『神曲』地獄巡り31.第6ボルジャ偽善者の堀 | この世は舞台、人生は登場

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奥の細道行脚の図

 上の絵は、松尾芭蕉が弟子の河合曽良を連れて奥の細道の旅をする様子を、同じ弟子の森川許六が描いた作品です。ダンテの『地獄篇』第23歌は、芭蕉とその弟子の旅の姿を彷彿させる描写で始まります。


 黙ったまま、二人きりで、他に道連れもなく、小さな宗派の托鉢僧のように、ひとりが前になり、もうひとりが後ろになって、私たちは道を進んだ。(筆者訳)

 「小さな宗派の托鉢僧(Frati minori:英語ではFriars Minor)」とは、フランチェスコ会の修道士のことです。この宗派は、フランチェスコ・ダッシジ(Francesco d'Assisi、1181~1226)によって、1209年に教団として設立されました。ダンテも青年時代にこの教団に傾倒して修行をしたことがあると言われています。(『神曲』地獄巡り121を参照)。フランチェスコ会の僧たちは、清貧と禁欲を尊び、托鉢行によって修行を重ねました。そして托鉢にでるときは、いつも信仰仲間が二人組になって修行の旅に出ました。さらに、必ず信仰の先輩が前を歩き、後輩がその後から着いて歩きました。上述の情況では、ウェルギリウスが前を歩き、ダンテはその後ろを黙々と歩いていたことでしょう。



ダンテとイソップ寓話

 いまの喧嘩を見て私は、イソップが寓話で物語った蛙と鼠の話を思い出さずにはいられなかった。注意ぶかく二つの事件の首尾を対比してみると、「そう」と「左様」ほどの違いもない。(『地獄篇』第23歌4~9、平川祐弘訳)


 西洋の寓話・童話といって即座に思い浮かぶ作家は、イソップ、シャルル・ペロー、グリム兄弟にアンデルセンの4人(組)でしょう。ただし寓話作家といっても、彼らが独創で物語を創作した作品ばかりではありません。昔から民間伝承されてきた逸話を書き留めたり、書き改めたものが多いと言われています。たとえば、我が国では『シンデレラ』と『赤ずきん』という名前で誰からも知られている物語は、シャルル・ペローもグリムも書いています。ダンテが言及しているイソップも同様です。
 イソップ(アイソーポス)は紀元前620年から560年ぐらいに、古代ギリシアで活躍した寓話作家です。ヘロドトス(紀元前485頃~420頃)の『歴史』(第2巻134)の中で、「ロドピスというのは、・・・サモス人に仕えた奴隷女で、かの寓話作家アイソポスとともに奴隷であった。アイソポスがイアドモンの奴隷であったことは確かであった」と記述されていますので、彼が実在したことは確かなようです。そしてその後、物語作りの名手であったので、解放されて裕福なサモア人の庇護のもと活躍しました。イソップは、リュディア王クロイソスの使節としてデルポイに滞在しているとき、聖物を盗んだという濡れ衣を着せられて死刑にされたと言われています。
 寓話作家としてのイソップの名前はアリストテレス(紀元前384~322)の時代でも知れ渡っていましたが、彼の創作活動がどの様なものであったかという記述は存在していないようです。『イリアス』と『オデュッセイア』を書いたホメロス(紀元前10世紀か9世紀頃)や、『神統記(テオゴニア)』を書いたヘシオドス(紀元前8世紀頃)などと同様に、イソップという詩人も、口承されていた伝説をもとに改作、改編、編集して寓話集を作り上げたであろうと言われています。
 今日私たちが読んでいるイソップ寓話集は、後世において改作されたり、イソップが書いたものではない新作が加えられました。とくに、カール大帝統治の頃のフランク王国の時代(8世紀から9世紀)に「カロリング朝ルネサンス」と呼ばれるギリシア文化の復興運動が興りました。その時期に、イソップ寓話もギリシア語からラテン語に翻訳され、またキリスト教的教訓を含んだ内容に改作が進んだようです。


 ダンテが言及している「カエルとネズミについて物語ったイソップの寓話(la favola d'Isopo ・・・ dov' el parlò de la rana e del topo)4~6」は、9世紀に活躍したロムルス(Romulus)によって翻訳・改作・編集されたものであるといわれています。その物語は次のような筋書きになっているます。

 一匹のネズミが川を渡りたいと思いました。そこでカエルに助けを求めました。カエルは、長いひもを取ってきて自分の脚とネズミを結びつけました。そして泳ぎ始めました。ところがカエルは、このネズミを殺そうとして、水中にもぐりました。ネズミは勇敢に抵抗しました。そこに一羽のトビが飛んできて、爪でネズミをつかみ、ぶら下がったままのカエルもろとも連れ去りました。


 上の寓話は、相手に危害を加える者は自分も危害を受けることになる、という教訓を示したものです。この寓話の原典だと言われているギリシア語の作品も、基本的な筋書きは同じです。その粗筋は次のようです。


 大昔、すべての動物が同じ言葉を使っていた時代のこと、ネズミがカエルと友だちになり食事に招待しました。そしてネズミはパンや肉やチーズなどを出してカエルを歓待しました。カエルは、その返礼としてネズミを自分の家に招待しました。カエルの家は池の下でしたので、ネズミに下へ潜るように言いましたが、ネズミは潜り方を知りません。そこで、カエルは、ネズミの足を自分の足にひもで縛り付けて池に飛び込みました。ネズミはカエルを怨みながら溺れ死にました。ところがそこに水鳥がやって来て、溺死して水面に浮かぶネズミもろとも、ひもで繋がれたカエルもさらって行って食べてしましました。



 このギリシア語による原作でも前出のロムルスの改作でも、悪意のあるカエルも悪意のないネズミも滅びるという結末になります。ということは、この寓話によって喩えられているものは、前の段歌第22歌の最終場面に描かれたカルカブリーナとアリキーノの鬼の喧嘩ということになります。多くのダンテ学者も指摘していますが、かなりの拡大解釈をしなければ、ダンテの〈鬼の喧嘩〉とイソップの〈ネズミとカエルの行動〉との間に整合性を見付けることができません。そこで、中世時代に活躍したもう一人のイソップ寓話の編纂者の名前が上がります。それはフランスで生まれイギリスで活動したマリ・ドゥ・フランス(Marie de France、1160~1215)です。マリの改作も、他の『ネズミとカエル』の寓話と基本的な筋は同じですが、結末だけは異なっています。ネズミとカエルが川の中で乱闘しているところへトビが飛んできます。そこまでは同じですが、結末はカエルだけを掴んで飛び去り、ネズミは解放します。この筋書きを『地獄篇』のその箇所に当てはめれば、向こう岸へ送り届けると欺いたカエルは、第5の濠へダンテたちを送り届けると言って随行した鬼たちのことです。ということは、ネズミが象徴しているものは、鬼に騙されたけれども逃げることに成功するダンテとウェルギリウスのことになります。どちらかと言えば、このマリの改作の方が『神曲』の筋書きと整合性のある直喩だといえましょう。
 この話の「始めと終わりを注意深く比較すると(se ben s'accoppia principio e fine con la mente fissa)8~9」、喩えるものと喩えられるもの間の類似は、「モ(mo)」と「イッサ(issa)」との類似ほどである、とダンテは述べています。「モ(mo)」はラテン語の「さっそくに(modo)」から作られた単語で、「イッサ(issa)」もラテン語「今すぐに(ipsa hora)」から作られた言葉です。どちらもほとんど同じ意味です。私の偏見と独断で簡単に言ってしまえば、始めと終わりが類似していれば、中身はどうであれ、「さっそく(行くよ)」と「今すぐ(行くよ)」の違い程度しかない、という意味でしょう。



さらに凶暴化した鬼


ダンテたちを追い掛ける鬼マレブランケ
ダンテたちを追いかけてきた鬼たち(グスターヴ・ドレ作)


 ダンテは、カルカブリーナとアリキーノの鬼同士の喧嘩を見て、イソップの『カエルとネズミの寓話』を思い出すと、鬼たちがこのまま引きさがるとは思えなくなっていました。馬鹿にされたと思った鬼たちは、ウサギに噛みつく犬よりも狂暴になって追い掛けて来るのではないか、とダンテは恐れました。案の定、彼の心配は的中しました。マレブランケという別名を持つ第5ボルジャの鬼たちの翼の音が近づいて来ました。すると、「物音で目を覚ましたら、隣の家に火の手が上がっているのを見た母親が、子供を抱きかかえて、自分の身よりも子供のことを心配して、着の身着のままで逃げ出す」ように、ウェルギリウスはダンテを抱きかかえて、岩の斜面を仰向けに滑り降りました。第5ボルジャの鬼たちは、谷の上で悔しがりましたが、「高き摂理(alta provedenza:現伊provvidenza)」により、次の第6ボルジャに入ることは許されていませんでした。

プリアーモ作ダンテを抱えるウェルギリウス
プリアーモ(Priamo della Quercia)作ダンテを抱えて逃げるウェルギリウス


重い外套をまとって歩く偽善者たち


重い外套を着て歩く偽善者たち
ドレ(Gustave Dore)作「重い外套を着て歩く偽善者たち」

 表は眩いほどの金色に塗られいましたが、裏地は鉛で作られていて、想像に絶する重さの外套を着せられた罪人たちが、次のような様相で歩いていました。

 ゆっくりと重たい足取りで、道をまわっていたが、泣き顔には敗北と疲労の色が濃かった。彼らは袖無しの外套をまとい、ひさしの深く垂れた頭巾をかぶっている。クリュニーで坊さんのために作るのと同じ裁ち方の服だった。おもては目も眩むばかりの金着せなのだが、裏はどのマントもみな鉛製で、おそろしく重たく、これに比べればフェデリーゴの服など藁のようなものだった。(『地獄篇』第23歌59~66、平川祐弘訳)


 「クリュニーの坊さん(monaci in Clugnì)」とは、910年ごろフランス・ブルゴーニュ地方に建造されたベネディクト会のクリュニー修道院で修行する修道士のことです。クリュニー修道院といえば、中世時代にはヨーロッパ最大の修道院でした。聖ベネディクト会の清貧の理念を掲げて、ベルノン(Bernon、伊語Bernone、英語Berno)を初代院長として設立されました。しかし、設立から200年も経ったダンテの時代には、クリュニー修道院は、隆盛を極め華美な習慣が蔓延していたようです。上の詩文にあるように、偽善者たちの地獄の刑罰に使われる拷問道具の喩えとして、「クリュニーの坊さんのために〈作られている〉のと同じ〈裁断様式〉で作られた〈目の前まで垂れた頭巾付きの外套〉」と描写されています。この詩句の中の「作られている(fassi=si fa:fareの現在3人称単数)」は現在時制なので、その修道服は、ダンテの時代にはまだ製造中です。そして、地獄の罪人たちが着用させられている「目の前まで垂れた頭巾付きの外套(cappe con cappucci bassi dinanzi a li occhi)61~62」は、そのクリュニー修道院のものと同じ「裁断様式(taglia、現伊taglio、英語style, cut)」の外套です。シングルトン(C.S. Singleton)の注釈によれば、そこの修道士たちが着用していた外套は、最高級な材質の高価な繊維で織られていた、という当時の証言も残っているようです。
(注:「外套」と訳されている原文は「カッパ(cappa、複数cappe)」で、日本語の「雨合羽」の語源ですが、礼服用のガウンすなわち法服を想像した方がよいかもしれません。ダンテは、この外套のことを「永劫に身体を消耗させるマント(etterno faticoso manto)」とも言っています)。

 第8圏谷第6ボルジャの亡者たちが着せられている外套の表地は、クリュニー修道院の法衣のように「金箔がはられて目も眩むばかり」の豪華さでした。しかしその裏地は、「どの外套もみな鉛製で、おそろしく重たい」と表現しています。その鉛製の裏地の重さと比較すると、むかしフェデリーゴが囚人に無理やり着させた鉛服など、麦藁(paglia)ほどの重さでしかないと表現しています。


 「フェデリーゴ(Federigo)」とは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(Friedrich、1194~1250)のイタリア名です。『神曲』の中では、「フェデリーゴ」の他に「フェデリーコ(Federico)」とも呼ばれています。因みに英語名はフレデリック(Frederick)」です。第6圏谷の火を噴く墓でファリナータ・デリ・ウベルティと共に異教異端の罪で罰せられています。

 フェデリーゴ2世には残酷であったという悪評があります。彼は、自分の帝位を侮辱した者に鉛の服を着せて大釜に入れ、上から鉛の頭巾をかぶせて、釜の下から火を炊き、着ている鉛もろとも受刑者の肉体も焼き尽くす刑罰を行ったという噂です。この評判は、広く行き渡っていますが、また、作り話であるという説の方が信憑性が高いと言われています。ダンテの評価は低いのですが、フェデリーゴは歴代の神聖ローマ皇帝の中でも名君の誉れ高い人物でした。(『神曲』地獄巡り14を参照)
しかし、ダンテは、フェデリーゴ皇帝が残虐な死刑を行った人物であると考えていたことは確かです。


修道士を兼務する騎士

 ダンテは、鉛の外套が重いのでゆっくり歩く亡者たちと一緒に進みました。ダンテがトスカナ方言を喋ったのを聞いて、二人の亡者が「君は誰か名乗ってくれ(dir chi tu sei)93」と言って話し掛けてきました。それに答えてダンテは、「私は、アルノの流れの上の大きな市で生まれ育った(I' fui nato e cresciuto sovra 'l bel fiume d'Arno a la gran villa)94~95」という言い方でフィレンツェ出身であることを告げました。そして次はダンテが「輝いた服装の汝には、どの様な罪があるのか(che pena è in voi che sì sfavilla)99」と尋ねますと、一人の亡者が次のように答えました。

 俺たちの柑子色の外套は鉛でおそろしく重たいのだ、左様、秤にかければ針が飛んでしまうだろう。俺たちはボローニャの「陽気な修道士」だった、俺はカタラーノ、こいつはロデリンゴという。おまえの市に平和を維持するために、普通は一人しか置かぬ市長に二人して選ばれた。二人ともよく勤めたから、カルディンゴの界隈は今日御覧の通りの様だ。(『地獄篇』第23歌100~108、平川祐弘訳)


 1261年、時の教皇ウルバヌス4世(Urbanus, 在位1261~1264)のお声掛かりで「栄光の聖母マリアの騎士団(Ordo Militiae Beatae Mariae)」という結社が、ボローニャにおいて設立されました。その結社の目的は、イタリアの都市国家で起こるもめ事や門閥間の争いの仲裁をしたり、迫害者から弱者を守ったりすることでした。この組織の規律は甘く、金銀の派手な装飾を使ったり世俗的な宴に出たりすることは禁じられていましたが、結婚することも自宅を持つことも自由でした。その規律の甘さのために「陽気な修道士(frati godenti)」というニックネームで呼ばれていました。「陽気な」は‘godente’で正確には「現世享楽的な」という意味なので、かなりの皮肉なあだ名でした。

 ダンテの問い掛けに応じたカタラーノ(Catalano di Guido di Ostia)という亡者は、1210年頃にボローニャで生まれました。1249年の教皇派グェルフィ(Guelfi)党と皇帝派ギベリーニ(Ghibellini)党が衝突したフォッサルタ(Fossalta)の戦いでは、教皇派ボローニャ軍の歩兵隊長であったと言われています。その戦いは、フレデリック2世の庶子でサルディーニャ島のロゴドーロ国王エンツォが皇帝軍の総指揮官を務めましたが、敗北してボローニャに幽閉されたことで有名です。




雇われ市長

 カタラーノは、1261年にロデリンゴ(Loderingo degli Andalò)と共同で上述の「現世享楽的な修道士会」を設立しました。それ以来この二人は、カタラーノが教皇派でロデリンゴが皇帝派の家柄なので所属する党派は違ってはいましたが、不思議と仲が良かったようで、共に同じような経歴を辿りました。
 中世時代のイタリアの都市国家には、他国から選任することが慣例になっている「ポデスタ(podestà)」という最高行政官が置かれていました。日本ならば「知事」に相当する官職かも知れません。カタラーノとロデリンゴは、享楽修道士会の設立前からいろいろな国の行政官に就いていたと言われています。1266年にシチリア王マンフレーディ(Manfredi、英語名マンフレッドManfred)を総司令官とした皇帝派ギベリーニ軍と、カルロ・ダンジョ(Carlo I d'Angiò 、仏語名シャルル・ダンジューCharles d'Anjou)を総司令官とした教皇派グェルフィ軍が激突したベネヴェントの戦いの後、勝利をおさめた教皇クレメンス4世は、カタラーノとロデリンゴの二人をフィレンツェの最高行政官に任命しました。その教皇による任命が、上の詩文の中で「おまえの市に平和を維持するために、普通は一人しか置かぬ市長に二人して選ばれた」と、ダンテが書いている出来事です。クレメンス教皇が教皇派のカタラーノと皇帝派のロデリンゴを同時に行政官に任命した表向きの目的は、フィレンツェの両派に残った戦後のしこりを取ることでした。しかし本当の目的は、フィレンツェに残った皇帝派の残党とゲルマン雇用兵を平穏に追い出すことでした。この二人の行政官は、教皇に操られているとも知らず、皇帝派の残滓の追い出しに尽力しました。
 カタラーノが自慢げにフィレンツェ行政長官時代の業績として「カルディンゴの界隈(intorno dal Gardingo)」の平穏(実際には荒廃)を自慢しています。カルディンゴとは、フィレンツェのヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio)近辺の街でした。そこには地獄の第6圏谷(『地獄篇』第10歌)で火を噴く墓に閉じ込められていた皇帝派ギベリーニ党の党首ファリナータ・デリ・ウベルティ( Farinata degli Uberti)の邸宅がありました。
 フィレンツェを追放されていたファリナータは、シエーナ軍の助けを借りて、1260年9月4日のモンタペルティの戦い(La battaglia di Montaperti)で勝利を得ました。その後、フィレンツェに凱旋したのち、教皇派グェルフィ党員の名門家をすべて追放して、ギベリーニ党の独裁を確立しました。ところが、1264年にファリナータが死去した後は、また教皇派が政権を略取しました。そして扇動された民衆の暴動によって、カルディンゴにあったファリナータの館は打ち壊されました。その破壊を法的に正当なものとした張本人がカタラーノとロデリンゴだと言われています。その亡者は、「平和を維持するために(per conserva sua pace)」その様な打ち壊しをしたと言っているのでしょう。それに対してダンテは「おお、坊主ども、おまえらの悪さが(O frati, i vostri mali・・・)」と叱りつけようとしましたが、もっとおぞましい光景が目に入ってきましたので話をやめました。



地面で三本の杭で十字架にされた男
crucifisso in terra con tre pali


ドレ作十字架刑のカヤバ

 ダンテは、地面の上に三本のくいで十字架にされた男が目に入りました。その亡者は、ダンテを見付けると、溜息でひげを揺らし、もがき苦しんでいました。ダンテが不思議そうに見つめていると、カタラーノがその亡者を次のように紹介しました。


 君がみつめている磔刑の男は、人民のために一人くらいは拷問にかけた方が便宜的だとパリサイ人に忠告した男だ。御覧の通り、道のどまん中で裸ではすかいに〔みなが蹴躓くように〕置かれている。人が通るたびに、その一人一人の重みが身にこたえるようにしてある。この男の舅も同じこの濠の中で痛い目にあっている。そのほかの連中も御同様だ、あの会議はユダヤ人に禍の種を播いた。(『地獄篇』第23歌115~123、平川祐弘訳)


偽善者の刑罰フェラーラの細密画
重い外套を着た偽善者と十字架刑の罪人
  (フェラーラの細密画、1474~1482:ヴァティカン図書館所蔵)



 地面の上で十字架刑に処せられている罪人は、イエスを十字架に架けることを提案したカヤパ(ヘブライ語Kayapha:ギリシア語「カイアパスKaiaphas」)というユダヤの祭司長だと言われています。新約聖書には次のようなカヤパに関する記述があります。


 マリアのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。しかしそのうちの数人がパリサイ人たちのところに行ってイエスのされたことを告げた。そこで、祭司長たちとパリサイ人たちは会議を招集して言った。「この人が多くのしるしを行っているのに、お互いは何をしているのだ。もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。その上、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう」。彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った、「あなたがたは、何もわかっていないし、ひとりの人が人民に代わって死んで全国民が滅びないようになるのが私たちにとって得だということを、考えてもいない」。このことは彼が自分から言ったのではない。彼はこの年の大祭司であったので、預言をして、イエスが国民のために、ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると、言ったのである。彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した。(『ヨハネの福音書』第11章45~54)

 さらに同じ刑罰を受けているカヤパの舅と呼ばれている罪人は、アンナス(Annas)のことです。その亡者と会議のことは、新約聖書では次のように記述されています。

 それから一隊の兵卒やその千卒長やユダヤ人の下役どもが、イエスを捕らえ、縛りあげて、まずアンナス(Annas)のとことに引き連れて行った。彼はその年の大祭司カヤパの舅であった。カヤパは前に、ひとりの人が民のために死ぬのはよいことだと、ユダヤ人に助言した者であった。(『ヨハネによる福音書』18章12~14)


マティアス・ストム作カヤパの前に立つキリスト
マティアス・ストム(Matthias Stom、1600頃~1652頃) 作『カヤパの前に立つキリスト』


 イエスの殺害を決定した会議に参加した者たちは、全員がこの第6ボルジャの地面の上で、イエスの十字架刑と同じように、裸のまま十字にされて、三本の杙で地面に固定されていました。そして彼らは、道を塞ぐような形で並んでいましたので、重い外套を着ているために跳び越えるられない亡者たちに踏み付けられました。カヤパたちは、彼ら自身は裸なので身軽なのですが、他の罪人の重さを受けて、何倍も苦しむことになっているのです。



嘘つきは悪魔の始まり


 先導者ウェルギリウスは、第5ボルジャの悪魔マレブランカたちが教えてくれた道を進みましたが、疑問を感じてきました。そこで修道士カタラーノに、この第6ボルジャから第7ボルジャに抜ける道を尋ねました。ダンテとウェルギリウスが濠の中へ降りた付近に登ることのできる崖道があることを、カタラーノから教えられて知りました。イエスが十字架上で死ぬ間際に叫んだ大声で、第6ボルジャに架かっていた岩橋は崩壊しました。(『神曲』地獄巡り29参照)。

その時、崩れた岩石が濠の斜面に堆積していて、登ることが可能になっていました。そのことを知ったウェルギリウスは、「仕方なく黒い天使に頼まなくてもすむ」ことになって安堵しました。『地獄篇』の中で悪魔・鬼のことを「天使たち(angeli)」と呼んでいるのは、この箇所だけです。この世の全ての悪は、天国において天使の一団が神に反逆したことから発生しました。ダンテが、修道士カタラーノに「悪魔は嘘つき、嘘の創造主(diavolo・・・ è bugiardo e padre di menzogna)」と言わせていますが、キリスト教の悪の始原は、天国にいた天使が堕落天使となった瞬間でした。それゆえに、嘘を発明したのは天使で、彼らが堕落して悪魔になったのです。


 次回の第24歌は、ウェルギリウスとダンテの岩登り(ロッククライミング)から開始されます。