『神曲』地獄巡り17.自殺者の森 | この世は舞台、人生は登場

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第7圏谷の第2円は自殺者の森



  ダンテは、地獄の第7圏谷第1円環を形成している血の川プレゲトンを、ケンタウロス族のネッソスの背に乗せてもらって無事に渡り終え、第2円環に足を踏み入れました。その時の模様は、次のように描写されています。
 
  ネッソスがまだ瀬を渉りきらぬうちに、私たちはもう小径ひとつ通じない森の中にいた。(『地獄篇』第13歌1~3、平川祐弘訳)

 この詩句を説明するためにはイタリア語の原文を見る必要があります。語学の苦手な人は、この箇所は飛ばして「時間を超越した瞬間移動」の箇所から読んでください。

 上の詩句には二つの行為が描かれています。まず「ネッソスが向こう岸に到着した」と、もう一つは「森を通って進んでいた」という行為です。自然な時間の流れでは、「岸に着く」のが先で、それから後に「森を進む」という行為が起こります。英語を勉強するとき理解するのに苦労した経験を持った人も多いと思いますが、ダンテの描写を普通に英訳すると「no sooner ・・・ than ・・・」を使って‘No sooner had Nessus reached the other side than we moved forward through a wood’と表現するところです。この英語の意味は「岸に着く」のと「森を進む」のがほとんど同時ではありますが、やはり自然な時間の経過に従い、「岸に着いてから、すぐに森を進んだ」という意味になるわけです。ところが、前述のダンテの詩句はその様な読み方はできません。
 「私たちが森を通って進んでいたとき(quand noi ci mettemmo per un bosco)」には、「まだネッソスは向こう側から到達していなかった(non era ancor di là Nesso arrivato)」と表現しています。すなわち、第2円環に着いたときは、まだ第1円環の血の川の中にいたという意味なのです。注:私たちが(noi)森を通って(per un bosco)進んでいた時(quand ci mettemmo)、ネッソスは(Nesso)まだ(ancora)向こう側から(di là)到着していなかった(non era arrivato)と解析できます。mettemmoは、動詞mettereの遠過去(英語の過去形)で、era arrivatoは、動詞arrivareの大過去と呼ばれている時制で、大過去は過去の直前に起こった動作を現します。



時間を超越した瞬間移動

 ダンテとウェルギリウスの二人は、第1円環の火の川を渡っている最中に、時間と空間を飛び越えて第2円環の森の中に瞬間移動したのです。『神曲』では、ある領域から別の領域へ移動するとき、これまでにも時々、時間を超越する手法が使われていました。たとえば、亡者たちは三途の川アケロンを渡し守カロンの舟で渡りました。しかしダンテは、その舟に乗った形跡はありません。では、どの様に第1圏谷に渡ったのでしょうか。その方法は、次の箇所に描写されています。


  涙に濡れた大地は一陣の風を発し、風は真紅の稲妻を飛ばし、その稲妻は私の五官を奪った、私は昏睡に落ち込んだ人のようにばたりと倒れた。激しい雷鳴が頭の中の深い眠りを破った、無理やりに叩き起こされた人のように私はがばと跳ね起きた。そしてまっすぐに立ち上がると、疲れのとれた目を動かして、私がいる場所がどこかそれを見定めようと、しっかりと視線をすえた。私が立っているのはまちがいなく嘆きの谷の深淵の縁だった、そこには際限ない叫喚が集まり、雷鳴のように轟いている。(『地獄篇』第3歌133~第4歌9、平川祐弘訳)

 すなわち、ダンテは、三途の川の舟乗り場で気絶しました。その間に瞬間移動をして、意識を取り戻して目が覚めると次の圏谷に到達していたのです。さらに第2圏谷から第3圏谷への移動にもこの方法が使われていました。不義密通の罪で第2圏谷に落ちたフランチェスカからパオロとの悲恋の話を聴いたダンテは、余りの悲しさに気絶をしてしまいました。その時の様子を次のように描いています。

 哀憐の情に打たれ私は死ぬかと思う間に、気を失い、死体の倒れるごとく、どうと倒れた。この義姉と弟の哀れな物語に私は悲しみに心千々に乱れ、意識を失って倒れたが、気がついてみると、私のまわりは、前へ出ても、横を向いても、またいずこを見ても、およそ見たためしもない呵責と呵責にさいなまれる人ばかりだった。呪われた、冷やかな、重たい、永劫の雨が降る第3圏谷へ私は来たのだ。
(『地獄篇』第5歌140~第6歌8、平川祐弘訳)

 ダンテは、第7圏谷の第1円環の血の川から第2円環へ進むときも、瞬間移動をしたのです。その川は手前の方は浅瀬になっていましたが、向こう岸へ進むにつれて背も立たないほどの深みになっていました。その危険を避けるために瞬間移動の方法を使ったのでしょう。


不気味な自殺者の森

 ダンテが歩いている森は、陰鬱で不気味で恐怖に満ちたものでした。そこは不吉な樹木の森で、次のように描かれています。

  緑の葉はなく、黒ずんだ葉が繁り、すこやかにのびた枝はなく、節くれてひね曲がり、果実はみのらず、毒をふくんだ棘が生えていた。野獣は開かれた土地を忌み嫌うが、チェーチナとコルネートの間〔の沼地〕に棲む獣とても、これほど凄惨な密林に住みこみはすまい。(『地獄篇』第13巻4~9、平川祐弘訳)

ギュスターヴ・ドレの自殺者の森
ギュスターヴ・ドレの自殺者


 ダンテが入り込んだ森は、樹木の幹も枝も、葉さえも黒一色の世界でした。当然、花も実もつけるはずなどありません。枝はいびつに曲がり、その枝に生えた棘は毒を含んでいました。まさに野獣でさえも棲むことを拒むほどの凄惨な密林でした。すると、辺り一面いたる所から、嘆き悲しむ泣き声が聞こえてきました。しかし、辺りには姿も形も見えません。ダンテは、木の幹の後ろに隠れた者が嘆き声を出しているのだろうと考えました。それを察してウェルギリウスは「木のどれか一本の小枝を折ってみろ、そうすればお前の考えが足らないことが分かる」と勧めました。ダンテは勧められたとおり、大きめの茨の木の小枝を折りました。すると、小枝を折られた幹は、「なぜ、私を折る?」と叫び声をあげました。すると同時に、黒い血が流れ出て、また「なぜ、私を引きちぎる?」と再び叫びました。そして次のように訴えかけました。

  おまえには、哀れと思う情けが微塵もないのか?我々も人間だった、今でこそ、枯れ木になっているが。たとえ我らが蛇の亡霊であったとしても、お前の手はもっと慈悲深くあるべきだ。(『地獄篇』第13歌、34~39、筆者訳)

 ダンテは、この状況の恐ろしさに思わず握っていた枝を落として、立ち尽くしました。するとウェルギリウスは、自分がさせたことをその木の幹に詫びて、その名前を尋ねました。すると、その幹は、自己紹介をして「私はフェデリーコ(2世)の心臓の鍵を二本とも独り占めにしていた者です(Io son colui che tenni ambo le chiavi del cor di Federigo)」と名乗りました。名前は言いませんでしたが、皇帝フェデリーコ(フリードリッヒ)2世(地獄巡り14)の廷臣ピエール・デッラ・ヴィーニャ(Pièr della Vigna)であることは定説になっています。ピエールは、1190年にカプアの貧しいぶどう園庭師の息子として生まれ、パトロンか奨学金によってボローニアで教育を受けたようです。その後、彼の有能さはパレルモの大司教の目にとまり、1220年に彼の推薦によってフェデリーコ2世の宮廷に入り込んだと言われています。そこで、めきめきと頭角を現し、皇帝の右腕として信頼されるようになりました。1225年に司法官になり、1231年には大法官に上り詰めました。1232年には当時の教皇グレゴリウス9世への特使としてローマにも派遣されています。さらに、1234年から1235年までイングランドに派遣されて、ヘンリー3世の王女イザベラとフェデリーコ皇帝との婚姻をまとめました。1247年には、皇帝の側近中の側近で、懐刀となりました。ダンテは、そのことを「心臓の鍵を二本とも独占していた」と表現しました。そしてその「独占」の方法を次のように表現しています。

  それらの鍵を、あるときは閉め、あるときは開けて、操りましたので、やすやすと皇帝の秘密を他の誰からも隠すことができました。私は、寝食を忘れるほど、この栄光ある職務を忠実に果たしました。(『地獄篇』第13歌、59~63、筆者訳)

 これらの詩行で言及されている「鍵」は、旧約聖書の『イザヤ書』第22章22に「私はまたダビデの家(イスラエル国)の鍵を彼(エリアキム)の肩に置く。彼が開けば閉じる者なく、彼が閉じれば開く者はない」と書かれている鍵で、権力を掌握する喩えとして使われます。
 しかし、1248または1249年、ピエールは、クレモナに滞在中に、突然、逮捕され、サン・ミニアートかピサの牢獄に投獄され、両眼を焼かれて盲目になりました。1249年4月、壁に頭を打ち付けて自害したと言われています。その罪状は現在も不明のままですが、最も信憑性のある説は、時の教皇インノケンティウス4世と気脈を通じて、皇帝を毒殺しようと画策していると疑われたからだ、と言われています。しかし、ダンテは、それらはすべて濡れ衣であるという立場に立って、次のように描いています。



  およそ帝王の座にはいつも、淫蕩なながし目を送る売女がつきもので、宮廷を悪に染め、世間に死をもたらすのだが、その女が皆をたきつけて私にそむかせた、ついでたきつけられた連中が陛下をたきつけた、そのために喜びの誉れは悲しみの嘆きにかわった。死ねばこの侮りから免れるかと思い、世を侮った私の魂は正義の自分に不正義〔の自殺〕をあえてした。だがこの樹の不思議な根に誓っていう。私はかつて主君にたいして信義を破ったことはない、陛下はそうした名誉にふさわしい方だった。(『地獄篇』第13歌64~75、平川祐弘訳)


 上の平川先生の訳は、分かりづらい原詩を分かり易い日本語にしています。「淫蕩なながし目を送る売女(原文の直訳は、「淫乱な眼差しを皇帝の住居から決して離さない娼婦」La meretrice che mai da l'ospizio di Cesare non torse li occhi putti)」にあたる悪女が実在したかどうかはわかっていません。おおかたのダンテ学者は、この「売女、娼婦、meretrice(メレトリーチェ)」は、「嫉妬」の比喩であろうと解釈しています。確かに「女」の箇所を「嫉妬」に置き換えて読んでも、論理的矛盾はありまでん。


自殺者の枯れ木を啄むハルピュイア


ギュスターヴ・ドレの描いたハルピュイア
ギュスターヴ・ドレのハルピュイア

 とうとう、この地獄の有様が明らかになりました。ダンテが枝を折った枯れ木はピエール・デッラ・ヴィーニャの亡魂で、自殺をしたというだけの罪で、第7圏谷第2円環の地獄で刑罰を受けているのです。自殺者たちがその木の中に閉じ込められている理由を知りたがっているダンテにかわってウェルギリウスが尋ねました。するとピエールが次のように答えてくれました。

  激した魂が自らの手で命を絶って肉体から離れた時、ミノスは第7の圏谷へその魂を送りこむ。落ち行く先はこの森だが、席は別に定まっていない。運命のまにまに飛ばされたところで荒麦の粒のように芽を出し、若枝となり野生の大樹となる。すると鳥身女面の怪鳥がその葉をついばみ、苦痛を与え、苦痛に排け口を与える。〔最後の審判の日に〕皆と同様、私らも亡骸を探しに行くが、誰一人それを身につけることはできない。自分で捨てたものをつけるのは道理にあわぬからだ。ここまで私たちは亡骸を引き摺ってくる、この悲惨な森のいたるところで私たちの肉体は、それをさいなんだ自分の魂の茨の木にぶらさがるのだ。(『地獄篇』第13歌94~108、平川祐弘訳)


 自殺とは自分自身の肉体に暴力をふるうことで、それは他人に対して暴力をふるうことよりも重罪であると、ダンテは判定しています。なぜならば、他人へ暴力をふるった者は第1円環なのに、自殺者はさらに奥の第2円環に堕としたからです。しかも、この世で着けていた姿も肉体もすべて取り上げられて、茨の枯れ木にされてしまっているのです。そして木にされた亡霊たちに刑罰を与えているのは、ギリシア神話由来の鳥身女面の魔女ハルピュイアでした。


イタリアの博物学者ウリッセ・アルドロヴァンディ(Ulisse Aldrovandi、1522年~1605)が描いたハルピュイア
ウリッセ アルドロヴァンディのハルピュイアの絵

 ダンテは、魔女ハルピュイアの姿を次のように表現しています。下のダンテの描写を読めば、上に添付しましたウリッセのデッサン画のハルピュイアの図像は、ダンテから採用したものであることが推測できるはずです。

  この場所には醜悪な鳥身女面の鳥が巣くっている、トロイア人に悲惨な未来を予言して彼らをストロパデスの島から追い払った怪鳥ハルピュイアイだ。翼は幅広く、人頭人面、脚には爪が鋭く、太い腹は羽でおおわれ、奇怪な樹の上にとまって嘆声を発する。(『地獄篇』第13歌10~15、平川祐弘訳)

 ダンテのハルピュイアはウェルギリウスの『アエネイス』(第3巻209~258)の表現が基になっているといわれています。しかし『アエネイス』の中では、「怪鳥は乙女の顔をもつが、腹からきわめて汚らわしい排泄物を出す。手の爪は曲がり、顔は飢えでいつも青ざめている。」(岡道男・高橋宏幸訳)と描かれ、悪行といえば、アエネアスたちトロイア人の食卓を汚物で汚したという悪戯ぐらいです。ダンテは、その怪鳥を地獄の刑罰執行人、分かり易く言い換えれば、自殺という犯罪を犯した亡者の刑罰を担当するギリシア神話由来の女悪魔すなわち魔女として登場させているのです。それゆえに、この悪魔は、枯れ木になった亡者の葉を永遠にしかも休み無く啄んで苦痛を与え続けているのです。しかし、自殺した亡者に対して、他の罪人よりも深い哀れみを感じるのは、最後の審判の日にも神によって救われないことです。他の亡者たちは、キリストによる審判の日が訪れた後、この世に戻って、生前に着けていた肉体を再びまとうことになっています。しかし自殺者は、神から与えられた肉体を勝手に放棄したのですから、二度とそれをまとうことが許されないのです。地獄巡り13を参照


放蕩・道楽者

プリアモ・クェルシャの自殺者の森と牝犬に追われる道楽者
プリアーモ・クェルシャの自殺の者の森

 『地獄篇』だけでなく『神曲』全体を通しても、自殺者の森は最も強烈な印象を読者に与えます。自殺者を樹木に変えるという発想は、余りにも衝撃が強いので、この第2円地獄で刑罰を受けているもう一種類の亡者の印象が薄れています。それらの者は群れをなした黒い牝犬たちに追いかけられて、枯れ木のもつれた枝を滅茶苦茶に折ながら逃げて来ました。しかし遂には追いつかれて、ズタズタに咬み千切られたのち、肉片は犬たちに持ち去られました。この二人の亡者はどの様な罪業で罰を受けているのかは書かれていません。ただ名前だけは明記されていますので、当時としてはその罪業で悪名が高かったのでしょう。その二人の名は、お互いが「ラーノ(Lano)」と呼び、「ヤコポ・ダ・サント・アンドレア(Iacopo da Santo Andrea)」と呼び合っていますので明白になっています。
 前者ラーノは、正式名をアルコラーノ・マコーニ(Arcolano Maconi)と言って、1280年頃のシェーナの伊達男であったと言われています。彼は、シェーナでは「浪費家クラブ(Brigata Spendereccia 英語Spendthrift Club)」などと名乗って、贅沢三昧を自慢していた集団の一人でした。ラーノは全財産を食い潰したために自暴自棄になって、シエーナ軍とアレッツォ軍がトッポ(Toppo))で衝突した戦いに参戦して、1287に戦死してしまいました。
 後者のヤコポ(正式には「ジャコモGiacomo」と呼ばれる)は、父親をオドリーコ・ダ・モンセリーチェ(Odorico da Monselice)、母親をスペロネッラ・デレスマニーニ(Speronella Delesmanini)として、パドゥア(Padua: 現在のパドーヴァ、Padova)に生まれました。母親の方が裕福で、6人の夫を持ったと言われています。ヤコポは、相続した莫大な遺産をまったく無意味な道楽で浪費しました。彼の主な奇行は、自分自身の家にも他人の家にも放火することでした。また、パドゥアからベネチアへ行く途中のブレンタ川で、
大量の金貨を使って「水切り遊び」をしたと言われています。そして、ついに1239年、土地の領主エッツェリーノ・ダ・ロマーノ3世(Ezzelino da Romano、1194~1259)によって死刑にされました。


このエッセイに言及されているイタリア北部の町


 第4圏谷にも浪費家が刑罰を受けていましたが、この第7圏谷第2円にいるラーノとヤコポの浪費は想像を絶するスケールでした。その二人の道楽者が牝犬に咬み千切られる話は、自殺者が茨の枯れ木にされてハルピュイアに啄まれる物語の脇筋として描かれています。贅沢三昧のあげく身を滅ぼしたラーノとヤコポには同情を感じない読者も、自殺者たちが受けている地獄の責め苦には、悲哀と憐憫の情を感ぜずにはいられないことでしょう。


懐かしきフィレンツェ

 牝犬に追われて逃げ回った二人の道楽者に、葉と枝を切り落とされた自殺者は、ダンテを呼び寄せて「この悲惨な灌木の足下に折られた葉っぱを集めておいてくれ」と頼みます。そして、フィレンツェについて次のような助言をしました。

  俺はフィレンツェの出だが、あの市(まち)は守り本尊を〔軍神〕から洗礼者ヨハネに変えた。それが祟(たた)って、いつも戦火に市が荒れるのだ。だからもしアルノの橋の上に〔軍神の〕絵姿を多少なりとも残しておかないと、アッチラの手にかかって灰燼に帰したあの土地に市を再建してみたところで、その苦心は水の泡に帰するだろう。俺は自分の家を自分の首縊(くびくく)り台にしてしまった。(『地獄篇』第13歌143~151、平川祐弘訳)

 おおかたのダンテ学者は、上の詩文をフィレンツェの歴史を記述したものであると解釈しています。伝説によれば、フィレンツェは、ユリウス・カエサルの義理の伯父ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(Lucius Cornelius Sulla Felix(前138~前78)によって、アルノ川流域の肥沃な土地が開拓されて、紀元前80年ごろ建造されたと言われています。市の建造初期から、町の守護神として軍神マルスを祀っていました。そしてアウグストゥス帝時代になり、マルスの神殿が建設されて、その中央の円柱の上にマルス像が安置されていたと伝えられています。しかし、フィレンツェがキリスト教を公認したとき、マルス神殿はキリスト教会に改築され、洗礼者ヨハネの像が建てられました。一方、マルス像はというと、この軍神像を破壊したり、不浄な場所へ移すと、その土地は危険にさらされるという言い伝えがありましたので、アルノ河畔の塔の上に移設されました。450年、アッチラ(Attila)王の率いるフン族が侵略してきたとき、軍神像は川の底に沈められてしまいました。後に、フランク王国のカール大帝(在位:768~814)がフィレンツェを再建したとき、軍神像は川底から引き上げられて、河畔の円柱の上に据えられました。その後、ヴェッキオ橋(Ponte Vecchio:972~974建設)が完成したとき、その天辺に安置されました。しかし、1177年の大洪水で橋が流されたとき、軍神像も消失してしまったと言われています。その軍神像は大理石で作られていたと言われていますので、ダンテは元のまま復元しろとは言ってはいません。「似姿(原文では‘vista’)」でもよいと言っているのです。
 上に引用したダンテの詩句は、歴史を記述しただけの内容でしょうか。軍神マルス像を皇帝派ギベリーニ党員の隠喩で、洗礼者ヨハネの像を教皇派グェルフィ党員の隠喩と解釈することもできます。ダンテが『神曲』を執筆している時期のフィレンツェは、教皇派の独裁で、皇帝派は消滅していました。(「地獄巡り13参照)ダンテは、1310年ごろから書き始めた『帝政論(De Monarchia)』において「政教分離」を唱え、教皇は宗教権力だけを持ち、皇帝は世俗権力だけを持つことを提唱していました。それゆえに、教皇派が独占しているフィレンツェの市を再建するためには、皇帝派の影響力も必要であると主張しているように思えます。

 二人の道楽者に葉も枝も折られた亡魂からフィレンツェ再建の願いを聞いた後、ダンテも望郷の念にかられながら、第2円環を出て、第3円環の砂漠へと進みます。しかし次回は、私たちは、もう少し自殺者の森に留まり、「ダンテの直喩法」について少し見ることになります。