『神曲』地獄巡り44.マレボルジェの最深部の贋金作りと嘘つき | この世は舞台、人生は登場

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贋金作りの達人マエストロ・アダモ

 

 『地獄篇』第30歌の後半部分の主要登場人物はマエストロ・アダモという錬金術師です。中世時代の「マエストロ(maestro)」とは、工房を統轄する統領で、当時では化学や工学にも精通した科学者であったようです。

 

 ブオーゾとスキッキの二人が去った後、邪悪に生まれついた他の者たち(li altri mal nati)か現れました。その中の一人は、もしその男の股ぐらの箇所で二本の足を切り取ったら弦楽器の「リュートの様な体型(guisa di lëuto)」をしていました。ダンテはその姿を次のように表現しています。

 

 重い水腫病で、そのために体液が吸収されず、四肢が腫れたり細ったりして、痩せこけた顔と太鼓腹との釣合が取れぬ。(『地獄篇』第30歌52~54、平川祐弘訳)

                ルネサンス期のリュート

 

 すなわち、その亡者は、重い水腫病(grave idropesì)によって、腹水や胸水が体内に溜まって胴体部が膨れあがって太鼓腹になり、顔は小さいままでリュートを裏側から見たような体型になっていたのです。その異形な亡者は、生きたまま地獄にいるダンテを見つけて、「目を留めてくれ、名匠のアダモの惨めさに注意を向けてくれ(guardate e attendete a la miseria del maestro Adamo)60~61」と呼び止めました。そして次のように彼自身が味わっている悲惨な責め苦をダンテに訴えました。

 

 俺は生前欲しいものは何でも手にはいった。だが、ああ、いまは一滴の水すら飲みたくても飲めない。カゼンティーノの緑の丘から流れ落ちてアルノに入る渓流は、あるいは冷たい泉となり、あるいは緑濃い牧場となって、いつも俺の目の前をちらつく。それには訳がある、顔も肉も痩せこけ、こんな病気にかかった俺だが、谷川の光景を思うと、病気以上に、喉が渇く。俺を懲らしてやまぬ仮借ない〔神の〕正義は、俺が罪を犯した場所を利用して、俺にそれだけ余計吐息をつかせるのだ。それはロメーナだ、その地で俺は、洗礼者ヨハネの像が刻まれた贋金を拵えた、そのために俺は地上でこの体を火あぶりにされた。だが〔俺を唆した〕グイドかアレッサンドロかその弟かの憎らしい亡霊にもしここで会えたなら、ブランダの泉の水が飲めずとも俺はかまわぬ。(『地獄篇』第30歌62~78、平川祐弘訳)
 

 『フィレンツェの無名紳士録(Anonimo fiorentino)』によれば、アダモ師匠(maestro Adamo)と呼ばれた贋金造りの達人は、ブレシア出身であったと言われていましたが、現在では疑問視されています。むしろ、マジョーレ湖(Lago Maggiore)畔の町アンジェラ(Angera)出身という説や、イギリス人であったという説もあります。記録として残されているアダモの伝記は、ほとんど存在していないようで、最も詳しい伝記はダンテのこの詩句で記述された内容です。私たち読者は、『神曲』を読んでアダモなる人物を推測する以外に方法はありません。

 マエストロ・アダモの活躍の舞台(悪事を働いた現場)は、上のダンテの記述にもあるようにカゼンティーノ(Casentino)という緑豊かな丘陵地帯でした。トスカーナ・アペニン山脈とアルノ川の源流付近の渓谷が形作る景観地で、ダンテの時代にその一帯を治めていた領主はグイド・ディ・ロメーナ(Guido di Romena)伯爵でした。

 

「グイド・ディ・ロメーナ伯爵の城」ウィキペディア(イタリア版)より

 

 ダンテが描いているように、アダモ師匠は自分の意志で贋金を鋳造したわけではないようでした。アダモは、ロメーナの領主グイド(父親も同名なので子は「二世」という)か、彼の弟アレッサンドロ(Alessandro)か、さらにその領主は4人兄弟でしたので、他の弟アギノルフォ(Aghinolfo)かイルデブランディーノ(Ildebrandino)の4人の中の誰かに唆されてフィレンツェの贋金を作ってしまいました。当時の法で決められた金貨の金の含有量は24カラット(純金)でなくてはなりませんでした。しかし、「彼らは私を唆して、3カラット分の卑金属を加えたフィオリーノ金貨を打たせた(e' m'indussero a batter li fiorini ch'avevan tre carati di mondiglia)89~90」とアダモが告白しているように、21カラットにまで金を減らして金貨を彼に鋳造させました。1252年に初めて純金で作られたフィレンツェの金貨(fiorino)は、全キリスト教国で最も信頼性の高い通貨になっていましたので、それを偽造した者は重罪に処せられ、火刑にされました。


片面には百合の花が、もう一方には洗礼者ヨハネの姿が刻まれていました。(イタリア版ウィキペディアより)


 アダモ師匠が現世で受けた刑罰が「火あぶりの刑」でしたが、死後の地獄では「水責め」の刑を受けています。「水責め」といっても、水を飲ませてもらえない刑罰です。アダモが生活の拠点にしていたカゼンティーノの渓谷には「谷川のせせらぎ(rusceetti)」や「冷たい水を湛えた水路(canali freddi e molli)」が豊かでした。アダモは、その水の豊かな光景が目の前に浮かぶのに、その水を飲むことができないで「一滴の水を渇望する(un gocciol d'acqua bramo)」するという情況に置かれています。この刑罰の発想は、前述の「イノの悲劇」の箇所で参照しました『転身物語』の中にあります。

 

 ユノ大女神は、テバイ王カドモスの娘の中でイノだけが幸せに生活しているのを怒っていました。そこで、イノを破滅に追いやる役割を冥界にいる復讐の女神たちに依頼することにしました。そしてユノ大女神は、冥界へ降りて行きましたが、その途中で、水が目の前に近づいても口が届かず、頭上に果実が垂れ下がっていても採ることができないでいるタンタルスを目撃しました。ダンテは、オウィディウスの描いたタンタルスの描写(『転身物語』第4巻458~459)から発想してアダモの刑罰を考案した可能性が高いようです。

 

 アダモ師匠は、彼に贋金を作らせて破滅に落としたロメーナ家の四兄弟を恨んでいました。その兄弟の中の誰でもよいので、この地獄で会えたなら(地獄へ堕とされているなら)、「ブランダの泉も見なくてもよい(per Fonte Branda non darei la vista)」とまで言っています。「ブランダの泉」といえば、最も有名なものはシエナ(フィレンツェの南50㎞でローマの北西185㎞の歴史都市)のサン・ドミニカ聖堂が建つ丘の麓にあった泉です。しかし、その泉とアダモとの結び付きを考えることは困難なので、ダンテがこの箇所で言及している泉はロメーナ城の近くにあったであろうと推測されています。そして、「すでにこの(地獄の)内部に一人いる(Dentro c'è l'una già)79」と名前の上げられた者は、ダンテが地獄巡りをしている1300年4月の時点で死んでいる長男グイド(1292年没)のことだと言われています。


地獄の形状

 

 地獄を旅していたダンテは、アダモ巨匠から地獄の形状に関して重要な証言を得ることになりました。この時点でダンテが立っている地獄は、第8圏谷の第10濠(ボルジャ)です。その濠の大きさをアダモは「周囲は11ミッリア(volge undici miglia)で、その幅は半ミッリア(un mezzo di traverso)」だと言いました。1ミッリオ(miglio)は1マイルだと言われていますので、第10濠の1周は11マイル(およそ18㎞)と言うことです。ところが第9濠を出る時、先導者ウェルギリウスがダンテにその濠の長さを教えて、「この谷は周囲22ミッリアだ(miglia ventidue la valle volge)第29歌9行目」と言っています。すなわち第9濠の周囲の長さと第10濠のそれとは二分の一の長さになっているのです。その二箇所の記述から、ダンテが想定した地獄の形状は、奥へ降りるほど狭くなる円錐状であると結論付けられました。

 

ミケランジェロ・カエターニ(Michelangelo Caetani 1804~1882)

お馴染みのボッティチェリの地獄絵に第9と第10濠を書き足した図

 

二枚舌の男亡霊と女亡霊

 

 アダモ師匠の横には、二人の亡者が彼よりも以前に地獄のこの地点に来ていて、両者とも動くことができず横たわっていました。一人は「ヨセフを中傷した偽りの女(la falsa ch' accusò Gioseppo)97」で、もう一人は「トロイアから来た嘘つきのギリシア人シノン(il falso Sinon greco di Troia)98」でした。

 

嘘つき女


「ヨセフを誘惑する侍衛長ポテパルの妻」オラツィオ・ジェンティレスキ(Orazio Lomi Gentileschi, 1563年~1639年)作

 

 まず最初に言及された嘘をついてヨセフを陥れた「嘘つき女(falsa)」とは、『創世記』の第39章に登場するエジプト王の侍衛長ポテパル(Potiphar)の妻のことですが、聖書にも彼女の名前は書かれていません。ヨセフは、イスラエル(ヘブライ)民族の祖ヤコブの12人の息子(後にイスラエル12部族の祖)の一人でした。ヤコブには4人の妻がいて、ヨセフはヤコブの最後の妻ラケルの子でした。それゆえにヨセフは、ヤコブの子としては11男で、末弟には後にイスラエル南部を支配したベニヤミンがいました。ヨセフは、年少のうえに美青年でしたので、父ヤコブから特に寵愛を受けていました。そのために兄たちから憎まれて兄弟たちから殺されかけました。しかし長兄のルベンがヨセフを殺すことだけはやめさせました。そこで兄たちは、ヨセフを売り払うことにしました。その結果、ヨセフは、エジプトの王パロの侍衛長ポテパルに売られました。
 エジプトに来たヨセフは、神に守られていましたので、運に恵まれて幸せな日々を過ごすことができました。そして優れた能力を発揮して侍衛長の家の管理を任されるようになりました。しかし、美青年のヨセフを見初めた侍衛長の妻は彼の衣服を脱がして関係を迫りましたが、彼の方は拒絶して外へ逃げました。すると侍衛長の妻は、ヨセフの衣服を持って家来たちに、「主人が私たちの所へ連れて来たヘブライ人は私たちを馬鹿にしています。あの男は私の所へ来て、私と寝ようとしました。だから私は大声を上げました。あの男は私の叫び声を聞くと、自分の衣服を残して逃げ出しました。」(『創世記』39章14~15)と言いました。次に夫ポテパルが帰って来たら、「あなたが連れて来たヘブライ人の召使いは、私をもてあそぼうとして私の所へ侵入してきました。私が大声を上げたので、彼は衣服を置き忘れて逃げました。」(17~18)と彼に訴えました。

 

嘘つきシノンとトロイアの木馬

 

 アダモ師匠の隣にいた、これまでも「向きを変えたことのない(volta non dierno)94」これからも「永遠に動くとは思えない(non credo che dieno in sempiterno)96 」二人の亡者のもう一方は、トロイア戦争に参戦したギリシア兵士シノンでした。(注:diernoはdieronoの省略形で現代イタリア語ではdiederoとなり不定詞dare「与える」の遠過去3人称複数形です。またdienoは現代イタリア語ではdianoとなり、dareの接続法現在3人称複数形です。)
 

 シノンという亡霊は、ダンテも記述しているように「世界中が知っている馬の件(del cavallo ・・・ che tutto il mondo sa)」で有名なトロイア戦争に登場する人物です。そしてその「馬(cavallo)」とは、いうまでもなくトロイア滅亡の原因になった木馬のことです。一般的伝承では、木馬の作戦を発案したのがオデュッセウスで、それを建造したのが工匠エペイオスだとされています。そしてその巨大木馬を砦内に引き入れさせた張本人(ギリシア側から見れば貢献者)は、シノンでした。ホメロスの『イリアス』は、木馬事件より以前の出来事を描いていますので、オデュッセウスとエペイオスはギリシアの武将として登場しています。オデュッセウスは全篇にまたがり、エペイオスは第23巻のアキレウス主催による盟友パトロクロスの追悼競技の参加者としてのみ登場しています。
 一方『オデュッセイア』では、帰郷する前に漂着したスケリエ島でアルキノオス王によって催された歓待の宴の中で吟遊詩人デモドコスによって、木馬建造の話が語られています。ただし、シノンの話もその名前もホメロスには見いだすことができません。しかもホメロスでは、「エペイオスがアテネ女神の助けによって木馬を建造して、オデュッセウスが城市の中へ引き入れた」となっています。トロイアの木馬に関するダンテの知識は、ウェルギリウスの『アエネイス』に由来しているようです。その叙事詩の第2巻は、ラティウムへ向かう途中で嵐にあってカルタゴに漂着したアエネアスが、その国の女王ディドにトロイア陥落の模様を語り聴かせる場面です。その巻では、現代の私たちが知っているトロイアの木馬の逸話と陥落の物語が描出されています。その第2巻に描かれた物語の概要を紹介しておきましょう。


 十年間、屈強なギリシアの連合軍が攻撃してもトロイアを陥落させることはできませんでした。そこでオデュッセウスの発案で、撤退と見せかけるために、無事の帰国をミネルウァ(ギリシア神アテネ)女神に祈願した巨大な木馬を陣営跡に残して、船隊はテネドス島の入り江に隠れて待機しました。その木馬は、肋骨の部分が樫の木で組み合わされた広い空洞を備えたものでした。そしてその胴体の中には、ギリシアの選り抜きの勇者たちが潜伏しました。
 一方、トロイア方では、この疑わしい贈り物に感動して、城内へ引き入れて安置せよとする意見もありました。しかし、アポロンの神官ラオコオンの予言を信じた大方の者は、それを疑って、海に突き落とせとか、火で焼き払えとか、胴体を槍で突き刺して中を調べよという意見に傾きました。そして、まさに木馬の胴体が槍で滅多刺しにされようとしたとき、トロイアを欺く使命を帯びたシノンがプリアモス王の前に引き出されました。シノンは、老練な嘘をついて敵を信じ込ませる役柄なので老齢兵士を連想しますが、『アエネイス』では、彼が王の前に引き出された時の様子を「両手を背中の後で縛り上げられた青年(manus juvenem ・・・ post terga revinctum)57」と描いていますので、若いギリシア兵でした。シノンは、トロイア側にとってはこの上ない疫病神ですが、ギリシア勢にとっては勝敗を左右する重要な任務でした。シノンは、まさしく命をかけて嘘の話をトロイア人に始めました。
 シノンは、オデュッセウス(ローマ名ウリクセス)に嫌われて、殺されそうになったので逃げてきたと訴えました。そして、巨大な木馬を建造した嘘の話を語り始めました。その作り話の概要は次のようでした。

 

 ギリシアの陣内では、長い戦いに疲れたのでトロイアを諦めて撤退することに決まりました。そして帰国の航海の無事をアテネ女神に祈って大きな木馬を造って奉納しましたが、嵐が続いて出帆することができないでいました。そこで次は、アポロンの神託を求めたところ、犠牲としてギリシア人の血を捧げなければならなくなりました。そこで、オデュッセウスは、シノンを祭壇の生贄に捧げることを提案したので、彼はギリシアの陣から逃げ出しました。そしてギリシアの艦隊がトロイアを離れるまで、身を隠していました。見つかれば殺されるので匿って欲しい。

 

  以上のようなシノンの嘘話と懇願に対して、プリアモス王は同情して彼の縄を解き、続けて木馬を造った理由を尋ねました。それに答えてシノンは、昔ディオメデスとオデュッセウスがトロイアを守護するアテナ女神の像パラディオンを盗み出して汚したので、その清めと償いのために木馬を女神に捧げた、と説明しました。さらにシノンは、巨大な高さにした理由を、トロイアの城門よりも高くして城内に入れさせないためだと答えました。その後の物語は、誰もが知るところです。


ホラ吹きと贋金作りの喧嘩

 

 フィレンツェのフィオリーノ金貨を偽造したマエストロ・アダモは、大嘘つきシノンとヨセフを陥れた嘘つき女の亡霊のことをダンテに紹介するとき、「(こ奴らは、激しい高熱のために猛烈な悪臭を放っている(per febbre aguta gittan tanto leppo)99」と罵りました。すると、その悪口に怒ったシノンが贋金造りアダモの腹をげんこつで殴りました。すると今度は、それに怒ったアダモが腕でシノンの顔を叩きました。それから二人の亡者は口喧嘩を始めました。(注:この引用文には現代イタリア語ではない単語があります。aguta=acuta, gittan=gettano, leppoは「脂が燃えるときに出す悪臭」のこと。)

 

 その喧嘩の内容を紹介しておきましょう。(第30歌106~129で、筆者訳以外はすべて平川祐弘訳です。)

 

 突然、殴ってきたシノンに対して、殴り返しながらアダモが言いました。


 俺の五体は重たくなって勝手が利かなくなったが、これくらいはまだ腕が利くぞ。

 

 殴り返されたシノンが、殴り返してきたアダモに答えました。


  おまえが火あぶりになった時、おまえの手はこうは自由が利かなかったが、贋金造りをしていたころは、いやまったくいま以上によく利いた。

 

 ダンテは、アダモとおよそ同時代なので、当時の「火刑」の場面に遭遇したことがあることでしょう。火あぶりの時、「お前は、そんなに迅速なそれ(腕)を持っていなかった(non l'avei tu così presto)111 」(avei = avevi、avereの半過去2人称単数形)とは、腕を縛られた状態で杭に結わえられて火刑に処せられたと考えられます。
 次はマエストロ・アダモが言い返しました。


 お前のいうことはなるほど事これに関しては事実だ、だがトロイアで質問された時、おまえは今のように事実をいいはしなかった。

 

 次はシノンがアダモに言い返しました。


  俺は偽りをいった、だがおまえは偽りの金を拵えた。俺は罪一つでここへ落ちた、だがおまえの罪ときたらどこのどんな亡者よりも数が多いぞ!

 

 ここは虚偽者と偽造者の喧嘩ですから屁理屈のこね合いなので、お互い自分のことは棚に上げて相手を責めています。シノンは1回しか罪を犯していないが、アダモは贋金を数え切れないほど多く造ったとから罪も多いと非難しています。しかし、シノンのたった一回の罪により、トロイアという大国が消滅しました。その点に関して、今度はアダモがシノンを糾弾しました。

 

 思い出せ(Ricorditi)、虚偽の宣誓者め(spergiuro)、木馬のことを(del cavallo)。それはお前の苦痛になればよい(sieti reo)、世界中がそれを知っているぞ(tutto il mondo sallo)(筆者訳)

 

 シノンは、嘘の証言をする前に、「永遠なる炎(太陽と月)よ(aetrni ignes)、汝たち(vos)と汝らの侵すことのできない神意(non violabile vestrum testor numen)を私は証人とする(『アエネイス』第2巻154~155)」と、偽りの宣誓をしています。そのことをアダモは「虚偽の宣誓者」と呼び、『アエネイス』で書かれているので「世界中が知っているぞ」と攻撃しているのです。 今度はシノンが、アダモの口撃に対抗して言いました。
 

  喉の渇きに苦しむがいい、舌が割れているぞ! 汚水にも苦しむがいい、水っ腹が邪魔で目の前も見えないではないか!

 

 日本語でも嘘をつくことを「二枚舌」と言いますが、ここで「舌が割れている(crepa la lingua)」のは、ここの二人の亡霊は嘘つきだという理由ではなく、ただ「喉の渇きla sete)」のために刑罰の一つとして舌が裂けているのでしょう。

 シノンの挑発に負けないぞとばかりに、贋金造りのアダモが言いました。
 

 おまえの口も永久に、おまえの悪寒でわれてしまうがいい。なるほど俺は喉が渇き、水気で体が膨れているが、おまえだって誘われれば、いそいそとナルキソスの鏡を舐めるのだろう。


 「ナルキソスの鏡」とは、「水」の比喩であり、「なめる」とは「飲む」という意味であるとこはダンテ研究では定説になっています。しかし、この箇所でナルキソスという神話的人物を使わなければならない必然性には、疑問の余地があります。「おまえだって誘われれば、いそいそとナルキソスの鏡を舐めるのだろう」という訳文の原文は、‘per leccar lo specchio di Narcisso(ナルキソスの鏡を舐めるために), non vorresti a 'nvitar molte parole(お前は〈飲むのを〉奨めるのに多くの言葉を必要とはしなことであろう)’となっています。〔注:vorrestiはvolere「望む、必要とする」の条件法2人称単数形〕。すなわち「奨められたらすぐに水を飲む」という意味なので、ナルキソスの名前を使う理由がありません。おそらく、「水」を詩的に言い換えただけではないでしょうか。しかし、ナルキソスについて少し見ておきましょう。


 ナルキソスは、ギリシア・ローマ神話の中でも有名な美青年です。ナルキソス神話には諸説ありますが、オウィディウスの『転身物語』(第3巻351~510)の逸話が最も広く流布しています。ナルキソスの美しさに妖精エコが恋い焦がれます。しかし彼は恋には無頓着でしたので、エコの求愛を拒み続けました。そして遂には、エコは姿が消えて声だけの存在になってしまいました。エコと同じくナルキソスとの愛に報われなかった女も男も沢山いました。その中の一人が、ナルキソスにも報われない愛に苦しむ罰を与えて欲しいと、女神ネメシスに祈りました。その女神は、人間の無礼な行為を戒める権能を持っていましたので、ナルキソスを清冽な泉の所へ連れて行き、その表面に映った彼自身の姿を見せました。すると彼は、その姿の美しさに恋い焦がれてしまいました。しかし、それは水に映った自分自身の姿なので報いられることはなく、ナルキソスは痩せ衰えていきました。その姿を見たエコは、まだ冷淡にされた怨みを持っていましたが、ナルキソスをかわいそうに思って、彼の最期を看取りました。そして人々は、ナルキソスの遺体を火葬にしようとしましたが、彼の死体はどこにもありませんでした。そこには一輪の水仙が咲いていました。ただし、『転身物語』では、「中央を白い花弁が囲んだ(foliis medium cingentibus albis)サフラン色の花を彼らは見つけた(croceum florem inveniunt)」(509~510)と書かれています。


夢で夢を見る

 

 ギリシアの嘘つきシノンとフィレンツェの贋金造りマエストロ・アダモとの目糞鼻糞の喧嘩を夢中になって聴いていたダンテを、先導者ウェルギリウスは叱りつけました。ダンテは、下種の口論を面白がって聴いていたことを恥じ入りました。その時の後悔の様子を「夢の中で夢を見る」ほど無かったことにしたいと、次のように表現しています。

 

  夢で自分が傷つけられているのを見て、それを夢で見ているのに、それは夢であってほしいと望む人のように、また本当は存在しているのに存在していなかったことにして欲しいと切望する人のように、そんな人に私はなっていた。(『地獄篇』第30歌136~139、筆者訳)

 

難解な文型なので原文と解読を添付しておきましょう

 中島敦の『山月記』は高校の国語教科書にも載っている有名な短編小説ですが、ダンテによく似た夢に関する記述があります。
 唐の時代の隴西(ろうせい)郡に李徴(りちょう)という秀才がいました。彼は若くして官職の試験に合格しましたが、江南尉という地方官吏に就任させられたことに不満で、詩人になろうとして退官しました。しかし生活に困窮したため発狂して山の中へ隠ってしまいました。そして、その山中で李徴は虎に転身してしまい、谷川に映った彼自身の姿を見て驚きました。その場面は次のように描出されています。

 

  少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然ぼうぜんとした。

 

 『山月記』の李徴は、夢だと知りながら夢を見ていますが、『神曲』のダンテは、見ている夢それ自体を夢であってほしいと願っている夢を見ているのですから、前者よりも複雑です。

 

野次馬根性を叱られたダンテ

 

 ダンテは余りの恥ずかしさに、先達ウェルギリウスに謝ろうとしても言葉が見つからず、謝っているつもりなのに謝った気になれないでいました。「あのようなことを聞きたいと思うのは、下種な願望だ(voler ciò undire è bassa voglia)148」と先達から戒められて、第8圏谷の最果ての堤に向かいました。