あの世の話 | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

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今年もお盆が近づいてきましたので、今回は、この世ではなくて「あの世」のことをお話しします。



 上のギリシア語の日本語訳は、「この世は舞台、人生は登場、あなたは来た、見た、去った」です。この言葉は、デモクリトス(紀元前470年頃~370年頃)哲学の神髄をついています。「この世界は生を営む場所で、生まれるということはこの世界に現れるということで、そこで人生を全うして、この世から消えていく」というのが人間の一生です。消えた後は何になるかという問題に対して、この哲人は、人間の形が消えて「原子」という物体に分解してしまう、と結論付けました。それが唯物論の元祖といわれる所以です。17世紀にイギリス・フランス唯物論が出るまで、デモクリトスの哲学は忘れ去られていました。ではその間は、死んだあと人間はどこへ去っていたのでしょうか。それは「あの世」という「この世」からは肉眼では見ることができない世界でしたので、詩人たちは心眼や霊感で感じた図像を想像力を使って具象化してきました。
 「あの世」とは、言うまでもなく「この世」に生きた者が死んでから行く所で、「彼岸」とか「冥土」とかと呼ばれ、文学ではもっぱら「冥界」という用語で呼ばれる世界です。もちろん私個人は、その世界へは行ったことも見たこともありません。あの世だけは、絶対に行くことが拒否できないのに、絶対に一方通行なので、行って帰ってきた人には、まだ直接に出会ったことはありません。しかし、あの世へ行って戻ってきた人の話は知っています。ホメロスのオデュッセウス、ウェルギリウスのアエネアス、そして『神曲』の中のダンテがその人です。それら三人の体験談をもとに、あの世の話を致しましょう。

オデュッセウスの冥界までの旅

 実は、生きたまま「あの世」へ行って、また生きたまま「この世」に帰って来た話は「冥界訪問譚(カタバシス)」といって、西洋文学ではポピュラーな表現形態です。これから話します「あの世の話」は、『オデュッセイア』、『アエネイス』、『神曲』の中の「冥界訪問譚」に描かれた死後の世界と仏教の死出の旅から抽出したものです。
 冥界は、行って帰って来た人が誰もいない以上、何処にあるかを知っている人もいません。しかし冥界があると想定された場所は、時代と共に移動しています。冥界を記録した西洋で一番古い文書は、紀元前8世紀ごろ書かれたホメロスの『オデュッセイア』です。
 オデュッセウスは、12隻の船団でトロイアから故国イタケへの帰還の航海に出ました。ところが帰る途中、トラキアに立ち寄った後、キコネス族のイスマロスや蓮の実喰らいのロトパゴス族や単眼巨人キュクロプスとの冒険を経て、風神アイオロスの島で歓待を受けました。帰りの土産に嵐を封じる袋をもらいましたので、順調に航海をしてきました。ところが、故国を目の前にしたとき、家来のひとりが袋を開けてしまったので、嵐に遭い風神の島に逆戻りしてしまいました。今度はその島から追い出され、着いた所が人食い巨人ライストリュゴネスの国でした。巨人族に襲われて命からがら逃げ延びて、ようやく七日目に、魔法によって人間を獣に変えてしまうキルケ女神の島に辿り着きました。ヘルメス神から教わったモーリュ草の薬効で魔法を封じて、キルケと親密になりました。一年間の快楽の日々を過ごしましたが、忠実な部下の進言によりイタケに帰る決心をしました。キルケもそれを認め、帰国の前に冥界へ行って予言者テイレシアスから帰国のための注意事項を聞くよう勧めました。そこでいよいよ、冥界訪問が始まります。

オデュッセウスの冥界訪問譚

 「誰も黒い船で冥界へ行った者はいないのだから、誰がこの旅の案内をしてくれるのか」というオデュッセウスの問いに、キルケは次のように答えました。

 「けっしてお船の案内者につき、人がいないなどお気遣いには及びません、帆柱さえ押し立てて、まっ白な帆を張りひろげてから、坐ってさえおいでなされば結構なので、北風の息吹が船を運んでくれます。しかしいよいよお船に乗って、大洋河(オーケアノス)の流を渡りきったときに、その場所は雑草の茂る岸辺で、またペルセポネイアの苑といわれ、丈の高い河柳や、実をいたずらに投げ落とす柳が並ぶそのところ、深い渦を巻くオーケアノスのほとりに船を着けるのです。そして自身は、冥王(アイデース)の昏く湿っぽいお館へとおいでなさいませ。このあたりで、アケローンの沼へと「燃える火の河(ピュリプレゲトーン)」やまた「号泣の河(コーキュートス)」が流れ込むのが、これはまったく「憎悪の河(ステュクス)」の分かれでして、大岩の上で両つの河が、轟々と鳴りたてながら合流している」(『オデュッセイア』第10巻505~515、呉茂一訳) 

ホメロス冥界の場所

 このキルケの言葉をもとにして、何人かのホメロス研究者が冥界の場所を推測しています。今のところ上の地図に示しました番号1から番号4の場所が有力です。しかしキルケの島の場所に関しても判明していない状態で冥界を特定することは不可能です。「オケアノスの流を渡りきった」場所であれば、ジブラルタル海峡を抜けてオケアノスを横断した先にある番号4の「彼方の国」と考えることも可能ではないでしょうか。

楽園エリュシオン

 ホメロスが描く世界では、まだ神話が十分に体系化されていなかったので、冥界の組織・構造も明確ではありません。例えば「楽園(エリュシオン)」という場所についてみても、この次に見ることになりますウェルギリウスでは冥界の一区画と明確に区分けされていますが、ホメロスでは曖昧です。オデュッセウスの息子テレマコスが父を探し求めてメネラオスのもとを訪れた時、海神ポセイドンの従者プロテウスがエリュシオンについて次のように語ります。

 「ゼウスが護り立てられるメネラーオスよ、神々の仰せによると、そなたは馬が草をはむアルゴスで生を終え、寿命をはたすはずではなく、世界の涯のエリュシオンの野へ、不死である神々たちはそなたを送り届けるであろう。そこは金髪のラダマンテュスが治めるところで、人間にとり生活のこの上もなく安楽な国とて、雪もなく、冬の暴風雨も烈しからず、大雨とてもかって降らぬ、年がら年じゅうオケアノスが、音高く吹く西風のつよい息吹きを送りこして、人間どもに、生気を取り戻させるという」(
『オデュッセイア』第4巻561~568、呉茂一訳)

 ギリシア神話では、天上界は神のみの領域なので、死後の人間が行くことのできる唯一の場所は冥界です。そしてこの記述から冥界の中でも最も居心地のよい場所がエリュシオンであることは分かります。しかしホメロスにはこの箇所以外にエリュシオンのことを記述した表現がないので、その具体的イメージを描くことは困難です。しかもホメロスが描く原初的なギリシア神話には、キリスト教や仏教のような「地獄」という概念がないので、冥界とエリュシオンとの明確な線引きができません。たとえば、冥界訪問のときアキレウスに出会ったオデュッセウスは、長く漂流して故国に帰ることができない自分の難儀を嘆いて、次のように言います。

 「アキレウス、あなたより幸多い者はかつてなかったし、今後もないであろう。むかし、まだあなたが生きている間は、われらアルゴス(ギリシア)人は神のごとくあなたをうやまい、そして今この冥界にあっては、あなたは死者の間の王だ。それゆえ、アキレウスよ、死んだとて嘆いてはいけない」(『オデュッセイア』第11巻482~486、高津春繁訳)

 このオデュッセウスの言葉から、アキレウスは冥界においても恵まれた境遇にあることが推測できます。当然、アキレウスはエリュシオンに定住して安楽に生活していると想定できますが、彼はオデュッセウスに答えて次のように言いました。

 「はえあるオデュッセウスよ、死をつくろうことはやめてくれ。すべての、命のない死人の王となるよりは、生きて、暮らしの糧もあまりない土地をもたぬ男の農奴になりたいものだ。」(第11巻488~491、高津春繁訳)

 死そのものに対しても、死後の世界の冥界に対しても美化しない思想がホメロスにはあるようです。アキレウスは『イリアス』の主役ですが、彼はその中でアガメムノンのことを「冥界の門と同じくらい嫌いだ(第9巻312)」と言って、参戦を拒否して陣屋に引き籠もってしまいました。まさしくホメロスにとって冥界は忌み嫌う存在であったことが明らかです。その反面、陰鬱で畏怖の対象である冥界の中にあって、唯一の安楽の場所として「エリュシオン」が、太古の昔から想定されていました。しかし、ホメロスの時代にはまだ明確なイメージとして確立していなかったようです。

アエネアスの冥界訪問譚

 ホメロスの後継者はウェルギリウスです。後継者といっても、時代的には700年も後で、国もギリシアからローマに移り、言語もギリシア語からラテン語に変わっています。ただ宗教だけは、神々の名前が若干違っていることを除けば、ほとんど同じです。参考のために神々の呼び名の違いを下に挙げておきましょう。



 ウェルギリウスは『アエネイス』の第6巻でアエネアスに冥界訪問をさせています。このローマ詩人の描く冥界は、ホメロスのものよりも格段に具象化が進み、1300年以上後にダンテが描いた『神曲』の『地獄篇』の基盤になりました。
 トロイアの滅亡時、国を脱出したアエネアスは、「新トロイア」をイタリアのラティウムに創建するため海を渡ります。その途中、シキリアのエリュクスに滞在している時、亡父アンキセスが夢枕に立ちました。イタリアに入る前に、クマエに住むアポロン神の巫女シビュラに案内してもらって、冥界いる父を訪ねて来るよう命じました。(アエネアスの航海の模様を知りたい人は、私のブログ『歴史はファンタジーでプロパガンダでした』をご覧ください)

冥界への入口

ローマの冥界入口

 ウェルギリウスは、冥界の入口をクマエの近郊にある火口湖アウェルヌスの近くの洞窟に想定していました。その洞窟は、「怪物のように口を大きく開き、険阻にして、黒い湖と森の闇とで守られて・・・この上を飛ぶ鳥は・・・翼を向けようとすることはできず・・・毒気が真っ黒な顎から吹き出し、上天の蒼穹へと立ち上っていた。(『アエネイス』第6巻236~241、岡・高橋訳)」
 アエネアスは、その洞窟からシビュラに先導されて冥界に入りました。先ず辿り着いたのはアケロン川の岸でした。恐ろしい顔をした渡し守カロンが死者たちを舟に乗せて向こう岸へ渡していました。その模様は次のように描写されています。

 「この者(カロン)に向かい、群衆のすべてが岸辺へと一目散に押し寄せていた。母も、夫も、命をまっとうして、いまは亡骸となった雄々しい英雄たちも、少年たちも、嫁ぐ前の少女たちも、親が見守る面前で火葬の薪にのせられた若者たちも。・・・彼らは自分たちをまず先に渡し船に乗せてくれるように願って立っていた。手を差し伸べて、向こう岸を思い焦がれていた。しかし、陰鬱な舟人が次々に乗せるのは近くにいる者たちだけで、他の者たちは遠くへ退けて、砂地の岸に入らせない。」(『アエネイス』第6巻305~316、岡・高橋訳)

 ウェルギリウスの描く冥界は、ホメロスよりも「地獄」のイメージが鮮明にはなっています。しかし、善人であろうと悪人であろうと、みな例外なく三途の川アケロンを渡し守カロンの舟で彼岸へ渡らなければなりません。葬儀をしてもらっていない死者だけは乗船を拒否されましたが、他の者は偉人であろうが凡人であろうが、みな平等に乗ることができました。そして死者たちは、早く乗せてほしいと願っていました。下に添付してあります絵は、ギュスターヴ・ドレ(1832~1883)の描いた「乗船を嫌がる亡者」と、ミケランジェロ(1475~1564)の「下船を嫌がる亡者」です。

三途の川の乗船場面

アケロン下船場面

 この上の二枚の絵画は、明らかに渡し守カロンが描かれていますが、しかしギリシア・ローマ神話を題材にしたものではありません。ダンテの『神曲』から題材をとったキリスト教の絵画です。『地獄篇』のアケロンは、地獄へ堕ちる亡者だけがカロンの舟に乗って渡る三途の川です。『神曲』の中では、ダンテは生きたまま、ウェルギリウスを先導者として冥界巡りをしますが、アケロンの河岸に着いたとき、「貴様ら、悪党どもの亡霊に災いあれ。天を仰げるなどとゆめゆめ望むな。わしは貴様らを永劫の闇の中、酷熱と氷寒の岸へ連行するためにやって来た」と、カロンは亡者たちを怒鳴りつけました。しかし、生きているダンテを見付けて「ところで、そこに立っているおまえ、生きているな、ここにいる死んだ奴らから離れておれ」と叱りつけました。立ち去らないのを見て、「他の道、他の港を通って彼岸へ渡るが良い。おまえには、もっと軽い舟のほうが似合いだ」と予言しました。(ダンテとカロンの遣り取りは『地獄篇』第3歌83~96、引用文は平川祐弘訳)
  ダンテが死んだ時は、アケロン川をカロンの舟で渡るのではなく、「他の道、他の港」から「軽い舟」に乗って渡ることになるようです。すなわち、冥界を天国と地獄に分類したキリスト教の世界では、地獄へ堕ちる者だけがアケロン川を渡り、天国へ行くことができる者は、別の経路を通るのです。その経路は、煉獄に通じている海路で、天使が操舵する舟に乗って渡ります。「『神曲』煉獄登山2.煉獄島の船着場」で詳しく説明します。

 話を『アエネイス』の冥界に戻しましょう。アケロンの川岸を出港したカロンの舟はコキュトス川を航行して冥界の本土に上陸しました。やはりウェルギリウスの描く冥界は、ホメロスのものには較べようがないほど恐怖の場所です。冥界の入口には、蛇の毛が逆立つ三つ首で吠えるケルベロスが番をしています。次は、ミノスが現世の罪状を情け容赦なく裁いています。そして亡者が逃げないようにステュクス大河が九重に取り巻いています。いろいろな霊魂に出会ったのち二手に分かれた道に到達しました。左へ行くと悪人たちが罰を受けて苦しんでいる冥界へ通じています。右の道は、冥界の王ディス(ギリシアのプルトンまたはハデス)が治める城市で、その先には楽園エリュシウム(ギリシアのエリュシオン)へと通じています。
 アエネアスと先導者シビュラの一行は、右手の道を進んだので、左手眼下に罪人たちの冥界の模様を眺めることができました。そこは三重の城壁に囲まれていて、炎のプレゲトンが堀となって回りを流れていました。とかくするうちに、二人はエリュシウムの門に着きました。その楽園の様子が次のように描写されています。

 「心地よい緑が満ちた浄福の森、幸福な住まいであった。ここでは、上空がより広く、緋紫の光で野を包み、住人は自分たちの太陽、自分たちの星を知っている。芝生の格技場で体を鍛える者がある。試合をして競い、黄土色の土俵で組み合っている。足で拍子を取って踊る者、歌を歌う者がある。裾の長い衣をまとったトラーキアの神官(オルペウス)も、調べに合わせて七つの音階を引き分けている。同じ音階をいま指で弾いたと思うと、今度は象牙の撥で響かせる。」(『アエネイス』第6巻638~647、岡・高橋訳)


日本仏教の楽園

 ここで仏教の楽園に目を向けてみましょう。先ず『阿弥陀経』では楽園を次のように描写しています。

 「極楽国土には、金・銀・ルビー・水晶の四つの宝でできている七重の玉垣と七重の宝の網飾りと七重の並木が国中にある。また、極楽国土には七つの宝の池があって、八種の功徳を持つ水が満ちあふれて、池の底には金の砂が敷き詰められ、また四方には金・銀・ルビー・水晶の四宝でできた階道がある。その上には、金・銀・ルビー・水晶・シャコ貝・赤真珠・メノウで美しく飾られた楼閣がある。また池の中には車輪のように大きな蓮の花があって、青い蓮は青い光を、黄色い蓮は黄色い光を、赤い蓮は赤い光を、白い蓮は白い光を放ち、その香りは微妙で清らかである。その阿弥陀仏の国には、常に天の音楽が奏でられている。そして地面は黄金でできていて、昼夜六度、曼陀羅の花が雨のように降りそそぐ。」


 ローマの宗教も日本の仏教も、「楽園」は視覚だけではなく聴覚にも安らぎを与える場所でありました。しかし日本の宗教の中でも法華経を基盤とするものは、どちらかというと「あの世」よりも「この世」への志向が強く、現世の中に楽園を求めようとする傾向があります。『如来寿量品』に描かれている楽園は次のように現世の中に存在しています。

 「釈迦には無限の居場所があるが、未来永劫つねにこの世の霊鷲山(りょうじゅせん)にいる。そして衆生がこの世界に大火事が起こっているのを見るときも、釈迦の国土は安穏で、神々と人間で満ちあふれる。園林や諸々の神社仏閣は種々の宝珠に荘厳に輝き、宝石のような樹々には多くの華や果実が実り、衆生が楽しく遊ぶ場所である。天空では天人が鼓を打ち、いろいろな楽器を奏でている。また、曼荼羅華が雨のように仏と信者たちの上に降っている。」



輪廻転生観

 ギリシア・ローマ神話を基礎とする宗教も、仏教のいろいろな経典を基礎とする宗教も共通の楽園感覚を持っているようです。これら二つの宗教には共通して存在している生死観があります。それは輪廻転生観です。アエネアスたちがエリュシウムに入り、亡父アンキセスと再会して、一緒にレーテ川のほとりまで来ました。その川岸に無数の人々が群がっている光景を目にしました。アエネアスの疑問にアンキセスが次のように答えました。

 「この霊たちは、運命により、もう一つの肉体を授かる定めであるゆえ、レーテの川波のもとへ行き、煩悩を漱ぐ水と長い忘却を飲むのだ。・・・われわれは各自の霊魂に応じて耐え忍ぶ。そののち、広大なエリュシウムへ送られる。わずかな者のみが喜びの田野に達する。そうして、ついには、長い歳月を経て、時のめぐりが満たされ、こびりついた汚れが落ちると、あとに残るのは純粋な高天の感性、単一な天空の火だけとなる。このような霊はすべて、千年のあいだ時の車輪を回したのち、レーテの川岸へと神に呼び出されて大群衆をなす。もちろん昔の記憶はない。そうして、地上の蒼穹への再訪を繰り返す。肉体へと戻る欲望が芽生える。」(『アエネイス』第6巻713~751、岡・高橋訳)

 ローマ神話を基盤にした宗教や我が国の仏教のように「輪廻転生」を信じる信仰にとっては、この世への再生の方法が重要です。しかし一方、キリスト教では、永遠に地獄で苦しむか、とにかく天国に向けて上昇し続けるかしかありません。ダンテ『神曲』の『煉獄篇』のエデンの園にも忘却の川レテは流れています。しかしその川は前世を忘れて「無」にするための機能ではありません。ダンテは次のように描いています。

 「おまえが御覧の水は、息をついたり息を切らしたりする川のように、冷えて凝結した水分に養われる水脈から湧くのではなく、永久に渇くことのない泉から湧き出るのです。その泉はその二つの口から流し出しただけの水量を、神の意志によってまた再び得るのです。こちら側では罪業の記憶を人から消す力が、あちら側ではあらゆる善行の記憶を新たにする力が、流れとともに下るのです。川はこちら側でレテ、あちら側ではエウノエと呼ばれ、手前と向こうと両方の水を飲まぬかぎり利き目はありません。その味はあらゆる味に勝ります。」(『煉獄篇』第28歌121~133、平川祐弘訳)

 この世に生まれ変わるだけならば、前世のことをすべて忘れさえすれば済みます。すなわちリセットすれば良いわけです。しかしキリスト教のように天国へ昇ることになる霊魂はグレードアップしなければなりません。ダンテの場合は、忘却機能を持つレテ川の水を飲むだけでは十分ではありません。天国の住人に相応しい存在になる必要があります。純粋な善だけの存在になるためにエウノエ川の水も飲む必要があるわけです。「エウノエ」は、「良い心の」を意味するギリシア語‘eunous(エウヌース)’からダンテが造語した言葉であると言われています。まさしくレテ川とエウノエ川の両方の水を飲むことは、禁断の果実を食べる前のアダムとイブの無垢な状態になるということです。この世で行った善行に従ってランク付けされ、月天とか火星天とか水星天とかといった天国に、永遠に定住することになるのです。

煉獄島の煉獄山

 天国に住むことが許された人間の霊魂は、必ず煉獄の山を登ることによってこの世の7つの罪業をひとつひとつ削ぎ落として浄めなければ次のステージへは進めません。ダンテはそのひとつひとつのステージのことを、「コルニーチェ(cornice)」と読んでいます。英語では「テラス(terrace)」と訳され、日本語では平川祐弘氏は「環道」と訳し、野上素一氏は「円」と訳しています。下の挿絵は、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂にあるドミニコ・ミケリーノ(1417~1491)の絵画を背景にした煉獄界の7つの環道を示したものです。



 飽くまでもダンテの『神曲』によればの話です。天国へ行くことが許された死者は、全員がローマのテヴェレ川の河口で待っていると、天使が操舵する舟がやってきて煉獄島まで運んでくれます。煉獄山の麓から並んだ環道は、軽い罪業の順とみなすか、取り除き易い順とみなすかは読者の判断に任せましょう。まず最初の環道で浄めるのは「傲慢の罪」です。そして順次、上に登るにつれて、第2環道では「嫉妬の罪」、第3環道では「憤怒の罪」、第4環道では「怠惰の罪」、第5環道では「浪費の罪」、第6環道では「美食の罪」、第7環道では「色欲の罪」を浄めて、最後に猛火の中をを潜り抜けて「エデン」に辿り着きます。そしてしばしの間、その地上楽園で天国へ昇るまでの憩いのひとときを過ごします。

仏教の死出の旅

 では日本の仏教ではどうでしょう。偶然にも、煉獄の七つの環道とおなじく、仏教徒も、死後すぐに七つの関門を通過しなければなりません。それをまとめたものが下の図です。



 仏教徒は、死ぬとすぐ6日をかけて八百里の険しい漆黒の山道を登らなければなりません。800里といえばおよそ3200㎞ですから、6日で日本列島を一周以上歩くことになります。生前に足が悪い人も鈍足だった人も健康な足になっていて、時間までに歩くことができるので心配はご無用です。ただし葬儀の時、棺桶に入れた物は手荷物として持ち歩かなければならないので大変のようです。生前に好きだったということで分厚い服でも着せて葬ったら、その服を着て八百里の山道を登ることになります。一番重い荷物は「未練」でしょう。そして七日目に第1関門「秦広王の法廷」に到着します。
 第1法廷で審査を受ける時は、この世では「初七日」と呼びます。この法廷では書類選考だけだと言われています。法廷を出たところに三途の川という大河が流れていて、その川の向こうが冥途の本土です。三途の川の渡り方は三通りありました。法廷での書類選考により、良い評価の亡者は橋を渡りました。普通の亡者は浅瀬を、悪評価の亡者は濁流が激しく流れる所を渡りました。最近(平安時代以後)は渡し舟ができて、六文銭さえ払えば誰でも乗せてくれるようになったそうです。三途の川の向こう岸には懸衣翁(けんえおう)という老翁と奪衣婆(だつえば)という老婆がいて着ている衣服をすべて脱がせ、その衣服の重さで罪の重さを量ります。その結果が第2関門の「初江王の法廷」に報告されます。
 次は第2法廷で、この世では「二七日」と呼びます。この世でどれだけの生き物を殺傷したかを審査されます。次の第3法廷は、この世では「三七日」と呼び、宋帝王が邪淫の罪を裁きます。第4法廷は、この世では「四七日」と呼ぶ五官王の法廷で妄語の罪が裁かれます、さて、次の第5関門は大法廷で、閻魔大王が裁判官となって、この世で犯したすべての罪が白日の下に晒されます。まだ二つの法廷が残っていますが、罪はこの裁判所でおおかた決定されますので、この世では「五七日」と呼ぶと同時に「さんじゅうごにち」と呼んで特別重要な日と考えています。次の第6法廷の裁判官は変成王で、これまでの法廷の見落としをチェックします。ここでは再審が可能かも知れません。
 いよいよ最後の第7法廷になります。裁判官は泰山王で、最終判決が言い渡されます。この世では「しじゅうくにち」の忌明けと呼んで、遺族は「やれやれ」と緊張を解きますが、亡者に取っては最高の緊張状態を強いられます。そこには六つの鳥居があって、四十九日間の審査で特別優秀な亡者は色々な如来様が治めている「浄土」に通じる鳥居をくぐります。それなりに優秀な亡者は、浄土行きの再挑戦資格が与えられて「人間界」に転生する鳥居をくぐります。その他は、犯した罪業の大きさと重さに従って、順に「修羅界」、「畜生界」、「餓鬼界」へ通じる鳥居を抜けます。そしてどうしようもなく悪い評価の亡者は「地獄界」へ堕ちる鳥居をくぐります。
 仏教もキリスト教も死出の旅には七つの関門を通過しなければならないという共通点があります。ただ違っているのは、仏教では一つの関門を通過するのに7日ずつでよいのですが、キリスト教では、この世で犯した罪の重さだけ煉獄に留まることになります。ダンテが煉獄の第5環道から第6環道に昇る途中でローマの詩人スタティウスに出会います。彼は西暦96年に死んでいますので、ダンテが冥界訪問をした1300年にはまだ煉獄にいた訳です。するとスタティウスは1204年間、煉獄で生前の罪を浄めていたことになります。良かろうが悪かろうが死んだら四十九日で決着のつく仏教のほうが、せっかちな私には向いているかも知れません。ただし、いくつかの仏教の信仰では、しつこくあと三つの関門を設定しているものもあります。49日の死出の旅を終えたあと、さらに死んでから百か日目に「平等王の法廷」と、1年後の「一周忌」には「都市王の法廷」と、二年後は「三回忌」と呼ばれる「五道転輪王の法廷」を通過しなければなりません。地獄の七王に三王を加えて「十王」と呼びます。

なぜ、死者のために祈るのか?

 最近の日本人は、葬儀は立派にすることはあっても、七日ごとの七回の法要を軽視する人が多いように見受けられます。なぜ法要が大切なのかは、もうお分かりになられたと思います。死者が七日ごとに法廷に立つのです。死者は自分では申し開きが許されません。法要は死者が法廷を無事に通過出来るように願って、この世から生き残っている縁者が祈ることです。この様な生者と死者の関係は、仏教だけに関係したことではありません。『神曲』の中でダンテは、現世に帰ったら何かしてほしいことはないか、と亡者に尋ねます。するとヤコポという亡者が「もしも、あなたがロマーニャとカルロの間にある国を訪れるなら、私の重い罪を浄めることができるように、ファーノの人が私のために、十分祈ってくれるように、どうか頼んでください」と依頼します。すると次は他の亡者が近づいてきて「どうか善い憐れみで私の願いをきいてください。私はモンテフェルトロの出身のブォンコンテです。だが、ジョヴァンナも他の人も私を気づかってくれず、それ故、頭を垂れてこの者たちと進むのです」と訴えます。さらに亡者ピアが「あなたが上の世界へ戻ったとき、長い旅の疲れをやすめたならば、私のことを思い出してください」と懇願します。(引用文は『煉獄篇』第5歌からで平川祐弘訳)。亡者たちの願いに共通することは、この世の者が死者を思い出し、死者のために祈ることにより、浄罪界の旅が楽になり、進みも早くなりたいということです。(さらに「『神曲』煉獄登山7.現世からの霊魂のための祈り」を参照)
 日本のお盆は、外国人が不思議に思うほど国民的大行事です。お盆には地獄の釜の蓋も開くと言いますから、地獄で苦しんでおいでになるご先祖様を年に一回は楽にさせてあげようという気持なのでしょうか。現代の日本人は、浄土にいるのか、修羅界にいるのか、畜生界にいるのか分からないご先祖様のためにお盆の行事は盛大に行うのに、死後の七回の追善法要を厳格に行う人は少ないようです。穢土と呼ばれるこの世で、煩悩の塊の人間が、自分では良いことを行ったと自信を持っても、無垢無罪で一生を終えることは困難です。四十九日の旅をする死者にとって頼りにできることは、死後に開廷される七回の法廷ごとに、一人でも多くの親族・縁者が集まり、応援歌(お経)を歌い、生前を偲んでくれることです。浄土や天国に行くための障害は高いようです。私の知る限り、あの世のことを鮮明に描いているのはダンテの『神曲』だけです。次回からは、当分の間、『地獄篇』、『煉獄篇』そして『天国篇』について話します。