記録に書かれた最初のレスリングとオリンピック | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

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 2020年のオリンピックが東京で開催されます。その東京オリンピックで、レスリングが消滅する危機にあったことは、私たちの記憶にまだ新しく残っています。レスリングに比べると歴史の浅い柔道は安泰なのに、歴史の古いレスリングのほうがオリンピックから消滅する危機にあったことは、歴史的怪奇現象です。もし2020年東京オリンピックにレスリングが消滅することになっていたならば、紀元前776年第1回古代オリンピックから2796年も続いた由緒ある競技種目が無くなっていたことになりました。古代ギリシアにまで遡って、文献をもとにしてレスリングを中心にいろいろな競技種目を探訪してみましょう。

 まず、このエッセイに必要な歴史を概観しておきましょう。
紀元前2600年頃: トロイア文明隆盛
紀元前2000年頃: クレタ文明隆盛
紀元前1500年頃: ミュケーナイ文明隆盛
紀元前 900 年代: ギリシア文字の案出
紀元前 800 年頃: ホメロス創作活動
紀元前 776 年 : 第1回古代オリンピック開催
紀元前500~400年: ギリシア文明の開花期
紀元前400~300年: ギリシア文明の隆盛期
紀元前 27年 : ローマ帝国開始
         オクタウィアヌスが皇帝アウグストゥスとなる
紀元後 392 年 : キリスト教がローマ帝国の国教となる
紀元後 393 年 : 第293回最後の古代オリンピック
紀元後1896年 : 第1回近代オリンピック(ギリシア・アテネで始まる)

 上の歴史の概観を少し説明しましょう。
 ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』の物語で周知の通り、トロイアはギリシアの連合軍の攻撃によって滅亡しました。19世紀にシュリーマン(Schliemann, Heinrich, 1822~1890)の先駆的発掘と、20世紀にブレーゲン(Blegen, Carl William, 1887~1971)による精密な調査により、その歴史的事件は、紀元前13世紀中頃であることが明らかになっています。確かにトロイアは戦争ではギリシアに敗れましたが、文明的にはクレタ・ミュケーナイのギリシア系の国よりも先進国でした。
 紀元前1200年頃に起きたトロイア戦争を題材にしてホメロスが二つの叙事詩を書きました。その創作が何年かは不明ですが、ギリシア文字がフェニキア文字から作られたのが紀元前900年頃なので、その文字を使って書き留められたホメロスの作品は、それ以後の創作になります。おそらく紀元前700年代(8世紀)でも前800年に近い頃だと思われます。第1回古代オリンピックが776年に開催されました。それ以前から行われていたようですが、記録に残っているのが776年の競技なので、それを「第1回大会」と数えるのが通例になったようです。
 古代オリンピックは、何があろうと4年に一度必ず、たとえ戦争中であっても休戦して行われました。その点、古代オリンピックのほうが、政治に翻弄されたり、戦争で開催中止になる近代オリンピックよりも、「人間の尊厳保持」と「平和社会の推進」を果たしていたようです。さらに、開催地は常に〈オリンピア〉に定着していましたので、五輪誘致を巡って不正な金が動くこともありませんでした。
 西暦393年、293回続いた古代オリンピックは終焉をむかえました。その原因は、上の年表で推測できると思います。すでにギリシアに代わってヨーロッパ全土を支配していたローマ帝国がキリスト教を国教に定めたことにより、異教の神々に捧げる行事は禁止されました。そのために、ギリシアの最高神であるゼウスといえども、キリスト教からすれば邪神です。そのゼウスに奉納される祭典オリンピックが認められるはずがありません。オリンピックという行事は、1896年、近代オリンピックとして復活するまで、1500年以上世界からその姿を消しました。
 古代オリンピックの起源の一つに挙げられているのは、『イリアス』の中でアキレウスが盟友パトロクロスの死を追悼して行った競技です。その競技の場面は、第23巻262行目からその巻の最終行の897行まで綿密に描写されています。その箇所はまずパトロクロスの葬儀の模様から書き始められています。
 「一同は、足の速いアキレウスの言葉に従って、まず最初に、燃えたつ焔をきらめく酒で、火勢の及んだかぎりの場所を、すっかり消してしずめたが、その下には焼いた灰が、深くつもった。人々は哭く哭く優しい友の、まっ白な骨を拾い集めて、黄金の器に入れ、脂身を二重に被せて、陣屋の中に据えておき、麻の布でこれを包んだ。そして墓所のために、円形に土地を仕切って、土台の石を焼き場のまわりに据え、それから地面に土を運んできて盛り上げ、墓所を積み終えてから、みな帰途に就こうとした。しかしアキレウスは人々をそこに引き止めて、広い集会所に坐らせ、船陣から競技のための賞品を運んでこさせた。釜だの三脚の鼎(かなえ)だの、幾匹もの馬や騾馬や、勢いのいい何頭もの牛や、あるいは美しい帯をした女たちや灰色の鋼鉄のものなどを。(『イリアス』第23巻249~261)呉茂一訳)
 この追悼競技会の賞品は、すべて主催者のアキレウスが準備して、それぞれの優勝者や入賞者に与える賞品の種類も彼が決めました。その時に行われた競技種目は、第1競技が「戦車競争」、第2が「ボクシング」、第3が「レスリング」、第4が「短距離走」、第5が「武装格闘技」、第6が「円盤投げ」、第7が「弓術」、第8が「槍投げ」の全8競技でした。

鼎
 第1競技の「戦車競争」は、古代オリンピックになってからも、最も危険である反面で最高の栄誉が与えられた種目になったようです。現代の競馬と同じようにオーナーがいて、そのオーナー自身が乗ることもあれば、他の馭者(戦士)に走らせることもあったようです。『イリアス』の中でも最も重要な競技として描かれていて、262行目から650行目までの389行、すなわち全競技会描写のおよそ60%が戦車競争の場面に使われていることになります。それに参加を名乗り出た者は、みなギリシアを代表する5人の英雄たちでした。参加賞は、「手の技に熟練した申し分のない女」が与えられました。さて、その結果は、優勝者はディオメデスで耳形の飾りのついた鼎(かなえ:上の画像を参照)を獲得しました。二等はアンティロコで6歳の身ごもの馬、三等はメネラオスで新品でピカピカの斧、四等はメリオネスで二本の金の錘(おもり)を受け取りました。五等はエウメロスで、最初の予定では新品の手鍋でしたが、ひと悶着があったため胸鎧になりました。

ボクシング
 第2競技は「ボクシング」でした。競技者を募って、アキレウスは次のように宣言しました。
 「アカイアの人々よ、この賞品をかけて、ことに勇猛な武士二人に、拳闘でしっかり撃ち合ってもらおう。アポロン神から耐久力を授かっていて、それをアカイア人の全体が認めた者は、仕事にねばりづよい騾馬を率いて、陣屋へめでたく還ったがいい。一方、また敗れた者には、両耳付きの杯を持たせてやろう。」(『イリアス』第23巻658~663:呉茂一訳)
 ボクシング競技への参加を名乗り出たのは、後世の私たちには無名人ですが、当時は名だたる武将であったに違いないエペイオスとエウリュアロスでした。結果は、撃ち合う場面が(683~691)9行で描写できるほど一方的なエペイオスのKO勝ちでした。

レスリング
いよいよ第3競技は、今回のブログ随筆のメイン・イベントの「レスリング」でした。競技会を主催するアキレウスは、第3競技を次のように宣言しました。
 「さて、ペーレウスの子アキレウスは、すぐさま三番目の競技の賞を、ダナオイ勢によく見えるように、据えて置かせた、骨の折れる相撲のために。その勝利者へは、火の上にかける三脚の大きな鼎(かなえ)を出した、それをアカイア人が、十二匹の牛に値踏みしたものだ。また負けた者へは、一人の女を、まんなかに据えて置かせた。この女は、いろいろな手技に堪能で、四匹の牛と値踏みされていた。」(『イリアス』第23巻700~706:呉茂一訳)
 競技の模様を観る前に、用語の説明をしておきましょう。上の引用文の中で「相撲」と和訳されて単語は「レスリング」のことです。原文のギリシア語は、‘palaismosunē(パライスモシュネー)’で、必ず「骨の折れる、苦痛を伴う」という意味の形容辞‘alegeinē(アレゲイネー)’と共に用いられます。それは、「闘う」という意味の動詞‘palaiō(パライオー)’から作られた名詞です。イタリア語では「レスリング」を‘lotta(ロッタ)’と言い、フランス語では‘lutte(リュットゥ)’と言います。この二つ語は、ラテン語‘luctatio(ルクターティオー)’(動詞‘luctor’「闘う」の名詞形)から由来した単語です。では「レスリング(wrestling)」は何語かと言いますと、古代英語〈wræstlung〉から生まれた純粋な英語です。現在私たちが使っている英語の語彙の60%ほどはラテン・ギリシア語からの派生語です。古代英語から生まれた語彙は20%ほどだと言われていますので、「レスリング」は英国生まれ英国育ちの数少ない生粋の英語です。
 ではまた、レスリング会場に戻りましょう。アキレウスの呼び掛けに答えて、名乗りでたのが、オデュッセウスと大アイアスでした。まず、両レスラーの紹介をしておきましょう。
 片やオデュッセウス。ギリシア軍中、最も賢いので「知将」と呼ばれています。後に、トロイア滅亡の原因になる「木馬の策略」を発案した武将で、ホメロスのもう一方の作品『オデュッセイア』の主人公で、トロイア陥落後、故国イタケに帰るのに大変苦労した英雄です。
 こなた大アイアス。アイアスという名の英雄は二人います。オイレウスの子は足は速いが身体が小さかったので「小アイアス」と呼ばれるのに対して、テラモンの子は身体が大きかったので「大アイアス」と呼ばれています。ギリシア勢の中では、ディオメデスと共に、アキレウスに次ぐ豪傑です。この後の武装格闘技部門で彼と闘いますが、残念ながら負けることになります。
 勇将二人は、「廻し」を着けました。古代オリンピックでは一糸まとわず競技をしましたが、格闘技は日本の相撲のように「廻し」を締めました。【ギリシア語に興味のある人だけ見てください。原文では‘zōsamenō’ とありますが、原形は「腰に帯を巻く」という意味の‘zōnnūmi(ゾーンニューミ)のアオリスト分詞の両数形という希な用法です。ギリシア文字表記は下に添付】
まわしをするのギリシア語

 では、試合の模様を実況放送風にお伝えしましょう。(708~734)
○廻しを着けた技巧派オデュッセウスと巨漢アイアスが、競技場の真ん中に進み出ました。
○両者、がっちりと組み合いました。
○両者の背筋は張り詰め、両腕はしっかと組まれ、両者とも身動きできません。
○両者とも、汗がしたたり落ち、脇腹も両肩も真っ赤に腫れ上がり、ミミズ腫れになってきました。
○勝負は五分と五分、決着がつきません。
○観衆が勝負を急かせています。
○あっ、アイアスはオデュッセウスを持ち上げようとしています。
○さすが頭脳派オデュッセウス、背後へ回り込んで膝関節を打って、腱の力を抜いて、仰向けにひっくり返し、自分もアイアスの胸の上に倒れ込みました。今度はオデュッセウスがアイアスを持ち上げようとしております。少し身体が浮きましたが、足がからんで、両者とも地面に転がりました。
○両者とも肌が泥だらけです。
○またもや両者は立ち上がり、取り組もうとしております。
○あっ、アキレウスが立ち上がり、大声で叫んでおります。
 アキレウスの叫び声(735~737)
「もう、試合は止めてくだされ。これ以上、身体を痛めないでほしい。両人とも勝ちということにいたそう。同じ褒美を持って行かれよ。」

短距離走
 次の第4競技は「短距離走」でした。(748~796)
 古代オリンピックでの短距離走は、オリンピアの競技会場(stadion:英語stadium)の長さが約200メートルと言われていますので、大体その長さを走ったのでしょう。今回は、どの位の距離かは分かりませんが、ゴールはアキレウスが「あそこ」といって指し示した場所でした。今回の参加者は三人で、賞品は優勝者が白銀の混酒器、2等賞が太った牡牛、3等賞が金塊でした。この競技にエントリーした選手は、またしてもオデュッセウスに、背の低い方のアイアスに、若者たちをすべて負かして敗者復活したアンティロコスでした。結果は、オデュッセウスが優勝、接戦ではあったが、ゴール寸前で足を滑らせたアイアスが準優勝で、力量不足のアンティロコスが最下位でした。

武装格闘技

 第5競技は「武装格闘技」でした。(797~825)
 この競技は、鎧兜を着け、楯と槍を持って闘う一騎打ちの格闘技で、相手に血を流させた者が勝利をおさめました。そして勝者には銀の鋲を打った名剣が与えられました。参加を名乗り出たのは、ギリシア勢の中でアキレウスに次ぐ豪傑の二人ディオメデスと大アイアスでした。最初は互角でしたが、次第にディオメデスが優勢になりました。ところが群衆はアイアスを心配して、試合を止めさせ引き分けにするよう要求しました。しかしアキレウスはディオメデスの判定勝ちとしました。

円盤投げ
 第6競技は「円盤投げ」でした。(826~849)
 かってBS朝日が放送した『BBC地球伝説』の「古代のオリンピックとは?~2500年前のアスリート」という番組によれば、円盤はブロンズ製で、競技の前に行われた儀式の時に出場者全員が受け取ったと紹介されました。しかし、『イリアス』では、円盤の材質は「塊になった鉄(ギリシア語ではsolos autochoōnos アウトコオーノス)826」と言っています。鉄の塊を投げたのであれば、むしろ「砲丸投げ」に近い競技ではなかったかとも考えられます。しかし、「回転して(dinēsasディネーサス)投げた(ēke エーケ)840」と描かれています。もし、砲丸であれば重すぎて回転運動はできないので、この競技は矢張り「円盤投げ」でしょう。またホメロスのもう一つの叙事詩『オデュッセイア』にも、パイエクス人の国王アルキノオスによるオデュッセウス歓迎行事として競技会が開催されています。しかし競技の模様は、結果報告として第8巻に11行(120~130)でまとめられているだけです。その中でエラトレウスが優勝した種目に「円盤(diskos)」と明記されています。さらに、王の子ラオダマスに挑発されたオデュッセウスが、その国の選手たちよりも重い円盤で誰よりも遠くへ投げました。その描写の中にも「彼は円盤を取った(lebe diskon)」と、明記されています。以上の理由により、この競技は「円盤投げ」に認知しましょう。因みにこの円盤投げの勝者は、テッサリア王ポリュポイテスで、五年分の鉄の塊を賞品として手に入れました。

弓術
 第7競技は「弓術」でした。(850~883)
 足を糸で結わえた鳩を放ち、それを弓で射る競技でした。初めにテウクロスが射た矢は鳩を結わえた糸に当たり、すぐさまその後でメリオネスが射た矢は鳩に命中しました。勝者のメリオネスには10個の両刃の斧を、2位のテウクロスには10個の片刃の斧を与えられました。

槍投げ
 第8(最終)競技は、「槍投げ」でした。(884~897)
 この競技には、ギリシア軍の総大将アガメムノンとメリオネスが参加を申し出ました。それを見たアキレウスは、力の差は歴然なので、アガメムノンには優勝賞品である牛一頭分の価値がある「新品の掛け釜」を、メリオネスには槍を与えました。

 古代ローマ最大の叙事詩人ウェルギリウスは、ホメロスの影響をまともに受けた叙事詩人です。このローマ詩人が活躍した時代は、すでにギリシアはローマの支配下にありましたので、人の往来は自由でした。しかしローマの勢力下にあってもオリンピアでの競技会は、きちんと4年ごとに開かれていました。ウェルギリウスの時代は、オリンピックの第185回大会前後が開かれていたはずです。私の推測に過ぎませんが、ウェルギリウスはオリンピックを実際に観たことがなかったでしょう。その知識も乏しかったかも知れません。彼はホメロスの両作品を通じて、叙事詩には競技の挿話が必要であると思い込んでいたのではないでしょうか。
 ウェルギリウスも『アエネーイス』第5巻の104行目から603行目にかけて、アエネアスが亡父アンキセスの命日奉納として競技を主催します。彼の叙事詩の主人公アエネアスは『イリアス』の登場人物ですが、その作品の構成・構造自体は『オデュッセイア』を手本にしています。ウェルギリウスも五種目の競技を描いていますが、ホメロスの描いたものとはかなり異なっています。五種目のうち「短距離走」、「ボクシング」、「弓術」の三種目はホメロス由来の競技ですが、他の二種目はオリンピアで行われている競技種目ではありません。
 『アエネイス』の創作が開始されたのは、紀元前31年、オクタウィアヌスがアントニウス・クレオパトラ連合軍をアクティウムの海戦で破った頃であったと言われています。オクタウィアヌスと親交の深かったウェルギリウスにとっても、その海戦の勝利は印象深いものであったことは容易に推測できます。それゆえに彼の奉納競技の最初の種目は、軍船による競争でした。現代のボート競技の起源だといえば言えないこともないのですが、しかし当時オリンピアで行われ続けている競技からすれば異質です。さらに最後の第五競技は騎馬隊の行進でした。そして途中で、「模擬で敗走と戦闘を織りなす(texunt fugas et proelia ludo)593」行事を挟みました。現代のオリンピックならばエキジビションか閉会式の催しもので、競技とは言えないでしょう。もし、ウェルギリウスがオリンピアで行われていた競技会の模様を知っていたならば、第1競技の「軍船競争」と第5競技の「騎馬隊行進」は無かったことでしょう。
 『アエネイス』には、少なくとも、もう2カ所運動競技の場面があります。最初の箇所は、アクティウム海戦に勝利した後、オクタウィアヌスによって始められた祝祭競技を念頭においたもので「私たちはイリウムの競技をするためにアクティウムの浜を一杯にします。仲間たちは、裸になり油をぬって、父祖伝来の格闘技に加わります(第3巻280~282)」と描写されています。もう一つの箇所は、アエネアスが冥界訪問をしたとき、冥界浄土エリュシウムで霊魂たちの中に「芝生の格技場で体を鍛える者がおり、試合をして競い、黄土色の土俵で組み合っている(第6巻642~643)」という描写があります。両方とも競技の具体的な様子までは表現していないので、恐らくウェルギリウスは、オクタウィアヌスの祝祭競技のことも、耳にはしていたかも知れませんが、具体的内容までは知らなかったと推測されます。因みに、二つの箇所に使われている「格闘技」は、ギリシア語語源の‘palaestra(パラエストラ)’が使われています。

 ホメロスの『オデュッセイア』に描かれた競技は5種目でした。最初の種目は「短距離走」、二番目は「レスリング」、三番目は「幅跳び」四番目「円盤投げ」、そして五番目は「ボクシング」でした。この五種目という考え方は、「古代五種競技」や「近代五種競技」の種目に引き継がれています。それをギリシア語で「ペンタスロン」と名付けたことにもつながります。「ペンタスロン」とは、〈ペンテ〉と〈アスロン〉の合成語です。〈ペンテpente〉はギリシア数字の「5」で、〈アスロンathlon〉は「賞品」と言う意味です。ですから「アスリート(athlete)」とはギリシア語の「athlētēs(アトレーテース」由来の言葉で、「賞品を求めて戦う人」の意味です。先程、レスリングの説明のところで「さて、ペーレウスの子アキレウスは、すぐさま三番目の競技の賞を、ダナオイ勢によく見えるように、据えて置かせた、骨の折れる相撲のために。(『イリアス』第23巻700~701)」という呉茂一訳の文章を引用しました。その中の「競技の賞」と訳されている言葉のギリシア語の原文は《athlon(アトロン)》です。現代のスポーツに関する競技や名称などはホメロスと密接な関係があるようです。

 最後にもう一人、ホメロスとウェルギリウスから影響を受けた詩人ミルトンを見ておきましょう。この17世紀のイギリス詩人にとって、オリンピック競技は完全に書物の中だけの知識でした。『失楽園』の中で、地獄に落ちた堕落天使たちが身体を鍛えている様を次のように描いたいます。
 「中には、野原の上で、或は高い空中で、翼を駆って互に速さを競い合う連中もいたが、その有様は、あたかもオリュムピア競技かピューティア競技さながらであった。また、中には、熅り立つ軍馬を御したり、軽快に戦車を駆っては目標の柱をさっと見事に避けたり、相対峙する隊形を組んで模擬戦を行う者たちもいた。」(第2巻528~532)平井正穂訳
 オリンピア競技もピュティア競技(ギリシアのデルポイでアポロン神に奉納された競技会)も、ミルトンとその同時代の人々は知らなかったので、彼が描いたこの模様がオリンピックだと信じていたことでしょう。これらの競技の描写を見る限り、『アエネイス』は『イリアス』よりも『オデュッセイア』から強い影響を受け、『失楽園』は後者ホメロスの2作品よりも、前者ウェルギリウスの作品から強い影響を受けていることが分かります。すなわちこの流れは、ヨーロッパからオリンピック競技の人々の記憶が薄れていく過程でした。紀元後1896年、近代オリンピックが誕生するまでは、ホメロスの描いた競技種目の復活はありませんでした。