『神曲』地獄巡り32.蛇地獄第7ボルジャと不死鳥伝説 | この世は舞台、人生は登場

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マレボルジェの形状と地獄のロッククライミング場

 ダンテを先導するウェルギリウスは、第5ボルジャの番をする悪魔集団の頭目マラコーダが嘘をついて偽りの道を教えたことに激怒しました。しかし、第6ボルジャで刑罰を受けていた修道士カタラーノが、崩れた岩橋の残骸が積み重なっているので、そこをよじ登れば、次の第7ボルジャに辿り着けることを教えてくれました。ところがそこは、岩が積み重なっているだけで、道といえるようなものではありませんでしたが、そこを登らなければ次の地獄界には進めません。
 ウェルギリウスは、崩れ落ちて積み重なった岩を慎重に調べて、登れそうな岩と経路を見付けました。そしてダンテを後ろから押し上げてよじ登らせました。岩から岩を伝って登って行き、どうにか崖の頂上に到達しました。ここで、第8圏谷(別名マレボルジェ)の全景と一つ一つの濠(ボルジャ)の形状が判明します。その形は次のように記述されています。


 どう見てもこれは外套を着た連中の道ではなかった。なにしろ身軽な先生も、押してもらっている私も、やっとの思いで岩角から岩角へ攀(よ)じ登ったのだ。そしてこちらの崖の上りが向かいの斜面より短くなかったならば、先生はいざ知らず、私は完全に参っていたにちがいない。だがマレボルジェは全体が〔中央の〕深い坎の口に向かって傾斜しているから、濠の一つ一つは地形的に見ると、外まわりの崖の方が高く内まわりは低くなっている。それでようやく最後の岩が突き出ている頂上に達することができた。
(『地獄篇』第24歌31~42、平川祐弘訳)

マレボルジェの鳥瞰図
マレボルジェの横断面図


 第8圏谷マレボルジェは、次の第9圏谷の入口になっている中央の坎に向かって傾斜になっています。中央の穴のことを原文では「最も下の井戸の入口(la porta del bassissimo pozzo)」と表現されています。そこに辿り着くまでには、私たち『神曲』の読者は、形状が濠になっている四種類の袋(ボルジャ)を通り過ぎなければなりません。そしてその個々の濠は「一方の斜面が盛り上がり(l'una costa surge)、他方が低くなっている(l'altra scende)」という地形をしていました。この第6ボルジャの濠は、とくに険しい岩登りをしなければなりませんでした。しかし、距離的に短いので、「息が肺から搾り取られてしまう(la lena m'era del polmon sì munta)43」ほどの苦しさでしたが、登り切ることができました。

 ここでウェルギリウスは、ダンテを「怠け癖を捨てろ(ti spoltre)」と励まして、次のような教訓を垂れました。(注:ti spoltreは、現代イタリア語ではspoltrisca 代名動詞spoltrirsiの命令法現在2人称単数形です)


 羽布団の上に坐り、錦の掛布団の下に寝て、名声の得られたためしはない。名をあげずに生涯を終える者が、地上に残す己の形見は、いわば空の煙、水の上の泡(あぶく)だ。さあ立て、もしおまえの魂が肉体の重みに耐えるなら、あらゆる戦闘に打ち克てるはずだ。その魂の力で呼吸困難に打ち克て。鬼から逃れたというだけでは事は足りぬ、もっと長い〔煉獄の〕坂をよじ登らねばならぬ、私のいう事がわかったら、おまえのためだ、頑張れ。(『地獄篇』第24歌、47~57、平川祐弘訳)


 「羽布団の上に坐り、錦の掛布団の下に寝る」という表現は、現代風に解釈すれば「贅沢をする」という意味を持ちます。とくに「錦の掛布団」という言葉が「贅沢」というイメージを強くしているようです。野上素一訳は「羽根蒲団の上に坐り、毛布の下にねていては」となっていて、こちらの方が直訳に近いといえます。前半の部分の原文‘seggendo in piuma’は、「鳥の羽根(piuma)に坐る(seggendo)」という意味なので、両者ともほとんど差異はありません。しかし後半部分は‘sotto coltre’と書かれているだけです。その意味は「キルト製の毛布(coltre)の下に(sotto)いては」となり、「寝ていては」と同義だと考えられます。すなわち、「何もしないで、座布団に座ってばかりいたり、毛布を被って寝てばかりいては」という意味です。この文脈から解釈しても、「怠ける」とか「楽をする」という意味になるでしょう。(注:‘seggendo’は、現代イタリア語では‘sedendo’と書いて、‘sedere(座る)’のジェルンディオという品詞です。)



怠惰の罪自体では罰せられない

 安穏として怠惰な生活を送っていては、名を上げることはできず、その様な者の人生は、「空の煙(fummo in aere)」で「水の上の泡(in acqua la schiuma)」同然になる、と言っています。(注:fummoは現伊ではfumo)。
 ダンテの地獄には、「怠惰」という罪それ自体で罰せられている罪人はいません。「怠け心」は、人間ならば誰もが持っている性です。人間はこの罪によって地獄へ堕ちることはなく、この世で怠け癖の強かった者は、この先の煉獄界の第4環道で少し長く浄罪すれば次のステージに進むことができます。「怠け心」と「無気力」が原因で重い罰を受けている罪人は、地獄の前庭(Vestibolo: ヴェスティーボロ)に大勢集められていました。そこに閉じ込められていた亡者たちは、無気力に生涯を送って、生前は良いことも悪いこともしなかった者たちでした。その様な人間は、死後に天国は勿論のこと地獄にさえ受け入れてもらえないのです。すなわち、その地獄の前庭は、神からも神の敵からも嫌われて、地獄の本土さえ入れてもらえないほどの「くだらない連中(cattivi:カッティーヴィ)」で、本当の人生を生きてこなかった「たわけ者たち(sciaurati1:シャウラーティ、現代イタリア語ではsciagurati)が苦しめられている地獄でした。「空の煙」や「水の上の泡」の様な人間は、ダンテが最も嫌った種類の者でした。



ウェルギリウスは体育会系の指導者?

 岩登りを終えて、息も絶え絶えになっているダンテに向かって「気力で呼吸困難に打ち勝て(vinci l'ambascia con l'animo)53」と檄を飛ばしました。「鬼(costoro=あいつら)から逃れたというだけでは事足りぬ、もっと長い坂をよじ登らねばならぬ」と注意を促しました。もっと長い「坂」とは、原文では「階段、はしご段」を意味する‘scala(スカーラ)’となっていて、「煉獄の」という言葉は訳者平川先生の挿入です。
 これからダンテが進む行く手には、大きくて長くて重要な「坂(階段)」がいくつも存在します。地獄を脱出するとき「疲れ切った人のように息を切らせながら(ansando come uomo lasso)」よじ登った悪魔大王の毛深い脚の「はしご段」。(詳しくは「第34歌」70~85で見ましょう)。地獄を出てから煉獄までの長い坂道。(詳しくは「第34歌」127~139で見ましょう)。そして煉獄は全界が高い山になっていますので、その麓から頂上のエデンの園まで通じる険しい坂道が、ダンテの行く手に聳えています。ウェルギリウスがダンテに指摘したのは、これから登らなければならい全ての階段のことだと解釈するのが妥当でしょう。


蛇はいつの時代にも嫌われもの

 ダンテとウェルギリウスの一行は、狭くて岩だらけの歩きづらい道を進みました。ダンテは、「弱い奴だと思われたくないので(per non parer fievole)64」、話をしながら歩きました。すると前方の第7ボルジャ(濠)の方から「言葉を形成するには不向きな声(una voce ・・・a parole formar disconvenevole)66」が聞こえてきました。その声が言葉になっていなかったのは、走りながら話しているからでした。崖の上にかかったアーチ状の岩橋の天辺から下を覗きましたが、暗くて何も見えませんでした。濠の崖は向こう側のほうが低いので、橋を渡りきった第8番目の堤から下に降りることにしました。そこでダンテが見たものは、「恐ろしく積み重なった蛇の山(terribile stipa di serpenti)」でした。ダンテにとってその光景は、冥界の旅を終えて『神曲』を執筆している時点でも、「思い出しただけでも血の気が失せる(la memoria il sangur ancor mi scipa)84」ほど恐ろしいものでした。ダンテはその時の蛇の群の恐ろしさを、次のように喩えて描いています。

 リビアの砂漠よ、そこにケリードリ、イアークリ、ファレー、チェンクリ、アンフィスベーナを産するとしてもそれを誇るな。これほど多くの毒蛇や悪蛇はエチオピア全土や紅海に面した他の諸国をあわせてみても、かつて見られたためしがなかった。(『地獄篇』第24歌85~90、平川祐弘訳)

ヘロドトス(Herodotos,紀元前485 頃から420頃)が考えた地図(リビアの部分の着色は筆者によるもの)
ヘロドトスの世界地図


 古代ギリシアの時代では、リビア(Libya、ダンテではLibia)はアフリカ全土を指していました。後に、マルマリカ(Marmarica)とキレナイカ(Cyrenaica)とリビアの三つに分割されてました。そしてリビアは、古代ローマ時代にはローマ帝国のアフリカ植民地になりました。ダンテはそのリビアに棲息すると言われた5種類の蛇の目録(カタログ)を上げています。その蛇の名は、ケリードリ、イアークリ、ファレー、チェンクリそしてアンフィスベーナです。ここにダンテが示した蛇は、聞き慣れない種類ばかりですが、その出典はルカヌスがカエサルとポンペイウスの戦いを描いた叙事詩『内乱もしくはパルサリア(DE Bello Civili sive Pharsalia)』です。少し長いのですが、蛇について描いた箇所を紹介しておきましょう。


 大地は不毛、その野はいかなる有用な作物の種も宿さぬとはいえ、その時、大地はメドゥーサの腐汁からしたたり落ちた毒液、狂暴な血から流れ出た恐ろしい滴を宿した。リビュエの暑熱は、その威力を増幅させ、毒液を煮詰めて、脆い砂地に染みこませた。その大地で、最初にしたたり落ちた血の毒が、砂地から、頭をもたげさせ、膨れた首で永久の眠りを与えるコブラを出現させた。ここにしたたり落ちた血糊と濃い毒の滴は、どこよりも多く、どの蛇よりもこの蛇の中で、毒は凝縮された。コブラは暑熱を必要とし、自ら寒冷の地に移ることはなく、ニルスまでの砂漠地帯を生息地とする。だが、利得を求める我らの、何という破廉恥さ。リビュエの死をもたらすその毒液がここから我らのローマへと運ばれ、コブラが金儲けの手段とされるのだ。だが、メドゥーサの血から生まれた蛇はコブラにとどまらぬ。哀れな獲物の血が止まらぬようにさせる巨大なハイモッロイスが、鱗ある蜷局(とぐろ)をほどいた。また陸と海、二つの顔をもつシュルティスに棲むケルシュドロス、泡の煙をなびかせながら進む水蛇ケリュドロス、常に真っ直ぐに這うケンクリスも生まれた。この蛇ケンクリスの腹は、小さな文様のテバイの蛇の目石より多くの鮮やかな模様に彩られる。また、陽に焼かれる砂地と同色で、それと見分けのつかぬハンモデュテス、背を曲げて彷徨う角蛇ケラステス、霜なお残る地面に皮膚をつけて這うことのできる唯一の蛇スキュタレ、肌が乾燥したディプサス、前後に進める双頭の蛇アンピスバイナ、水を毒するナトリクス、空飛ぶヤクルス、通り道に尾で溝を作って満足するパレイアス、泡吹く口を開ける貪欲なプレステル、肉もろとも、骨をも溶かす毒蛇セプスも生まれた。またシュルシュルと音を立ててほかの蛇の脅威となる死神バシリスコスは、咬む前に相手を倒し、群小の蛇を遠く寄せつけず、ほかの蛇を追い払って砂漠を独占する。(ルカヌス『内乱:パルサリア』第9巻720~748、大西英文訳。ただし、ロエブ古典全集‘Loeb Classical Library’では696~726)


 上の翻訳の原典はラテン語なので、固有名詞もラテン語名になっています。ダンテのイタリア語名とかなり異なりますので、対照して解説をしておきましょう。ダンテが最初にあげた「ケリードリ(chelidri)」は、ルカヌスの作品の中では泡の煙をなびかせながら進む水蛇ラテン名「ケリュドロス chelydrus」のことです。二番目の「イアークリ(iaculi)」は空飛ぶ蛇「ヤクルス(iaculus)」、三番目の「ファレー(faree)」は通った道筋に溝を掘る蛇「パリアス(parias)」(大西訳に「パレイアス」と訳されていますが、不詳)。4番目の「チェンクリ(cencri)」は真っ直ぐに進む「ケンクリス(cenchris)」です。そして最後に名が上がっている「アンフィスベーナ(anfisbena)」は、前後に進むことのできる双頭の蛇ラテン語名「アンピスバイナ(amphisbaena)」でした。

 リビア以外の蛇の生息地としてエチオピア全土(tutta l'Etïopia)と紅海沿岸の(sopra al Mar Rosso)地域を上げています。当然、ダンテの描いている地理は、現代人が描くものではありません。現在のエジプトやスーダン、エリトリアを含むアフリカ東北部全土で、紅海の両岸も含んでいたと言われています。ということは現在のアフリカ大陸全土に棲む猛毒蛇(pestilenzie)や怪獣蛇(mostrò)の全てを併せたよりも多種で多様で大量の蛇がこの第7ボルジャに棲息して罪人たちを罰しているのです。



へび地獄全景ドレ作
ヘビ地獄第7ボルジャ(グスターヴ・ドレ作)


罪人たちが蛇によって拷問をうける様子は次のように描写されています。


ヘビに拷問されている罪人


 この凶悪無残な群の中を〔身を隠す〕穴や血宝石を見つける当てもなしに、狼狽した素っ裸の人々が逃げまわっている。両手は背中で蛇でもって縛られ、その蛇が股の間から尾と頭とをもたげ、腹の前でからみついてとぐろを巻いている。すると、おお見ろ、私らがいる岸のすぐ目の前で蛇が一匹躍り上がり、そこにいた男の首のつけ根に咬みついた。OともIとも書くいとまもあらばこそ、男はたちまち火を発して燃えあがり、全身ことごとく灰と化して倒れ落ちた。
(『地獄篇』第24歌91~102、平川祐弘訳)

 「血宝石」と訳されている原文は‘elitropia(エリトロピア)’で、ラテン語名は‘heliotropium(ヘリオトロピウム)’といって、一般的には「ブラッドスローン(bloodstone)」と呼ばれる宝石です。ボッカチオが『デカメロン』の第8日第3話で、この宝石を持つ者は透明人間になって、他の人から姿が見えなくなる魔法の石だと書いています。ただし、ボッカチオがダンテについて言及するときは、ダンテが書いたことを参考にしていることが多いということを念頭に置く必要があります。
 この地獄にいる罪人たちは、逃げる場所も隠れる場所もなく、蛇に襲撃されます。亡者の首に噛みつくと、一瞬のうちに(アルファベットの一番早く書ける文字のOもIも綴る時間もなく)火が着いて燃えあがりました。そして灰になって地面に崩れ落ちますが、また元の姿に復元されました。そして復元した亡者は、恐怖だけが記憶に残りました。さらにまた、その亡者は同じ拷問を永劫に繰り返し受け続けることになっています。迷いの森の中でウェルギリウスがダンテに「永劫の場所(loco etterno)」へ連れて行くと言ったとき、それは地獄のことでした。地獄とは永劫に同じ拷問を受け続ける場所なのです。



ダンテの不死鳥(フェニーチェfenice)のイメージは
 オウィディウスの不死鳥(ポエニクスphoenix)


 蛇に噛まれ締めつけられると、体に火がついて燃えあがり灰になって地面に倒れます。しかしまた、灰から元の姿に復元する様子を、ダンテは「不死鳥(fenice:ラテン語、phoenix)」に喩えて次のように記述しています。

 学者や詩人にいわせると、不死鳥は五百年目が近づくと、死んでまた生まれ変わるというが、そのさまに似ていた。不死鳥は草も麦もついばまず、香の露や茗荷の滴だけで命をつなぎ、最後に没薬や甘松に包まれて死ぬという。(『地獄篇』第24歌106~111、平川祐弘訳)


 上のダンテの不死鳥像は、オウィディウスの『転身物語(Metamorphoses)』から採られたものであることは、両者を読み比べれば一目瞭然だと言えましょう。

 けれども、以上の動物たちは、その種族の起源をすべて他の動物に負うている。(注:鳥が卵から生まれ、動物も生まれたときは肉魂であると言う程度の意味)。ところが自分で自分を新しくうみだす鳥がひとつだけいる。アッシュリアの人たちは、この鳥をポエニクスとよんでいる。このポエニクスは、けっして果実や草をたべないで、香木の樹脂と茗荷の汁を食物をする。かれは、定められた五百年の生涯を全うするやいなや、ただちにふるえる椰子の木の最も高い枝に爪と汚れない嘴とで巣をつくる。そして、カシアと軽やかな甘松の穂と桂皮と褐色にひかる没薬とをそこに敷くと、その上に横たわって、馥郁たる芳香につつまれて往生する。やがて、この親の遺体から一羽の小さなポエニクスがおなじ年数だけ生きる運命をもってうまれてくる、ということである。(オウィディウス『転身物語』第15巻(391~402、田中秀央・前田敬作訳)


 オウィディウスの「果実や草をたべない」という詩句の中の「果実」のラテン語原文は‘frux’で、「実り」という原義から「穀物」という意味も「果実」という意味もあります。そして「草」の原文は‘herba’で、「植物、草木」と「茎、わら」の意味があります。一方、ダンテの「草も麦もついばまず」という詩句の中の「草」は‘erba’で、「麦」は‘biado’というイタリア語が使われています。前者の‘erba’はオウィディウスの使った‘herba’と全く同じ意味です。後者の‘biado’は、ラテン語‘frux’と語源的には違っていますが、意味はほとんど同じです。
 さらにオウィディウスの「香の露や茗荷の滴だけで命をつなぎ」という語句も、ダンテはほとんど借用しています。前者の「香の滴(turis lacrima)」と「茗荷の汁(sucus amomi)」という表現は、後者ダンテの「香木と茗荷の樹脂(lagrime d'incenso e d'amomo)」という表現と一致します。そして、ダンテの「最後に没薬や甘松に包まれて死ぬ(nardo e mirra son l'ultime fasce)」(直訳:甘松と没薬が最後の死に装束)は、オウィディウスの「カシアと軽やかな甘松の穂と桂皮と褐色にひかる没薬とをそこに敷くと、その上に横たわって、馥郁たる芳香につつまれて往生する」という表現の要約です。
 以上のことから、ダンテの描く不死鳥は、オウィディウスの『転身物語』からの借用であることは明らかです。しかしダンテが不死鳥のイメージを地獄において使っていることには違和感を感じるかも知れません。いつの時代においても、どの国においても、不死鳥は、永遠に蘇る理想の鳥として考えられてきました。



フェニックスはエジプト起源の霊鳥

「炎の中で燃える不死鳥」(中世時代の動物寓意譚)
炎の中で燃えるフェニックス



 不死鳥フェニックスを、西洋に最初に紹介したのはヘロドトスだと言われています。下に添付する文章は、ヘロドトスが不死鳥について描いた全文です。


 (ナイル川流域には)プォイニックス(phoinix)と呼ばれる聖鳥もある。実際、ヘリオポリス人がいうように、五百年目ごとといったぐあいで、これはめったに彼等を訪れないというわけで、私も絵で見たかぎりを除いてはその実物を目撃した事が無い。そして、それはその父鳥が死んだ時に必ず訪れるという事である。もしそれが絵に見るようなものであるとすれば、それがどんな大きさで、どんな性質のものであるかといえば、それの羽はこがね色とくれない色とから成っており、その輪郭と大きさにおいてこの上なく鷲に似ている。そして、彼等の伝説によると、この鳥は、私としては信ぜられない話であるが、次のような工夫をするという事である。その父を没薬で塗り囲んだ上、アラビアを出発してヘリオスの神廟へ運び、そして、ヘリオスの境内に埋葬するというのであるが、どうして運ぶかというと、まず運べる位の大きさの没薬の卵形のものをこしらえ、そして後、それを運ぶ試験をし、そして、十分に試験した上、そこで初めてその卵をくり抜いて父をその中へ納め、更に没薬をもってその卵のくり抜いて父を入れた箇所をふさぎ、そして、父が入っても同じ重量になるのであって、彼は塗り包んだ上、それをエジプトのヘリオス神社へ運ぶというのである。
(ヘロドトス『歴史』第2巻73、青木巌訳)

 上述のヘロドトスの不死鳥は、彼の一世代前のミレトスの歴史家ヘカタイオス(Hekataïos,紀元前550頃~476頃)からの盗用説もあります。しかし、ヨーロッパに広がっているフェニックスの原型は、上述のヘロドトスによって描かれた姿です。



ダンテの不死鳥は地獄のイメージ


 不死鳥は世界中で人気のある鳥です。死からの復活して永遠の生命を持つという理想の鳥ですから、人気があるのは当然です。ミルトンも『失楽園』の中で、サタンの侵入をアダムに知らせるためエデンにやって来た天使ラファエルの姿を不死鳥に喩えています。

 〔ラファエルは〕時として、極から吹いてくる風に乗って大きく緩やかに翼をひろげ、時として、翼を激しく速く揺り動かして、穏やかな空気のただ中を翔けていった。やがて地球に近づき、その遥かな上空を鷲の群れが悠然と飛び交っていたあたりにまで達した時、群がっていたすべての鳥たちの眼には、彼の姿はあたかも不死鳥のように、― そうだ、すべての鳥たちが息をひそめて仰ぎ見ているなかを、己の遺骸を太陽の輝く神殿に納めようと、エジプトの都テーベに向かって飛んでゆく、この世でただ一羽しかいないあの不死鳥のように映ったのだ。(ミルトン『失楽園』第5巻266~274、平井正穗訳。原典では269~274に当たる)


 『失楽園』だけでなくあらゆるキリスト教神学にとって「ラファエル」は、ミカエル、ガブリエルと共に聖書に名前の出る最高位の熾天使(seraph)です。そのように「不死鳥」は高貴な天使の喩えに使われたり、時には死からの復活を遂げたイエス・キリストにも喩えられることがあります。前述のダンテのように、蛇に噛まれ火刑の罰を受けている罪人の喩えに不死鳥が使われる事例は極めて珍しいものです。さらに『神曲』全篇においても、この地獄の描写以外では不死鳥のイメージも名前も使われてはいません。ダンテにとっては、「フェニックス」が如何に永遠の命を持っていようが、聖なる存在ではないようです。第3圏谷にいたケルベロス、第5圏谷にいたメドゥーサ、第6圏谷の出口にいたミノタウロス、第7圏谷第1円の血の川プレゲトンにいたケンタウロスや、第7圏谷から第8圏谷へダンテとウェルギリウスを背に乗せて運んだゲリュオンなどと同様に、不死鳥フェニックスもまた、異教神話由来の怪鳥であると判断しているのでしょう。また、不死鳥がエジプト・エチオピア起源の鳥であっても、ダンテは、オウィディウスの描写を模倣しているので、ギリシア・ローマ神話由来の存在物であると考えていたかも知れません。すなわち、中世時代ではまだ、フェニックスは、いかに不死鳥だとしても聖なる鳥ではなかったのでしょう。

エジプト神話のベンヌ
エジプトの不死鳥

 ここまで見てきたフェニックス神話の中には、自ら火に入って体を焼きつくし、灰になってから蘇るという物語はありませんでした。ヨーロッパのフェニックスに関する最初の記述であるヘロドトスの『歴史』にも、没薬に関する細かい記述はありましたが、「火」に関する事柄は書かれていませんでした。フェニックスの原型と言われているエジプト神話のベンヌは、太陽の魂というような意味を持つ鳥のようです。その鳥をギリシア語の「真紅、緋紫」を意味する「ポイニクス(phoinix)」と名付けたのは、本来、その鳥が「火、炎」と関係があったからだと思われています。ヘロドトスも「それの羽(プテロン:pteron)は金色(クリュソコマ:chrusokoma)と赤色(エリュトラ:erythra)」であると言っています。金は太陽で、赤は火のことでしょう。このフェニックスの伝説は、古代ギリシアや古代ローマの著述家を経由して変化してきました。その鳥を見たと言う者や捕らえたという者まで出てきました。当然、すべての証言は作り話が錯覚から創作されたものです。フェニックスもネス湖のネッシーのような存在になっていたかも知れませんが、その架空の鳥の不死鳥としての特性は、余りにも魅力的でした。ローマ帝国の繁栄の象徴やキリストの復活の象徴にまで使われるようになり、現代でも世界各国で愛されています。


次回は蛇地獄へ入ります。