平家物語の直喩の形体 | この世は舞台、人生は登場

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古典叙事詩と非古典叙事詩

 

   西洋文学を共通の範疇に従って分類するとき、色々な整理法が使われます。古代文学とかルネサンス文学とか現代文学というように時代ごとに分類する方法、ギリシア文学とかイギリス文学とかイタリア文学というように国別に分類する方法、詩とか小説とか随筆というようにジャンル別に分類する方法、宗教文学とか戦記文学とか恋愛文学というようにテーマ別に分類する方法などが使われて、文学作品の効果的な解明が行われてきました。そして、「詩(韻文)」というジャンルだけに目を向け、さらに「叙事詩」という分野だけに限定して各作品を分析するとき、最も有効な分類法として「古典叙事詩」と「非古典叙事詩」に分ける二分法を、私は使用してきました。その二分法は、万能ではないにしても、それぞれの叙事詩の特性を鮮明にする有効は武器(道具)になっています。その二分法を簡潔に言えば、直接にしても間接にしてもホメロスの影響を受けて書かれた作品を「古典叙事詩」に分類します。それゆえに、外見的にはホメロスと異質であるがごとく見えるダンテ(Dante Alighieri)の『神曲(La Divina Commedia)』もスペンサー(Edmund Spenser)の『仙女王(The Faerie Queene)』も、彼の影響圏内にある「古典叙事詩」なのです。それに反して、不幸にも歴史からホメロスの存在が消失していた中世時代に書かれた作品や西洋以外の国々の作品は、「非古典叙事詩」に分類します。そしてさらに、その分類法を日本の叙事詩にも適用しようというのが私の叙事詩論の根幹です。

 

日本における西洋叙事詩の受容

 

土井晩翠

土井晩翠(1871年12月5日(明治4年10月23日)~1952年(昭和27年)10月19日)

 

   明治維新の文明開花によって、日本文学は西洋の影響を急激に受け始めました。当時の文学者たちは、決して十分とはいえない参考書を頼りに外国語を習得して、旺盛な知識欲で興味のおもむくまま未知の文学に挑戦しました。次第に研究成果も上がり、明治の中期にもなれば、ギリシアのホメロス、ローマのウェルギリウス、イタリアのダンテ、イギリスのミルトンといった西洋を代表する叙事詩人たちの翻訳も出版されるようになりました。ほとんどは原典からの翻訳でしたが、ただホメロスだけは、ギリシア語の難解さのために研究が出遅れました。日本で最初にホメロスの原典からの翻訳を出版したのは、田中秀央であったようですが、翻訳に着手したのは土井晩翠の方が一足先であったかも知れません。田中秀央は弟子の松浦嘉一と共訳のかたちで、1939年(昭和14年)に弘文堂書房から『オデュッセイアー』を出版しました。そして、その翌年(1940年)に、土井晩翠は富山房から『イーリアス』を出版しました。さらに、その翻訳は、1950年に三笠書房の「世界文学選書19」として再版され、その本の「跋(後書き)」の中で、当時のギリシア語学習と翻訳の困難さを次のように記述しています。

 

   其頃(大学卒業前後)、故男爵神田乃武(かんだないぶ)先生からラテン語を三カ年正科として教へて頂いた。或日課程の終わった後、ギリシヤ語學習の望を先生に申上げた處「よし給へ。どうせ物にならぬから。」とあっさり諭されて悄然と退却したものであつた。その後この大それた考へは一切打ち捨てた。當時東京にあつた唯一の帝國大學の圖書館に一部のホメーロス原典が無かったと思ふ。

   大學卒業二ヶ年の後、第二高等學校(東北大学の前身)に奉職した。ある日先師粟野教授を訪問して所蔵の諸書を閲覧すると、中にパリのアシェット會社刊行のシェーザーの『ゴール戦爭記』(カエサル『ガリア戦記』の仏語読み)、原文に二重譯(直譯と翻譯)を添へたものがあつた。其附録の廣告で、ホメーロスに関する同様のものがあることを知つた。それで『イーリアス』の第一冊(第一歌~第四歌)を試にアシェット社から取寄せて見た。そしてギリシヤ文法初歩を披き乍ら、初めて「神女よ、歌へ・・・」の劈頭(へきとう、冒頭の意)を解するを得た。囘顧すれば五十年の昔である。

 

   上記の「粟野教授」とは、東北大学の前身第二高等学校の英語教授であった「粟野健次郎」のことです。彼は、夏目漱石の『三四郎』の冒頭部分で、大学に入学するために熊本から上京する途中の主人公三四郎が東海道線の汽車の中で臨席した風変わりな広田という大学教授のモデルになった人物だと言われています。第二高等学校に就任間も無い土井晩翠は先輩教授の粟野宅でカエサルの『ガリア戦記』を手に取りました。そして、その本の巻末に添付されていたその出版社の出版目録の中にホメロスの『イリアス』を見つけて、その書籍を取り寄せました。それが、土井晩翠のホメロス原書との最初の出会いであったようです。それはおそらく、明治33年(1900年)頃のことでしょう。そして、晩翠が『イリアス』の翻訳を最初に富山房から出版したのは昭和15年(1940年)でしたので、その完成にはおよそ40年の歳月を費やしたことになります。すなわち、彼の文学者としての人生の大半をギリシア語の習得とホメロスの翻訳に捧げたといっても過言ではありません。

  

ホメロス研究を平家研究に応用した文人

岩野泡鳴と生田長江

   明治時代も後期になると、多くの文学者たちが西洋文学の影響を受けて、いろいろな文芸運動を興して新しい形体の優れた小説や詩を創作しました。しかし、西洋文学では「最も崇高な詩形」と呼ばれている「叙事詩」に関しては、後世に残るような作品は何一つ書かれることはありませんでした。しかし、西洋古典叙事詩の研究は着実に進歩を遂げて、多くの優れた翻訳が出版され始めました。そして、その叙事詩研究の成果が現れるに従って、『平家物語』の再評価も芽生え始めました。すなわち、江戸時代から「史書」としての価値しか与えられてこなかった『平家物語』が、西洋叙事詩との関連において文学的評価を受けるようになったのです。

   『平家物語』の叙事詩としての再評価に最も貢献した人物として、岩野泡鳴と生田長江の名前をあげることができます。現代においても、『平家物語』は叙事詩ではない、となおも頑なに主張する研究者が多いことを考え合わせると、岩野・生田両名の功績は大きいと言わざるを得ません。平家叙事詩論を否定する研究者とそれを肯定する研究者とが異なる点は、西洋叙事詩に精通しているかどうかの違いのようです。叙事詩とは、書かれている内容ではなく、書くための形体なのです。私の説の正当性を証明するために、次のアリストテレスの言葉を借りましょう。

 

   言わなければならないことを持っているだけでは十分ではない。必要なのは、それをどの様に言うかということです。(『修辞学』Ⅲ-1,1403b 15~6)

     〔原文〕

 

   すなわち、同じ筋書きの物語でも韻文を使って重厚に表現すれば「叙事詩」になり、散文を使って軽妙に表現すれば「小説」になるのです。我が国において『平家物語』を「軍記もの」とか「戦記もの」と呼ぶ人は、「言わなければならないこと」ばかりに注目している人です。その呼び名は、叙事詩という詩型の一つの分野を指しているに過ぎないのです。たとえば、『イリアス』は叙事詩の中の「戦記もの」で、『オデュッセイア』は叙事詩の中の「冒険もの」というような分類法です。それゆえに、『平家物語』を西洋叙事詩の評価基準の中に入れて「叙事詩」として見ることは重要なことです。

   『平家物語』の再評価に貢献した人物は、岩野泡鳴と生田長江だと言えます。両者とも西洋叙事詩にはかなり精通した人物でした。まず言及すべき貢献者は、小説家でもあり文芸評論家であった生田長江です。長江は、彼が得意とする英語やドイツ語からの重訳であったと言われていますが、ホメロスやダンテなど多くの西洋文学作品を翻訳していますので、西洋の叙事詩にも精通していたと思われます。彼は、1906 (明治39)年、『帝國文学』に「国民的叙事詩としての平家物語」を発表して、その中でホメロスにも言及しています。しかし、「国民的」という範疇に固執するがあまり、『平家物語』の価値を狭める結果になっているようです。それに引き換え、岩野泡鳴は、彼が明治43年、『文章世界』に発表した「叙事詩としての『平家物語』」において、西洋古典叙事詩との関連から平家論を展開しています。私の知る限り、泡鳴のその論文は、『平家物語』を西洋の四大叙事詩人(ホメロス、ウェルギリウス、ダンテ、ミルトン)と比較して論じた先進的なものです。彼の論文で最も注目に値する箇所は、西洋古典叙事詩に固有の「長い直喩」の存在に着目して、その重要性を指摘している次の記述です。

 

       ・ ・ ・ ホメーロスやミルトンの詩的生命は直喩と直情とにあったと同様に、「平家物語」の音律も亦殆ど全く直情的対句にあると云ってもいいくらいだ。して、「イリオス物語」等が直喩の連発(甚だしきは、直喩中にまたその直喩、そのまた直喩がある)によってますますその作者等の熱誠が見えると同じ様に、「平家物語」にも亦その詩人の努力が種々の対句の運用中に最もよく現れている。直喩と対句とは屡々繰り返されるとうるさいものだが、叙事詩時代には、それが却ってその詩の面白味となるところで、而もまた詩人等の生命と相添ふものになっていた。

 

   上の岩野泡鳴の直喩についての論述は、西洋叙事詩の研究が途に就いたばかりで十分ではない当時の実状を考慮すれば、先見性の高い意見だといえます。西洋叙事詩に使われている「直喩法」については、私のブログで繰り返し説明してきましたので、下にあげるタイトルにアクセスしてください。

 

      ホメロスの直喩

   叙事詩の直喩(上)

   叙事詩の直喩(下)

 

  上に示した三篇のブログの中で繰り返し述べてきましたように、直喩という修辞法は、最も古くから親しまれてきました。しかし、一口に直喩といっても、二種類に大別することができます。まず一つは、先に言及した岩野泡鳴が念頭に置いていたであろうと思われる対句的性質を持った「短い直喩」であり、もう一つは、単一の直喩だけで独立した完全な情景を描き出す機能を持った「長い直喩」です。その二種類の直喩を西洋文学の中だけに限定して眺めてみると、前者「短い直喩」は叙事詩だけでなく抒情詩にも散文にも使われていますが、後者すなわち「長い直喩」は、直接的にしろ間接的にしろホメロスの影響を受けた詩人だけが使用しているものです。それゆえに、その長い直喩は、「叙事詩的直喩(epic simile)」とか、またホメロスが最初に用いたので「ホメロス的直喩(Homeric simile)」とか、また「尾長直喩(long tail simile)」、「装飾的直喩(decorative simile)」、「拡張型直喩(extended simile)」、また否定的には「本筋離脱型直喩(digressive simile)」などといういろいろな呼び名を持っています。そして、呼び名が多いということは、研究が確立していないということですが、しかし現時点で判明していることは、直喩の用法をみれば、その作品がホメロスの影響下にある「古典的叙事詩」なのか、それとも影響圏外にある「非古典的叙事詩」なのかを判断するための非常に確立の高い決め手になる、ということです。

   ホメロスの影響下にあった我が国でも有名な叙事詩人には、ウェルギリウス、ダンテ、ミルトンがいます。さらに、比較的知名度の低い詩人には、アリオスト、タッソー、スペンサーなどの名を上げることができます。また、ホメロスの影響圏外に位置する代表的な叙事詩は作者未詳なので書かれた言語で言えば、アングロサクソン語(古代英語)の『ベオウルフ』、古代フランス語の『ローランの歌』、古代ドイツ語の『ニーベルンゲンの歌』などがあります。そして、「長い直喩」はホメロス影響下の古典叙事詩にのみ使用されている修辞法なのです。それに対して、私が「非古典叙事詩」と名付けている影響圏外の叙事詩には、「長い直喩」は皆無であると言っても極論ではありません。さらに、「短い直喩」でさえもそれほど使われてはおりません。その点について、西洋古典学者バウラの意見を借りれば、『ローランの歌』の中には(古典叙事詩と比べると)直喩が極めて少なく、その用法は単純であり、また『ベオウルフ』の中には7個だけあるが、その質は『ローランの歌』の直喩表現よりも劣っています。一方、『ニーベルンゲンの歌』の中にはほとんど直喩は使われていません。(参照:C.M. Bowra, Tradition and Design in the “Iliad, Oxford, 1930; Greenwood, 1977, p.114)

 

『イリアス』と『ローランの歌』の直喩

 

   非古典叙事詩の中では『ローランの歌』の直喩は、『ベオウルフ』よりも僅かばかり洗練された表現を持っています。それでも、すべてが「短い直喩」で、そのほとんどが「花」を素材にしたもので、「花のように」(3173行)、「夏の花のように」(3162行)、「四月の花のように」(3503行)、「山査子のように」(5312行)と単純な表現から成っています。しかし、一つだけ長い表現を持って古典の香りのする直喩があります。それは、「鹿と猟犬」を素材にした次の直喩です。

 

   鹿が犬の前を走って行くように、ローランの前を異教徒たちは逃げる(『ローランの歌』1874~75、筆者訳)

 

  非古典叙事詩の直喩としては「長い」といえるのですが、古典叙事詩のものと比べると「短い直喩」に分類されるかも知れません。ホメロスにも「鹿と猟犬」を素材にした次のような直喩があります。

 

   敏捷なアキレウスは、絶え間なくヘクトルを恐怖に陥れながら疾走する。ちょうど、山で犬が鹿の子をねぐらから駆り出して、斜面や谷間を通って追い回す時のようであった。たとえ、(子鹿が)雑木の下に屈み込んで(犬を)逃れようとしても、(犬は)捜し出すまで絶えず跡をつけて走る。そのようにヘクトルは、足の速いペーレウスの子(アキレウス)を逃れることはできなかった。(『イリアス』第22巻188~193、筆者訳)

【原文】

   上の直喩は、ホメロスの他のものと比べて格別に優れているものではありません。むしろこの程度の直喩であれば『イリアス』のいたる所に散在していて、とくに注意をして読まない限り見落としてしまうほど平凡なものです。しかし、それさえも『ローランの歌』の直喩と比べれば一際優れて見るのです。しかも、『イリアス』のほうが『ローランの歌』よりも1800年も前に書かれていることを考え合わせると、ホメロスの直喩がいかに優れているかが理解できます。

 

西洋叙事詩理論の日本文学への適用

 

   ホメロスの影響下にあった古典叙事詩とその圏外にあった非古典叙事詩との間には、直喩の種類と用法に明白な相違が存在していたことが証明されました。その両者の相違を簡潔にまとめて言えば、非古典叙事詩に用いられた直喩は、すべて短い表現しか持たない原始的で粗野な形体であったのに対して、古典叙事詩には、長い表現形体を持ち完全な情景描き出す機能を備えた直喩が使われています。すなわち、長い直喩は、西洋古典様式の叙事詩に固有な要素であると同時に、その作品の文学性を高めている重要な要素でもあるのです。

 

   それではここで、日本文学に目を移して、西洋の叙事詩に表れた相違点を参考にしながら、日本の叙事詩の直喩法を見てみましょう。

   日本に現存する文学の中で最古の叙事詩と呼べる作品は『古事記』です。私がそのように主張すると、『古事記』も『日本書紀』も叙事詩ではなく「神話」だと反論する人も多いようですが、韻文または韻文調または韻文らしき韻律で書かれた物語は、すべて「叙事詩」なのです。叙事詩の語源であるギリシア語の「エポス」とは「物語」という意味であり、古代においては物語はすべて詩で書いた(歌った)ので「叙事詩=物語」であったのです。古代ギリシアのヘシオドスが書いた『神統記』は、ギリシア神話を題材にして書いた叙事詩なのです。

   日本の神話を書いた叙事詩『古事記』にも直喩が使われています。その数は少なく、その用法は極めて単純で、すべて短い直喩法です。その中で最も注目に値する直喩箇所は次のところです。

 

 

  この箇所には、4個の直喩が連続して使われています。岩野泡鳴流にいえば「直喩の連発」です。この短い直喩の連発法は、漢文学の影響によるものだと考えられます。たとえば、紀元前91年ごろに司馬遷によって書かれた『史記』は、古代・中世日本文学に多大の影響を与えましたが、その作品の中では連発的直喩が好んで使われています。そのすべては単調ですが、その中でも比較的技巧が感じられる直喩は、次のものでしょう。

 

帝堯者放勲、其仁如天、其知如神、就之如日、望之如雲。

                        (『史記』五帝本紀、第1、6)

(訳) 堯帝(げいてい)は(号を)放勲といい、其の慈愛心は天の如く、其の知恵は神の如く、人々がそれを慕うことは日を慕うようであり、それを仰ぎみることは干ばつに雲を望むようであった。

 

  上の『史記』の一節を読み下し文に書き改めれば自ずから明らかになるように、先にあげた『古事記』の直喩法は、その調子も形体も漢文訓読体の域を一歩も出ていないのです。

 

   『古事記』が書かれてからおよそ500年の間、散文学では『源氏物語』を頂点とする小説・随筆などが、韻文学では『万葉集』を頂点とする和歌などが、日本文学の中心でした。叙事詩も、11世紀には「軍記もの」という呼び名で『将門記(しょうもんき)』や『陸奥話記(むつわき)』が書かれましたが漢文による作品でした。叙事詩が本格的に書かれ始めたのは13世紀に入ってからで、まずその世紀の初頭に『保元物語』や『平治物語』が登場しました。しかし、まだその両作品に用いられている直喩は、質・量とも貧弱で、漢文調の域を出ることはできていません。それゆえに、日本文学において直喩が日本語独自の表現を持つようになるには、『平家物語』の出現まで待たなければなりませんでした。

 

『平家物語』の直喩法

 

   日本文学の直喩法を国際レベルまで引き揚げたのは『平家物語』です。ようやく日本文学も『平家物語』の出現によって、漢文訓読調を脱却して、和文調の美しい表現を持つ直喩が誕生しました。それと同時に、直喩表現も長くなり、鮮明な情景を描く機能を持つようになりました。すなわち、西洋文学においてホメロスの影響下にあった優れた詩人だけが使うことのできた「長い直喩」を、平家作者は使いこなす技量を備えていたのです。しかも、『平家物語』の中には、西洋古典叙事詩と比べても決して見劣りしない、文学性に優れた数多くの直喩が存在しています。たとえば、次ぎに紹介する直喩は、和歌の日本的伝統を保ちながら、西洋古典的直喩に比肩するほどの豊かなイメージを持っています。

 

   上の直喩は、石母田正氏も、「色彩豊かな一幅の大和絵的描写」であると称賛を与え、「このような色彩感覚は、王朝の物語と絵画が育てあげた感覚」であって、「『將門記』・『陸奥話記』・『今昔物語』の伝統からだけはでてこない側面」と述べています。(石母田正『平家物語』岩波新書、167~168)

   上の直喩が喩えようとする第一の目的は、宇治川の急流を馬筏で渡る途中に流されてしまった武者たちの「六百騎」という多さです。しかし、この直喩を西洋古典叙事詩の評価基準に当てはめても十分に通用するのは、その色彩感覚です。なぜならば、西洋にも落葉のイメージを用いて数の多さを喩えた直喩はいくつも存在していますが、『平家物語』のように豊かな色彩を備えたものは見当たりません。たとえば、ミルトンの『失楽園』には、次のような有名な「落葉の直喩」があります。

 

  サタンは立ち上がり、天使の姿をした彼の軍勢を呼んだ。彼らは失神して横たわっていて、ヴァロムブローサの小川を覆う秋の落葉と同じくらい密集していた。その地では、エトルリアの森がアーチ形の天井となり木陰を作っている。または、激しい風で武装したオリオンが紅海の岸を混乱させる時、散乱して水に流れる菅の葉と同じ位に密集していた。―― かってその紅海の波は、ブシリス王と彼のメンフィス騎馬隊が、憎しみから約束を破り、ゴセンの寄留者(=イスラエル人)たちを追跡した時、その王と騎馬隊を押し倒した。一方、その寄留者たちは、安全な岸から漂う死体と破壊された戦車の車輪を見ていた。 (ミルトン『失楽園』第1巻300~311、筆者訳)

 

   上の直喩は、天国の戦いに敗れた反逆天使たちが、地獄に追い落とされて、火の湖の中で密集して漂っている有様を、イタリアのヴァロムブローサの渓を流れる川に積もった落葉と、オリオン星座が現れる頃、紅海に発生する嵐に倒された菅の葉に喩えています。そのミルトンの直喩は、竜田川に積もった紅葉の数など比較にならないほど、量感においてもイメージにおいても重厚です。さらに、視界をイタリアから紅海にまで広げ、現実の世界から旧約聖書の世界へと入って行く描写法は、壮大な光景を作り出しています。しかし、確かに『平家物語』の直喩は、ミルトンのものよりも「壮大なイメージ」という点では劣っていますが、豊かな色彩感覚が備わっているという点では、遥かに優っています。

   「竜田川の紅葉」の文学的原点は、在原業平の「千早振る神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」という藤原定家(1162~1241)によって『百人一首』の中に選ばれた有名な一句だと言えましょう。その直喩素材は、『平家物語』では、もう一箇所で使われています。それは、壇ノ浦で敗戦した平家の赤旗が海上に漂う有様を喩えた次の直喩の中です。

 

   上の直喩表現は、前出の「巻第4:宮後最後」の表現よりも短く、またイメージの鮮烈さにも劣るかも知れません。しかし、それでも西洋の非古典叙事詩や我が国の他の叙事詩の直喩よりも色彩感覚に優れています。『平家物語』の直喩の質を西洋古典叙事詩の水準にまで高めた要因はいくつか考えられます。まず、その叙事詩は、もともと書かれたものではなく琵琶の伴奏で謡われたものであったので、作品として文字に固定されるまでに「発酵と熟成」の期間があったこともその要因です。しかし、最も『平家物語』の直喩表現の質を高めた要因は、日本の叙事詩の直喩にはびこっていた漢文調を捨てて、純粋な和文調の文体を取り入れたことだと言えます。その結果として、『平家物語』の直喩は、他に例がないほど長い表現を持つようになり、豊かな情景描写が可能になったのです。しかし残念なことに、その偉業を受け継ぐ作品が現れませんでした。表向きは『平家物語』を模倣して創作されたといわれている『太平記』には、その手本よりも優れた要素が存在していません。むしろ後退している感は否めません。たとえば、『太平記』の中にも「竜田川の紅葉」を素材にした次のような直喩があります。

 

   上に添付した箇所は、鎌倉幕府の重臣越中守護北条時有が足利尊氏・新田義貞の率いる反幕府軍に追い詰められて切腹して果てる場面を描いたものです。

 

   直喩機能というものは、喩えられる部分(本筋の部分)を喩える部分(直喩の部分)が補足説明するものです。例えば、「伊賀伊勢の六百騎の軍勢が水に溺れている」という本筋の部分を「竜田川の川面に積もった大量の紅葉の落葉」という直喩部分が補足説明するのが正常な関係です。しかし、上の『太平記』の直喩は、「竜田川の水面に紅葉が散乱している」という直喩部分は、喩えられる部分を読まないと理解できません。この「紅葉」に喩えられているものは「朱色の衣と袴」であって、人の多さではありません。直喩に関連した人物は、「女房」と呼ばれる三人の女と、正室と思われる女が抱きかかえた「二人の子」の合計五人だけです。それゆえに、その直喩は、喩えられる部分を読んで初めて、それを喩える直喩表現の美しさを想像することができるのです。おそらく、『太平記』の直喩の素材は、同じ『百人一首』の句の中でも、「竜田川の紅葉」を詠んだ能因法師のものであった可能性が高いように感じられます。その和歌とは、竜田川の川面に浮かぶ紅葉を錦の織物の色艶やかな模様に喩えた「嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり」という一句であろうと推測されます。その能因法師の和歌の助けを借りれば、『太平記』の直喩表現が美しく感じられます。すなわち、入水した女房たちの朱色の衣と袴は、「竜田川の紅葉」のようではなく、その紅葉が喩えられている「錦の織物」のようであったのです。元歌である能因の和歌に詠まれた「竜田川の紅葉」と「錦織の絢爛豪華な色彩」を連想しなければ、『太平記』の直喩表現は理解することが困難です、しかし一方、『平家物語』の直喩は、それ自体で優れた映像を描くことができます。私の知る限り、その直喩表現だけで完全な情景を描く機能を持っているのは、日本文学では『平家物語』だけかも知れません。それは、まさしくホメロスから伝統を受け継いだ西洋古典叙事詩人だけが扱うことのできた直喩法なのです。