中の登場回数が少ないという理由だけで主人公と認めないのは早計なのです。重要なのは、清盛不在の場面に清盛の影響があるか否かと言うことです。清盛死去以後の章段に清盛の影響があれば、それで十分に「清盛主人公説」は成立することになり、もし影響がなければ成立しないことになります。その主人公説が成立するか否かを判定する重要な決め手は、清盛が死に際に残した遺言の中にあります。

 

清盛臨終際の遺言

 

   清盛は、比叡山の千手井から汲んだ霊水を身体に振りかけても炎となって蒸発するほどの高熱にうなされ、悶絶躄地(もんぜつびゃくち)の苦しみをともなった臨終の間際に、次のような遺言を言い付けています。

 

   この清盛臨終における状態は、彼の嫡男重盛の死去の有様と対比されます。父に先立って病死した重盛は、「その運命を計るに、もつて天心にあり」と悟り、当時の先進医療であった中国医術による治療も拒絶して、安らかな死を迎えました。無常観を漂わせながらも穏やかな臨終を迎えた重盛に対して、清盛は生に対して執念深い、しかも楽天的で現世的な罪深い人物として評価されています。しかし、朝廷をなおざりにした悪人としての清盛評価は、戦前の思想が定着させたもので、『平家』作者の真の意図に反するものだと言わざるを得ません。なぜならば、清盛死去を描いた作者の意図は別にあったと考えるべきでしょう。

   史実はどうであれ、『平家物語』の清盛は、平家の滅亡を懸念することなく樂天的に死んでいった人物ではありません。少なくとも『平家』作者は、その様に清盛の臨終を描いています。そのことは、物語の構想をみれば容易に理解できることです。「入道死去」の段のすぐ前には、「飛脚到来」の段が設けられています。その章段は、源賴朝の平家追討の旗揚げを待望していたかのごとく各地に勃発した打倒平家の反乱が都に急報されて、物情騒然たる状態を描いたものです。佐々木八郎氏の『平家物語評講』(上、明治書院、736~7)によれば、その章段で語られている事変は、史実的には木曽義仲の反乱を除き、すべてが清盛死去以前のものではないということです。すなわち、その章段に記述されている事変は、史実に反した作者自身の独創なのです。その構想の裏には、史実を歪めてまで清盛悶死の時の平家側の状勢に、滅亡の危機感を加味しようとした作者の意図が隠されていると言えるのです。

   以上のような平家滅亡の危機の最中に、臨終を間近にした清盛の立場を考え合わせれば、彼の遺言が額面通りではないことが分かります。清盛の言葉の裏には、富士川の戦いにおける無気力な敗走以来、士気の衰えた平家一族郎党に対して奮起を願う気持ちが隠されていると解釈すべきです。平家全盛時に、聖人のごとく安らかに往生を遂げた重盛とは対照的に、一族の統領として一身にその運命を背負わなければならないにもかかわらず、死去しなければならない清盛は、剛健で不屈な武人の姿よりも悲劇的英雄の印象が強いと言えるのではないでしょうか。

   石母田正氏は、「入道死去」の遺言から清盛の人間像を推測して、自分の生涯に満足していて、死後に堂塔を建てることを望まない現世的で樂天的な人物である、と結論付けています。(石母田『平家物語』65頁参照)。しかし、その遺言に表れた清盛の楽天性も現世への執着心も、すべて平家一族に対する激励のための虚勢であったと解釈することができます。むしろ、平家作者のその遺言の意図は、悶絶躄地の苦しみを受け死去する時でさえも、弱音を吐くことが許されず、平家一門の統領として不屈であらねばならなかった清盛の苦悩を表現することであったと言えます。そして、その中に感じられる生への執念も、平家滅亡の危機の最中にあって、一族郎党を残して死ななければならない悲劇的人間像を造形する効果があります。そしてさらに、遺言自体は直接話法で書かれていますが、その直後に作者が述べた「罪深けれ」という言葉は、清盛が罪深い人間であったと解釈するのが通説です。しかし、その一句は、死に際してさえ、清盛という英雄に対して弱くあることを許さない現世の掟が「罪深いものである」と解釈することが可能です。すなわち、天下を掌握して栄耀栄華を心のままにしてきた清盛は、この「入道死去」の章段で悲劇的英雄の様相を帯びてくるのです。

  

清盛不在の場面

 

   文学ジャンルは違いますが、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』という演劇は、主役シーザーが全5幕中の第3幕第1場で「お前もか、ブルータスよ」という名せりふを残して場面から消えますが、しかしその後も、主役不在のまま演劇は進行します。それと同様に、『平家物語』も平清盛が「入道死去」の章段で場面から姿を消した後も、物語はさらにまだ半分以上も続きます。その清盛不在の残部をいかに読むべきかは、読者の判断が分かれるところです。すなわち、そのシェイクスピア劇と同様に清盛の姿なき姿を常に想定すべきか、それともまったく新しい主人公を設定すべきか、それが『平家』解釈の分かれ目なのです。平家学者の間では、後者の説が通説になっています。しかし「祇園精舎」の章段を西洋古典叙事詩的「序歌」と認定するためには、前者の読解法を採り入れなければなりません。すなわち、清盛が死後も物語に影響を与え続けていることを証明する必要があるのです。

先述したように、「諸行無常」と「盛者必衰」の理法が『平家物語』を貫く「主題」であることは否定しようのない定説になっています。しかし、木曽義仲と源義経と並んで、平清盛が中心人物であり重要人物であることは認められていますが、主人公であることは否定されています。しかし、西洋古典叙事詩の主人公理論を当てはめれば、清盛主人公説を成立させることが可能です。

永積安明氏が述べているように(『中世文学の成立』145頁)、盛者必衰の理法は清盛以外の平家武者たちにも、また義仲や義経などにも等しく貫徹されていることは明らかです。しかし、すべての登場人物の栄華と衰退の物語は、清盛の悲劇を壮大なスケールに仕立てるための付属物なのです。換言すれば、清盛における盛者必衰の理法の貫徹が大惑星であると仮定するならば、義仲や義経を初めとした多くの武者たちのその理法は、母星を取り囲む複数の衛星であると見なすことができます。それゆえに、延々と続く物語は、清盛の悲劇を完全なものにするために書かれたものであると解釈することができます。また、そのような解釈をすることによって、多種多様な説話や戦記の集合体の中に統一的な筋書きを備える西洋古典叙事詩の伝統の中で『平家物語』を読むことができるのです。そのような読み方をすれば、「入道死去」に続く「巻第7」で語らせている平家武者たちの都落ちの物語や「巻第9」に収められている平家側の打ち続く敗北と死は、まさに清盛が築き上げた栄華の衰亡を意味していることがわかります。また、「巻第11」の安徳帝の死去は、清盛の栄誉の消滅を意味しています。そしてさらに、本巻最後の六代の死と「灌頂巻」における建礼門院の死は、清盛に残された僅かな血肉の完全な消滅を象徴していることが分かります。

  以上述べてきたことから「入道死去」以後の章段が描こうとしたことは、子孫の永遠の繁栄を願った清盛の願望が、次々に音を立てて崩壊して行く悲劇的過程であることが分かるでしょう。平家学者が中心人物と呼ぶ木曽義仲や源義経でさえも、「清盛悲劇的叙事詩」の推進力として登場し、またその悲劇の小宇宙的縮図となって滅亡して行く脇役に他ならないのです。そのように一見清盛とは無関係に見える部分には、主人公の死によって完結させるだけでは満足できず、すべての血族の完全な消滅によって主人公個人の悲劇を完成させようとした平家作者の意図が感じられます。まさしく、『平家物語』は、以上のような壮大な構想の下に創作された叙事詩なのです。

 

結び

 

   ここまで述べてきたように、『平家物語』は単一主人公・単一主題のもとに読解することが可能な作品です。そのことは「祇園精舎」の章段に提示された平清盛個人の諸行無常と盛者必衰の理法が作品全体を貫いているということです。すなわち、作品の中に挿入された清盛以外の人物に関する説話は、清盛の悲劇的叙事詩を高雅ならしめている副次構造に過ぎないのです。あくまでも物語の主要構造は、その巻頭「祇園精舎」の章段すなわち「序歌」に提示されている清盛の盛栄と衰亡なのです。そして、そのように作品の主要構造を支配する機能を持った序歌は、紛れもなく西洋古典叙事詩のそれに相通ずるものなのです。その証拠に、我が国の『保元・平治物語』や『太平記』にも、西洋の『ローランの歌』や『ニーベルンゲンの歌』や『ベオウルフ』といって非古典的叙事詩にも、主題・主役同時提示型の序歌は備えられていません。例えば、『平家物語』を模倣して創作されたと言われている『太平記』には、次のような漢文の序歌が付けられているだけです。

 

   蒙窃採古今之変化、察安危之来由、覆而無外天之徳也。明君体之保国家。載而無棄地之道也。良臣則之守社稷。若夫其徳欠則雖有位不持。所謂夏桀走南巣、殷紂敗牧野。其道違則雖有威不久。曾聴趙高刑咸陽、禄山亡鳳翔。是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取誡於既往乎。(『太平記』序)

  【和文訳】 小生は密かに古今の変化を採りあげて、平安と混乱の原因を推察した。善も悪も覆うのは天の徳なり、名君はその様に国家を保持する。総てを載せて捨てないのが大地の道なり。良い家臣はこの様に国家を守る。徳を欠けば君主の位にいても国を維持できない。いわゆるカ朝のケツはナンソウへ逃走した。イン朝のチュウ王はボクヤで敗れた。臣下の道を違えれば権威あれど久しからず。カンヨウにおいてチョウコウは処刑されたと聴く。ロクサンはホウチョウで亡ぶ。この様に昔の聖人は政法を将来のために念入りに書き残した。後世の我らは先代の戒めを顧みて政法を行うべきだ。

 

   『太平記』に添付された冒頭の文言は、序歌というよりも論文の序論のようです。この作品の主な作者は、幻慧(「げんね」または「げんえ」)だと言われています。彼は、藤原氏出身の天台宗の学僧で、後醍醐天皇の侍読を務め、さらに足利尊氏の信任も厚かったので、「建武式目」の制定にも参与した高名な学者でした。そして、『太平記』は、足利将軍家の監督の下に幻慧が監修して小島法師など複数の作者によって創作されたと言われています。まさしくそれは学者たちによって創作された作品なのです。それに引き替え、平家作者(とくに検校覚一)は、卓越した詩才の持ち主であったと、私は判断しております。検校覚一は、ホメロスに匹敵する才能を持ち、ホメロスと同じ詩作法を用いています。それゆえに、『平家物語』が西洋古典叙事詩に比肩する作品であることは、序歌「祇園精舎」だけをみても明らかです。その叙事詩の国際性については、序歌以外の文学的要素にも該当します。次回から詳しく解明して行きましょう。