『神曲』地獄巡り48.氷の地獄コキュトスの第1区画カイーナ | この世は舞台、人生は登場

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第9圏谷コキュトス

 

 

 

   地獄の濠の中でも最も長い第8圏谷(マレボルジェ)が終わる所に、沢山の巨人たちが縛られて拘束されていました。ダンテとウェルギリウスは、その中でも比較的身動きの自由なアンタイオスに頼んで、抱きかかえて巨人の足元まで降ろしてもらいました。そこは、コキュトスという別名をもつ第9圏谷への入口でした。

 「コキュトス (Kokytos、イタリア語はCocito)」は、ギリシア神話の冥界を流れる五大河川(三途の川アケロン血の川プレゲトン憤怒の川ステュクス、忘却の川レーテ)の一つで、「嘆きの川」という意味を持っています。第7圏谷の第3円を旅している時、すでにウェルギリウスはダンテに対して地獄を流れる河川について説明しています(第14歌115~138)。その時、コキュトスのことを、地獄の中で「それより下に降りることのない場所 (là dove più non si dismonta)118」であると指摘して、「お前が見ることになる (tu lo vedrai)」「池のようなもの (quell sia quello stagno)119」と、ウェルギリウスは説明しています。しかし、実際にコキュトスを眼下に見た時は、「足下にひろがる湖(sotto piedi un lago)」と表現しています。すなわち、ウェルギリウスが「池・沼 (stagno)」だと聞いていたコキュトスは、実際に来てみると、想像していたよりも大きな「湖 (lago)」であったということなのでしょう。

※ ギリシア神話の冥界の川については、私のブログ『あの世のはなし』と『ホメロスオデュッセイアの物語』を参照してください。

 

コキュトスの四つの区画

 

 コキュトスは、四つの区画に分かれていて、ダンテが最も嫌っていた「裏切り」という行為をおこなった罪人たちが、最も重い刑罰を受けています。第1の区画は、アダムとイヴの長男で弟アベルを殺したカインに因んで名付けられた「カイーナ (Caina)」という肉親への裏切り者が閉じ込められた地獄です。第2区画は、裏切りによってトロイアを滅亡させたアンテノルの名に因んだ「アンテノーラ (Antenora)」という祖国への裏切り者が拷問されている地獄です。そして第3区画は、「トロメーア (Tolomea)」と呼ばれる地獄で、客人を裏切った者が刑罰を受けています。ただし、その名前の由来には、二通りの説が存在しています。まず少数派としては、ローマの内乱でカエサルと戦ったポンペイウスが援軍を求めてエジプトに来たとき、客人として迎えておきながら彼を暗殺したプトレマイオス(Ptolemaios、イタリア名Tolomeo)13世から由来したとする意見です。もう一方は多数派で、聖書外典の『マカベア書』(第1巻16章11~17)に登場するプトレマイオスから由来するという説です。そのプトレマイオスは、死海の北方にあったと言われているパレスティナの古都エリコ(Jericho)の総督でした。しかし、プトレマイオスは、彼の義理の父シモンが就いていたユダヤ教聖職者の最高位である大祭司職を狙っていました。そこで、プトレマイオスは、シモンとその二人の息子マタティアとユダを饗宴に招待して、その宴会中に暗殺しました。ダンテは、前者のプトレマイオスによるポンペイウス暗殺についても、ルカヌスの『内乱もしくはパルサリア(De Bello Civili sive Pharsalia)』(第8巻536~712)によって精通していました。しかし、後者は聖書から由来した人物なので、コキュトスの地獄の区画名としては、より適切だと判断されているのでしょう。

 最後の第4層は、主への裏切り者が罰せられている「ジュデッカ (Giudecca)」です。その名の由来がイエスを裏切った「ユダ (Juda、イタリア名 Giuda)」から来ていることは、言うまでもありません。

 

コキュトスの第1区画カイーナ

 

ダンテたちは、さらに下の方へ歩いて降りました。すると、「通る時は注意せよ(Guarda come passi)、哀れで惨めな兄弟たちの頭を靴底で踏んづけないように(che tu non calchi con le piante le teste de’ fratei miseri lassi)32歌19~21」という声がしました。誰がその言葉を発したかは、意見が分かれています。あるダンテ学者は、「先達ウェルギリウス」だと言っています。また、「その地獄にいる亡者たち全員が注意を促した」とする説が多数を占めています。さらにまた、「兄弟(fratei)」という言葉から、この先(57行目付近)にアルベルトの二人の息子が登場しますので、彼らが叫んだと主張する意見もあります。

 その注意を促す声に従って、ダンテたちは慎重に進みました。すると前方に湖が見えてきました。その光景は次の様に描写されています。

 

 正面を見ると、足下に湖がひろがり、凍てついて表面はガラス状になり水面は見えなかった。冬のオーストリアのドナウ川にせよ、かなた寒天の下のドン川にせよ、流の表にこれほど厚く氷が張ったためしは、いまだかってなかった。かりにタンベルニック山やピエトラパーナ山がそこへ崩れ落ちたとしても、氷は縁の方ですらパリッとも音を立てなかっただろう。(『地獄篇』第32歌22~30、平川祐弘訳』)

 

 目の前に広がる湖は、氷の地獄コキュトスの第1円カイーナです。その湖に張った氷が厚いので、その下に流れているはずの水は見えません。そして、その氷の厚さを現実世界の川に張る氷に喩えています。まず最初に言及されている川は、ボルガに次ぐヨーロッパ第2の大河ドナウ(ドイツ語Donau:イタリア語DanoiaまたはDanubio:英語Danube)です。ドナウ川でも「冬のオーストリアのドナウ川 (di verno la Danoia in Osterlicchi)26」と限定しています。地獄のコキュトスに喩えられるほど厚い氷が、ドナウ川に張るとは考えられません。しかし、当時、オーストリアからハンガリア一帯を治めていたカルロ・マルテッロ(Carlo Martello)王と懇意にしていたダンテは、『天国篇』の第8歌で「ドナウ川がドイツの岸辺を離れた後に潤しているあの国土の王冠 (la corona di quella terra che ’l Danubio riga poi che le ripe tedesche abbandona)64~66」をカルロが被ったと描いています。ダンテは、真冬にカルロを訪れた時に、ドナウの水面を覆った氷を実際に観て感動したことがあったかも知れません。

 次に言及されているのは「寒天の下のドン川 (Tanaï là sotto ’l freddo cielo)27」です。そのドン川とは、モスクワの南およそ200kmの都市トゥーラ(Tula)を源流として、南へ流れてアゾフ海に注ぐ川です。ただし、ダンテの時代には、「ターナ川 (Tana)」と呼ばれていて、ダンテが使っている「タナーイ (Tanaï)」は、古代ローマ時代のラテン語名「タナイス (Tanais)」をイタリア語化した言葉です。その川は、古来よりヨーロッパとアジアの境界を形成するものとして重要視されていました。ドン川が流れる「寒冷の天の下にあるかの地 (là sotto ’l freddo cielo)」とは、ロシアのことなので、ドナウ川が流れるオーストリアよりも遥かに極寒の地です。それゆえに、ドン川の川面に張る氷の厚さもドナウ川とは比べようもありません。ただし、ダンテがドン川の氷を見たとは考えづらいので、何かの書物から得た知識ではないでしょうか。

 

ヨーロッパの主要河川

 

 極寒地獄コキュトスに張った氷は頑丈なので、タンベルニック山やピエトラパーナ山が崩れて落ちてきてもびくともしない、とダンテは表現しています。「タンベルニック山 (Tambernicchi)」に関しては、それがどの山を指すのか、現代に至っても特定されてはいません。初期の注釈者の多くは、現在のクロアチアの東部に存在した国スラヴォニア(Slavonia)の山であろう、と推測していました。また少数意見ではありますが、アルメニアの山と主張した者もいました。現時点では、ダンテにとってもっと身近なアプアーノ・アルプスの中のどれかの山を指していたと考えるのが一般的です。

 

氷漬けにされた亡者たち

 

 前方に広がる第9圏谷コキュトスの第1円カイーナには、亡者たちが次のように氷漬けにされていました。

 

  百姓の女が落穂拾いをしばしば夢に見る時節、蛙は水中から面だけを出して、があがあと鳴くが、その蛙みたいに、苦しみ悩む亡者が氷の中に漬かっていた。ふだんは羞恥の色を浮かべる頬までが鉛色になり、歯を鸛(こうのとり)がするようにがちがちと鳴らした。誰も彼も面を伏せ、口は寒さを目は悲歎の心を証していた。(『地獄篇』第32歌31~39、平川祐弘訳)

 

 「百姓女が落穂拾いをしばしば夢に見る時節 (quando sogna di spigolar sovente la villana)32~33」とは、日本の俳句では「秋」の季語として使われます。しかも、厳密には「晩秋」のイメージを持っています。しかし、西洋では麦の収穫は初夏に行いますので、その「落ち穂拾い」は、真夏の風物詩です。それゆえにダンテが極寒地獄を描く場面で、あえて真夏のイメージを使っているのは、亡者たちが拷問を受けている「氷室地獄(la ghiccia)35」との間に「寒・暖」のコントラストをつけるためだった、と言われています。

 

落ち穂拾い

 

 「落ち穂拾い」には、詩に季節感を醸し出す効果以外に、宗教的意味合いも含んでいます。ミレーの筆による有名な『落ち穂拾い』も、ただ素朴な田園風景を描いたものではなく、旧約聖書の『レビ記』に示された教訓を描いた作品でした。

 

ジャン=フランソワ・ミレー作『落穂拾い』(1857)

 

  『レビ記』は、モーセが神から与えられた律法を記したモーセ五書と呼ばれるものの一書です。その中で神がモーセに命じて次のように言っています。

 

  あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。 (『レビ記』第19章9~10)

 

  「落穂拾い」には、氷の世界と対照的な夏の暑さを暗示させる効果の他に、旧約聖書の教訓も同時に含意しています。聖書の「落穂拾い」は、『ルビ記』に示されているように、また『ルツ記』第2章で具体的逸話として描かれているように、貧しき者への「いたわり」と「思いやり」の象徴なのです。それゆえに、「落穂拾い」は、過酷な地獄描写の中で、ひとときの安らぎを与える清涼剤の役割を果たしています。

 

 全身を氷の中に漬けられて顔だけ外に出している亡者の様子を、鼻を水から出して(col muso fuor de l’acqua) ゲロゲロと鳴きながらジッと動かないでいる(a gracidar si sta)「蛙(la rana)」に喩えています。ダンテは、第8圏谷第5ボルジャで煮えたぎる瀝青の中に全身を漬けられて顔だけ出している汚職収賄者たちを「蛙」に喩えていました。また、ダンテは「蛙」を嫌っていて、臆病で狡賢い動物であると考えていたようです。地獄の難攻不落のディーテ城の門前で妖怪メドゥーサに襲われて逃げ惑う亡者たちを蛙に喩えて次のように描いています。

 

  蛙は敵の蛇に出会うと、一目散に水中に飛びこみ背を丸くして底にへばりつくが、その様もさながらに、千余の狂乱状態の亡者どもが、逃げまわるさまを私は見た。(『地獄篇』第9歌76~80、平川祐弘訳)

 

  上の詩句に描かれた蛙は「臆病な存在」の象徴ですが、ダンテはまた、狡賢い動物であるとも考えていたようです。さらにまた、ダンテは、「カエルとネズミについて物語ったイソップの寓話(la favola d'Isopo ・・・ dov' el parlò de la rana e del topo)」(『地獄篇』第23歌4~6)にも言及しています。数ある蛙と鼠の寓話の中でもダンテが採用しているものは、鼠はお人好しで、蛙は狡賢い登場人物に仕立てられた改作版でした。(『神曲』地獄巡り31を参照)

 

  氷地獄カイーナで氷漬けにされている亡者たちは、頬(原文は「羞恥心を現す場所」là dove appar vergogna)さえも鉛色(livide)でした。そして寒さの余り、コウノトリのように、(当時はコウノトリには舌がないので嘴で音を出すと信じられていたので)歯をカチカチとさせていました。そしてどの亡者も顔を下に向けたままにしていました。その理由は、原文では、「冷気が涙を眼球の中で凍らせて、それらを閉じた“il gelo strinse le lagrime tra essi(=li occhi) e riserrolli (=li riserrò)”47~48」と書かれていますので、常に涙を流している亡者たちは、下を向いて涙を地面に落とし続けなければ、涙が眼の中で凍り付いて視力を奪ってしまうからです。

 

「コキュトス」グスタヴ・ドレ(Gustave Doré)作

 

  巡礼者ダンテは、足下に視線を向けました。すると二人の亡者が、「二頭の雄山羊が互いに角で突き合うように“come due Becchi cozzaro (=cozzarono) insieme”50~51」頭突きを食らわせ合っていました。すると、寒さのために両耳を失っている(後になってカミチョン・デ・パッツィ(Camiscion de’ Pazzi)と判明する)男が登場して、喧嘩している二人の男の素性を話し始めました。

 

  この二人が何者か知りたいのなら〔教えてやる〕、ビゼンチオ川が流れを発する谷間が彼らと彼らの父アルベルトの領地だ。彼らは同じ腹から出た。このカイーナをあまねく探すがいい、寒天の中で漬けるのにこれくらい適した者はほかにはいるまい。(『地獄篇』第32歌55~60、平川祐弘訳)

 

 「ビゼンチオ川が流れを発する谷間 (la valle onde Bisenzo si dichina)」とは、フィレンツェとボローニャのほぼ中間に位置していたマンゴーナ(Mangona)という国です。その国を統治していた領主は侯爵アルベルト(Alberto degli Alberti)で、彼には兄のアレッサンドロ(Alessandro)と弟のナポレオーネ(Napoleone)という二人の息子がいました。この二人の兄弟は根っから仲が悪く、また兄がグェルフィ(教皇派)党員で弟がギベリーニ(皇帝派)党員であるという敵対関係にあったことも加わり、両者は陰湿な相続権争いを繰り広げました。その争いの模様は詳細には知られていませんが、1282年から1286年の間のいずれかの年に起こり、どちらが殺害されたのか、または両者とも殺害されたのかは判明したおりません。しかし、アルベルトの息子たち「以上に適した亡者を君は見出せないだろう (non troverai ombra degna più)59~60」とダンテが表現しているように、弟アベルを殺したカインから名付けられた地獄「カイーナ」で刑罰を受ける該当者としては、その兄弟は最適な登場人物でした。

 カイーナ地獄の説明役パッツィは、その場に居る亡者の紹介を続けます。

 

  アーサー王の一撃で胸を割られ、胸とともに影も割られた男にしても、フォカッチャにしても、またこいつ、こいつの頭が邪魔で俺が先を見通すことのできぬこのサッソール・マスケローにしてもだ、トスカーナの出なら、おまえも奴の事を承知だろうが。(『地獄篇』第32歌61~66、平川祐弘訳)

 

アーサー王伝説

 

 「アーサー王の一撃で胸を割られた (fu rotto il petto ・・・ per la man d’ Artù)61~62」男とは、王の甥(または息子)のモルドリッドだと言われています。アーサー王 (King Arthur)はイギリスの有名な英雄ですが、彼の伝説は古くからヨーロッパ中に流布していたようです。アーサー王伝説には諸説が入り乱れていますが、現代において私たちが親しんでいる伝説は、モンマスのジェフリ(Geoffrey of Monmouth)によって1136年に書かれた『ブリタニア列王伝史(Historia Regum Britannie)』によるものです。ジェフリはラテン語で書いていますので、「アーサー」は「アルトゥールス (Arturus)」と書き、また発音します。ジェフリの列王伝によれば、アーサー王は妹アンナを旧王家の血をひくロトに嫁がせ、二人の間にモルドリッドが生まれました。王は、その甥モルドリッドを重用して、自分がフランスに出兵している間、その甥を執政にしてイングランドを任せました。しかしその隙に、モルドリッドは、国を奪うために謀反を起こしました。二人は軍を二分して激しく戦い、ついにカムランでの最後の決戦となりました。そして結果は、両者相打ちとなり、モルドリッドは、その場で息を引き取り、アーサー王も瀕死の重傷を負ったのでアヴァロン島へ運ばれましたが、その島で息を引き取りました。

 注:『ブリタニア列王伝史』の中のアーサー王に関する伝記は、第9巻から第11巻に書かれています。アーサー王以前のイングランドの歴史(伝説)は、私のブログ「徳川家康もトロイア人」の「イギリス王家と国民の系譜」の箇所で述べられています。

 

 「胸が砕かれた (fu rotto il petto)」というモルドリッドの戦死の模様は、ジェフリの記述には存在しないので、ダンテが読んで知っていたのは、古代フランス語の『アルツールの死 (La Morte d’ Arthur)』であろうと言われています。目を血走らせたアーサー王は、馬に跨がってモルドリッドのもとにまっしぐらに近寄り、彼がまとっていた鎖帷子もろとも、鋼の剣で胸を突き刺しました。そして、胸を貫通していた剣を抜いた時、傷口を太陽の光が通過しました。おそらくダンテが知っていたアーサー王伝説は、古代フランス語による物語であったと推測されています。

 

悪名高き無名の悪人

 

 『神曲』には、歴史上に名を残した多くの有名人が登場しています。しかし、登場人物の大多数は、ダンテが彼の作品の中で登場させていなければ、現代までに名前が消滅していたはずの無名人ばかりです。すなわち、『地獄篇』に名前の載っている悪人は、我が国の例で言うならば、石川五右衛門や鼠小僧次郎吉というような有名な悪人ばかりではなく、お寺(修道院)や古民家(古城)の土蔵で埃に埋もれていた人別帳の片隅に載っている程度の人物であることが多いのです。耳なしパッツィによって、アーサー王とその甥の事件に次いで紹介されたフォカッチャもサッソール・マスケローニも、ほとんど無名人であったと言っても過言ではありません。

 

フォカッチャというニックネームの亡者

  フォカッチャ(Focaccia)は、ピストイアのヴァンニ・デ・カンチェリエーリ(Vanni de’ Cancellieri)のあだ名で、もめ事を引き起こす短気な性格から「火 (foco=fuoco)を着ける奴」と呼ばれたようです。彼の正確な生年月日は不明ですが、ダンテと同時代人であることは確かです。フォカッチャは、ダンテと同じ白党員(Bianchi)で、当時は常に黒党員(Neri)と紛争を繰り返していました(白党と黒党の抗争については、「ダンテの時代のフィレンツェ」を参照。)

 同じカンチェリエーリ一族の中でも、勢力が黒党と白党に二分していました。ある時、カンチェリエーリ家の黒党派が、ピストイア白党の最高幹部の一人であったベルティーノ (Bertino de’ Vergiolesi)を襲撃して殺害しました。ところが、フォカッチャの妻がベルティーノと縁戚にあったので、その報復として、フォカッチャは、ピストイア黒党のリーダー格であった同じ一族(従兄弟)のデット (Detto di Sinibaldo Cancellieri)を暗殺してしまいました。その時の殺害の模様が『ピストイアの年代記 (Storie pistoresi)』の中に次のように記録されていました。

 

 ある日、デット卿が運命の広場にやって来て、ドゥブレット(doublet、ファルセットfarsettoとも呼ぶ)を新調するためにその広場に店を構える馴染みの仕立屋に入りました。そこを狙って、フォカッチャが何人もの白党員を引き連れて、デットを襲撃して暗殺しました。その事件は、1293年の10月に起こったと推測されています。

 

  まさしくカンチェリエーリ家の中の同族の諍いが、ピストイアの国の崩壊につながりました。古今東西に渡って、肉親同士の戦いほど悲惨なものはないといわれていますが、フォカッチャとデットとの対立も一国の崩壊をもたらす程の醜いものだったようです。フィレンツェに統治されることの多かった近国ピストイアの混乱と惨状は、ダンテにとっても他人事ではなかったことでしょう。事実、その事件から数年後にダンテも白党と黒党の紛争で祖国フィレンツェを追放されることになりました。

 

遺産横領を目論んだサッソール

  パッツィの目の前で氷漬けにされて彼の視界を塞いでいるもう一人の亡者は、フィレンツェ人のサッソール・マスケローニ(Sassol Mascheroni)でした。この男は、遺産横領を目論んで同族の者を殺害したと言われています。しかし、その同族者が誰を指すかは判明しておりません。「兄弟」、「甥」、「叔父」、「従兄」など、記録はさまざまです。比較的確かなことは、サッソールが遺産を横領するために血縁者の誰かを殺害したと言うことです。そして、その犯罪が発覚して捕らえられた後、釘の詰まった樽の中に入れられて、市中引き回しのうえ打ち首にされました。『フィレンツェの無名紳士録 (Anonimo fiorentino)』の記事によれば、サッソールの悪行は、トスカーナ地方(フィレンツェを中心としたピサ、シエーナ、ピストイアなどを含んだ地方)では有名であったので、パッツィが巡礼者ダンテに向かって「お前もトスカーナ人なら、奴が誰であったか、よく知っているな (se Tosco se’, ben sai omai chi fu)」と、念を押しているのです。

 

耳なしパッツィ

  最後に、この場面の説明役カミチオン・デ・パッツィについて、生前はどの様な人物であったか見ておきましょう。この耳なしパッツィの正式名は、アルベルト(またはウベルトUberto)・カミチョーネ・デ・パッツィ・ディ・ヴァルダルノ(Alberto Camicione de’ Pazzi di Val d’Arno)です。その正式名から察すると、ヴァルダルノ渓谷に領地を持つパッツィ家のアルベルト・カミチョーネという人物であることは推察できます。またダンテが肉親を裏切った地獄カイーナにパッツィを閉じ込めているので、彼が何らかの裏切りを働いて同族の者を殺害したということは確かなことでしょう。しかしその他のことはほとんど判明していません。『フィレンツェの無名紳士録』によれば、カミチョーネはウベルティーノ(従兄といわれていますが)と共同で所有していたヴァルダルノの城を独占しようとして殺害をしたと言われています。

 

カルリンという男

 耳なしパッツィことカミチョーネは、自己紹介をした後、「私は私の罪を軽く(みえるように)してくれるカルリンを待っている (aspetto Carlin che mi scagioni)69」と、ダンテに告げました。「カルリン」と呼ばれた男の正式名は、カルリーノ・デ・パッツィ・ディ・ヴァルダルノ(Carlino de’ Pazzi di Val d’Arno)です。その名前からも推測できますが、彼はパッツィ一族の人物でした。このカルリンという男に関しては、資料が比較的多く残されています。ダンテと同時代の二大歴史家のディーノ・コンパーニ (Dino Compagni、1255~1324)は『年代記 (Cronica)』の中で、またジョヴァンニ・ヴィッラーニ(Giovanni Villani、1276頃~1348)は『新年代記(Nuova Cronica)』の中で、カルリーノについて書いています。二人の記述をまとめると次のようになります。 

 

  1302年、フィレンツェ軍によるピストイアの包囲が続いていた時、カルリーノは、フィレンツェを追放された白党軍と天下分け目のカンパルディーノの戦いで敗れた皇帝党の残党と共に、ヴァルダルノにあったピアントラヴィーニェ(Piantravigne)城に立て籠もり、フィレンツェ軍(黒党)に対抗していました。しかし、フィレンツェ軍は、29日間に渡り城を包囲している間に、カルリーノに賄賂をわたして裏切らせ、城を明け渡させました。そして、白党のフィレンツェ人たちは、捕らえられたり殺されたりしました。

 

冥界巡りの日程表

 

 

  ダンテが冥界巡礼の日時に設定したのは、1300年の復活祭をはさんだ7日間でした。それゆえに、ダンテが第9圏谷第1区画カイーナにいた日時はその年の4月9日の午後であると推定できます。そして、カルリーノが裏切りを働いたのが1302年で、さらに彼はダンテよりも長く生きたと言われています。ということは、ダンテが地獄を巡ってカイーナでパッツィと出会っている時は、カルリーノはまだこの世で生存していました。それゆえに、先に地獄に落ちている耳なしパッツィが「私はカルリーノを待っている(aspetto Carlin)」と言ったのです。そしてさらに、「彼は私の罪を軽く(みえるように)してくれる(mi scagioni) 注:scagionareの接続法現在単数形で本来は〈無罪を証明する〉」と、パッツィが言っているのは、彼自身の罪は親族殺人なのでカイーナに閉じ込められているが、カルリーノは祖国を裏切って同国人を死に追いやったので、さらに下の重罪人が刑罰を受けているアンテノーラに行くことになるだろうと予言しているのです。そして『神曲』においては、天国の住人は言うまでもなく地獄の罪人も予言能力を持っています。

  注:地獄の亡者が予言能力を持っていることは、「地獄巡り7」の〈地獄の罪人たちは予知能力を持っている〉と「地獄巡り13」の〈ファリナータの予言〉を参照。

 

 ダンテは、カミチョーネ・デ・パッツィのもとを離れて、先達ウェルギリウスに導かれながらカイーナを抜けて奥地へと入って行きます。

 

このブログの主な参考文献:

チャールズ・シングルトン編注の『神曲:地獄篇』のテキストおよび注釈書(プリンストン大学出版)と、パジェット・トインビーの『ダンテ辞典』です。

原文:C.S. Singleton(ed.) “Inferno”2:Commentary, Vol.1.Pt.2 of Dante Alighieri, The Divine Comedy, 3 vols., Princeton U.P.

P. Toynbee (Revised by C.S. Singleton) “A Dictionary of Proper Names and Notable Matters in the Works of Dante” Oxford U.P.