検校覚一は日本のホメロス | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

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作家と作品

 

    藤原氏出身の天台宗の学僧で、後醍醐天皇の侍読を務めていた幻慧「げんね」または「げんえ」が、足利将軍家の監督の下に、小島法師など複数の文人を集めて創作したものが『太平記』です。この作品に扱われている記事は、後醍醐天皇即位の1318年頃から足利二代将軍義詮(よしあきら)の死去と細川賴之の管領就任の1368年頃までの事柄です。そして、幻慧の死去が1350年だと言われていますので、監修責任者の死後も書き足されていたことになります。ということは、創作理念としては「文学的創造」というよりも「歴史学的記述」を重んじていたことになります。しかし、『太平記』が歴史書に傾斜した文学作品であっても、ある実在の作者によって創造されたことは確かなことです。たとえ作者不詳の場合はあっても、大抵の文学作品は、ある作家・詩人によって創作されたものです。たとえば、『源氏物語』は紫式部、『枕草子』は清少納言、『徒然草』は吉田兼好、『土佐日記』は紀貫之、『曾根崎心中』は近松門左衛門などと、作者が判明しています。また、たとえ後白河天皇と崇徳上皇とが戦った保元の乱を描いた『保元物語』も、平清盛と藤原信頼・源義朝連合軍とが戦った平治の乱を描いた『平治物語』も、作者名は判明していませんが、単独か複数かの原作者によって執筆されたことは確かです。

      以上のことは、西洋文学に関しても同じことが言えます。『アエネイス』といえばウェルギリウスが、『神曲』といえばダンテが、『失楽園』といえばミルトンが、着想・構想から執筆まで、それぞれの詩人の原作として制作・完成させました。ところが『イリアス』と『オデュッセイア』を制作したホメロスに関しては、事情がかなり異なっています。

   まず、ホメロスの実在自体を否定する意見もあります。しかし、明らかに『イリアス』と『オデュッセイア』という作品は文字で書かれた完璧な状態で現存していますので、誰かが創作したことは確かです。しかし、執筆している姿は痕跡さえ残されていません。制作年代も曖昧で、紀元前8世紀初頭から中頃であろうと推測されてはいます。その根拠は曖昧で、ギリシア文字がフェニキア文字を借用して作られたのが紀元前9世紀末から8世紀初頭なので、それより以前ではなく、また、作品名と作者名が一致しているヘシオドスが前8世紀後半なので、それより以後ではないというだけの理由です。

 

ホメロスの詩人像

 

「ホメロスと手を引く少年」(ウィリアム・アドルフ・ブグロー作、1874)

 

   ホメロスが盲目の吟遊詩人であったという説は、『オデュッセイア』の中でその様な人物が登場するからに他なりません。その箇所とは、その叙事詩の主人公オデュッセウスが故国イタケに帰る途中で難破してスケリエ島に漂着したとき、その国のアルキノオス王に歓待される場面(第6巻~第13歌)です。その中で、デモドコスという盲目の吟遊詩人のことが次のように描かれています。

 

   「・・・神のごとき歌人デモドコスを召し寄せよ。かれには神が、なんであろうと気のおもむくままに歌えば、何人にもまして人の心をよろこばす力を与え給うたのだ」こう言って、(アルキノオスは)先に立つと、笏をもつ王たちはうしろに従い、従者は神のごとき歌人を呼びに行った。・・・広間の廊下も広い庭も部屋部屋も集まった人でみたされていた。老いも若きも大勢そこにいた。かれらのためにアルキノオスは十二頭の羊、八頭の白い輝く牙の猪、二頭の引きずる足の牛を犠牲にし、かれらはその皮を剥ぎ、用意し、うまい食事をつくった。

   従者がお気に入りの歌人をつれて来た。かれをとりわけ歌の女神は愛したが、幸いと禍いの両方を与えた。その目は奪ったが楽しい歌を与えたのだ。かれのためにポントノオスは宴の人々のまんなかに、高い柱を背に、白銀の鋲を打った椅子を据え、その頭の真上に、鋭い音の竪琴を釘にかけ、手で取れるように教えてやった。またかたわらに美しい卓と籠、好きな時に飲むように葡萄酒の杯をおいた。彼らは前に出された食べ物に手を出したが、飲食の欲をみたすと、歌の女神は歌人に勇士たちの勲を歌わしめた。 (『オデュッセイア』第8巻40~73、高津春繁訳)

 

「デモドコスの吟唱を聴いて泣くオデュッセウス」フランチェスコ・アイエツ(Francesco Hayez, 1791~1882)

 

   上の詩句に登場している「神のごとき盲目の歌人デモドコス」がホメロスの原型であったかどうかは疑わしいのですが、その歌人のような竪琴を奏でて歌う吟誦詩人が、すでにホメロス以前に存在していたことは確かでした。彼らの中には、宮廷お抱えの詩人もいたでしょうが、ほとんど者は諸国を巡り歩いて、聴衆のリクエストに応じて詩を歌う吟遊詩人であったことでしょう。長い間(19世紀後半まで)『イリアス』と『オデュッセイア』に描かれているトロイアは、ホメロスが作り出した架空の都市だと考えられていました。しかし、19世紀のドイツの実業家ハインリッヒ・シュリーマンやイギリスの考古学者アーサー・エヴァンズなどによって、紀元前1200年頃に実際に起こった出来事であったことが明らかにされました。ということは、トロイア戦争を題材にした二つの叙事詩は、トロイア戦争の時代からホメロスが文字に書き留めるまでのおよそ四百年の間、多くの吟遊詩人たちによって口承伝承されてきたことになります。それらの吟遊詩人たちの活動の場所は、『イリアス』と『オデュッセイア』に使われているギリシア語の方言から推測されています。

ギリシア語の言語学の研究によれば、『イリアス』と『オデュッセイア』に使われている方言は、アイオロス方言やアルカディア方言などかなり多方面にわたっています。ということは、その叙事詩は、一人の詩人によって一つの地方で創作されたものではない、という可能性が高いのです。また、その叙事詩の叙述に使われている中心になっている言語はイオニア方言であることが判明しています。そのことから、その作者が生活していた本拠地はイオニア(現在のトルコ・イズミル県)であったという説が生まれました。そして、その作者がホメロスならば、彼はイオニア人か、またはそこを生活圏にしていた人物であろうという学説が生まれました。

 

 

ホメロス叙事詩の成立過程 〔推測〕

 

   以上の仮説からホメロスの叙事詩の成立過程を推測してみましょう。『イリアス』と『オデュッセイア』の両叙事詩で使われているギリシア語方言が多種多様であったということは、トロイア戦争を題材にて吟誦した吟遊詩人たちは、ギリシア各地からの出身者であったか、その地の定住者であったことでしょう。そして、歌人たちには得意な曲目もあれば、苦手な分野もあり、また全く知らない曲もあったことでしょう。そのようにしてトロイアを題材にした個々の吟誦詩は、文字を持たない世界において口承され伝承されている間に、優れた詩歌に成長してきました。その期間は、ホメロス叙事詩の自律的な詩歌の成長期なので、私は「発酵と熟成の期間」と呼んでいます。言い換えれば、ホメロス叙事詩はホメロスの想像力を借りないで詩歌自体が成長してきたのです。そして、ホメロスの詩人としての役割は、ギリシア全土に流布しているトロイア関連の雑多な吟誦詩を取捨選択して、また必要に応じて改作・改良して、さらにまた吟遊詩人たちが扱ってこなかった新しい伝説や逸話を挿入して、巨大な二篇の叙事詩に構築することだったのです。独創力の欠如をホメロス叙事詩の脆弱性とみなす意見もあります。たとえば、次に上げる論評は、ホメロスの想像力を否定的にみる時の決まり文句です。

 

   ホメロスが、『イリアス』と『オデュッセイア』を、自分の頭脳から自由に制作した、輝かしい想像力ゆたかな芸術家でなかったことを教えている。彼は、それまでに存在した伝説を利用したにすぎなった。われわれは現在、彼はじつは、トロイアの物語を歌った叙事詩人の長い系列の中の、最後の偉大な一人であったと信じている。彼らは歌いはしたが、書くことはなかった。というのは、文字をもたぬ民族の間では、制作過程が、今日われわれが考えるのとは、まったくちがっていたからである。 (J.チャドウィック『線文字Bの解読』大城功訳、みすず書房、13~14)

 

   もしかりに、ホメロスが想像力と独創性に欠けた詩人であったとしても、彼の『イリアス』と『オデュッセイア』は、今日の私たち読者からみれば、後世の如何なる詩人の作品よりも想像力豊かなものになっています。確かにホメロスは、彼以前に存在した伝説を利用しました。しかし、彼は「トロイアの物語を歌った叙事詩人の長い系列の中の、最後の偉大な一人」ではなく、唯一無二の詩人だったのです。もしかすると、ホメロス自身は、吟遊詩人ではなく、彼らの吟誦を聴く側の人間だったかも知れません。ホメロスが優れていたのは、フェニキア文字から作られたばかりでまだ普及していなかったギリシア文字を使いこなす伎倆であったかも知れません。しかし、文字を操る技術だけであるならば、ホメロスの他にも多くの詩人がいたことでしょう。ホメロスだけが偉業を成し遂げることができたのは、国中に散乱していた詩の素材を組み合わせて巨大な叙事詩に仕立て直す創造力と構想力が彼には備わっていたからです。すなわち、ホメロスだけが、トロイア戦争からおよそ四百年の間、発酵と熟成を繰り返してきた素材を使って輝かしい芸術作品を完成させた唯一の叙事詩人であったと言えるのです。そして、ホメロス叙事詩と同じような制作過程を辿って誕生したのが我が国の『平家物語』なのです。

 

『平家物語』の原型「原平家」

 

   『平家物語』の創作過程は、『源氏物語』や『太平記』や『保元・平治物語』などとは異なっていました。現存している『平家物語』と呼ばれている作品は、語り本系と読み本系の大きく二種類に分かれています。そして更に、それぞれの系統も数種類に分かれていますので、流布本としては数限りがありません。また、その作者も判明していないのですが、現在のところ、最も信憑性のある説は、吉田兼好が『徒然草』の中で述べている次の証言です。

 

   後鳥羽院の御時(おおんとき)、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、稽古の誉(ほまれ)ありけるが、楽府(がふ)の御論議(みろんぎ)の番に召されて、七徳(しちとく)の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者(かんじゃ)と異名(いみょう)をつきにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世(とんぜい)したりけるを、慈鎮和尚(じちんかしょう)、一芸あるものをば下部(しもべ)までも召し置きて、不便(ふびん)にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持(ふち)し給ひけり。

この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しょうぶつ)といふ盲目(めしい)に教へて語らせけり。さて、山門のことを、ことにゆゆしく書けり。 九郎判官(くろうほうがん)の事はくはしく知りて書き載せたり。蒲冠者(かばのかんじゃ)の事は、よく知らざりけるにや、多くのことどもを記しもらせり。武士の事、弓馬(きゅうば)のわざは、生仏、東国のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。(吉田兼好『徒然草』226段)

 【現代語訳】

   後鳥羽院在位の時の寿永2年(1183年)から建久9年(1198年)の間、信濃の国司であった藤原行長は、学問の名声が高かった。しかし、『白氏文集』の「楽府」についての御前討論会の席において意見を求められた時に『七徳の舞』のうちの二つを忘れてしまって五つの徳しか答えられなかったので、『五徳の冠者』という不名誉なあだ名を付けられてしまった。行長はそのことを屈辱に思ったので、学問を捨てて隠遁者になりました。慈鎮和尚(=天台座主慈円)は、一芸ある有能な者は身分の低い者でも召し抱えて面倒を見ていた。そして、この信濃の出家者である行長も召し抱えて面倒を見たのである。

   その行長入道が『平家物語』を作って、生仏という名の盲目の法師に教えて語らせた。さて、山門(比叡山延暦寺)の事は格別に詳しく書いた。九郎判官(源義経)の事は詳しく知っていて書き記しているが、蒲冠者(源範頼)の事はよく知らなかったとみえて、多くの事を書き漏らしている。武士のこと、弓馬の技については、生仏が東国の生まれであったので、武士に詳しく聞いてから(行長に)書かせたようだ。その生仏の生れつきの東国言葉を、今の琵琶法師は学んでいるのである。

 

   吉田兼好の記述が正しければ、「信濃前司行長」が盲目の法師生仏と共同で創作して、その法師に歌わせたということになります。しかし、その原作は現存していないので、仮の名で「原平家」と呼んでいます。そして、それが完成したのは1210年ごろで、『平家物語』が三部構造になっていることから「三巻本」であったと推測されています。

   その行長と生仏の合作による「原平家」は、多くの琵琶法師によって歌い継がれました。そして、歌い継がれる間に改変されたり、加筆されたり、また新しい物語が付け加えられたりしました。琵琶法師たちは全国に散らばり、ある者は貴族や武家の館に招かれて、またある者は門前や辻に立って、琵琶を奏でながら平曲の一節を語ってきました。そしてついに、天才叙事詩人覚一法師が登場して、ばらばらの短篇であった物語を連結して、現存する『平家物語』という長編叙事詩を完成させました。

 

「武家屋敷で平曲を奏でる琵琶法師」東京国立博物館と西本願寺所蔵

辻に立って平曲を奏でる琵琶法師

 

和製ホメロス検校覚一登場

 

  検校覚一の功績なくしては『平家物語』が国際叙事詩の水準にまで到達することはなかった、と私は確信しています。それゆえに、百科事典レベルの情報ですが、覚一について紹介しておきましょう。

 

   実際のところ、覚一に関する経歴自体は曖昧です。その詩人について書かれた伝承は少なくて、しかも曖昧です。まず、室町時代に書かれた『当道要集(とうどうようしゅう)』(当道座とは平家物語を専門に語る琵琶法師集団)の中に「如一弟子を覚一検校というふ。是足利家の庶流にて明石を知行する故に、人呼んで明石殿といへり」という文言があります。それによって、覚一検校は生仏の弟子にあたる如一(じょいち)の弟子であったことが分かります。ということは、前出の「原平家」の作者である生仏の孫弟子ということになります。さらに、覚一自身は足利将軍家の分家筋にあたり、播州の明石を領有していたので「明石覚一」とも呼ばれることがあります。さらに、平曲に関する伝授書でもあり記録書でもあり便覧でもある『西海余滴集(さいかいよてきしゅう)(寛永9年1632年徳川二代将軍秀忠の死去まもなくの頃に書かれた書)「学一中年迄播州書写山の僧たり、俄に盲目となつて、当道に復し、程なく高官にすすみ、剰一流の頭角となる」という記事が見られます。それを根拠にして、覚一(=学一)は、中年の頃までは播州(兵庫県南西部)の姫路にある書写山圓教寺の僧侶でしたが、急に失明して琵琶法師の道に進み、その組織の高官になって如一(=剰一)流のトップに立ちました。検校覚一は、応安4年(1371年)に自派の証本として覚一本を制定したと言われています。そして、その年が覚一の死去の年であろうと推測されています。また、覚一は70歳ごろまで生きたと言われていますので、彼の失明は人生の中頃、すなわち「35歳頃」であったと推測されています。ということは、覚一が彼の『平家物語』を執筆し始めた(すでに視力を失っていたので口述筆記し始めた)のが1335年頃から後で、完成したのが1371年(死去の年)よりも前であったと結論付けて良いかも知れません。

 

発酵と熟成

 

  『イリアス』と『オデュッセイア』の発酵と熟成の期間は、トロイア戦争からホメロスが存在するまでのおよそ400年もありました。そのホメロスの期間と比べれば、『平家物語』の発酵・熟成期間は、信濃前司行長が「原平家」を創作した1210年から検校覚一の執筆までのおよそ140年なので、それほど長くはありません。ホメロス以前の文字のなかった400年よりも、すでに文字が存在していて『源氏物語』や『枕草子』のような傑作が存在していた140年の方が熟成速度が急激だったことでしょう。

  ホメロスの時代の吟遊詩人たちは、竪琴を奏でながらトロイアにまつわる物語を吟誦しながら、環エーゲ海諸国を渡り歩きました。一方、我が国では、琵琶法師たちが琵琶を奏でながら平家と源氏にまつわる物語を吟誦しながら、日本各地を巡り歩きました。そして、西洋ではホメロスが、日本では検校覚一が、半ば独立した逸話や伝説などを題材にした吟誦詩をつなぎ合わせて巨大な叙事詩に作り上げたのです。西洋においては『イリアス』と『オデュッセイア』が、日本においては『平家物語』が、他の叙事詩と異なっている点は、その両者には「発酵・熟成期」が存在していたことです。