『神曲』地獄巡り16.第7圏谷の血の川プレゲトン | この世は舞台、人生は登場

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第7圏谷の第1円は真っ赤な血の川地獄



 人身牛頭の怪人ミノタウロスが、ウェルギリウスから罵倒されて激怒の余り我を忘れてもがいている間に、ダンテは絶壁の険しい道を駆け下りました。この岩壁が荒れ果てて険しくなったのは、キリストが辺獄に降りてきて賢者たちを天国へ連れて帰った時、地獄の深淵が激しく震動して山津波が起こったからでありました。(地獄巡り4参照
 その険しい崖道を降りると、谷底には真っ赤な水を湛えた川が流れていました。『地獄篇』の第7圏谷では川の名前は隠されていて、ただ「血の川(la riviera del sangue: ラ・リヴィエーラ・デル・サングゥエ)」とだけ呼ばれています。しかし、この川はギリシア神話の冥界の川「プレゲトン」であることは明らかです。詩人ダンテは、ギリシア神話から借用した他の川は固有名詞を上げて描いているのに、このプレゲトンだけは曖昧な表現に留めています。ここでギリシア神話の冥界を流れる川の紹介をしておきましょう。



ギリシア神話の冥界の川と『神曲』の川

 古代ギリシア神話の冥界を流れる五大河川は、アケロン川(Acherōn)、スチュクス川(Styx)、プレゲトン川(Phlegethōn)、コキュトス川(Kōkytos)そしてレーテ川(Lēthē)です。アケロン川は、三途の川で、『神曲』においても『地獄篇、第3歌』(「地獄巡り3」参照)で渡し守アケロンの舟で渡りました。スチュクス川は冥界を七巻きする冥界最大の大河ですが、『神曲』では地獄の第5圏谷そのものを形成していて、ダンテは「沼(palude)」とか「泥沼(loto)」と呼んでいました。そしてサンテたちは船頭プレギュアスの舟で渡りました。次にコキュトス川は、ギリシア語の「嘆き悲しむ(kōkuō)」の意味を持つ動詞から付けられた名前で、「悲しみの川」と呼ばれます。『神曲』では、この先の地獄の最深部にあたる第9圏谷を形成している氷の池がコキュトスと呼ばれます。そして、ギリシア神話の冥界の出口を流れる川がレーテ川です。「忘却の川」と呼ばれて、死者の中でも善良な霊魂たちだけが、あの世からこの世に生まれ変わることができてますが、その時に前世のことを全て忘れるために渡る川です。『神曲』では、遥かこの先の煉獄界の最上部に位置するエデンの園の中を流れています。またエデンには、ギリシア神話の冥界には存在してはいない「エウノエ川」が流れています。ダンテが発案した川で、その水を飲むと「純粋な善」だけの魂に変身することになります。
 ギリシア神話の冥界には、プレゲトンという最も恐ろしい川が流れています。ギリシア語の「燃える」を意味する動詞「プレゲトー(Phlegethō)」から造られた川で、「火の川」とも呼ばれています。『神曲』の地獄の第7圏谷の最初の円環を流れる「血の川」がプレゲトンであることを、先達ウェルギリウスはダンテに対して教えません。それゆえに私たち読者は、この先の第7圏谷第3円に着いたとき、ウェルギリウスから冥界の川についての説明を受けます。(第14歌112~138)。そこで初めて、この「血の川」がプレゲトンであることが明らかにされます。おそらく、ダンテがこの「血の川」を「プレゲトン」だと明言しなかったのは、その川の名前が語源の「燃える」から由来しているので、「血の川」に使用することを躊躇ったからでしょう。しかし、その川の描写には、「暴力によって他人を傷つけたすべての亡者を煮込んでいる血の川(第12歌47~48)」や「赤い水の煮えたぎる様(第14歌134)」と「燃える火」のイメージが添えられています。



半人半馬ケンタウロス登場


プリアーモのケンタウロス



 第7圏谷(チェルキオ:cerchio)は、この世で暴力をふるった亡者たちが刑罰を受ける地獄です。三つの円環(ジローネ:girone)で構成されていて、その第1円環には他の人に暴力を振るった亡者たち、とくに暴君たちがいました。第2円環には自分自身に暴力を振るった者たち、すなわち自殺者たちがいました。そして第3円環には神や自然に暴力を振るった瀆神(とくしん)者や冒瀆者が刑罰を受けていました。
 まず、ダンテ一行は、最初の円環を形成している沸騰した血の川地獄が、崖の下の方に見える場所に着きました。その地獄の刑罰を担当している悪魔は、ギリシア神話由来の半人半馬の怪人ケンタウロスたちでした。その悪魔怪人たちは、狩に向かう出で立ちで矢をつがえながら川の回りを駆けていました。そしてダンテが崖を降りて来るのを見付けて、その中の三人のケンタウロスが弓をかまえて、遠くから次のように怒鳴りつけました。


 おまえらは、いかなる刑罰を受けるために崖を降りて来るのだ?そこから名乗れ、さもないと矢を放つぞ。
(『地獄篇』第12歌61~63、平川祐弘訳)


 ウェルギリウスはダンテに向かって、返事は近づいてからすれば良いと指示をして、その間に、三人のケンタウロスについて説明しました。

  あれがネッソスだ、美女デイアネイラにほれて死んだが、自らその復讐をなしとげた。あの自分の胸を見つめて中央に突っ立っているのが、大将のケイロン、アキレウスの育ての親だった。もう一人はポロス、昔は暴れ者だった。(『地獄篇』第12歌67~72、平川祐弘訳)


ホメロスのケンタウロス

 半人半馬の姿をしたケンタウロス族は数え切れないほど大人数の種族ですが、名前が知られて、それぞれの神話が作られているのは少数です。『神曲』の上の引用文に出ている「ネッソス」、「ケイロン」、「ポロス」の三人が良く名前の知られたケンタウロスです。しかし最も古い伝説としては、ホメロスにも登場しているテッサリアのラピタイ族と戦って負けたケンタウロス族の話です。まず、『イリアス』では、アキレウスとアガメムノンの諍いを仲裁しようとしたネストルの言葉の中で(第1巻262~268)、ラピタイ族の王ペイリトオスがテセウスの助力を得てケンタウロスに勝利した話が述べられています。さらに『オデュッセイア』においては描写に具体性が備わってきました。その叙事詩の最大の見せ場といえば、20年の漂流の末に故国イタケに辿り着いたオデュッセウスが、祖国を食い荒らしている求婚者たちを退治する場面です。その箇所では、オデュッセウスは弱そうな老人の物乞いに変身して求婚者たちを安心させ、むかし使っていた強弓で求婚者たちを射殺することになります。その求婚者の中で最も傲慢で強暴なアンティノオスが、乞食姿のオデュッセウスを侮辱して脅しつけるとき、次のようなケンタウロスの例え話を出しています。

  酒はケンタウロスの、誉れ高いエウリュティオーンがラピタイ族の国に行った時に、大いなる心のペイリトオスの広間で正気を失わせた。かれは酒で正気を失って、狂い、ペイリトオスの館で乱暴を働いた。英雄たちは怒って、飛び立ちざま、無慈悲な刃でかれの耳と鼻を切り取り、控えの間を通って引きずり出した。心の狂ったエウリュティオーンは自分のこの禍いの重荷を愚かな心に担いつつ立ち去ったが、これがケンタウロスと人間の不和の原因で、酒に酔いしれてエウリュティオーンがまず初めに自分で自分の禍いの種をまいたのだ。もしおまえが弓を曲げたら、同様にからい目にあわせてやるぞ。(『オデュッセイア』第21歌295~306、高津春繁訳)

 ホメロスに描かれている登場人物は、文字で書かれた世界最古の姿ということになります。これら二つの叙事詩に描かれたエウリュティオンがケンタウロス族の原形で、この描写からケンタウロス族とラピタイ族の戦争へと物語が膨張してきました。


『ケンタウロスとラピタイ族の戦い』 ピエロ・ディ・コジモ作(1500年~1515年ごろ)
ケンタウロスとラピテスの戦い


ダンテのケンタウロス

 ホメロスからダンテに話を戻しましょう。第7圏谷第1円の刑罰の執行人はケンタウロスで、その群からダンテに近づいて来た3人を順次に紹介しておきます。まず、その群れの指導者的存在はケイロンです。ダンテも「偉大なるケイロン(il gran Chirón)」、「アキレウスを育てたところの人(il qual nodrì Achille)」(注:‘nodrì’の現代イタリア語は‘nutrì’で‘nutrire’の遠過去)と呼んでいます。一般的にケンタウロス族は、乱暴で強暴だと言われていますが、ケイロンは賢明で高徳な人物だと伝えられています。そして、音楽、医術、狩、予言などの術を極めていて、アキレウスを始めとした多くの英雄たちの養育と教育を任されたことで有名です。彼は、ヘラクレスの養育者であったと言われていますが、その英雄が誤って射た矢に当たり死んだという伝説もあります。
 次は、「美女デイアネイラのために死んだ(che morì per la bella Deianira)」と歌われているネッソスです。このケンタウロスにはいろいろな伝説が伝えられていますが、ダンテが採用しているものは、オウィディウスの『転身物語(Metamorphoses)』に描かれている話であろうというのが、大方のダンテ学者の定説です。その箇所は、ヘラクレスの最期にまつわる有名な話です。その物語を要約しておきましょう。


 「ヘラクレスは妻デイアネイラを連れて故郷に帰る途中、雨で水かさが増して激流となっていたエウエヌスの岸につきました。ヘラクレスは渡ることができましたが、妻は激流を怖がりました。そこへネッソスが現れて、ヘラクレスには浅瀬を泳いで渡ることを勧め、デイアネイラは彼の背に乗せて運ぶことを申し出ました。ヘラクレスはその申し出を信用して、彼が先に向こう岸に渡って振り返りました。すると、ネッソスが妻を拉致して馬の脚力を発揮して逃げている真っ最中でした。ヘラクレスは対岸から、以前に退治した蛇の毒を塗った矢を放って馬人間を射貫きました。ネッソスは、死に際に自分の毒を含んだ血を衣に染み込ませて、愛欲の呪いをかけてデイアネイラに与えました。
 長い年月が流れ、ヘラクレスが12の功業を成し遂げた後、彼が奴隷女のイオレに恋い焦がれているという噂が流されました。妻デイアネイラは、夫ヘラクレスの愛をつなぎ止めるために、ネッソスの血に浸された衣を、愛の言葉を添えて贈りました。ヘラクレスは、それとは知らず、その衣を身にまといました。すると彼の身体の中へ毒が滲入して、皮膚は剥がれ、内蔵も骨も焼き尽くされました。そして、ヘラクレスは七転八倒して絶命しました。」
(『転身物語』第9巻98~210の要約)



 最後は、「昔は暴れ者だった(che fu sì pien d'ira)」と描かれている「ポロス」です。このケンタウロスは、いろいろな神話に絡んでいますので、むかしポロスが「怒りに満ちた(pien d'ira)」と描かれているのは、どの神話なのかはっきりしません。前に参照しました『オデュッセイア』第21歌にはエウリュティオーンというケンタウロスが登場していました。ホメロスのその箇所で描かれた神話が、後世において、そっくりポロスに当てはめて作り変えられた物語が存在していたかも知れません。ケンタウロスの中でもポロスは、先に述べたケイロンとネッソスに較べて目立った神話を持っていません。ポロスの名前が前面に登場する神話は、ヘラクレスの第4番目の功業にあたるエリュマントスの猪の生け捕りの場面です。それも、ほとんで脇役です。ヘラクレスが猪狩りに赴く途中で、ポロエの里に立ち寄った時に、ポロスはその英雄を歓待しました。ヘラクレスには焼いた肉を供しましたが、自分は生肉を食しました。そこでヘラクレスが酒を所望しましたので、酒神ディオニュソスからたった1瓶だけ授けられた貴重な酒を出してしまいました。それを知った他のケンタウロスたちは怒ってヘラクレスを襲撃しましたが、結局のところ返り討ちにあって、多くの者たちはヘラクレスの矢に傷つき命を落とし、残りの者は散り散りに逃げ去りました。しかしその折に、ヘラクレスに好意を示したポロスとその英雄の師ケイロンも戦いに巻き込まれて命を落としました。


ケンタウロス群の大将ケイロン

 ウェルギリウスがケンタウロスの紹介を終えたところで、血の川地獄で亡者たちに刑罰を与えていた何千人もの群れの中から大将ケイロンがダンテたちの近くにやって来ました。そしてダンテが歩くと、彼の踏んだ所が動くのを見て「死人の足ならそうはならない」と驚きました。そこで、ウェルギリウスがケイロンの胸先まで近づいて、ダンテを案内している理由を次のように説明しました。


  たしかに生きている、彼ひとりに限り暗い谷間を見せてやるのが努めだ、彼は必要に迫られて来た、遊びではない。ハレルヤを歌う〔天国〕から降りて来た方が、私にこの新しい努めを授けたのだ、彼は盗人ではない、私も盗人の亡霊ではない。私がこのように荒れた道を進んで行けるのは、ひとえに神徳の加護があるからだ。
(『地獄篇』第12巻85~93)、平川祐弘訳)

 そして、血の川の岩石でできた岸辺は足場が悪いので、霊魂ではなく肉体を持つダンテが通るには困難でした。そこでウェルギリウスは、ダンテを背に乗せて行ってくれるようにケイロンに頼みました。すると快く、部下のネッソスに命じて道案内をさせました。


ネッソスの背にのり血の川を渡るダンテ(ヴァチカン図書館にあるフェラーラの細密画)
ネッソスの背に乗って川を渡る

 ダンテは、ネッソスの背に乗せてもらって、真っ赤に沸騰している血の川の岸辺に沿って進みました。まるで観光ガイドタクシーのように、その半人半馬のネッソスは、ダンテを乗せて血の川で刑罰を受けている罪人たちを紹介しながら進みました。


亡者たちを罰しているケンタウロスたち(ギュスターヴ・ドレ作)
ドレの亡者を罰するケンタウロス


アレクサンドロス大王の亡霊

 「なぜ?」と疑いたくなりますが、真っ先に刑罰を受けているのがアレクサンドロス大王です。私個人としては、カエサルが辺獄で安穏と暮らしているのに、この大王が、偉業を評価されないで、この地獄に置かれていることは納得できません。しかしダンテは、その大王を第7圏谷第1円地獄に置いたというこは、流血と略奪をした暴君と認定したのです。しかも数ある暴君の中でも、ダンテがアレクサンドロス大王を筆頭にあげた根拠は、ルカヌスの『パルサリア(Pharsalia)』の記述であろうと言われています。(『パルサリア(Pharsalia)』別名『内乱(Bellum Civile:英語the Civil War)』は、カエサルとポンペイウスの戦いを描いた叙事詩。『地獄巡り11』参照)そしてダンテは、辺獄(リンボ)の中で、ルカヌスを五大詩人のひとりとして高く評価していて、さらに『パルサリア』についても熟知していたようです。
 ローマの武将たちにとってもアレクサンドロス大王は好意的に受け入れられていました。カエサルもポンペイウスもアウグストゥスも、当時はアレクサンドリアにあった大王の墓を訪れて敬意を表しています。しかしそれに反して、ルカヌスは彼の叙事詩『パルサリア』の最終巻(第10巻)において、アレクサンドロスを悪し様に罵っています。



アレクサンドロス大王の石棺の飾り細工
アレクサンドロス大王の石棺


ルカヌスの悪口雑言

 パルサリアの戦いで負けたポンペイウスは、形勢を立て直すためにエジプトに逃れましたが、裏切りによってその地で殺害されました。カエサルもポンペイウスの遺体を求めてエジプトに入りますが、まず訪れた場所はアレクサンドロス大王の墓所でした。ルカヌスは、彼の『パルサリア』の最終巻の冒頭で、アレクサンドロスの墓に向かって「あそこにペルラのピリッポスの気の狂った息子がいる。略奪を大成功させた盗賊(illic Pellaei proles vaesana Philippi, felix praedo)20~21」と呼び掛けています。(注:ペルラは大王の生誕地、ピリッポス2世は大王の父)
 そしてアレクサンドロスが行った所業を、次のような言葉で痛烈に非難しております。


  彼奴はアジアの人々の間を駆け抜けて人類をなぎ倒した。あらゆる民族を剣で刺し貫き、遥か遠くの河ユーフラテスとガンジスをペルシア人とインド人の血で汚染した。彼奴は、全地球の疫病神(terrarum fatale malum)で、どの人民も見境無く滅ぼす雷電だ。人類に禍をもたらす不吉星だ。(『パルサリア』第10巻30~36、筆者訳)

 ダンテ自身は、「あそこにアレクサンドロスがいる(quivi è Alessandro)」と表現しているだけで、その大王について何も説明はしていません。ただ、そこにいるはずのない人物がそこにいるというだけで、読者の想像力がかき立てられるのです。
 二番目の人物からは、短いコメントが付きます。「シチリアに長い苦難の年をもたらした残忍なディオニュシオス」、「あの真っ黒な髪の毛の額はアッツォリーノ」、「金髪の男は、この世で継子によって殺されたオピッツォ・ダ・エステ」と、ネッソスが背に乗っているダンテに紹介しながら進みます。すると皆から離れて罰を受けている亡者がいました。その者については名前が明かされないで、「あの者は、神のふところで心臓を切り取った。その心臓は、いまもテムズ川に血を垂らしている」と紹介されているだけです。ここで言及されている亡霊の名は、グイド・ディ・モンフォルテ(Guido di Monforte: 1243~1291?。またガイ・デ・モンフォート、Guy de Montfortとも呼ぶ)であると言われています。



イングランドの王子グイド・ディ・モンフォルテ



グイドの英国王室系図
  注:王の名前の下の黒字の数字は在位期間です。

 これからお話しする内容は、話が混み合っていますので、上のイングランド王室の系図を参照しなから読んでください。
 イングランド王ヘンリー3世に対してシモン・ディ・モンフォルテ伯爵を中心とした貴族たちがバロン戦争(1264~1267)と呼ばれる紛争を起こしました。その戦いでシモン伯は国王軍に殺害されました。ちょうどそれと時を同じくして、当時の教皇クレメンス4世が死去(1268年)しました。ところが後任選びに手間取り、3年以上も教皇空位の状態が続きました。ようやく1271年に、ローマの北北西約66kmの町ヴィテルボ(Viterbo)において選任会議(コンクラーベ)が開催されて、後にグレゴリウス10世として即位することになるテオバルド・ヴィスコンティ(Tebaldo Visconti)を選任しました。しかしその選任(コンクラーベ)当日、彼自身は、イングランド王エドワード1世率いる第8回十字軍に従軍していて不在でした。そしてその会議には、ナポリ王カルロ1世の名代としてグイド・ディ・モンフォルテが出席していました。ところが、ヘンリー王子も十字軍の任務を終えてイングランドへ帰国する途中にイタリアに立ち寄り、その会議に同席することになりました。グイドにとって、ヘンリーは従兄であると同時に英国王室側の人間として父シモン伯の敵(かたき)でもありました。そして殺人は枢機卿たちが投票している最中に起こりました。殺人のあと、グイドは「復讐を果たした(I have had my revenge)」と、叫んだと言われています。成就の後、彼は外へ出ましたが、父親が殺害された時、遺体が引きずられたのを思い出しました。そこで再度、教会内へ引き返して、ヘンリー王子の死体の髪の毛を持って、庭へ引きずり出したと言われています。その後、ヘンリー王子の遺体はイングランドに運ばれ、彼の心臓は黄金の小箱(杯?)に入れられて、テームズ川のロンドン=ブリッジの柱に祀られたと言われています。この事件は、ダンテが6、7歳の少年時代に起こった出来事でした。しかも、その事件の町ヴィテルボは、フィレンツェとローマの途中にありますので、噂だけではなく情報も耳に入っていたことは、容易に推測できます。


Viterboを中心にした地図


いよいよ血の川を渡って向こう岸へ

 半人半馬のネッソスの背に乗って川の岸辺を進んでいますと、足が浸か程度の浅瀬に着きました。そこを渡って向こう岸に渡ることになりました。しかし向こう岸には徐々に深くなる場所があり、更に強暴な者たちが呻き声を出していました。そして熱湯となった血が眼球の高さまで達していましたので、高熱が涙を枯らしていました。そこで悶絶していた暴君たちは、ローマまで侵略してきたフン族の王アッティラ(後406~453)、アレクサンドロス大王の後継者を自認して新興ローマを苦しめたマケドニア王ピュロス(前319~272)、ポンペイウスの子で父がカエサルに敗れた後ヒスパニアで再編した海軍によってローマと戦ったセクストゥス(前?~35)などの霊魂でした。そして、ダンテの時代には街道を荒らし回った名うての盗賊リニエール・ダ・コルネートとリニエール・パッツォも刑罰を受けていました。

 ようやく血の川プレゲトンを渡りきり、第7圏谷の第2円環「自殺者の森」へ進みました。