『神曲』煉獄登山41.もう二人のカルロ | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

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   『神曲』の地獄の各々の圏谷や煉獄の各々の環道や天国の各々の天界には、それぞれの場所に最適な案内役が抜擢されています。ユーグ・カペーは、この煉獄の第5環道の案内役に選ばれて、貪欲だったフランス王を紹介しています。そして、巡礼者ダンテが『神曲』の旅をしているのは1300年の復活祭の前後7日間です。そしてさらに、ユーグと対面して話を聴いている日時は、冥界訪問の旅を始めて五日目の4月12日火曜日(グレゴリウス暦では3月30日午前中に設定されています。そのために、1300年の4月よりも前に起こった出来事は歴史的事実として描かれますが、それより後に起こった事は予言として語られます。すなわち、1300年の4月から煉獄篇の執筆までの出来事は予言として語られますが、それはまさしく起こってしまったことを予言するのですから、ダンテの知識不足さえなければ的中率は百発百中です。それゆえに、ここまでユーグ・カペーによって語られてきたユーグ自身にまつわること、息子ロベール2世のこと、そして彼の末裔カルロ1世・ダンジョのことに関しては1300年4月よりも前の出来事でした。しかし、これから紹介されるカルロという名前の二人の人物はすべてダンテと同時代人なので、彼らにまつわる歴史的出来事はほとんどが1300年以後のことになるので、予言の形式をとって語られます。

 

ヴァロア伯カルロ(カルロ・ド・ヴァロア)

 

   まず、ヴァロア伯カルロについて次のように語り始められます。

 

   私が予見するところでは、今からほど遠からぬ将来に、また別のシャルルがフランスから外へ出、自分や部下の正体を存分にさらけ出すことだろう。(『煉獄篇』第20歌70~72、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   私にはその時代が見える。彼(=もう一人のカルロ)自身と彼の家来たちを(世に)知らしめるために、そのもう一人のカルロをフランスから引き出すところの時代が(私には見える)。

 

   ここで言及されている「もう一人のカルロ(un altro Carlo)」とは、ヴァロアとアンジュの領主カルロ(フランス読み:シャルル)のことで、彼は、第11代フランス国王フィリップ4世の弟で、後に第15代国王フィリップ6世の父親になります。歴史的には、ここで言及されているフランス国王や諸侯の中で重要度は低いのですが、ダンテの運命を左右した重要な人物でした。

教皇派 vs 皇帝派

   中世のイタリアでは、教皇派のグェルフィ(Guelfi)党と皇帝派のギベリーニ(Ghibellini)党が支配権を奪い合って、フィレンツェだけでなくイタリア国中が内乱状態でした。ダンテは教皇派の小貴族の家系に生まれましたのでグェルフィ党員として活動していました。1289年6月11日のフィレンツェ郊外カンパルディーノ(Campaldino)の戦いにおいて教皇派が勝利を収め、皇帝派は息の根を止められました。そしてその合戦では、24歳になったばかりのダンテは騎馬兵として参戦していました。

白党 vs 黒党

   その戦いに決着がついてもフィレンツェには平和が訪れることはありませんでした。その戦いで勝利をおさめた教皇派グェルフィ軍には、次の時代の主役になる二人の指揮官が参戦していました。チェルキ家のヴィエーリ(Vieri de' Cerchi)とドナーティ家のコルソ(Corso Donati)でした。この二人の将軍は、間もなく敵対することになり、チェルキは白党(Bianchi)を結成し、ドナーティは黒党(Neri)を結成して、フィレンツェを内紛の渦に巻き込みました。ダンテは、妻ジェンマがドナーティ家出身で党首コルソの従妹でしたので、彼も黒党に付くのが当然でした。しかし、ダンテは白党に入党しました。その理由は判明していませんが、義理の従兄コルソに対して好意を持てなかったことは確かなようでした。

   最初は、民衆から指示を得た白党が政権を握りました。それに対抗してドナーティは政府転覆を計りましたが、失敗してフィレンツェから追放されてしまいました。ところが、時の教皇ボニファティウス8世は、その内紛の機に乗じてフィレンツェとトスカーナを教皇領に併合しようと目論みました。そのために、政変に敗れたドナーティと黒党を教皇領に庇護しました。そしてさらに、ボニファティウス教皇は、その政変を終息するという名目で、時のフランス王フィリップ4世の弟ヴァロア伯カルロをイタリアへ呼び寄せました。

 

 

   ダンテがフィレンツェの政界に入ったのは、1295年で30歳の時であったと言われています。彼は白党の政治家として頭角をあらわして、黒党をフィレンツェから追放した後の1300年には行政職の最高位である「執政官(プリオーレ:priore)」に就任しました。一方、教皇は、その対抗策としてフィレンツェ全市を破門し、召喚を受けていたヴァロア伯カルロは軍を従え城門に到着していました。フィレンツェは数千の兵で対抗しましたが、カルロが率いる数百の騎士団に敗北を喫してしまいました。亡命していたドナーティ率いる黒党軍も加わって白党員に対する大虐殺が行われたとも言われています。その敗北によって全白党員はフィレンツェから追放され、政治的中心にいたダンテは死刑の宣告を受けました。しかし、彼は、死刑執行の宣告日1302年1月27日の前にはフィレンツェを脱出して亡命の旅に出ていました。

   ユーグ・カペー王から紹介された「もう一人のカルロ」すなわち「ヴァロア伯カルロ」は、フィレンツェの白党を殲滅した立役者であり、ダンテに亡命生活を強いる原因を作った人物でもありました。しかし、その割には、ダンテはカルロに武将の姿を与えないで、次のように狡猾な政治家として描いています。

 

   彼は別に軍勢を率いず、ユダが操った槍一本を持って現れるはずだが、その槍を突き刺すとフィレンツェの腹は裂けてしまうはずだ。(『煉獄篇』第20歌73~75、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   彼は、ユダが馬上槍試合をしたとき使った槍だけを持って、他に武器を持たないで、そこ(フランス)から出て来る。そして、フィレンツェの胴体を破裂させるように、それ(槍)の狙いを定める。

 

   上の三行は難解なので、私なりの個人的な解釈をしてみましょう。この詩文の主語が「ヴァロア伯カルロ」であることは言うまでもありません。前述したように、数百(千二百騎という説もあり)の騎士団からなる精鋭部隊を引き連れて来襲してきたカルロに対して「武器・軍隊を持たないで(sanz’ arme」という表現には、違和感があります。実際にその戦禍の真っ只中にいたダンテには、指揮官として後方にいたカルロの存在感が前線で戦う騎馬兵や黒党兵よりも薄かったのかも知れません。それゆえに、カルロは自ら戦うことはなく、策謀ばかりを弄していたと、ダンテには思えたのではないでしょう。

   「ユダが操った槍:〔直訳〕ユダが馬上槍試合をしたときに使った槍:〔原文〕la lancia con la qual giostrò Giuda」とは、12使徒のひとりでキリストを裏切ったユダのことです。そして、そのユダが使った槍とは、「策謀」や「背信」の比喩的表現です。まさしくダンテには、ヴァロア伯カルロは武人ではなく策士として見えていたのでしょう。そして、カルロの策略によって、「フィレンツェの胴体を破裂させる(a Fiorenza fa scoppiar la pancia」とは、フィレンツェの市民同士が戦って内臓を切り裂くことを意味しているのでしょう。また、歴史家ベンヴェヌート(Benvenuto da Imola, 1320? ~ 1388)の解釈によれば、ダンテの時代のフィレンツェは、人口も多い豊かな国でしたが、その市民たちは傲慢であったので、カルロが市民たちを完膚なきまでに滅ぼしたことを「内臓を切り裂いた」と表現したのかも知れません。

   また、その「フィレンツェの胴体を切り裂く」という表現には、ダンテの祖国への憎しみのようなものが感じられます。ダンテは、フィレンツェに対しては、帰還を願う望郷の念と、彼を追放した憎悪とが入り乱れていました。ダンテは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世のイタリア侵攻に、彼自身のフィレンツェ帰還の唯一の望みをつないでいました。しかし、皇帝は、その途中の1313年8月24日に病没してしまいました。それによって、ダンテはフィレンツェ帰還の望みを失って、祖国への憎しみだけが残ったことでしょう。まさに「胴体を切り裂く」という表現には、ダンテの祖国への憎悪を感じることができます。

 

   ユーグ・カペー王は、さらに彼の末裔ヴァロア伯カルロの未来を予言して、次のように話を続けます。

 

   彼には領分は獲れまい、だが罪や恥は沢山獲るだろう、そうしてこうした悪事をいとも軽く考えているから、それだけ〔来世で〕重く辛い目に会うだろう。(『煉獄篇』第20歌76~78、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   だから彼(カルロ)は、領地ではなく罪業と恥辱を手に入れることになろう。彼自身にとって、そのような損害を軽く見なせば見なすほど、ますます重いもの(罪業と恥辱)を手にすることになるだろう。

 

   カルロ1世ダンジョは、イタリアに遠征してシチリアとナポリを手に入れました。しかし、ヴァロア伯カルロは、イタリアに遠征し来ても「領地を手に入れなかった(non terra・・・guadagnerà)」領主だと、当時の人々からは冷評されていたようです。母国フランスにおいても人々は、そのカルロのことを「王の息子、王の弟、三人の王の叔父、王の父、しかし一度も王になれなかった(fils de roi, frere de roi, oncle de trois rois, pere de roi, et jamais roi)」と揶揄して、「無領公(Sanzaterra)」というニックネームを付けました。その言葉にもう少し説明を加えれば、「王の息子」とはフィリップ3世の子という意味で、「王と弟」とはフィリップ4世の弟という意味であり、「三人の王の叔父」とは第12代フランス王ルイ10世と第13代王フィリップ5世と第14代王シャルル4世の叔父という意味です。そしてまた、第15代フランス王フィリップ6世の父にはなりましたが、彼自身は一度もどの国の王にもなれませんでした。ただし、1321年に亡くなっているダンテには、1316年のシャルル4世の即位までのことは知っていたとしても、それ以後の状勢は知ることはできません。すなわち、ヴァロア伯カルロの子孫たちがヴァロア朝として250年以上もフランス王家を継承していくことまでは、ダンテは知ることはなかったのです。

   ヴァロア伯カルロに対するダンテの言葉は、まだ生存している人物に向けられたものとしては、かなり悪意に満ちた表現になっています。そのカルロがイタリア遠征で手に入れたものは、「罪(peccato)」と「恥(onta)」だけで、彼が行ったその罪と恥を軽く考えているならば、死後には「より重い罪と恥を手にすることになろう(guadagnerà・・・più grave)」と予言しているのです。『地獄篇』の完成・出版は、1313年(神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の死)ごろだと言われています。その根拠になっている逸話があります。

   1316年、ダンテが亡命先としてラヴェンナに招かれた時にはかなり優遇されたと言われています。当時のラヴェンナ領主グィード2世(Guido II da Polenta、1275?-1333)は、ダンテが『地獄篇』の第5歌でパオロとの悲恋として同情的に描いているフランチェスカの甥にあたりました。グィードの厚遇は、その時すでに出版されていた『地獄篇』を読んでいて、その叔母へのダンテの思いやりに報いたのだとも言われています。ということは、1313年から1316年の間に『地獄篇』は出版されて世に出ていたということです。

   『地獄篇』は、ダンテの生前に出版されました。また『天国篇』は、詩人の死の間際にようやく完成したと言われていますので、死後に出版されたことは確かです。しかし、『煉獄篇』に関しては諸説が存在しています。一説には、『地獄篇』と同時に出版されたと言われていますが、また他方、『天国篇』の完成の後から『煉獄篇』の一部を改訂しているという説もあります。私個人は、『煉獄篇』はダンテの死後に出版されたであろうと考えています。もし、ヴァロア伯カルロが「より重い罪と恥を手にすることになる」というダンテの予言を聞いていたら、カルロからの何らかの報復があったのではないでしょうか。なぜならば、「より重い罪と恥」のある場所は「地獄界」を意味するので、その言葉は、カルロは死後に地獄へ堕ちることになると予言しているからです。しかし、どの地獄に堕ちるかまでは書かれていませんが、貪欲を浄化する煉獄第5環道で名前が上げられているので、地獄の第4圏谷で貪欲が裁かれ永遠に重い荷物を転がし続けることになるかも知れません。または、ヴァロア伯カルロが使った武器は「策謀」や「背信」の比喩的表現である「ユダが使った槍」なので、彼が堕ちている地獄は第8圏谷の第6濠(偽善者の地獄)か第8濠(権謀術策者の地獄)ではないかと私は推測します。

 

カルロ2世ダンジョ

 

   ユーグ・カペー王は、さらに彼の末裔のもう一人のカルロを紹介します。そのカルロとは、ナポリ・シチリア王カルロ・ダンジョの息子のカルロ2世ダンジョです。彼に対しても非難口調で、次のように紹介しています。

 

   また捕虜として船から出て来たもう一人のシャルルは、海賊がよその奴隷女を売り飛ばすのも同様、自分の娘を競売(せりう)りに出している。(『煉獄篇』第20歌79~81、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   かつて捕虜になって船から出て来たもう一人の者(カルロ)が、彼の娘を売りとばして、それによって交渉するのを、私には見える。それはちょうど、海賊たちが他人の女奴隷によって行うのと同じ様であった。

 

 

   カルロ2世ダンジョは、ダンテより17歳ほど年長ですが、前出のヴァロア伯カルロと同様に、その三人は同時代人と見なすことができます。また、ヴァロア伯に対するのと同様に、カルロ2世に対しても批判の口調が激しくなっています。ダンテはカルロ2世のことを「かつて捕虜になって船から出て来たもう一人の男(l’altro che già uscì preso di nave)」と、彼の不面目なことから書き始めています。さらに、「娘を売りとばして交渉した(vendere sua figlia e patterggiarne)」と、カルロ2世が行った海賊まがいの非道な行為を紹介しています。そのカルロ2世の行為を理解するためには、「シチリアの晩鐘(または晩祷)事件」まで遡らなければなりません。

   神聖ローマ帝国は、フリードリッヒ2世亡きあとイタリアでの勢力を急速に失いました。それとは対照的に、カルロ2世の父王カルロ1世ダンジョは、兄のフランス王ルイ9世の強力な後ろ盾によってイタリアで勢力を拡大しました。カルロ・ダンジョは、フリードリッヒ2世でさえも果たせなかったイタリア統一を試み、さらにその先の東ローマ帝国を征服して地中海帝国の建造に着手しました。しかし、彼の野望を打ち砕いたのは、後に「シチリアの晩鐘事件」と呼ばれる騒動でした。その事件を簡単に見ておきましょう。

 

シチリアの晩鐘事件

 

   カルロ1世は、教皇庁からもイタリア諸都市からも信任を得て、野望を国外へ向けました。いよいよ彼は、地中海帝国建造のために東ローマ帝国の征服を準備して、多くの軍船を用意しました。1282年3月30日はたまたま復活祭の聖月曜日(復活祭の始まりの日)で、パレルモ宮殿の広場は人出で賑わっていました。もともとシチリアのパレルモ宮殿は、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世の高い教養と知性によって築かれた場所でしたので、そこの市民たちはフランス人の粗野な行儀作法にはアレルギー反応を起こしていました。その様な状況下で、復活祭の晩祷を告げる鐘が鳴り始めました。その時の模様をモンタネッリ(Indro Montanelli)が『ルネサンスの歴史』の中でドキュメンタリー風に述べています。

 

       ドゥエというフランスの一士官が、好色のせいかそれとも職務に忠実だったためか、婦人にも身体検査をおこなうと称し、夫婦連れで歩いていた若い人妻のお尻にさわった。シチリアの男の誇りを傷つけられた夫は怒って短刀を抜き、一撃のもとにその士官を斬り殺す。群衆はたちまちこの殺人者の肩を持ち、「死ね、死ね」と叫んでアンジュ王家の兵士たちに襲いかかった。一晩中人間狩りが続き、反乱は全シチリアに拡大、フランス人と見るとすぐに殺した。虐殺をまぬかれた少数のフランス人は、船で海上に逃れた。

 

 

   モンタネッリの以上の記述が正しいならば、シチリアの晩祷事件による暴動は、フランス人のひとりの下級士官がシチリア人女性のお尻を触ったことで勃発したことになります。そして、その暴挙が、カルロ・ダンジョの地中海帝国の夢を打ち砕いたことになりました。

   そのシチリアの暴動(別の見方をすれが、フランス支配からのシチリアの解放運動)を制圧するために、カルロ・ダンジョは、フランス兵やフィレンツェ兵からなる艦隊を派遣しました。そして、シチリアの最東端メッシーナに上陸しようとしましたが市民兵の抵抗にあって難航しました。一方シチリア側は、同じく地中海支配を目論んでいたアラゴン王ペドロ3世に援助を求めました。そのアラゴン王は、すぐさま艦隊をシチリアに派遣して、本隊を最西端の町トラパニに上陸させ、別の艦隊をメッシーナへ向かわせてカルロ軍を急襲しました。その結果は、カルロ軍は惨敗して、ナポリへ撤退しました。しかし、次の年の1284年に、カルロ・ダンジョはシチリア奪還のために出兵しました。その戦いには、当時はまだサレルノ公爵であった息子のカルロ2世も、ナポリ艦隊の指揮官を任されて出陣していました。1284年6月、ナポリ沖で両艦隊は対峙しました。カルロ2世は、その戦いでは敵と交戦するなと、父王から命令されていたにもかかわらず、アラゴン艦隊の指揮官ルッジェーロ(Ruggiero di Loria)の挑発に乗ってしまいました。カルロ2世は、ルッジェーロに攻撃を仕掛けましたが、惨敗を喫しったあげくに、捕虜としてシチリアへ連行されました。

 

 

   ナポリ沖海戦の翌年(1285年)の1月にはカルロ1世が、11月にはペドロ3世がこの世を去りました。ペテロ3世の王位は、アラゴン王をアルフォンソ3世が、シチリア王をハイメ2世が後継しました。1288年、捕虜の身分であったカルロ2世は、シチリアを完全放棄するという条件でハイメ2世から解放されました。そして、ダンテは、その事件を「捕虜になって船から出て来た」と表現しているのです。さらに、それに続いて「彼の娘を売りとばして、それによって交渉する(vendere sua figlia e patteggiarne)」と記述されています。ということは、歴史的背景を知らなければ、「娘と引き替えに解放された」と、解釈されてしまします。しかし二つの事実は全く別の出来事なのです。

   シチリア王位を放棄することで解放されたカルロ2世は、ナポリ王の位だけは受け継ぐことができました。しかし、カルロはシチリアを奪還することを諦めませんでした。まず、時のローマ教皇ニコラウス4世に接近してシチリア王の戴冠を受けて、実質的なシチリア王ハイメ2世と対等な身分になった気になりました。さらに、婚姻によって勢力を拡大しようと画策します。まず、長女マルゲリータを彼の又従兄にあたる前出のヴァロア伯カルロに嫁がせました。(マルゲリータは、第15代フランス王フィリップ6世の母となります)。次女ビアンカを対立していたアラゴン王ハイメ2世の後妻として結婚させました。そして最後に、ダンテが「彼の娘を売りとばして、それによって交渉する」と述べているのは、末娘ベアトリーチェのことで、カルロ2世は彼女をフェラーラ侯爵アッツォ8世に嫁がせました。それもまさしく、「売り飛ばす(vendere)」という言葉通りの卑劣なやり方であったと伝えられています。

   フェラーラの領主アッツォ8世(Azzo VIII d'Este:1263?-1308)は、モデナなども領有していた裕福な貴族でした。彼は、誕生日は知られていませんが、亡くなったのは1808年1月31日だと言われています。そして、ベアトリーチェと結婚したのは1305年でしたので、すでにその時には40歳を超えていて、当時としては高齢であったということが推測されます。しかも婚姻関係は3年ほどの短いものでした。さらにこの婚姻が異常なのは、1295年生まれのベアトリーチェは、当時はまだ幼い10歳ほどであったということです。カルロ2世は、彼の娘をアッツォ8世に嫁がせたことにより、「巨額の貨幣(una ingente somma di denaro:(英語)a large sum of money)」を受け取ったと言われています。信憑性には乏しいのですが、その金額を具体的に示して、51,000フローリンの金貨を受け取ったという説もあります。私の個人的な興味本位で単なる余興ですか、その金額を現代の日本円に換算してみましょう。

 

 

フローリン金貨

 

   イタリアの中世時代に発行された金貨は、24カラットすなわち純金でなければなりませんでした。地獄篇30歌には、純金に3カラット分の卑金属を混ぜて21カラットの金貨を偽造したアダモ師匠(maestro Adamo)が第8圏谷の第10濠で刑罰を受けています。その地獄を見れば、すでに当時から贋金造りは重罪であったことがわかります。それゆえに、多少の誤差はあったでしょうが、1フローリン金貨は3.537グラムの純金でできていました。それを基準にして、カルロ2世が老人アッツォ8世に幼い娘ベアトリーチェを嫁がせた時に受け取った51,000枚のフローリン金貨を現代の貨幣価値で考えてみましょう。

   娘を嫁がせてカルロが手にした金貨は、黄金にして、180,387グラム(およそ180キログラム)であったということになります。その金貨を今日(2021年末)の金の価格である1グラムおよそ7,000円で換算してみましょう。すると、1,262,709,000円になります。私個人は、金を買ったことも金相場に関しても無知ですので、専門家が計算すれば他の数値が出るかも知れません。計算能力のない私があえて数値を出したのは、カルロ2世ダンジョが現代の金額に換算すれば12億2千万円以上のお金を受け取って、年端の行かない娘を40歳の中年男に嫁がせた人物であったことを示すためです。ダンテもその事実を知っていて、カルロ2世のことを「海賊が女奴隷を売り飛ばすのと同じように自分の娘を売り飛ばした」と糾弾しているのでしょう。

 

   さらに、フランス王家の祖ユーグ・カペーは、カルロ2世ダンジョの金銭欲を、次のように激しく咎めます。

 

   ああ、貪欲よ、私の家の者はおまえに無我夢中になり、挙句に身内も肉親も顧(かえり)みなくなってしまったが、いったいこれ以上の悪事を働くことができるのだろうか?(『煉獄篇』第20歌 82~84、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   おお、貪欲よ、おまえは、さらに何を私たちに為すことができるのか?おまえは、かくのごとくその私の血筋の者をおまえ(=貪欲)の方へ誘い入れたので、彼(私の血筋の者=カルロ2世)は、彼自身の肉親に対して関心を持たなくなっている。

 

 

   フランス王家の祖ユーグ・カペーは、煉獄の第5環道で浄化する「貪欲(avarizia)」という罪に向かって呼び掛け、その罪のために堕落している「私の血筋の者(il mio sangue)」の行為を激しく咎めています。その貪欲な血筋の者とは、カルロ2世だけではなく、彼の父親カルロ1世にも、またヴァロア伯カルロにもあてはまります。上の詩行より前にカペーがカルロ1世を紹介する箇所(煉獄篇20歌61-63)で、「プロヴァンスの多額の持参金(la gran dota provenzale)」で「羞恥心(la vergogna)」を失った「私の血統の者(sangue mio)」と、言っていました。ということは、カルロ1世とカルロ2世とヴァロア伯カルロの三人のイタリアに来たカルロが「貪欲」であった、とダンテは考えているのです。そして、カルロ1世の前のイタリアに来なかったフランス王家の者たちは、「力量には欠けていたが、まだ悪行はしなかった(poco valea, ma pur non facea make)煉獄篇20歌63」と、ダンテはカペーに言わせています。すなわち、フランス王家の「血統の者」で最初の「貪欲者」はカルロ1世だということになります。ただし、ダンテは、カルロ1世の貪欲の罪は軽罪とみなしているので、彼だけは「救われた魂」として、煉獄門の前庭で浄罪登山を待っていました。ところが一方、他の二人のカルロは、『神曲』の時間的設定が1300年ではなく、彼らの死後ならば、確実に地獄へ堕とされていることでしょう。カルロ2世の堕ちて行く先を勝手に推測すれば、軽くて貪欲の罪が裁かれる「第4圏谷」の中か、重罪の判決が下されれば「第9圏谷コキュトス」の肉親への裏切りが裁かれている「カイーナ」で氷漬けにされていることでしょう。

 

このブログの主な参考文献:

チャールズ・シングルトン編注の『神曲:煉獄篇』のテキストおよび注釈書(プリンストン大学出版)です。

原文: C.S. Singleton(ed.) “Purgatorio”2: Commentary, Vol.1.Pt.2 of Dante Alighieri, The Divine Comedy, 3 vols., Princeton U.P.

 

パゲット・トインビー著(シングルトン改訂)『ダンテ百科事典』(オックスフォード)。

原文:Paget Toynbee (revised by C.S. Singleton)  A Dictionary of Proper Names and Notable Matters in the Works of DANTE,  Oxford.