『神曲』地獄巡り47.氷の世界コキュトスに入るための祈願文 | この世は舞台、人生は登場

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詩の女神への祈願文

 

 地獄巡りの旅も、「全宇宙の底(fondo a tutto l’universo)」と呼ぶ最後の圏谷に辿り着きました。当然、その最終到着点では、大魔王との対面が待ち受けています。その場面を描くことは、「からかい半分でできることではない(non è impresa da pigliare a gabbo)32:7」と、詩人ダンテは気持を引き締めしました。そして極寒地獄コキュトスに入る前に、「邪悪の穴の光景を描くに相応しい韻律(le rime ・・・ si converrebbe al tristo buco)32:1~2」を作る霊感を求めて、詩人ダンテは詩の女神ムーサに、次のようなお祈りを捧げます。

 

 アンピオンを助けてテーバイに城壁を築いたあのご婦人がたよ、私の詩句を助けてくれ、私の話すことが事実と違わないように。ああ、いかなる者よりも悪に生まれついた烏合の衆よ、描くのが困難な場所にいる者よ、おまえたちなど、羊か山羊であったほうがよかった。(『地獄篇』第32歌10~15、筆者訳)

 

 この箇所では固有名詞ではなく「ご婦人がた(donne)」と普通名詞で呼んでいますが、その中で描かれているエピソードによって詩神ムーサであることが判明します。アンピオンとテーバイとの逸話は、ホラティウスの『詩の技法(Ars Poetica)394~396』で描かれた神話に由来しています。その話は、ゼウスの子アンピオンがムーサの助けを得て、竪琴を弾くとキタイロン山から大きな岩が勝手に降りてきて、勝手に積み重なりテーバイの城壁になった、というものです。そしてダンテがこれから描こうとしている場景は、アンピオンに奇跡を起こさせた時のムーサの助力なくしては描くことができない過酷なものなのです。

 詩神に詩的霊感を求める詩行のことを「祈願文(invocation)」と呼ぶ文学様式のひとつです。その詩的形式は、ホメロスによって初めて使われて以来、古典文学の流儀に則った叙事詩には必須の要素になってきました。まず、始祖ホメロスによる用法を大まかに見ておきましょう。

 

ホメロスの祈願文

 

 ホメロスの『オデュッセイア』では、序歌の冒頭で次のように祈願文を使われています。

 

 才能豊かな男について私に告げてくれ、ムーサよ。その男はトロイアの聖なる城市を攻め落とした後、極めて多くの場所をさまよった。彼が国々で出会い、心を通わせた人々は大勢であった。そして海の上では彼の心に傷を与えた難事は多かった。・・・その様なことを、女神よ、ゼウスの御息女よ、どの箇所からでもかまいませんので、お心のままに、私たちに語りたまえ。(『オデュッセイア』第1巻1~10、筆者訳)

 

 ただし、『オデュッセイア』では上の箇所で1回のみ使われているだけです。むしろ多用されているのは『イリアス』のほうで、その西洋文学で最も有名な序歌は次のような祈願文で書き始められています。

 

 怒りを歌え、女神よ、ペーレウスの子アキレウスの呪われた怒りを。その怒りはアカイア(ギリシア)人に数え切れない苦悩を与え、武者の多くの勇ましい魂をアイデース(冥府)へ送った。そして彼らを犬たちやすべての肉食鳥たちへの餌食にした。そして人々の王アトレウスの子(アガメムノン)と勇敢なアキレウスが、初めて争って不和になった時から、ゼウスの意志は成し遂げられていった。(『イリアス』第1巻1~7、筆者訳)

 

  『オデュッセイア』では、「ムーサよ」と固有名詞で呼びかけていますが、『イリアス』では「女神よ」と普通名詞が使われています。しかし、その女神が詩神ムーサであることは疑う余地はありません。『イリアス』では、この他にも、「第2巻484~」、「第11巻218~」、「第14巻508~」そして「第16巻112~」の4箇所に祈願文が使われていますが、すべて「ムーサたちよ」と固有名詞で、しかも複数形で呼びかけています。

 

ギリシア神話のムーサ

 

ホメロスのムーサ

 ホメロスの叙事詩の中では、神々が人間と同じ時間と空間を共有して、神が人間を助けることもあれは、人間が神を助けることもあり、人間同士が戦うように神々同士も戦うことがあります。さらに人間が傷を負うと同様に、神々も傷つけられて痛みを感じることがあります。しかし、ホメロスでは、ムーサ女神に関しする神話は形成されていなかったと言われています。『オデュッセイア』(第8巻62~74)では、「吟遊詩人は盲目だが、ムーサ女神が慈しんだので、歌の技は優れていた」と書かれていますので、ホメロスのムーサは「詩人の守護神」としての役割を担っていたようです。しかし、ホメロスの叙事詩の中で、ムーサ女神が神として活動したという逸話は、次の『オデュッセイア』の箇所を除いて存在していません。

 

 九人のムーサたちが、皆そろって順番に美しい声で葬送歌を歌っていた。その場にあなたがいたら、アルゴス(ギリシア)勢の中に涙を流さない者を目にすることはなかったであろう。美しい声のムーサの心動かす力はその様であった。(『オデュッセイア』第24巻60~63、筆者訳)

 

 この上の箇所は、オデュッセウスに討ち取られた求婚者たちの亡霊がヘルメス神に導かれて降りた冥界で、ギリシアの英雄たちの亡霊に出会った場面の一コマです。その冥界では、生前は仲の悪かったアキレウスとアガメムノンが歓談していました。そしてアガメムノンは、アキレウスに対して彼の葬儀を盛大に行った模様を話して聞かせました。その葬儀では、九人のムーサたちもやって来て、アキレウスの死を悼んで「九人のムーサたちが、皆そろって順番に美しい声で葬送歌を歌っていた」とアガメムノンはアキレウスに伝えています。その箇所には、ムーサ研究に欠かせない重要な表現が二つ存在しています。それは、まずムーサが九人であるということと、アキレウスの葬儀でムーサ全員が彼のために葬送歌を奏でたということです。前者は、すでにホメロスが「ムーサ九人説」を取っていたと主張する根拠で、また後者は、すでにホメロスにもムーサの名前だけではなく神話も存在していたという証拠になっています。しかし現代では、この両方の説とも否定されています。なぜならば、『オデュッセイア』の最終巻の第24巻自体がヘシオドス以後に加筆されたものであるという説が主流になっているからです。すなわち、ホメロスから百年以上後のヘシオドスがムーサ神話を確立した後、それに従って『オデュッセイア』の最終巻はホメロス以外の者によって加筆された、と信じられているのです。

 

ヘシオドスのムーサ

 ムーサ神話を確立したのは、紀元前750年から650年の間に活躍したヘシオドスです。彼は、『神統記 (Theogonia)』の中で、「オリュムポスの麓ピエリアの里で、ムネモシュネ(Mnēmosynē、記憶という意味の単語の擬人化)がゼウスと九夜続けて交わり九人の女神を産んだ(54~57)」と描いています。それにより、ムーサ女神は九人であるとする説が定着しました。さらにヘシオドスは、その作品の77行目から79行目にムーサ姉妹のカタログ(目録)を載せています。最初に呼ばれたムーサは「クレイオ」で、二番目が「エウテルペ」、そして「タレイア」、「メルポメネ」、「テルプシコレ」、「エラト」、「ポリュムニア」と続いて、「ウラニア」を8番目に上げたのち、最後に「カルリオペ(カリオペ)」の名を上げて、「全員の中で最も秀でた女」と呼んで、その姉妹の中でカルリオペをリーダーだと言っています。

  以上のように、ムーサ女神の9人説と命名はヘシオドスによるものでしたが、役割分担が明確になるのはローマ時代になってからだと言われています。ただし、ヘシオドスの命名は、ギリシア語名詞を擬人化した要素が強いことは確かで、彼の頭の中には、それぞれのムーサ姉妹の具体像が描かれていた可能性はあります。

 

 ヘシオドスが定めたムーサ女神の名前とその語源的意味とローマ時代に確立した役割分担を整理しておきましょう。

古代ローマ時代の作品(作者不明)ルーブル美術館所蔵

 

カルリオペ (Kalliopē)「叙事詩のムーサ」〈kalli:美しい+ops:声〉

クレイオ (Kleiō) 「歴史のムーサ」〈kleō: 誉め称える〉

エウテルペ (Euterpē)「抒情詩のムーサ」〈euterpēs: 喜びを与えること〉

タレイア (Thaleia) 「喜劇のムーサ」 〈thaleia: 満開の、華麗な〉

メルポメネ (Melpomenē) 「悲劇のムーサ」〈melpō: 踊り歌う〉

テルプシコレ (Terpsikhorē) 「舞踏のムーサ」〈terpsis: 楽しい+khoros: 合唱隊〉

エラト (Eratō) 「恋愛詩のムーサ」〈eraō: 愛する〉

ポリュムニア (Polymnia) 「讃歌のムーサ」〈polys: 沢山の+hymnos: 讃歌〉

ウラニア (Urania) 「天文のムーサ」〈Uranos: 天空〉

 

 ヘシオドスは、現代に伝わるムーサ組織の創始者です。そして彼も彼自身の作品『労働と日々』の冒頭で、「歌によって栄光を与えるピエリアのムーサたちよ、ここへ来て、汝らの父ゼウスについて語ってくれ」と祈願文を詠んでいます。

 

ウェルギリウスのムーサ

 ホメロスから始まりヘシオドスによって確立されたムーサ神話と女神たちへの祈願文は、ギリシア文学の直系ローマ文学の詩人たちにも、当然のごとく引き継がれました。そして、ホメロスの後継者ウェルギリウスにより祈願文という叙事詩的様式は確立されと言っても過言ではないでしょう。ウェルギリウスは『アエネイス』の序歌の中に次の様な祈願文を挿入しています。

 

 戦いと勇者を私は歌う。その男は、まず初めにトロイアの岸からイタリアへ神意によって逃れ、ラウィニウムの浜へやって来た。・・・ムーサよ、その訳を私に告げてくれ。なにゆえに摂理は損なわれ、なぜ神々の女王は憤って、敬神の心に篤い男をそれ程まで不幸に追いやり、それ程まで苦難に耐えさせようとしたのか。天の神々の胸に、それ程の怒りが存在するのか。(『アイネイス』第1巻1~11、筆者訳)

 

 このウェルギリウスの祈願文は、ムーサへの呼びかけを最初の行ではなく、中程の8行目に置いていること以外は、ホメロスの形式にそっています。ただ、ギリシアの詩人とローマの詩人の大きな違いは、ムーサ女神の「現住所」です。ホメロスは、「私に告げよ、オリュムポスに家を持つムーサたちよ(第2巻484、第11巻218、第14巻508、第16巻112)」と、ムーサの住処が「オリュムポス」であると言っています。ヘシオドスは、「ピエリア」と言っていますが、その地はオリュムポスの麓にある山里なので、ホメロスの指摘した場所と同じです。しかし、ウェルギリウスは「さあ今、女神たちよ、ヘリコンを開けよ(Pandite nunc Helisona, deae: 第7巻641と第10巻)」と詠んで、ムーサの住所を「オリュムポス山」から「ヘリコン山」に変更しています。オウィディウスも同様に、『転身物語』で「乙女(ムーサ)たちの住処ヘリコン(virgineus Helicon: 第2巻219、第5巻254、など)」と書いています。

 

古代ギリシア地図と五大霊山

 

ダンテのムーサ

 古典ローマ文学が古代ギリシア文学の嫡子であるならば、西洋ルネサンス文学は、ローマの嫡子であり、ギリシアの孫に当たります。そしてダンテは、祖父ギリシアの顔を全く知らずに、父親ローマだけに育てられた子供です。そのことは祈願文の用法にも如実に現れています。先述したムーサがアンピオンを助けてテーバイの城壁を築いた逸話は、ギリシア神話を基にしてローマ詩人ホラティウスが創作した詩文をダンテが採用したものでした。

 『神曲』の『地獄篇』、『煉獄篇』、『天国篇』の3篇には、それぞれ2つずつの祈願文が挿入されています。そのすべてに目を通しておきましょう。

 

『地獄篇』の祈願文

 『地獄篇』には、アンピオン逸話から創作した祈願文の他に、ダンテが巡礼者となって地獄巡りの旅に出る覚悟を決める場面の第2歌に次の様な祈願文が挿入されています。

 

 おお、ムーサたちよ、おお卓越したさ詩才よ、今こそ私を助けてくれ。私が見たことを書き留めた記憶よ、ここでこそ汝の偉大さを示すべきだ。(『地獄篇』第2歌7~9、筆者訳)

 

この詩文は、古典様式の祈願文としては、簡潔すぎて凡庸な表現になっています。しかし少し深読みをすれば、かなり有意義な読解が可能になります。

 詩人は、日常で「見たこと」、「感じたこと」、「学んだこと」など過去の経験を蓄えた素材倉庫というものを持っていて、詩を作るときその倉庫から必要な素材を取り出して創作するものです。ダンテは、その素材倉庫のことを、「私が見たことを書き留めた記憶 (mente che scrivesti ciò ch’io vidi)」と表現しています。また、ダンテは、その素材倉庫のことを、『天国篇』(第23歌54)では、「過去を記録する本 (libro che ’l preterito rassegna)」と呼び、それをダンテ研究者たちは「記憶の本」と名付けています。そして、その記憶の本から素材を引き出すのを助けるのがムーサであると、ダンテは考えているようです。それゆえに、ムーサ女神と記憶は密接な連関を持っているので、「過去を記録する本」の詩句に続いて、次の様なムーサの直喩が描かれています。

 

 ポリュムニアとその姉妹たちによって、この上なく甘い乳でこの上なく豊かに育て上げられた言葉が私を助けて、あの聖なる微笑と、その微笑が聖なる容姿をどれほど輝かせたかを讃歌しても、真の美しさの千分の一にもならないであろう。(『天国篇』第23歌55~60、筆者訳)

 

 先に見たように「ポリュムニア」とは讃歌を司るムーサ女神で、そのムーサが指揮を振るって他のムーサたちと奏でる歌は、とうぜん「讃歌」です。そして、その詩の女神たちを以てしても描くことのできない「聖なる微笑 (santo riso)」と「聖なる容姿 (santo aspetto)」の持ち主とは、ベアトリーチェを指しています。さすがに天国で出会ったベアトリーチェの美しさは、ダンテが昔から蓄えてきた素材倉庫には在庫がなかったのでしょう。しかしダンテは、詩作という行為と「記憶 (mente)」という機能を関連したものと考えていることは確かです。ダンテがヘシオドスの『神統記』を知っていたという可能性は極めて低いと言わざるを得ません。しかし、オウィディウスが『転身物語』の中で、ムーサ姉妹のことを「ムネモシュネの娘たち」という意味の「ムネモニダエ (Mnemonidae)」と呼んでいますので、ダンテは、母親ムネモシュネ(Mnēmosynē)の名前がギリシア語の「記憶」という意味であることをしていた可能性はあります。

 

『煉獄篇』の祈願文

 ダンテは、『煉獄篇』の中でも2箇所で祈願文を挿入しています。最初のものは「第1歌」の冒頭で、地獄を抜けて煉獄山を登ろうとする直前に、次の様な表現の祈願文が挿入されています。

 

  ここで、聖なるムーサたちよ、私はあなたの下僕ゆえ、死の詩を生き返らせよ。そしてまた、カルリオペよ、少し起立して、私の歌にあの時の調べで伴奏してくれ。悲惨なピエルスの娘たちが衝撃を受け、許しの望みが絶たれたあの調べで。(『煉獄篇』第1歌7~12、筆者訳)

 

 ここでは、「聖なるムーサたち (sante Muse)」と複数形で呼びかけた後、9人の姉妹の一人で一般的には叙事詩を司るムーサとされるカルリオペに、特別に祈願をしています。そして「あの時の調べで伴奏する (seguitando ・・・ con quell suono)10」とは、マケドニア王ピエルス(Pierus)の娘(Pierides)たちと歌の勝負をして勝利した時のカルリオペの歌の技を求めているのです。そして、その歌合戦の模様は、オウィディウスの『転身物語』に描かれています。

 

歌合戦の模様(『転身物語』第5巻294~678の要約)

 マケドニア王ピエルスの9人の娘は、同じく9人姉妹のムーサたちに歌の勝負を挑んで、こう言いました。「女神さんたち、もし自信があるなら、私たちと歌比べをおやりよ。声も節回しも、あなたたちに劣らない。人数も同じだからね。あなたたちが負けたら、ボイオティアとヘリコン山の泉から立ち退きなさい。私たちが負けたら雪に覆われたオアエオニアの山々を明け渡してあげる。」そう言って、ピエルスの娘たちは、神々を蔑む歌を歌いました。それに対して、ムーサたちは、カルリオペ独りにこの歌合戦を引き受けてもらうことにしました。カルリオペは、琴の調べに合わせて、プルートの恋やケレスとプロセルピナの話などを歌いました。審判員の妖精たちは、ムーサの勝利を宣言すると、ピエルスの娘たちは、さんざん悪態をつきました。カルリオペは、怒って、「歌合戦を私たちに挑んだだけでも罰を受けるに値するのに、加えて悪口までつくとは。私たちの我慢にも限度があります」と言いました。そして、ムーサの怒りのために、ピエルスの娘たちは「森に住む大声で喧嘩する鳥カササギ (nemorum convicia picae)」に転身してしまいました。

 

 『煉獄篇』の二つ目の「祈願文」は、天文を司るムーサの中のウラニアに祈願を捧げ、次の様に描かれています。

 

 おお、聖く尊い乙女らよ、私は、あなたたちのせいで飢え、冷え、不眠に耐え忍んだのだから、あなたがたの報酬を要求するだけの理由がある。さあ今、ヘリコンの泉は私のために水を汲むべきだ。そしてウラニアは彼女の合唱隊と協力して、考えることさえ難しいことを詩にする私を助けるべきだ。(『煉獄篇』第29歌37~42、筆者訳)

 

 この祈願文はムーサ全員を指して「聖なる(sacro)」と「聖なる(santo)」の同義語の合成語を使って「聖く尊い乙女たち(sacrosante Vergini)」と先ず呼びかけて、次にその女神たちの霊山ヘリコンに言及して霊感を求めています。ただし、この箇所では天文を司るムーサ「ウラニア」の名前を出しているのですが、その根拠と必然性は曖昧だと言わざるをえません。推測の域を出ませんが、ヘシオドスの『神統記』では、ムーサ姉妹の序列または誕生順は、「すべての中で最も秀でた娘」と呼ばれたカルリオペが長女だと推測できます。また、残り8人の中で最後に名前が上がっていたのはウラニアなので、その女神が末妹と判断できます。そして、ダンテの『煉獄篇』に使われている二つの祈願文は、最初のものがピエルス王の娘たちとの歌合戦に勝利した長姉カルリオペの名前が出され、最後の祈願文には末妹ウラニアの名前が出されています。ということは、「長姉」と「末妹」の名を上げることによって、ムーサ九人姉妹全員を総称したのではないかと考えられます。

 

『天国篇』の祈願文

 『天国篇』にも2箇所で「祈願文」が使われています。最初の文は、『煉獄篇』と同様に、初篇の冒頭部分に挿入されています。それは『神曲』の中で最も長い行数から成り立っている祈願文で、次の様に表現されています。

 

  ああ、優れたアポロンよ、この最後の任務のために、あなたの最愛の月桂樹を受けるに値するような器に私をしてください。今まで〔『地獄篇』と『煉獄篇』〕は、パルナソスの峰の片方で十分でしたが、まだ残っている闘技場に入るには、両方の峰を必要としています。私の胸の中へ入れ、そしてマルシュアスを彼の四肢の鞘(さや)から引き抜いた時のあなたの霊感を私に吹き込みたまえ。おお、聖なる徳よ、もし、私の頭の中に刻まれた恵みの王国のおぼろげな影をあなたの助けで書き表すことができるならば、私はあなたの愛木の下へ行って、その葉を冠にするのを見るでしょう。詩の題材とあなたが、私をそれ(=桂冠)を受けるに相応しくするでしょう。(『天国篇』第1歌13~27、筆者訳)

 

 この祈願文では「おお、優れたアポロンよ (O buono Appollo)」と、詩神ムーサではなく太陽神の名を上げています。そして「最後の任務 (ultimo lavoro)」とは、『天国篇』の執筆を指していることは言うまでもありません。また「月桂樹 (alloro)」とはアポロンの神木であり、「最愛の (amato)」と形容することによって、クピド(ギリシア名エロス)の恨みをかったアポロンとダフネの神話を連想させています。まず、その神話を簡潔に解説しておきましょう。

 

 弓の名手であるアポロンは、同じく弓を携えたクピドを馬鹿にしたので、怒ったクピドは、恋を追い払う矢と恋を生み出す矢を持ってきて、前者をダフネに、後者をアポロンに射ました。すると、アポロンには恋心が起こり、恋を嫌うダフネを追い掛けました。ダフネは、どこまでも逃げましたが、いよいよ捕らえられる瞬間に月桂樹に転身しました。それ以来、月桂樹はアポロンの神木になりました。(オウィディウス『転身物語』第1巻452~567を参照)

 

 上に引用した祈願文には、芸術・学芸の神としてのアポロン神話がもう一つ言及されています。それはマルシュアスとの逸話で、その概要は次の様です。

 

 ミネルウァ(ギリシア名アテナ)女神は笛を発明しましたが、それを吹くときに顔が醜くなるので捨ててしまいました。それを半人半獣神サテュロス族のマルシュアスが拾い、吹き方を覚えて笛の名手になりました。そして、その獣神は、ムーサたちを審判員にして、勝った方が相手を自由にするという条件でアポロンに勝負を挑みました。しかし、マルシュアスは敗れたので、アポロンによって身体中の皮を剥がされて傷だらけなり、しかも筋肉や内臓や血管までむき出しになってしまいました。(『転身物語』第6巻382~400を参照)

 

 以上のように、前述の祈願文には、ダフネとマルシュアスに関わった二つのアポロン神話が挿入されています。しかし、その祈願文では、ダフネの名前は出ていませんので、「最愛の」という形容詞から連想されるだけです。実際に重要なのは、月桂樹が古代ギリシア・ローマ時代から継承している「優れた詩」の象徴であるという点です。そして地獄と煉獄を描いてきたダンテは、最後の『天国篇』の創作を「まだ残された闘技場 (aringo rimaso)」と呼び、その完成には、勝負を挑んだマルシュアスの手足を身体からバラバラに引き抜いてしまう程の激しさが必要だと感じていたのでしょう。まさにこの祈願文は、誰も試みたことのない天国を描写するための覚悟の程を示したものです。そしてさらに、ダンテは、その月桂冠を授けられるに「相応しい器 (fatto vaso)」にしてほしいと祈願しているのです。

 

『パルナッソス』(ラファエロ作)

アポロンを中央にしてムーサたちが周りを囲み、その外に、古代ギリシア・ローマやルネサンスの詩人たちが談笑しています。

 

 ギリシア・ローマ神話では、アポロンは太陽神であると同時に、医術、弓術、予言などを司る神でもあり、また学芸の神としてムーサたちを束ねる上司でもあります。そのことを考慮すれば、『地獄篇』と『煉獄篇』ではムーサに祈願を捧げてきたダンテが、いよいよ『天国篇』の冒頭で、アポロンに祈願の対象を変えたとしても違和感はありません。しかし、ホメロスから続く伝統的な祈願文では、ムーサ以外の名前を挙げて祈願することは「慣例破り」です。おそらく、それはダンテの創案によるものだと言えるかも知れません。

 

 『天国篇』のもう一つの祈願文すなわち『神曲』の最後のものは、天国十界のおよそ中央に位置する第5天の火星天で使われています。

 

 おお、神聖なるペガセアよ、汝らは才能に栄光を与え、そして長い命を与える。都市や王国も汝のお陰で不朽になるが、どうか汝の光で私を照らせ。そして私が観念として描いたことに汝の光を当ててくれ。汝の力をこの短い詩句に現したまえ。(『天国篇』第18歌82~87、筆者訳)

 

 この『神曲』最後の祈願文では、またムーサへの呼びかけに戻っています。これまでは、ただ単純に「聖らかなムーサたちよ (sante Muse)」、「ご婦人方よ (donne)」、「聖く尊い乙女らよ (sacrosante Vergini)」などと呼んでいましたが、この箇所ではムーサを「神聖なるペガセアよ (diva Pegasea)」と別名で呼んでいます。「ペガセア」とは、ムーサとピエルスの娘たちとの歌合戦の神話に由来した名称で、「ペガサス(天馬)の女」という意味のムーサの別名なので、前述の『煉獄篇』で使われていた二つの祈願文と関連しています。その歌合戦が激しくなった時、ヘリコン山も加熱して腫れあがり天まで届きそうになりましたので、ネプトゥヌス(ギリシアのポセイドン)はペガサスに命じて、山を蹄で打たせて元の大きさに戻しました。そして、その蹄の跡から泉が湧き出て、その水は詩的霊感を与えると信じられるようになりました。

 ダンテ自身が「ペガセア」と単数形で使用しているので、その言葉に特定のムーサを想定していたのか、それとも九人のムーサの総称として使用したのかは不明です。しかし、その単語が単数形であることに拘泥すれば、ここで「ペガサスの女」と呼ばれているのは、ムーサ姉妹を代表してピエルスの娘たちと競った長女カルリオペを指していると解釈するのが最も自然だと言えましょう。

 

ペトラルカの祈願文

 

  最後に、ダンテの祈願文の独創性を明らかにするために、ペトラルカの祈願文の用法を見ておく必要があるようです。

 ペトラルカ(Francesco Petrarca、1304~1374)は、ダンテの一世代あとの詩人です。彼の父親は、ダンテと同じ白党に所属して政治活動を行っていましたので、1302年の黒党によるクーデターによってフィレンツェから国外永久追放されました。それゆえに、ペトラルカが父親の党友であったダンテに親近感を持っていて、何らかの影響を受けたとしても不思議ではありません。ただし、ペトラルカは、彼の親友ボッカチオ(Giovanni Boccaccio、1313~1375)がダンテに対して抱いていたような尊敬の念を、その先輩詩人に持っていなかったと言われています。それゆえに、ペトラルカは、抒情詩は俗語(イタリア語)で書きましたが、叙事詩の創作には俗語を使うことを潔しとしませんでした。それゆえにペトラルカは、『神曲』に対抗する意図を持ってダンテを凌駕するためラテン語による叙事詩を創作しようとしました。その彼の叙事詩とは、古典ギリシア・ローマの詩作法を手本にして、第2ポエニ戦争の英雄スキピオ(Scipio Africanus、前236~前184)の活躍を題材にした『アフリカ』という作品でした。その叙事詩の冒頭部は、ダンテの『神曲』の詩作法を無視して、次の様なウェルギリウス風の序歌と祈願文で開始されています。

 

  偉業において堂々たる、戦いにおいて豪胆なる男について、ムーサよ、私に告げてくれ。イタリア軍により征服された気高いアフリカが、初めてその男に永遠の名声を与えた。私は祈る、私の甘き調べの救い主である姉妹たちよ。もし私があなたたちに奇跡について歌うならば、私がヘリコン山から汲み出される泉を飲むことを許したまえ。さて、田園の友たちよ、牧場と泉、人気の無い草原の静寂、川と丘、日当たりの良い森の憩い、それらのものを運命女神は私に蘇らせた。どうか、汝らの歌と霊感を、汝らの詩人に回復させよ。

そして、あなた様よ、世界で最も確かな希望よ、至高の偉業よ、私たちの時代は、古代の神々や地獄を征服した勝利者としてあなた様をお迎えします。そして、汚れなき肉体に刺された五つの大傷を見ます。さあ、至高の父よ、どうかご助力を。もし詩歌があなた様を喜ばせるならば、私はパルナソスの山頂から敬虔な歌を、あなた様のためにたくさん持ち帰りましょう。また、もし歌がお気に召さないのなら、涙を持ち帰りましょう。その涙は、むかしあなた様のために流されるべきだったのに、―― 私の心は騙されていたのだが ―― 私が長いあいだ温存しておいたもの。(ペトラルカ『アフリカ』第1巻1~18、筆者訳)

 

 上の祈願文の前半部分は、直接にムーサへの祈願から開始されているので、典型的なギリシア・ローマ古典叙事詩のものです。ただし、作品全体としてはウェルギリウスを模倣して書かれていると言われていますが、序歌(兼祈願文)だけを見ればホメロスの様式に従って、ムーサへの呼びかけから始められています。確かに前半部は、何の特徴もない詩神への古典的祈願法ですが、後半部はペトラルカの独創性が発揮されています。

 上の祈願文の前半部分は、直接にムーサへの祈願から開始されているので、典型的なギリシア・ローマ古典叙事詩のものです。ただし、作品全体としてはウェルギリウスを模倣して書かれていると言われていますが、序歌(兼祈願文)だけを見ればホメロスの様式に従って、ムーサへの呼びかけから始められています。確かに前半部は、何の特徴もない詩神への古典的祈願法ですが、後半部はペトラルカの独創性が発揮されています。

 その後半部には、固有名詞が使われていませんが、文脈的にみてムーサ女神でないことは明らかです。その祈願対象は、「そしてあなた (Tuque)」という呼びかけから始められて、「世界で最も確かな希望 (certissima mundi spes)10~11」や「至高の偉業 (superum decus)11」や「神々と地獄の征服者 (victor Deorum et Herebi)11~12」と呼ぶことによって、古典神話ならば最高神ゼウス(ローマのユピテル)を暗示している可能性もあります。しかし、読者は、「五つの大傷 (quina ・・・ larga ・・・ vulnera)12~13」という文言によって、それは明らかにイエス・キリストを指していることに気付き、その意外性に驚きを覚えることになります。

 

五つの傷が描かれた「三位一体図」(ボッティチェリ作)

 

  以上のように明らかにイエスと判別できる対象に対して祈る祈願文は、ペトラルカを除いて他には見当たらないことでしょう。ペトラルカは、直接、イエスに祈願するほどキリスト教に対して敬虔であったと判断できるかも知れませんが、むしろ真実はその反対だと言えます。ダンテの『神曲』は、誰もが認める典型的なキリスト教の宗教詩ですが、イエスに対して直に詩的霊感を求めるような〈畏れ多い〉行為は行っていません。古典文学者ハイエット(Gilbert Highet)が『古典の伝統 (The Classical Tradition)p.85』の中で指摘しているように、ペトラルカは、ダンテと同様にキリスト教徒ではありましたが、死後の世界とかキリスト教的道徳や神学上の問題というものには興味を持っていなかったようです。すなわち、ペトラルカはダンテほどキリスト教に対して敬虔ではなかったので、イエスに対して直接祈願するという大胆で畏れ多い行為を行うことができたのかも知れません。しかし、たとえそうだとしても、もしダンテが、祈願は詩の女神ムーサに行うものという因習を破って、アポロンへの祈願文を作っていなかったならば、さすがのペトラルカも「イエス・キリスト」に祈願するという発想は思い浮かばなかったことでしょう。すなわち、アポロンへの祈願文は、ルネサンスを経験した現代人からダンテを見れば、問題視する程のことではないかも知れません。しかし、この慣例破りは、古代ギリシア・ローマ文学から見れば、「コロンブスの卵」のように「当たり前」ではあっても画期的な発想なのです。