『神曲』地獄巡り30.ひょうきんで間抜けな十人の鬼たち | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

ブログの説明を入力します。

油断のならない親切な鬼たち

  ここの鬼たちの挨拶は、部下が「行ってきます」と舌をベロッと出すと、第5ボルジャの総統は「行ってこい」とお尻のラッパを鳴らしました。この奇妙な挨拶を、似ても似つかないカンパルディーノの戦いの光景と対比しています。


 騎士たちが野を進み、閲兵を行い、突撃を開始し、時には退却するのも見たことがある。またアレッツォの人々よ、君たちの国で、旗や幟をかざすのも奪うのも、また馬上試合で傷つくのも一騎打ちの勝負も見たことがある。あるいはラッパで、あるいは鐘で、また時には太鼓や城の煙で合図する。その流儀も内外さまざまなものがあったが、だがこんな奇妙な合図で進んだのは、騎兵でも歩兵でも見たことがない、陸や星からこんな合図を受けたことは船もあるまい。
(『地獄篇』第22歌1~12、平川祐弘訳)


 カンパルディーノの戦いは、ダンテの時代の最大の戦争でした。長年に渡り北イタリアの国々を二分して戦ってきた教皇派(グェルフィ党)と皇帝派(ギベリーニ党)の勢力争いは、1289年の「カンパルディーノの戦い」で決着がつきました。ダンテも弱冠24歳で騎馬兵として参戦していましたので、その戦争の模様は『神曲』の中でも頻繁に言及されています。そして当然、ダンテの著作を読む者には、多少なりとも知っていなければならない基礎知識になります。(『神曲』地獄巡り7「ダンテの時代のフィレンツェ」参照)。


天下分け目のカンパルディーノの戦い(Battaglia di Campaldino)
カンパルディーノの戦い地図


 『地獄篇』第10歌の主役ファリナータ( Farinata degli Uberti、1212~1264)は、ダンテよりも一世代前の英雄で、フィレンツェ共和国のギベリーニ党とグェルフィ党との抗争の歴史を生きた人物でした。(『神曲』地獄巡り13を参照)。
 1216年頃、フィレンツェは神聖ローマ皇帝に共鳴するギベリーニ党とローマ教皇に親近感を持つグェルフィ党の二派の対立が先鋭化してきました。そして長い間、両勢力が交互に勝敗を繰り返し、ギベリーニ党の党首であったファリナータは、1248年の政争では勝利をおさめて、グェルフィ党員をフィレンツェから追放しました。しかし数年後にはグェルフィ党は復活して、1258年には、逆にギベリーニ党が追放されることになり、党首のファリナータはシエーナに亡命することになりました。ところが、1260年9月4日、モンタペルティの平原で、シエーナ軍(ギベリーニ党)20,000人とフィレンツェ軍(グェルフィ党)35,000人との間に熾烈な戦い(La battaglia di Montaperti)がありました。兵の数ではフィレンツェ軍が圧倒的に優位でしたが、シエーナ軍が勝利をおさめました。ファリナータは、再びフィレンツェに戻って来て、有力なグェルフィ党の名門家はすべて追放し、ギベリーニ党の独裁を確立しました。ところがまた、1264年、ファリナータが逝去すると、今度は、グェルフィ党が政権を略取することに成功しました。以上のようにフィレンツェの国の内外で、長い間、両勢力の政権の奪い合いが続きました。その両陣営の権力闘争に完全に決着がついたのは、1289年のカンパルディーノの戦いでした。
 フィレンツェ共和国は、イタリア全土に及ぶグェルフィ(教皇派)都市連合の中心国になっていました。次々とギベリーニ(皇帝派)都市国家は、教皇派に吸収されました。最後に残った国はアレッツォ自治国だけになりました。その国は、武闘派司教ウベルティーニ(Guglielmino degli Ubertini)によって統治されていました。そして勢力を弱めたギベリーニ党支持者たちが最後の牙城としてアレッツォへ集結してきました。



パオロ・ウッチェッロ作カンパルディーノの戦い画
「カンパルディーノの戦い」パオロ・ウッチェロ(Paolo Uccello,1397~1475)画


 1289年6月2日、シチリア・ナポリ王シャルル・ダンジュー(Charles d'Anjou、1227~1285)のフランス時代からの腹心の部下アメリーゴ・ディ・ナルボーナ(Amerigo di Narbona)を総大将として、フィレンツェ軍を主力に、シエナやルッカやピストイアやプラートからの援軍を加えた総勢11,900人のグェルフィ軍が、アレッツォへ向けて進軍しました。そして6月11日、アルノ川の上流カセンティーノ(Casentino)渓谷に広がるカンパルディーノ平原で、総勢10,800人のアレッツォ軍が迎え撃ちました。しかし、その戦いは一日で決着がついて、フィレンツェ・グェルフィ軍が勝利をおさめました。そして、ギベリーニ(皇帝派)は、総大将のウベルティーニも戦死し、二度と勢力を挽回することができず、壊滅しました。『煉獄篇』第5歌の中心人物として描いているボンコンテ・ダ・モンテフェルトロ(Bonconte da Montefeltro)は、アレッツォ軍に味方して、その指揮官として戦いましたが戦死しています。
 その戦いで勝利をおさめたグェルフィ軍には、次の時代の主役になる二人の指揮官が参戦していました。チェルキ家のヴィエーリ(Vieri de' Cerchi)とドナーティ家のコルソ(Corso Donati)でした。この二人の将軍は、間もなく敵対することになり、チェルキは白党(Bianchi)を率い、ドナーティは黒党(Neri)を率いて、フィレンツェを混乱に陥れました。ダンテも白党の中心人物として活動しましたが、それが原因で祖国から追放されました。



教会へは聖人と、居酒屋へは食通と一緒に


 ダンテが参戦した最も激しい戦いはカンパルディーノの戦争でした。第22歌の書き出しの部分では、直喩表現とはいえ、12行にもわたってその戦争の様子が描写されているます。そして第5ボルジャを案内する10人の鬼たちは、カンパルディーノで戦った騎士や歩兵たちの勇壮で威厳ある姿とは正反対の卑しく質の悪い態度でした。「恐ろしい道連れ(フィエラ コンパニーアfiera compagnia)」だとつぶやきましたが、「教会へは聖人と、居酒屋へは食通と一緒に(ne la chiesa coi santi, e in taverna coi ghiottoni)14~15」行くのが相応しのだから、地獄の同伴者としては「この恐ろしい道連れ」でも仕様が無いと諦めました。


第5ボルジャは「鳥獣戯画」の世界

 巡礼者ダンテは、誰が濠の中で焼かれているのかを探るために、瀝青の黒い表面を凝視しながら進みました。しかし、気配は感じられても、姿を発見することができません。その様子が直喩表現を使って次のように描かれています。


 海豚は背中を丸めて船乗りに合図し、嵐から船を退避させるが、それと同じように、苦しみをやわらげようと背中を一瞬ちらりと見せて、またたちまち隠す罪人もいた。ちょうど堀の水際で蛙が脚や体を隠して鼻面だけを水面に出しているように、いたるところ罪人が鼻面だけを外へ出していた。
(『地獄篇』第22歌19~30、平川祐弘訳)


 ダンテと同時代のフィレンツェの著述家で建築家ヤコポ・パッサヴァンティ(Jacopo Passavanti、1302~1357)は、「イルカが海の表面を泳いでやって来て、船に近づくときは、嵐が近づいていることを意味している」と書いています。ダンテの時代から、イルカが人間に好意的であると信じられていたようです。ただし、上の詩文の中では、そのようなイルカの行動に、瀝青の堀の表面に浮かんでは消える罪人たちのコミカルな仕草を喩えています。そしてさらに重ね掛けて「カエルの直喩」が使われています。カエルが空気を吸うために鼻だけを出している姿に罪人たちの様子を喩えています。カエルの臆病で戯けた仕草は、逃げ惑う地獄の罪人たちの描写には効果を発揮します。スチュクス川と第6圏谷の間には堅牢なディーテの城門があってダンテたちの通過を拒んでいましたが、門を開けるために天使がやって来きました。その時も同じくカエルの直喩が使われていました。スチュクス川の中で激怒の刑罰を受けていた亡者たちが天使を恐れて隠れる様子が次のように描かれていました。

 蛙は敵の蛇に出会うと、一目散に水中に飛びこみ背を丸くして底にへばりつくが、その様もさんがらに千余の狂乱状態の亡者どもが、逃げまわるさまを私は見た。(『地獄篇』第9歌76~80、平川祐弘訳)
注:この箇所では「カエル」は「ラーネ(rane、ranaの複数形)」が使われ、前出の第22歌26行目では、「ラノッキー(ranocchi、ranocchioの複数形)」が使われていますが、別種のカエルではなく、韻律の関係です。


鬼たちにいたぶられる罪人たち


 前の段歌第21歌では、第5ボルジャを取り仕切る鬼の親分マラコーダから十人の鬼が随伴者に指名されました。その鬼は全員が品性下劣で、この第22歌で刑罰を受ける汚職収賄の罪人たちと滑稽な寸劇を繰り広げます。まず、十人隊の隊長に任命されたバルバリッチャが、鼻面だけを水面に出している亡者たちに近づきました。すると、みな一斉に煮えたぎる瀝青の堀の中へ潜り込みました。ところが、逃げ遅れた間抜けな亡者が一人いました。たまたまそばに居たグラッフィアカーネという鬼が、その愚鈍な亡者の髪の毛に鉤を引っ掛けて釣り上げました。身体中が瀝青で真っ黒なその姿は、まるで「カワウソ(lontra)」のようでした。すると鬼たちがルビカンテという名の鬼に向かって叫びました。「こいつの身体に鉤爪を引っ掛けて(li metti li unghioni a dosso)、皮を剥いでやれよ(lo scuoi)40~41」。注:scuoiはscoiare「皮を剥ぐ」の命令形2人称単数。
 その光景を見ていたダンテは、その哀れな男の正体を知りたいと、ウェルギリウスに頼みました。するとその先達は、その男に近寄って、直々に尋ねました。その釣り上げられた亡者は、次のように答えました。


 俺はナヴァーラの王国の生まれ、お袋とある道楽者の間にできた子供だ、その男は道楽の挙げ句に財産を蕩尽して自殺してしまった、それでお袋は俺をある貴族の邸へ奉公に出した。それから俺は善良なチボー王の御家人となり、そこで汚職に首を突っ込んだ、いまその償いに熱い目にあっている。(『地獄篇』第22歌48~54、平川祐弘訳)



ナヴァーラ王国


 「ナヴァーラの王国(regno di Navarra)」は、現在のスペイン・ナヴァーラ州の付近に存在していた、ピレネー山脈を挟んで現在のフランス側とスペイン側に跨がる王国でした。その王国の起源は曖昧のようですが、西ローマ帝国が衰退した頃からバスク民族によって形作られた国です。一説では、「パンプローナ(Pamplona、後のナヴァーラ)」は、9世紀末にバスク人の王ガルシア・ジメネス(Garcia Jiménez)によって支配されいた地域で、10世紀末、ジメネス王朝の末裔によって治められていた独立国であると言われています。ガルシアの来孫(5代後の子、great-great-great-grandoson)にあたると推測されているサンチョ(Sancho)3世(970~1035)の治世下で、ナヴァーラ王国は、アラゴン(Aragon)、レオーン(León)、カスティーレ(Castile)の三つの王国を併合して最大の国土になったと言われています。
ナヴァーラ王国の所在地図

 サンチョ3世の治世後のナヴァーラ王国は、フランス王国と同化して徐々に縮小してきました。下に添付しました系譜を見れば、その王国としての変遷と同化の過程が推測されます。


ナヴァーラ王の系譜

トインビー(Paget Toynbee)原著、シングルトン(Charles S. Singleton)校訂による『ダンテ辞典』の巻末に添付されている年表に筆者が色づけしたものです。(A Dictionary of Proper Names and Notable Matters in the Works of Dante, Oxford U.P.)p.678。

 ナヴァーラ王国はバスク人の国です。現代ではスペインの一つの州に過ぎません。しかし、今日においても独立の気運は高く、カタルーニャ州と共にナヴァーラ州は、スペイン分裂の火種となっています。中世時代から現代に至るまで、ナヴァーラ王国はフランスとスペインの両大国に挟まれて、国の形を変えてきました。ガルシア・ラミレス4世(在位:1134~1150)の息子サンチョ6世(在位:1150~1194)は、カスティーラとレオンの王アルフォンソ7世(治世:1126~1157)の娘サンチャ王女と結婚して、両国との結び付きを強めました。また妹のブランカは、アルフォンソの死後にカスティーラ王となったサンチョ3世に嫁ぎました。もう一人の妹マルゲリータ(Margherita、英語名Margaret)はシチリア王グリエルモ1世(Guglielmo、英語名William)に嫁ぎました。
 サンチョ6世の子は三人で、息子サンチョ7世(在位:1194~1234)が王位を継ぎ、娘ベレンガリアは英国王リチャード1世と、もう一人の娘ブランカはシャンパーニュ伯爵ティボー3世と結婚しました。そして、そのシャンパーニュ伯とナヴァーラ王女ブランカとの子ティボー4世が、テオバルド1世として伯父のナヴァーラ王位も継承しました。
 ナヴァーラ王位を継いだテオバルド1世の子テオバルド2世は、ダンテが上の詩文で記述している「善良なチボー王(buon re Tebaldo)」のことです。ダンテの原文では、当然、イタリア語で「テバルド(Tebaldo)」となっています。平川訳にある「チボー(Thibaut)」は同じ意味のフランス語ですが、日本で普通に呼ばれる「テオバルド(Teobaldo)」はスペイン語です。
 ナヴァーラ王テオバルド2世(シャンパーニュ伯ティボー4世)は、フランス王ルイ9世の王女イザベルを娶りフランスとは姻戚になりました。さらに、テオバルド2世の王位は弟エンリク1世が継いだのですが、そのナヴァーラ王国を継いだは彼の娘でした。彼女は女王ジャンヌ1世として王位を継承した後、フランス王フィリップ4世と結婚しました。そしてナヴァーラ女王とフランス国王との婚姻により、両国は一つに同化しました。それゆえに、その二人の間の子ルイ10世は、ナヴァーラ王国とフランス王国の国王になりました。


Teibaldo2
ダンテが「善良なテバルド王(buon re Tebaldo)」と呼んだテオバルド2世の肖像画(ウィキペディア・イタリア版より)


ナヴァーラ生まれのテバルド王の御家人


 逃げ遅れて鬼に捕らえられたナヴァーラ生まれのテバルド王の御家人だったと名乗る亡者は、チャンポーロ(Ciampolo)という名の男である、と指摘している初期のダンテ評釈者もいます。しかし名前だけを上げているだけで、その根拠は示されていません。ナヴァーラ王国はイタリアからは遠い地域ですから、国王の名前は知っていても家来(famiglia)に関する情報まで知っていたとは考えられません。この御家人は、ダンテが想像した架空の人物だったのではないでしょうか。 その汚職に首を突っ込んだ(a far varatteria)御家人は、牙が自慢の(sannuto:現伊zannuto)のチリアットに背中を刺されました。鬼たちに弄ばれる後家人は「悪猫の中に入れられたねずみ(tra male gatte era venuto 'l sorco)58」同然でした。随行隊の隊長バルバリッチャが「他の者がこやつを解体する前(prima ch'altri 'l disfaccia)」に、知りたいことは聞いておくように言いましたので、ダンテは「瀝青の下に他のラティウム(=イタリア)出身の悪人はいないか」と尋ねました。しかし、その御家人が十分に答えないうちに、鬼のリビコッコが「もう我慢も限界(Troppo avem sofferto)70」と言って、鉤をその御家人の腕に引っ掛けて肉をむしり取りました。

汚職者の刑罰14世紀の作品
汚職者の刑罰(14世紀の作)

 ドラギニャッツォも脛を引っ掻こうとしましたが、隊長バルバリッチャが止めましたので、鬼たちの攻撃が少し鎮まりました。そこで、その御家人はダンテの質問への答えを続けました。素早く逃げた亡者は、修道士ゴミータ(frate Gomita)でした。その男は、イタリア第2の島サルディーニャ(Sardinia)の修道士でしたが、後にその島のガッルーラ(Gallura)国の領主のニーノ・ヴィスコンティ(Nino Visconti)によって判事代理に任命されました。注:ニーノ・ヴィスコンティは『煉獄篇』第8歌の「煉獄前庭(アンティプルガトーリオ、Antipurgatorio)」にいます。

サルディーニャ島の独立国

中世時代のサルディーニャ島は、北から順番にガッルーラ(Gallura)とログドーロ(Logudoro、ダンテはLogodoroと呼ぶ)とアルボレア(Arborea)とカッリャリ(Cagliari)の4つの分割された独立国から成り立っていました。

 ゴミータは、主人のニーノ・ヴィスコンティの寛容さに付け込み、主人が投獄した罪人たちから賄賂を受け取って逃走させ続けました。ついにニーノは、その現場を目撃して、自分の手でゴミータを絞首刑にしたと言われています。そのゴミータのことをテバルド王の御家人は次のように紹介しています。

 それは坊主のゴミータだ、ガッルーラの出で、詐欺や瞞着ならなんでも承知だ、自分の主君の敵勢で手中に落ちた奴をすこぶる優遇したから、敵方がみな感謝したくらいだ。金をまきあげると、彼自身ぬけぬけといったものだが、それで一斉釈放だ、ほかの職についた時も、汚職ぶりはけち臭くなかった、いや大したものだ。(『地獄篇』第22歌81~87、平川祐弘訳) 


 『神曲』の中に登場する人物の多くは、有名だったのでダンテが採り上げて描いたのではなく、ダンテが描いたので有名になった人物でした。上のゴミータも歴史に影響を与えるような重要な人物とは考えられません。ゴミータと同じサルディーニャ島の出身者なので添え物として言及されている「ロゴドーロの顔役ミケーレ・ザンケ(donno Michele Zenche di Logodoro)」の方が有名かも知れません。ミケーレは、サルディーニャ島のロゴドーロ国の王エンツォ(Enzio)の実母に仕える執事でした。このエンツォといえば、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(Friedrich、1194~1250、イタリア名はフェデリーコFederico、英語名はフレデリックFrederick、「地獄巡り14」参照)の庶子で、後にロゴドーロの王になりました。エンツォ王が亡くなったのち、ミケーレは彼が仕えている王の生母と結婚したという説があります。そして、彼は官職・聖職を売買することで巨額の財産を築いきました。さらに二人の間に一人の娘が生まれましたので、その娘をジェノヴァの貴族ブランカ・ドリア(Branca d'Oria)に嫁がせました。このブランカは、義父ミケーレに輪を掛けた野心家で、岳父の財産を狙いました。そしてミケーレを晩餐に招待して、殺害してしまいました。しかし、これらの出来事は歴史的検証はされていませんので、いくつかの伝説となって流布しているようです。ブランカ・ドリアに関しては、さらに下の地獄の第9圏谷第3円で重罰を受けていますので、そこで詳しく見ることにしましょう。


地獄の罪人は不滅だが、悪魔は死滅する


 テバルド王の御家人と名乗る亡者は、ダンテと話している間も、何とか悪魔たちの仕置きから逃れようと画策しました。もし、他の亡者と話したいのならば、呼び出すから悪魔たちを遠ざけてくれ、とダンテに頼みます。しかしカニャッツォという悪魔が御家人の策略を見破って、「下へ飛びこむために考えついた悪知恵だ」と、皆に注意を呼び掛けました。ところが、アリキーノというお調子者が御家人をからかってやろうとして、次のように言って鬼ごっこを仕掛けます。

 おまえが飛び込めば、俺はおまえの後から足で追い駈けはせぬ、翼でもって瀝青の上まで飛んで行く。この土手から俺たちは引き揚げて岩の裏手に隠れる、おまえ一人で俺たち皆に勝てるかどうかお手並みを拝見しよう。(『地獄篇』第22歌113~117、平川祐弘訳)


ドレ作逃げる御家人
逃げるテバルド王の御家人(グスターヴ・ドレ作)

 地獄の鬼(悪魔)たちは、元を正せば天国にいた天使でしたので、翼を持っていても当然です。その点において、もともと人間であって刑罰を受ける亡者とは異なっています。地獄に堕ちた天使といえども、翼を奪われていないので、悪魔のことを「邪悪な鳥(マルヴァージョ・ウッチェッロmalvagio uccello)96」と呼んでいます。翼を持つことで亡者よりも勝っていると油断した鬼たちは、その御家人を見くびっていました。鬼たちが隠れ場を探して目を逸らした隙に、御家人は必死になって、彼を拘束していた隊長バルバリッチャの腕を振りほどき、瀝青の堀の中へ飛び込みました。鬼たちは皆、しまったと思いました。とくに鬼ごっこを提案したことに責任を感じた調子者アリキーノは翼を駆って追いかけましたが、その亡者はまんまと堀の中へ逃げ延びました。それを見て怒ったカルカブリーナは、アリキーノに喧嘩を仕掛けましので、二人の格闘が始まりました。


悪魔同士の喧嘩で重大事項が発覚

 カルカブリーナとアリキーノの二人の鬼は、獰猛な鷹(sparviero grifagno)となって、堀の上で(sopra 'l fosso)で格闘し始めました。すると両者とも、組み合ったまま煮えたぎる池の真ん中に(nel mezzo del bogliente stagno)落ちてしまいました。両者は、熱さの余り喧嘩を止めましたが、翼には瀝青がどろどろに着いて立ち上がることができません。隊長バルバリッチャは、4人の鬼を救助に差し向けました。そして、堀に落ちた二人の鬼を鉤で引き揚げましたが、もはや手遅れでした。瀝青の堀から引き揚げられた二人の様子は、「皮膚から中身まで、すでに焼け焦げていました(ch' eran già cotti dentro da la crosta)」ので、姿はとどめておりません。ただし、その後の二人の鬼がどの様になったかは書かれていません。焼け焦げて消滅したのか、それともまた復活したのか、この箇所だけでは判断ができません。しかしこの詩句を読む限り、人間の罪人が瀝青の堀の中に入っても焼け焦げることはないのに、悪魔は燃えて消滅すると解釈するのが妥当でしょう。
 地獄とは、この世で大罪を犯した人間が死後に行く世界のことです。そして定められた場所に行ったら最後、その所定場所から出ることも移動することもできません。ダンテが「永遠の場所(loco eterno)」というとき、それは「地獄(Inferno)」のことです。暗い森で迷っていたダンテに、ウェルギリウスがかけた言葉「永劫の場所を通ってここから君を連れ出すだろう(trattotti di qui per loco etterno)第1歌114」は、地獄へ連れて入るという意味です。地獄にいる人間の罪人は、拷問を受けて傷つけられても再生します。ところが堕落天使の悪魔は消滅することもある、ということでしょう。

 ダンテは、これで煩わしい品性下劣な鬼たちからも解放されると安堵して、ゆっくりと次の第6ボルジャに向けて道を進みました。しかし、この鬼たちは下品に加えて執念深い性格でした。