『神曲』地獄巡り33.蛇地獄とダンテの復讐心 | この世は舞台、人生は登場

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蛇に噛まれる盗賊たち
(フィレンツェの細密画(14世紀作:パリ国立図書館所蔵)
蛇に噛まれる盗賊、フィレンツェ細密画


 へび地獄第7ボルジャは、生前に盗人であった亡者たちが刑罰を受けていました。まず先達ウェルギリウスは、蛇に締め付けられたのち炎の中で灰になり、また蘇って意識朦朧となっている亡者に向かって、何者なのか尋ねました。すると、その男は次のように答えました。

 俺は、つい先日、トスカーナからこの恐ろしい口の中へ雨のように降り込んだ。獣的な生活が性分にあった、人間的なのは駄目だ、俺はどうせ生まれが騾馬だ、名は獣のヴァンニ・フッチ、ピストイアは俺に似合いの塒(ねぐら)だった。
(『地獄篇』第24歌122~129、平川祐弘訳)


フッチという大泥棒

 へび地獄第7ボルジャは、生前に盗人であった亡者たちが刑罰を受けていました。まず先達ウェルギリウスは、蛇に締め付けられたのち炎の中で灰になり、また蘇って意識朦朧となっている亡者に向かって、何者なのか尋ねました。すると、その男は次のように答えました。


 俺は、つい先日、トスカーナからこの恐ろしい口の中へ雨のように降り込んだ。獣的な生活が性分にあった、人間的なのは駄目だ、俺はどうせ生まれが騾馬だ、名は獣のヴァンニ・フッチ、ピストイアは俺に似合いの塒(ねぐら)だった。
(『地獄篇』第24歌122~129、平川祐弘訳)


 亡者は、トスカーナのピストイア(Pistoia)生まれのヴァンニ・フッチ(Vanni Fucci)だと名乗りました。そのフッチという人物は、ピストイアの貴族グェルフッチョ・ディ・ジェラルデット(Guelfuccio di Gerardetto de' Lazzari)の庶子として生まれました。「どうせ生まれがラバ(mulo)だ」といっているのは、サラブレッド馬ではなくロバとの間に生まれた非嫡出子だと、自虐的に言っているのでしょう。彼は、もともと黒党員で武闘派として名を馳せていたようです。しかし、彼はまた名うての大泥棒でもありました。フッチは、要注意人物として町に入ることを禁じられていましたが、時々夜にピストイアの町に忍び込み、他の悪党たちと共謀して窃盗を行ったと言われています。1293年、サン・ツェーノ大聖堂(cattedrale di San Zeno)に押し入っての聖ヤコポ(San Jacopo)の宝物を盗んだ時に捕まり、死刑判決を受けて絞首刑にされました。

 大盗賊フッチが、ウェルギリウスに短い言葉で身分を名乗って立ち去ろうとしました。しかし、ダンテはその亡者に見覚えがありましたので、さらに詳しくその亡者が知っている情報を聞くために、その場に留まらせました。そしてダンテが地獄に落ちた理由を尋ねると、その亡者はダンテに対して敵対心をむき出しにして次のように話し始めました。

 現世から命を奪われた時よりも、いまのこの惨めな俺のありのままの姿をおまえに見られる方が俺にはよっぽど口惜しい。おまえの問を黙殺することもできぬ。(『地獄篇』第24歌133~136、平川祐弘訳)

 1289年、ダンテも弱冠24歳で参戦しました「カンパルディーノの戦い」で、教皇派(グェルフィ党)と皇帝派(ギベリーニ党)の武力対立は、教皇派勝利で決着がつきました。しかしその後は、教皇派を構成していた「白党」と「黒党」との権力闘争が顕在化しました。ダンテとフッチは同時代の人物で、しかもダンテは白党の高官であり、フッチは黒党の武闘派党員でしたので、両者の間には何らかの対抗心があったことでしょう。とくにダンテには「フッチ嫌い」が明白です。「地獄の惨めな自分の姿をダンテに見られることは死ぬより悔しい」と、フッチに言わせているのです。そのフッチの台詞には、作者ダンテの「怨念晴らし」を感じさせられます。(カンパルディーノの戦いについては「『神曲』地獄巡り30」の「天下分け目のカンパルディーノの戦い」の項を、白党と黒党の対立については「『神曲』地獄巡り7」の「ダンテの時代のフィレンツェ」の項を参照)。)

そしてさらに続けてフッチに彼自身の罪状を次のように語らせています。


 こうした下まで落とされた理由は俺が教会堂から美しい聖器類を盗み出して、その罪をぬけぬけと他人にきせたからだ。(同上、137~139

 この罪をきせた「他人(atrui)」とは、ランピーノ・ディ・フランチェスコ・フォレシ(Rampino di Francesco Foresi)のことだと言われています。ダンテの『神曲』を読むとき、とくに『地獄篇』を読むときは、その中に登場する人物を歴史に名を残した有名人だと考えることは禁物です。確かに、第10歌に登場したファリナータ・デリ・ウベルティやグイド・カヴァルカンティとその父親カヴァルカンテ・カヴァルカンティや第15歌に登場したダンテの学問の師ブルネット・ラティーノなどは、ダンテの時代に実在した歴史的著名な人物でした。しかし、『地獄篇』に登場しているほとんどの人物は、ダンテと彼を取り巻く少数の者のみが知る歴史的には無名人でした。ダンテが彼の作品でその名を上げたので、後の学者たちが当時の「人別帳」のようなものから探し出して、その人物像を特定したのです。第7ボルジャの盗賊フッチにしても、大泥棒石川五右衛門などという歴史に残る大泥棒ではありません。ダンテによって有名にされた大盗賊なのです。それゆえに、「おまえが萬一地獄の外へ出て、俺がこんな格好をしていたといって喜ばれるのは無念だ」という台詞をフッチに言わせているのは、ダンテがその男に対してかなりの遺恨を抱いていたことになります。


トスカーナ地方のピストイア国
  ダンテのフィレンツェからの逃亡

中世イタリアとトスカーナ地図

 この蛇地獄に落とされたヴァンニ・フッチという亡者の故国ピストイアは、フィレンツェの北西へ30キロほどにある現在のトスカーナ州のピストイア県です。ピストイアは、本来は独立した自由都市でしたが、ダンテの時代には、フィレンツェ共和国に併合された服属都市でした。まさしくフィレンツェとピストイアは密接に結びついて時代を乗り越えてきました。ダンテは政敵フッチに地獄の予言者の役割をさせるために登場させています。
 ダンテは、しばしば地獄の亡者が予言能力を持つという設定で、現世の出来事を解説させています。第3圏谷にいた大飯喰らいのチアッコ(第6歌64~72)、第6圏谷にいた皇帝派軍の豪傑ファリナータ(第10歌79~81)、第7圏谷から第8圏谷へ通じる小径で出会った恩師ブルネット(第15歌55~78)が、その予言者の役割を演じています。フィッチはピストイアの未来を次のように予言しました。


 ピストイアではまず黒党の人々が衰える、ついでフィレンツェでは人も法も御一新だ。戦の女神がヴァル・ディ・マーグラから炎をもたらすと、それが乱れた雲に巻き込まれ、猛り狂った嵐と化し、ピチェーノの原で決戦が行われる。そこで火炎は突如、霧と雲とを破り、そのために白党の人々はみな傷つくに相違ない。俺がこれをいったのは、おまえがそれで悩むからだ。(『地獄篇』第24歌143~151、平川祐弘訳)

 1301年5月、ピストイアの白党は、フィレンツェの白党の助けによって黒党を追い払って支配を独占しました。一説には、黒党員を皆殺しにしたとも言われています。しかし、黒党に同調する教皇ボニファティウス8世は、フィレンツェを町ぐるみ破門にして、フランスの将軍シャルル・ド・ヴァロワ(Charles de Valois、1270~1325)にイタリア出兵を要請しました。ヴァロワ伯シャルルは、フランス王フィリップ3世の息子で次の王フィリップ4世の弟でもあった軍略能力に長けた人物でした。シャルルはフィレンツェに向けて進軍を開始しました。「戦の女神がヴァル・ディ・マーグラから炎をもたらす(Tragge Marte vapor di Val di Magra)」とは、その戦いの火ぶたがマーグラ渓谷で切って落とされたという意味でしょう。注:‘Marte(マルテ)’とは、ローマ神話では‘Mars(マルス)’で、男神なので「女神」と訳されたいる理由は不明。また、「炎」と訳されている原文は‘vopor(e)’なので、「蒸気」や「熱気」という意味です。ヴァル・ディ・マーグラは、ルッカの北北西50キロメートルほどのマグラ川沿いに広がる渓谷(val)ですから、その戦いの激しさで川水が熱を帯びて蒸気を出したという意味でしょう。

 とうとう、ヴァロワ伯シャルルの率いる軍勢は、1301年の「諸聖人の日(All Saints' Day:11月1日)」に、フィレンツェの城門に迫りました。一説では、フィレンツェには選り抜きの兵数千人がいましたが、ヴァロワ伯の数百人の騎士団の前に降伏してしまったと言われています。その白党の敗北と同時に、他国に逃亡していた黒党の領袖コルソ・ドナーティ(Corso Donati)が黒党の兵士を連れて帰ってきました。そしてピストイアの近郊のピチェーノ平原(Campo Piceno)で黒党軍は白党を破りました。その結果、フィレンツェ共和国においては、黒党による白党員への厳しい粛清が始まりました。白党員の中心人物には死刑が言い渡されましたが、1302年1月27日に白党の重鎮であったダンテにも真っ先に死刑宣告が出されました。しかしすでにその時、ダンテはフィレンツェを脱出してアレッツォに逃亡していたので、死刑の執行は免れました。



 地獄の第8圏谷第7ボルジャ(蛇地獄)にいるヴァンニ・フッチが予言の形式でダンテに告げたことは、以上のような白党の敗北と衰退の模様です。しかし、そのフッチの予言内容は歴史的には曖昧で史実に反すると言われています。それは言うまでもなく、フッチの記憶が曖昧なのではなく、ダンテの知識が乏しかったからです。まさしく、フッチの予言が起こっていた時は、ダンテがフィレンツェを脱出して逃れる最中でした。ダンテの記憶と知識が曖昧なのは仕方の無いことです。ちなみに、ダンテが『神曲』の物語の中で地獄巡りの旅をしてフッチと面談している日時は西暦1300年の4月9日のことですから、その予言の1301年の出来事は未来の出来事です。しかし、ダンテが『神曲・地獄篇』を執筆していたのは1310年前後の頃なので、この彼のフィレンツェ脱出の出来事は過去のことです。チアッコやファリナータやブルネットの予言内容は、正確だったのですが、このフッチの予言は正確さに欠けているというのが、ほとんどのダンテ学者の評価です。しかし、史実的には問題のある叙述かもしれませんが、フッチの予言で述べられていることは、ダンテの人生にとって最大の屈辱であり、また最大の危機であったことは確かです。フィッチの口を借りて「俺がこれをいったのは(detto l'ho)、おまえがそれで悩むからだ(perché doler ti debbia)」とダンテが表現したとき、彼の心からの叫び声だったのでしょう。注:‘debbia’は、現代イタリア語では‘debba’と綴り‘dovere’の接続法現在単数形です。意味は英語の‘must’と同じ用法と意味です。


ダンテの復讐の描写が始まります

 盗賊フィッチは、指をイチジクの形に組んで両手を天に振り上げ、神を呪いました。現代でも「フィグ・サイン(fig sign)」は人差し指と中指の間に親指を入れて指し示すジェスチャーがあります。卑猥な意味を含みますが、本来は侮辱を表すジェスチャーでした。神を侮辱した多くの亡者の中でも、このフィッチほど非道な侮辱の態度を示した者はいなかったと言って、ダンテは次のように表現しています。


 地獄のあらゆる暗黒の圏谷を通じて、テーバイで城壁から墜落した亡者にしても、これほど傲慢に神に手向かった者はいなかった。(『地獄篇』第25歌13~15、平川祐弘訳)

 テーバイの城壁から墜落した亡者とは、カパネウスのことです。このギリシアの英雄は神を侮辱しただけです。しかもキリストの神ではなくギリシア神話のゼウスという異教の神を侮辱しただけです。しかし、フィッチは、神への冒涜に加えて、サン・ツェーノ大聖堂から聖物を盗んだ罪も加わっています。彼に対する刑罰は次のように描かれています。


ドレの蛇地獄の全景


 一匹がまるで「これ以上口は利かせぬ」といわんばかりに男の首にからみついた、続いてもう一匹が腕にからみ、男を縛りあげ、前にまわるや頭と尾でしっかりと締めつけた、こうなると男はもう身じろぎ一つできなかった。
(『地獄篇』第25歌5~9、平川祐弘訳)


カクスという名のケンタウロス

 ダンテはこのピストイア人フィッチのことをよほど憎んでいたのでしょう。彼への拷問は執拗に繰り返されました。最初、フィッチは、蛇の攻撃によって火炙りになり灰にされたのち、元の姿に復元するという恐怖体験をさせられました。次は、二匹の蛇に体中を締め付けられました。そしてやっと解放されて逃げることができたかと安堵したのも束の間、一頭のケンタウロスが「小生意気な奴は何処だ(ov' é l'acerbo)」とフィッチを探しに来ました。ここにいるケンタウロスは、第7圏谷血の川プレゲトンにいた半人半馬の怪人とは、少し形相が異なっています。ダンテが『地獄篇』で描くギリシア・ローマ神話由来の怪物・怪人は、彼自身の図像学的想像力によって変形させられています。ここで描かれるケンタウロスも、基本的にはギリシア・ローマ的ですが、外形は『地獄篇』用に変形されています。ダンテはその形相を次のように描写しています。


ケンタウロス族のカクス


 上体はわれわれ人間の姿だが、半人半馬の腰にはマレンマの沼にもこれほどいるとは思われぬほど多数の蛇がからみついていた。項(うなじ)の後ろの肩の上には、翼をひろげた火竜がまたがり、出会うものに片端から火焔を放った。
(『地獄篇』第25歌19~24、平川祐弘訳)

 このケンタウロスの名前は、次の行に出るのですが「カクス(Cacus,伊語Caro)」と言います。腰には多くの蛇が纏わり付いていました。その蛇の数は「マレンマ(Maremma)沼」に棲息する蛇よりも多いと言っています。マレンマとは『地獄篇』第13歌で描かれていた不気味で陰惨な自殺者の森を喩えた「チェーチナとコルネートの間の沼地」の名前だと言われています。参考までにその箇所を次に載せてて置きましょう。


 緑の葉はなく、黒ずんだ葉が繁り、すこやかにのびた枝はなく、節くれてひね曲がり、果実はみのらず、毒をふくんだ棘が生えていた。野獣は開かれた土地を忌み嫌うが、チェーチナとコルネートの間〔の沼地〕に棲む獣とても、これほど凄惨な密林に住みこみはすまい。
(『地獄篇』第13巻4~9、平川祐弘訳)

 以上の二つの描写から、ダンテの時代には、マレンマの沼は、毒を含んだ樹木が鬱蒼と茂り、多くの野獣や蛇が住み着いていた危険な場所だったことが推測されます。





ギリシア神話のヘラクレスとカクス


ヘラクレスとカクス像
『ヘラクレスとカクス』バッチョ・バンディネッリ(Baccio Bandinelli, 1493~1560)作

 カクスとは、ギリシア神話の鍛冶の神ヘパイストス(ローマのウルカヌス)の子で、口から火を吐く人型の怪獣です。彼にまつわる伝説は多いのですが、最もポピュラーなものは、ヘラクレス伝説にまつわったものです。ウェルギリウスも彼の叙事詩『アエネイス』第8巻190~267でカクスとヘラクレス伝説を記述しています。その箇所を要約しておきましょう。

 ティベル川の岸辺(現ローマ市)のアウェンティヌスの丘の洞窟に恐ろしい姿をした半人のカクス(semihomo cacus)が棲んでいました。この怪物(monstrum)の父親はウォルカーヌス(Volcanus、Vulcanusとも言う)でした。カクスは、父親と同じように口から黒い火を吐く巨体の持ち主でした。あるとき、三つの躰を持つゲリュオンを征伐して、戦利品の牛の群を連れてアルキデス(Alcides、アルケウスAlceusの末裔という意味でヘラクレスのこと)がその地に滞在しました。そこで、カクスは、ヘラクレスの牛の中から立派なものを選んで牡牛と牝牛を四頭ずつ盗んで自分の洞窟に隠しました。しかし、ヘラクレスに見つかってしまったので、カクスは鍛冶の神である父親の技術を駆使して洞穴を頑丈に塞ぎました。ヘラクレスは、入口を探しましたが見つかりませんでしたので、山ごと天上を引っこ抜くことにしました。天上を壊されたカクスは、今度は口から黒い煙をだして、煙幕を張りました。しかし、ヘラクレスは煙の中へ突進して、カクスを掴まえ、羽交い締めにして絞め殺しました。

 以上が『アエネイス』に描かれたヘラクレスとカクスの戦いの模様です。ダンテが尊敬して愛読したローマの詩人には、ウェルギリウスの他にオウィディウスがいます。後者の詩人もまた、『祭暦(Fasti)』の中の「第1巻543~585」で、ヘラクレスとカクスの同じエピソードを描いています。全体像は同じですが、両者の格闘シーンの武器は異なっています。その箇所は「アルキデス(=ヘラクレス)が急襲して(occupat Alcides)、先端に三つの突起部のある棍棒を振り上げて(adductaque clava trinodis)、奴の顔面を正面から棍棒を三度、いや四度は食らわした(ter quater adverso sedit in ore viri)575~576」と描かれています。この格闘シーンに関して、ウェルギリウスの描写とオウィディウスのものは明らかに違っています。前者のヘラクレスは「素手」で戦っているのに対して、後者は「棍棒」を武器にして戦っているのです。この武器に関しては、オウィディウスの棍棒を持ったヘラクレス伝説の方が有名です。下に添付しました挿絵は、オウィディウスの詩文を基にして描かれたものだと言えるでしょう。『祭暦』に描かれたカクスも、最初は素手で格闘していましたが、形勢が不利になったので、口から火を吐くようになりました。下の挿絵に刻まれた「火をふくカクスをヘラクレスが襲う(Cacum flammivomum opprimit Hercules)」という文言は、最後の決着の瞬間を描いていることを明記していると言えます。




ベーハム作ヘラクレスのカクス退治
セバルド・ベーハム(Sebald Beham、1500~1550)作


ダンテのカクス像

 ダンテにとってウェルギリウスは、地獄巡りと煉獄巡りの案内者に選んだくらいですから、もっとも尊敬する詩人でした。また一方、オウィディウスは、ラテン語学習のために幼い頃から愛読した詩人でした。どちらのラテン詩人も、ダンテを語る上には避けて通ることはできません。このヘラクレスとカクスの格闘場面は、ダンテがその二大詩人のどちらに、より大きな影響を受けたかを推測するのに良い試金石になります。ダンテはカクスを次のように描いています。


 あれがカクスだ、あれのためにアウェンティヌスの山麓は、しばしば血の湖と化した。仲間と一つ道を行きはしない、自分の近くにいた家畜の大群を狡猾にも盗んだからだ。ヘラクレスが棍棒で退治するに及んで奴の悪事は止んだ。多分百発ぐらいくらわしたに相違ないのだが、奴は十発も感じなかったようだ。
(『地獄篇』第25歌25~33、平川祐弘訳)


 ヘラクレスがカクスを殺害する方法に関しては、『アエネイス』では「両の目玉が飛び出るまで執拗に締め付けた(angit inhaerens elisos oculos)260 ~261」と描かれていますが、『地獄篇』では、「奴の悪事はヘラクレスの棍棒の力で止まった(cessar le sue opere biece sotto la mazza d'Ercule)31~32」と書かれていて、オウィディウスの描写に似ています。すなわち、前者は「素手」で戦っているのに対して、後者のダンテもオウィディウスも、ヘラクレスが「棍棒」を武器にして戦っています。しかも、オウィディウスが「この武器に関しては、ダンテの方がヘラクレス伝説としては伝統的な戦い方です。しかも、ダンテはあまり誇張法を使わない詩人ですが、この箇所だけは珍しく大げさな表現になっています。オウィディウスのヘラクレスが敵に与えた棍棒の打撃は「三発か四発(ter quater)」でした。ところがダンテはその英雄が「百発与えた(diè cento)」と書いています。しかも「10発も感じなかった(non sentì le diece)」と書いています。すなわち、ヘラクレスは百発の殴打をカクスに加えたのですが、その怪人は10発目ぐらいで死んでいたということでしょう。ということは残りの90発ほどは、カクスの屍を殴打し続けたことになります。その行為は、ヘラクレスの残忍さを表現しているものと解釈することができます。

 ダンテは、カクスをケンタウロス族として描いています。その根拠は、『アエネイス』に描かれた「半人のカクス(semihomo cacus)」という文言かも知れません。また、そのラテン詩の「黒い火を口から吐く(atros ore vomens ignis)」というカクスの能力は、ダンテではその怪人の肩に乗っている「翼をひろげた竜(con l'ali aperte un draco)」の方に与えて、その竜の力で「出くわすものを火で燃やす(quello affuoca qualnque s'intoppa)」という機能を生み出しています。この第8圏谷第7ボルジャ蛇地獄にいるカクスは、盗賊たちに刑罰を与える立場に置かれています。また同時に、彼自身も体じゅう蛇に纏わり付かれていて、それは盗賊としての彼への拷問でもありました。ここに登場したカクスは、亡者たちの誰をも罰することなく、姿を見せただけで、すぐ退場しました。


 蛇地獄は、まだまだ続きます。カクスが去ったあと、三人の亡者が近づいてきました。