『神曲』地獄巡り45.マレボルジェの最果ては巨人の溜まり場 | この世は舞台、人生は登場

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第8圏谷と第9圏谷の境


  ホラ吹きシノンと贋金作りアダモの喧嘩を興味本位で聴いていた野次馬根性を先達から咎められたダンテは、余りの恥ずかしさに謝る言葉も見つからず、沈黙したまま歩き続けました。そしてようやく、第8圏谷の最果ての堤に到達して、先導者ウェルギリウスの怒りも解け、『地獄篇』第31歌は、次のような詩句で語り始められます。

  舌鋒(ぜっぽう)鋭く刺すような言葉に私の両の頬は火照ったが、その同じ先生が今度はいたわりの言葉をかけてくれた。アキレウスとその父の槍は、一撃で人を傷つけ二撃で癒やすと、かねて聞いていたが、ちょうどそうした感じであった。(『地獄篇』第31歌1~6、平川祐弘訳)

アキレウスの槍

  先達ウェルギリウスがダンテを叱った後で、「いたわりの言葉(原文では「治療薬‘medicina’)」を掛けましたが、その様子を「アキレウスとその父の槍(la lancia d'Achille e del suo padre)」の喩えで表現しています。
  『イリアス』の第16巻には、パトロクロスがアキレウスの武具を借り受けて、死の戦場に出向こうとする場面が描かれています。その描写の中で、アキレウスの鎧兜やすね当てや楯などを身に着けますが、槍だけは自分のものを使います。その理由は、次のように記述されています。

  アイアコスの無類の息子(ペーレウス)の槍は携えなかった。それは重くて大きくて頑丈であったので、アカイア(ギリシア)勢の誰も使いこなせなかったからで、アキレウスだけが振るうことができた。ペリオン山のトネリコ材で作ったもので、ケイロンがペリオン山の頂から取ってきて、武者たちを殺害するために、彼(アキレウス)の親愛なる父親(ペーレウス)に与えた槍であった。(『イリアス』第16巻140~144、筆者訳)

  ダンテが描いているように、アキレウスの槍に「一撃で人を傷つけ二撃で癒やす」(直訳は「最初は悲しみの原因で次は良い贈り物の原因になる(esser cagione prima di trista e poi buona mancia)」)能力があることは、ホメロスには書かれておりません。アキレウスの槍の神話はホメロス以後に確立されたようで、諸説が存在していますが、その中でも広く知られている物語は次に紹介するものだといえます。

  半人半馬族ケンタウロスのケイロンがペリオン山のトネリコ材で作った槍をペーレウスに授け、それを息子アキレウスが携えてトロイア戦争に出征しました。そこまではホメロスの叙述に従っています。そして、それに次のような神話が付け加わりました。
  英雄ヘラクレスの子テレポスは、トロイア周辺の大国ミュシアの王でした。第1回トロイア征服のために来襲したギリシア軍は、誤ってミュシアに上陸してしまいました。それを迎え撃ったテレポス王は、アキレウスと戦って逃げる途中に葡萄の枝に転んで太股に傷を受けました。それから8年後に第2回の遠征が行われた時、またギリシア軍はトロイアへの航路が分からずに、ミュシアに上陸してしまいました。前回に受けた傷が治らずに苦しんでいたテレポス王は、アキレウスが治療してくれることを条件にしてトロイアへの航路を教えることにしました。オデュッセウスの助言により、アキレウスは自分の槍の錆をテレポスの傷に塗って治癒させました。


  ギリシア文学を知ることのなかったダンテが、直接、ホメロスを引き合いに出すことはなく、必ずラテン詩人を媒介しています。このアキレウスの槍の逸話はオウィディウスの『恋の治療法(Remedia amoris)』の中の次の一節だと言われています。

  敵であるヘラクレスの子(テレポス)にかって傷を与えたペリオン山の槍は、傷の救済をもたらした。(Vulnus in Herculeo quae quondam fecerat hoste, Vulneris auxilium Pelias hasta tulit)47~48

  ダンテもアキレウスの槍に関するエピソードは知っていたことでしょう。しかし「悲哀(trista)と褒美(mancia)」を与える槍のイメージは、オウィディウスの「傷(vulnus)と傷の救済(vulneris auxilium)」をもたらすという表現から得られたものであると言われています。

ローランの角笛

  ダンテとウェルギリウスの一行は、マレボルジェの別名を持つ第8圏谷も、ようやく最果てに辿り着きました。その場の光景は、次のように描写されています。

  あたりは夜よりは明るいく昼よりは暗く、前方の視界はわずかしか利かなかった。だが雷の轟きもそれに比べれば物の数でもないような角笛が一曳(えい)、高らかに響き渡った。私の目は、思わず音の発した方へ走り、左右の視線は一点へ注がれた。シャルルマーニュが聖戦に敗れた悲痛な敗走の後でも、ローランの角笛はこう空恐ろしくは響かなかった。(『地獄篇』第31歌10~18、平川祐弘訳)

  辺りの様子は、暗くてほとんど見えなかったのですが、角笛が轟音を響かせました。その角笛の音量は、「どんな雷鳴も蚊の鳴く音になる程(tanto ch'avrebbe ogne tuon fatto fioco)」の大音響でした。さらにその角笛は、『ローランの歌( La Chanson de Roland)』から素材を採った直喩で説明されています。ここで、シャルルマーニュとローランについて見ておきましょう。
  「シャルルマーニュ(Charlemagne)」とは、西暦800年のクリスマスの日に教皇レオ3世より西ローマ帝国皇帝に任命されたフランク国王です。日本では、初代神聖ローマ皇帝と見なして「カール(Karl)大帝」と呼ぶことが多いようですが、フランスでは「シャルル(Charle)」または「シャルルマーニュ(Charlemagne)」と呼びます。因みにダンテは、『神曲』では「カルロ大帝(Carlo Magno)」と言っています。さらに「ローラン」はイタリア語では「オルランド(Orlando)」と言います。
  カルロ大帝は50回以上の戦争のための征服を行ってきましたが、唯一惨敗を喫したのが778年の「ロンスヴォー(Roncevaux)の戦い」だと言われています。カルロ大帝は、イベリア半島を征服してフランス本国へ帰る途中に、ピレネー山脈地帯に住むバスク人の奇襲攻撃を受けて敗走するとになりました。本隊の撤退を助けるために、ブルターニュ辺境伯(国境を守る高官職)ローランが殿軍を務めました。本隊は無事に撤退することができましたが、ローランや忠臣オリヴィエを始め全ての兵が全滅しました。もともとはカルロ大帝の大軍をバスク人ゲリラとの小規模な戦闘を、キリスト軍対イスラム軍の大規模戦争に拡大して描いた物語が『ローランの歌』でした。
  古代フランス語で書かれたフランス文学最古の叙事詩『ローランの歌』は、11世紀末に成立していたと言われていますが、現存する最も古い写本は、12世紀末ごろに書かれたオクスフォード写本と呼ばれているものです。その中で、ダンテが直喩の素材として使用したローランの角笛の箇所は次のように描かれています。
 

『ローランの歌』の戦場画(ウィキペディアより)

「ローランの角笛」サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の博物館所蔵

 

ローランが角笛を吹く場面
  ローランは角笛オリファントを口に当て、しっかりと握りしめ、全力を振り絞って吹きました。山々は高く聳え、角笛の音は遥か彼方まで鳴り響きました。人々は角笛が遥か30リーグ先まで響き渡っているのを聞きました。カール(シャルルマーニュ)王にも、王のすべての部下たちにも角笛が聞こえました。すると王は言いました「我が軍勢も戦闘態勢に入らん!」しかし、ガヌロンが王に反駁して言った。「他の誰かが言ったのであれば、大嘘になる言葉でしょう。」
  ローラン伯爵は、苦痛と苦悩と断末魔の力を振り絞って彼の角笛オリファントを吹いた。鮮血が彼の口から噴き出し、彼の頭のこめかみの所がはり裂けました。彼が握っている角笛の響きは、遙か彼方まで届き、峠の道を越えようとしていたカール王にも聞こえました。ネーム侯爵にも聞こえました。するとフランク(フランス)兵たちも耳を澄ましました。王は言った。「我はローランの角笛を聴いた。あの者は、戦わずして角笛を吹くなどということはせぬ。」(『ローランの歌』1753~1769、筆者訳)ただし上の和訳は、「オックスフォード版テキストにジェラルド・ブロールト(Gerard J. Brault)が付けた英語の対訳からの重訳です。

 

 『ローランの歌』は、ダンテの時代にもヨーロッパ中で騎士道の模範として人気を博していたと言われています。全身に傷を受けていたローランが、口からは血が噴き出し、頭からは脳みそがはみ出だしても、渾身の力を込めて角笛を吹く場面は、この物語のクライマックスです。ダンテは、ローランの角笛の場面を彼の詩の中に取り入れたというよりも、そのフランス叙事詩の角笛の描写から着想を得て、マレボルジェの最果ての光景を想像したのだというべきでしょう。

巨大な城の塔のように立っている巨人たち

  暗闇の中に「沢山の高い塔(molte alte torri)」が見えてきました。ダンテは先達ウェルギリウスに「ここは何という国土ですか(che terra è questa?)21」と尋ねました。先達は、とつぜん実物を見てダンテが驚かないように、「あれは塔ではない、巨人だということを知っておけ(sappi che non son torri, ma giganti)31」と助言しました。そして最果ての穴に近づくにつれて、次第に姿形が次のように鮮明になってきました。

  ちょうどモンテレッジオーネ〔の城〕が、円い城壁の上に一連の塔を従えて聳えるように、坎(あな)を取り巻く縁の上に恐ろしい巨人たちが半身を乗り出して、塔のごとく聳えていた。(『地獄篇』第31歌40~44、平川祐弘訳)

モンテレッジオーネ城塞 (Le torri di Monteriggioni) イタリア版ウィキペディア
 フィレンツェの南およそ40㎞、シエナの北北西およそ13㎞にある同名の町の丘に聳える城塞です。その丘を囲むように巨大な城壁が築かれ、等間隔に14の塔が建てられています。この城の本丸は、1213年にシエナ人にとって建造され、その後、1260年から1270年の間のいずれかの時期に、巨大な塔を備えた頑強な城壁が増築されたといわれています。

  坎を取り巻く縁(la proda che 'l pozzo circonda)に身体の半分(mezza la persona)を塔のように聳えていた(torreggiavano)「恐ろしい巨人たち(li orribili gignti)」の姿が目の前に現れました。それは、次の第9圏谷の底に立って第8圏谷の上に上半身を出している巨人たちの姿でした。ダンテは、その巨人の大きさを具体的に描写しています。

  巨人の顔は、まるでローマのサン・ピエトロにある松笠のように長くて大きかった。そして、身体の他の骨格もそれ(顔)と同じ比率でできていたので、土手は巨人の(身体の)中央部より下を隠す前垂れになっていたが、それとちょうど同じ長さだけ上半身を私たちに現していた。(長身で有名な)フリスラント人が三人がかりでも、(土手から)その巨人の髪の毛に手がとどくと自慢できない。なぜなら人がマントを留め金で留める箇所(肩)から下へ、(土手で隠れた箇所まで)30パルミ超の長さがあるように私には見えた。  (『地獄篇』第31歌58~66、筆者訳)

〔原文解析〕



   ダンテは、巨人の顔(faccia)を「ローマのサン・ピエトロ寺院の松笠のような長さと大きさ(lunga e grossa come la pina di San Pietro a Roma)58~59」だと書いています。


サン・ピエトロの松笠(la pina di San Pietro)ウィキペディア・イタリア版より
「サン・ピエトロ寺の松笠」とは、およそ4メートルの青銅製の松笠の像のことです。その胴像は、古代ローマ時代から存在していて、エジプト発祥の豊穣の女神イーシスの神殿に隣接したパンテオン神殿脇に設置されていたようです。西暦4世紀ごろから16世紀まで現在のサン・ピエトロ大聖堂の敷地に建っていた(旧)サン・ピエトロ聖堂の前庭に移され、現在はヴァティカン美術館の玄関前に設置されています。

 

巨人の体格
 

   その巨人の顔の大きさはサン・ピエトロの松笠ほどの大きさでしたが、「身体全体の骨格がそれ(顔)と均衡をなしていた(a sua proporzione eran l'altre ossa)60」と、ダンテは表現しています。すなわち、その巨人は、4メートルもある松笠のような顔に均衡が取れるほど大きな体格をしていたという意味です。いろいろなダンテ学者が、上の詩行からその巨人の体格を推測していますが、当然、結論などでるものではありません。ダンテの詩文の中で具体的な数字が提示されているのは、そこから下を土手が隠している「(身体の)中央部(mezzo)62」から「人がマントを留め金で留める箇所(loco ・・・ dov' omo affibia 'l manto)66」すなわち「肩」までの長さです。その長さを「30パルミ超(trenta gran palmi)65」であったと、ダンテは記述しています。

   「パルミ ( palmi単数形:パルモ palmo)」は、もともとは「手のひら」の意味で、古代ローマ時代から使われてきた長さの単位です。そしてその1パルモの長さは、地域と時代で多少変わるようですが、掌の親指から小指までの長さを基準にして「およそ25cm」ということになっています。その基準で換算すれば、30パルミは「750cm」ということになります。その数字を頼りにして、巨人の身長を算出してみましょう。
   レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci、1452~1519)が、古代ローマの建築家ウィトルウィウス ( Marcus Vitruvius Pollio, 紀元前80/70年頃~紀元前15年以降)の著作『建築について(De Architectura)』を基本にして『ウィトルウィウス的人体図』を完成させました。ダ・ヴィンチがその人体図を完成させたのは、1490年頃でしたが、ウィトルウィウスの著作が中世時代に復活したのは、すでに8世紀末から9世紀初頭に前述のカール大帝によって推進されたカロリング朝ルネサンス時代であったと言われています。ダンテは、カール大帝の登場する『ローランの歌』を知っていたと同様に、ウィトルウィウスの著述も目にしていたことは容易に推測できます。

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 ウィトルウィウスの理論をもとにしてダ・ヴィンチが制作した人体図に、筆者が解読した数値を挿入したものを下に添付します。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチの描いたウィトルウィウス的人体図(1486~1490頃の作)

 

  

   ウィトルウィウスの理論をもとにしてダ・ヴィンチが制作した人体図に、ダンテの記述を当てはめてみましょう。

 

 

   ダンテの詩文から判明している数値は、身体の中央部から肩までの長さの30パルミ(750cm)だけです。両手を開いた長さは身長と同じなので、その上には正方形が描けます。その正方形上に二本の対角線を描けば、その接点はダンテも想定した巨人の身長の真ん中(mezzo)になり、それは男性器の付け根の部分です。そのことは、ダ・ヴィンチ自身がこの人体図の下方部に添付している鏡文字の記述の中にも書かれている「男の男根の付け根は人間の真ん中に発生する(Il membro virile nasscie nel mez(z)o dell'omo)」という説明文から明らかです。ということは、土手に隠れている巨人の下半身は、男性器を含めた両脚の部分ということになります。そして、その他の数値は、ダ・ヴィンチの人体図に彼自身が添付した記述の判読によって、算出したものです。その数値に、ダンテが詩句の中で唯一明らかにしている「肩」から「背丈の真ん中」までの「30パルミ」を当てはめて計算すると、外に見える部分が1130cmで、全身長はその倍の2260cmと推測することができます。そして、「サンピエトロの松笠(la pina di San Pietro)」が約400cmなので、ダンテが描く巨人の「肩から頭の天辺まで」の長さ約350cmと附合しています。


  もうひとつ巨人の背の高さを強調するために「フリスラント人が三人がかりでも巨人の髪に手が届く(di giugnere a la chioma tre Frison)」ことはない、と書いています。たしかに、現代でもギネスに載る高身長者は270cmを越えていたということですから、その者たちが三人それぞれ肩に乗って手を伸ばせば、土手から1130cmにある巨人の髪の毛に届かないまでも、まったく根拠のない喩えではないようです。

(注:giugnere「届く」は現代イタリア語ではgiungere)

バベル塔の建設者ニムロデ

  その巨人は、「ラフェール マイー アメッケ ザービ アルミ(Raphèl maì amècche zabì almi)」と意味不明な言葉を叫び始めました。角笛を大音響で吹き鳴らしていたのはこの巨人でした。先達ウェルギリウスは、その巨人のことをダンテに対して次のように説明しました。

   奴は自責の念にかられている、こいつがニムロデだ、こいつの意地悪のために世界に使用される言語が一つではなくなったのだ。ほうっておけ、こいつには話しかけても無駄だ、奴の言葉が他人にまったく不可解なように、奴には他人の言葉はいっさい不可解なのだ。(『地獄篇』第31歌76~81、平川祐弘訳)

  ニムロデとは、『創世記』のノアの箱舟事件以後に登場する人物で、ノアからすれば曾孫にあたります。国によって呼び名が違っていて、ダンテは「ネムブロット(Nembrotto)」と呼んでいますが、ラテン語では「ネムロド(Nemrod)」、ギリシア語では「ネブロード(Nebrõd)」と呼び、日本名「ニムロデ」に最も近い呼び方は英語の「ニムロド(Nimrod)」だといえましょう。聖書の中だけに限定すれば、ニムロデは、それほど重要な登場人物というわけではありません。彼の登場する場面は、『創世記』の次の箇所だけです。

  ノアの子セム、ハム、ヤペテの系図は次のとおりである。洪水の後、彼らに子が生れた。・・・ハムの子孫はクシ、ミツライム、プテ、カナンであった。・・・クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。
  全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。 さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。(『創世記』第10章1~第11章9、日本聖書協会)

 

 『バベルの塔』ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel(Brueghel) 1525/1530頃~1569)


   ニムロデが神に挑戦して天にまで届くバベルの塔を建造したという話は有名ですが、その流布に貢献したはダンテであったと言っても過言ではないかも知れません。ダンテは、優れた文学を創作することのできる優れた俗語(イタリア語)の成立に精力を傾けていました。それゆえに、ダンテにとってのニムロデの罪は、神への反逆者としてよりも言語破壊の責任者としての罪の方が重いものでした。そのニムロデの罪と俗語構築の重要性を主張したラテン語の論文『俗語詩論(De Vulgari Eloquentia)』の中で、ダンテは次のように述べています。
 

   まがった心の直らない人間は、巨人ニムロデにそそのかされて、おごり高ぶり、おのれの術によって自然を乗り越えようとしたばかりではなく、自然の創り手なる神までも凌駕しようとしたのであった。そしてのちにバベルすなわち「混乱」といわれた塔をシナルに建てはじめたのである。その塔によって天に昇ろうと思い、愚かしくもその創り主と肩を並べるのではなく、創り主を乗り越えようとしたのである。ああ天上の王国のかぎりなき仁慈よ。息子からかくもあなどられてそれを忍ぶ父親がかってあったであろうか。しかし神は、まえにもふるわれた敵ならぬ慈父の鞭を手に立ちたまい、反抗する息子を慈悲深くしてなおかつ忘れ難いこらしめによって罰したもうたのであった。
   実に人類のほとんどすべてが、このよこしまな事業のために集い来たった。あるものは命じ、あるものは設計の想を練り、あるものは壁を築き、あるものは測量器を手にそれを正し、あるものはコテを用いて壁をぬり、あるものは石を切り出し、あるものは海を、あるものは陸を、運ぼうとする。その他も多くの組に分かれて、ほかの多くの作業に没頭していたのである。その時天空から大混乱が襲い来たって彼等は打ちのめされたで、一つのことばを使って共通の仕事にはげんでいたすべての人々は、多数の言葉によって分裂状態に陥り、事業を中断するはめになった。・・・ しかし神聖なことばを失わなかった・・・その数にしてはごくわずかな人々が、わたしの推察によれば、ノアの三男であったセムの末裔であったのだ。かれらからイスラエルの民が生まれ出たのであり、かれらはその離散にいたるまでもっとも古い言語祖形を用いていたのである。 (『ダンテ俗語詩論』第1巻7の4~8、岩倉具忠訳)

注:『神曲』地獄巡り14、甘く新しい詩形の「清新体(Dolce Stil Novo)運動について」を参照。

 『創世記』の中のニムロデは、「世の権力者となった最初の人」と書かれています。ということは、大洪水で唯一生き残ったノアの血統の中で、国を造り統治者(王か領主)になった最初の人物ということになります。彼は、シナルの地に四つの王国を建造しました。その中の一つの国の建設エピソードとしてバベルの建国の模様が紹介されています。その建国神話を元にしてダンテは、彼独自の俗語の成立過程を構築したのです。さらに、ダンテは、『神曲』においても『俗語詩論』の中でもニムロデを巨人だと言っています。ニムロデ巨人説は、ダンテの独創だと言えます。

最古の言語祖形(antiquissima locutio)

   大洪水の後、新世界に降り立ったノア一族は、最古の言語祖形とダンテが名付けた言葉を使ってコミュニケーションを取っていました。しかし、ニムロデがバベルの塔を建造しているとき、神の怒りをかって言語が乱されてしまい、コミュニケーション能力を失ってしまいました。それゆえに、ダンテは、ニムロデが「ラフェール マイー アメーッケ ザビー アルミ(Raphèl maì amècche zabì almi)」と叫んだ言葉に対して「奴の言葉が他人にまったく不可解なように、奴には他人の言葉はいっさい不可解なのだ」と述べています。すなわち、ニムロデとの間にはコミュニケーションが成立することできないのです。長年にわたり、ダンテ学者たちはニムロデの発した言葉の意味を解読しようろ試みてきましたが、未だに解決はしていません。この地獄でニムロデが受けている刑罰は、角笛が巻きついて身動きできなくされている状態に加えて、如何なる者からの如何なる言葉も理解できず、また彼が話す言葉は、決して誰にも理解されることがない、という苦しみです。おそらく、ダンテは、どの様な言語を当てはめても決して解読されない言葉として「ラフェール マイー アメーッケ ザビー アルミ」を考案したのでしょう。万が一にでも、その言葉の意味を解明する者が出るならば、ダンテの目論見は失敗であったということになります。

「角笛の巻きついたニムロデ」グスターヴ・ドレ作