『神曲』煉獄登山2.煉獄島の船着き場 | この世は舞台、人生は登場

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煉獄の夜明け

 

 

 

   煉獄での初日の朝が明け始めました。その情景は次のように描写されています。

 

  陽はすでに水平線に姿を見せた、その子午線の頂点はエルサレムの上を通り、夜はそれと逆の空をめぐって、天秤宮(てんびんきゅう)の星を従えガンジス川から外へ去った、(この星は昼よりも夜が長い間は夜の手元を離れる)。こうして私がいた煉獄の島では、美しい曙の白くほの朱(あか)い頬が、時とともに燃えたつような柑子(こうじ)色に変わっていった。(『煉獄篇』第2歌1~9、平川祐弘訳)

 

  現代人の私たちが『神曲』を読む時つい忘れがちになるのですが、そこで描かれている天体の運行は、地球を中心にして太陽をはじめ全ての星々が回る天動説の動きです。さらに、地球を球体だとは考えていなかったようです。かといって、平面だと考えていたわけではありません。南極に位置している煉獄山に到着したとき、北半球では観ることができなかった「四つ星(Quattro stelle)」が見えました。その反面、北半球に見えていた「北斗星(‘Carro’大熊座)」は姿を消していました。ということは、確たる根拠があるわけではありませんが、ダンテが想定していた地球は「円盤型」であったと仮定すると『神曲』を理解するのに最も好都合だと言えます。しかも、太陽は円盤型地球の裏側を通ることはないので、必然的に太陽の動きは不自然にならざるを得ません。下に添付した「地球と太陽の運行図」を参考にして、上の詩句を読み返してみましょう。

『神曲』で想定された太陽の運行と12宮の配置図

インドを「東」、ジブラルタルを「西」と

見るのはヨーロッパ側から見た場合です。

間もなく分かりますが、煉獄側から見ると逆になります。

 

    ダンテが煉獄に到着して間もなく日の出の時刻になっていましたので、「太陽はすでに水平線に到達してしまっていました (Gia era ’l sole a l’orizzonte giunto)1」。ダンテが冥界訪問の旅をした時節は春分の日の頃でしたので、昼と夜の長さが同じでした。そして、太陽は円盤型の地球の周囲を回っています。それゆえに、煉獄が日の出の時刻であれば、「子午線の大円がエルサレムの上をおおっている (meridian cerchio coverchia Ierusalèm)2~3」ので、すなわち煉獄の正反対に位置しているので、エルサレムでは日没の時刻ということになります。ということは、煉獄とエルサレムとの中間地点にあるジブラルタルの時刻は「正午」ということです。そして「夜(la note)」は、「太陽の反対側を巡っています(che opposite a lui cerchia)4」。時間の経過と共に、上の添付図の外縁(夜と昼の円)の部分が回転すると考えれば良いでしょう。当然、夏至に近づくにつれて昼の部分が多くなり、冬至に近づくにつれて夜の部分が多くなります。

   ダンテは、夜明け前に煉獄に到達しましたが、その時に「愛を誘う美しい惑星 (Lo bel pianeto che d’amar conforta)第1歌19」すなわち「明けの明星金星」が夜空に輝いているのを観ました。そして金星が余りにも明るいので「彼女(金星)の護衛を務める双魚宮(i Pesci ch’erano in sua scorta)第1歌21」の光が薄れてしまっている空の情景を描いていました。まさしくそれは、夜明け直前の東の空の光景です。下の添付図に示したように、春分の頃の太陽は黄道12宮の双魚宮か、または白羊宮の中に留まったまま地球の周囲を公転して、24時間かけて一周します。また、白羊宮の反対側に位置する天秤宮はと言うと、「太陽の反対側を巡っている夜」が「ガンジス河から外へ天秤宮を連れて出て行こうとしていた(uscia di Gange fuor con le Bilance)6」とダンテは描写しています。

 

天動説に基づく天体図と黄道12宮

 

煉獄の船着場

 

  ダンテは、「心では進もうとするが、身体が動かない (che va col cuore e col corpo dimora)12」旅人のように、煉獄の渚に立っていました。すると朝霧の向こうで火星のように赤く燃える光が、「どんな空飛ぶものも及ばない動きで (muover suo nessun volar pareggia)18」近づいてきました。ウェルギリウスにそれが何かを尋ねようとして目を逸らしている間に、その光は、「さらに明るく大きくなった (più lucent e maggior fatto)21」のをダンテは目にしました。その光の両側には何か白いものが見えてきました。そして次第に、光の本体も識別できるようになりました。それは、白い衣をまとったその船の「船頭 (galeotto)27」でした。すると次の瞬間、ウェルギリウスがダンテに向かって次のように叫びました。

 

  さあ、ひざまずけ、神のお使いが見えた、合掌するがよい、これからはこうした方々にお目にかかるのだ。見ろ、人間の道具などには一瞥もくれず、帆も櫂もいっさい使わず、翼だけであれだけ離れた岸の間を往来している。見ろ、翼を天に差し伸べて、永遠の羽衣で大気をかいている、生物とちがい毛更(けが)わりをしない天使の翼だ。

(『煉獄篇』第2歌28~36、平川祐弘訳)

 

グスターヴ・ドレ作「煉獄の船着場と天使の船頭」

 

   白い衣をまとった船頭は、「神の御使い (l’angel di Dio)29」でした。これから先に煉獄で出会うのは、「こうした方々」だと先導者はダンテに教えました。その原文は「こうした公僕たち (sì fatti officiali)30」となっていて、神から任命されて浄罪に務める霊魂たちを守護する天使という意味でしょう。また、地獄の悪天使たちが「黒智天使(neri cherubini)」とか「黒天使(angeli neri)」と呼ばれるのに対して、煉獄の天使たちは「白いイメージ」で描かれています。

  天国に昇ることが許された霊魂たちは、天使(天の船頭: il celestial nocchiero)が操舵する船に乗せられて、煉獄の船着場に送り届けられます。現世で聖者に列せられた特別な者を除いて、すべての良い魂はこの世の汚れを浄めるために煉獄山を登らなければなりません。しかし一方、地獄へ堕ちる悪人たちは、船頭カロンが漕ぐ舟に乗せられて三途の川アケロンを渡らなければなりません。

 

「無理やり船に乗せられる亡者たち」グスターヴ・ドレ作

 

「無理やり船から降ろされる亡者たち」ミケランジェロ作『最後の審判』の一部

 

    ダンテは、近づいてくる天使を「神の鳥 (uccel divino)38」と呼んでいます。その鳥が近づくにつれて明るさが増したので、正面から目を開けて見ることができなくなりました。伏し目がちにその姿を眺めると、次のような光景が展開されていました。

 

    少しも水に呑まれずにすばやく快走する軽やかな舟にのり、天使が岸をさして進んで来た。天の船頭は艫(とも)に立っていたが、文字通り幸ふかい姿であった、百余の魂がその中に座り「イスラエルの民エジプトをいで」を、みな声を和して歌っていた、その聖歌に記された歌詞をすべて歌いおえると、天使は人々みなのために聖十字架のしるしを切った、すると人々はあいついて浜辺に降りた、そして天使は、来た時と同様、すばやく立ち去った。(『煉獄篇』第2歌40~51、平川祐弘訳)

 

  現世から煉獄へ善良な霊魂たち(ダンテは「幸運なる魂たち:anime fortunate」と呼ぶ)を運ぶ渡し船を描いた特筆すべき箇所です。地獄へ堕ちる亡者たちは、三途の川の鬼船頭カロンから「貴様ら、悪党どもの亡霊に災いあれ!天を仰げるなどとゆめゆめ望むな。わしは貴様らを永劫の闇の中の、酷熱氷寒の岸辺へ連行するために来た。(『地獄篇』第3歌84~87、平川祐弘訳)」と怒鳴りつけられながら乗り込みました。向こう岸で降りる時の情況は『地獄篇』には描かれてはいませんが、上に添付したミケランジェロの『最後の審判』に描かれた下船の光景は、ダンテの読者ならば誰もが想像するものでしょう。

注:連絡船の接近の模様は、『煉獄登山46』で原文解読を添えて詳しく説明されています。

 

煉獄島への上陸の歌

 

  煉獄の船は、一度に「百人以上の霊魂 (più di cento spiriti)」を運んできました。そして入港すると、煉獄島に上陸する前に船の中で、神に感謝を捧げる聖歌が合唱されました。百人以上が「全員一緒に声を和して歌っていた (cantavan tutti inseime ad una voce)47」ので荘厳な大合唱であったことでしょう。その曲はラテン語で「イスラエルの民のエジプトからの脱出の時に(原文は下の添付文を参照)」と歌い始められました。その聖歌は、旧約聖書の『詩篇』第114篇の初行の詩句です。ところがさらに、ダンテは「その詩篇に書かれた後続の部分 (quanto di quel salmo è poscia scripto)48」をすべて歌い終えた、と書いています。ということは、下船前の霊魂たちが歌った聖歌は、初行の一行だけではなく、その『詩篇』の全章であったと言うことです。第114篇の最後の2章は、「地よ、主の御前におののけ、ヤコブの神の御前におののけ。主は岩を池に変わらせ、石を泉に変わらせられた。」となっていて、煉獄島への上陸の歌としては、多少の違和感を持っています。その違和感の原因は、ダンテが参照している聖書と私たちが手にするものとが違っているから生ずるものです。

 

イスラエルの民のエジプトからの脱出の時に

  ダンテが常用していた聖書は、『ウルガータ (Vulgata)』と呼ばれるラテン語訳聖書です。その聖書は、現代の私たちが手にする各国の聖書とは違った要素を持っています。上で言及した煉獄島への上陸の聖歌の初行は、『詩篇』の第114篇にありますが、『ウルガータ』では第113篇の初行になっています。その第113篇の全章は、現代の流布版聖書では第114篇と第115篇に分離されています。そして、『ウルガータ』の第113篇の最終の2章(25&26章)は、 ―― 現代の流布版では第115篇17&18章になりますが ―― 次の詩句で閉じられています。

 

主よ、死者たちは汝を称えることをしないし、また地獄へ堕ちるすべての者もそうです。

しかし生ある私たちは、今この時から、途絶えることなく永遠に、主を祝福しています。

〔ラテン語原文〕

  たしかに『神曲』の作品中には、上記の『詩篇』の箇所は書かれていません。しかし読者は、「イスラエルの民のエジプトからの脱出の時に」という一句から、その『詩篇』第113篇のすべての詩句を連想しなければなりません。そうすることによって、地獄へ堕ちることなく、天国行きが約束される煉獄島に送り届けられた善良な霊魂たちの感謝の気持を感じ取ることが可能になります。

 

煉獄の連絡船の到着時刻

 

  百人余の荘厳な大合唱が終わった時、船頭天使は、十字架を切って霊魂たちを煉獄の岸へと送り出しました。すべての善霊たちを下船させると、また天使は来たときと同じ航路を素早く帰って行きました。その時の太陽の位置は、次のような状態でした。

 

 太陽はその日にあらゆる側から光を投げかけ (Da tutte parti saettava il giorno lo sol)、その(太陽の)百発百中の矢で磨羯宮を天空の真上から追い出してしまっていた (ch’avea con le saetto conte di mezzo ’l ciel cacciato Capricorno)。(『煉獄篇』第2歌55~57、筆者訳)

 

  太陽が煉獄から観た水平線の上に完全に姿を現したので、あたり一面が太陽の光で明るくなりました。白羊宮の上に留まって地球を回る太陽が「日の出」の位置にあるとき、正午の煉獄の真上には、白羊宮と90度の位置にある磨羯宮 (Capricorno)が輝いているはずです。しかし、太陽の光(百発百中の矢:le saetto conte)によって見えなくされ、しかも西の方へわずかに移動させられています。しかも、「追い出してしまった (avea・・・cacciato)」は、大過去形(過去の過去)なので、厳密には煉獄の真上(=正午の位置、子午線上)を少し過ぎた位置を意味しているのでしょう。すなわち、夜明け前(5時半ごろ)に地獄から煉獄に着き、カトーと面談して助言を仰いだのち、日の出の時(6時)に海辺に到着しました。そして、煉獄の連絡船の入港と霊魂たちの下船の模様を見とどけている間に、わずかな時間が経ったので、真上にあった磨羯宮は少し移動したということです。または太陽の光が強くなったので見えなくなったという意味も含まれてると解釈することも可能です。そして、予想される時刻は、6時半ごろです。

  注:‘conte’はイタリア語ではなく、ラテン語の‘cognitus’から造ったダンテの造語だと言われています。その意味は「練達の、確証のある」で、ダンテは「的を外さない」というような意味で使っているようです。

avea’は‘aveva’で、‘avere’(英語の‘have’)の半過去形3人称単数です。

 

 

カゼラという歌手

 

  船から降ろされただけで、天使から下船後の行動について助言を受けていなかった霊魂たちは、先着していたダンテたちに登り道を尋ねるために近寄ってきました。その中に顔馴染のカゼラという霊魂が近寄って来て、ダンテを抱き締めようとしました。しかし、ダンテは生身であったために霊魂とは触れ合うことができませんでした。彼らは三度抱き合おうとしましたが、空を切るだけでした。

  カゼラ(Casella)は、フィレンツェ(またはピストイア)の歌手であったと言われています。『フィレンツェの無名紳士録 (Anonimo fiorentino)』によれば、カゼラはピストイアの出身であったと記述されています。彼は、詩人でもありましたが、音楽家とし卓越した才能を持っていたと言われています。しかし、『神曲』の中の多くの登場人物がそうであったように、カゼラもダンテによって、『煉獄篇』のこの箇所で描かれてたので有名になった人物の一人かも知れません。上の『無名紳士録』には、カゼラが彼自身の作った詩に曲を付け、ダンテがカゼラの家を訪れて、彼の歌に慰められたことが書かれています。その『無名紳士録』には、ベアトリーチェを始めとした色々な乙女へのダンテの恋心をカゼラが慰めたことなどが記述されています。また、歴史家ベンヴェヌート(Benvenuto da Imola, 1320? ~ 1388)も、カゼラが歌手として有名で、ダンテとも親交が深く、ダンテが学問に疲れた時や恋に悩んだ時などにカゼラの歌が憩いとなったことを記述しています。公文書の中でカゼラの名前が記録されているのは、1282年7月13日に夜中に街中を徘徊したために罰金が科せられたという記事だけのようです。彼の死亡年月は不明ですが、前述の1282年からダンテの記述に従って1300年までの間であろうと推測されています。すなわち、ダンテが煉獄でカゼラに出会っている1300年4月10日までにはこの世を去っていることは確かなのです。

 

 以上のような『フィレンツェの無名紳士録』の記事もベンヴェヌートの証言も、ダンテの『神曲』から連想されて書かれた内容のように感じられます。ダンテは、カゼラとの再会を次のように描写しています。

 

  私はいった、「いつも僕の熱い想いを静めてくれた恋歌を、新しい掟が禁じたとか、君が忘れたとかいうのでないならば、僕の魂を、どうか少しでもいい、その歌で慰めてくれ、僕の魂は僕の肉体とともにここへ来た、それだけに疲れが一層こたえるのだ。」

  「心にてわれに語らふ恋の神は」と彼はその時歌いはじめた、優しさがいまなお身内にひびくような、まことに優しい声音(こわね)だった。先生も私もカゼラの一行も、みなうっとりと聞きほれて、ほかの事はすべて忘れてしまったかにみえた。私たちは彼の声にみな耳を澄まし、一心に聞きいった。 (『煉獄篇』第2歌106~119、平川祐弘訳)

 

  ダンテは、旧友カゼラと邂逅して、地獄という過酷な世界を旅してきた疲れを癒やしてほしいと願います。そして、「いつも僕の熱い想いを静めてくれた恋歌(l’amoroso canto che mi solea quetar tutte mie voglie)107~108」で、「どうか僕の魂を慰めてくれる ( ti piaccia consolare alquanto l’anima mia)108~110」と頼みました。『神曲』の読者は、この詩文を読んでダンテとカゼラの交友の深さを知ることになりました。見方を換えれば、二人の親交を証明する資料は『煉獄篇』の詩文だけかも知れません。『フィレンツェの無名紳士録』の記事もベンヴェヌートの証言も、ダンテの作品が種本になっていると言っても過言ではないようです。上の引用詩の中で、ダンテの苦労をねぎらうためにカゼラが自分で作詩して歌ったと書かれている「心にてわれに語らふ恋の神は(Amor che ne la mente mi ragiona)直訳: 心の中で私に話しかけるアモーレは」という一節も、ダンテが作った作品であると言われています。もしかすると、カゼラという人物は存在していたとしても、大物歌手であったということは、ダンテが脚色した部分が多いかも知れません。

 

現世から煉獄までの航路

 

  ダンテはカゼラに、煉獄にくるまでに「どうしてこんなに長い時間がかかったのか (a te com’ è tanta ora tolta)93」と尋ねました。するとカゼルラは、死んだ後に煉獄まで辿り着いた経過と経路を次のように話しました。

 

  煉獄行きの人選や時期を一存で決める方が、僕の渡航の許可をなかなか出してくださらなかった。しかしとにかくその方の御意向は正しいのだ、だから別に酷い目にあわされたわけではない。もっともここ三ヶ月来は、入国希望者はみな即座に許されてその方の舟に乗っている。それで僕は、テーヴェレ川の水が潮とまじわるあたりで海を見てお迎えをお待ちしていたら、幸いにも舟に乗せてもらえた。その方はつい先刻もあの河口へ翼を向けた。三途の川に落ちない人は、いつでもあそこへ集まって来るのだ。 (『煉獄篇』第2巻94~105、平川祐弘訳)

 

  「煉獄行きの人選や時期を一存で決める方 (quei che leva quando e cui li piace)直訳:いつ乗せるか、誰を選ぶかをする方」とは、「先刻も河口へ翼を向けた (A quella foce ha elli or dritta l’ala)103」天使を指します。ということは、地獄行きか煉獄行きかを決めるのは「神の専権事項」ですが、舟に乗せる順番は船頭天使が全権を委ねられているということでしょう。その天使は「煉獄行きの乗船許可を出すことを何度も拒否してきました (più volte m’ha negate esto passaggio)96」。ところが、この三ヶ月の間 (da tre mesi)は、拒否されずに乗船が許されてきました。その原因は、教皇ボニファティウス8世 (Bonifatius:イタリア名ボニファチョ、Bonifacio)によって発令された聖年大勅令(ラテン語:Iobeleus、伊語:Giubileo、英語:Jubilee)の恩恵によるものでした。ボニファティウスが大勅令を発令したのは1300年2月22日ですが、その教皇は1299年のクリスマスから1300年のクリスマスまでの一年間を「聖年」と定めました。それゆえに、ダンテがカゼラと煉獄で再会している1300年4月10日は、聖年の開始からおよそ「三ヶ月」ということになります。

  煉獄行き連絡船の乗り場は、「テヴェレ川の水が塩辛くなる所 (dove l’acqua di Tevero s’insala)101」すなわちテヴェレ川の河口付近ということになります。おそらく、死んで天国へ昇ることが許された霊魂は、全員がまずローマの海岸のテヴェレ川河口付近に集合してから、天使の操舵する連絡船に乗せてもらって煉獄へ船出したのでしょう。やはり、ダンテもローマを世界の中心であると考えていた証拠です。では、その河口からどの航路を通って煉獄へ到達したのでしょうか。その謎を解く手がかりは、オデュッセウスの航海譚にあります。それは、ホメロスの『オデュッセイア(オデュッセウスの航海譚)』ではなくダンテの「オデュッセイア」です。

  ダンテが描くオデュッセウスは、第8圏谷第8濠で権謀術策を弄した人物として炎に焼かれています。その炎の中でオデュッセウスは、イタリアを離れて地獄に着くまでの航路をダンテに話して聞かせました。その話の内容は次のようでした。

 

  地中海の北岸も南岸も見た、スペインもモロッコもサルジニアの島も、そのほかの海にひたる幾多の周囲の島々も。私も仲間も年老いて船足は遅々としていたが、狭い〔ジブラルタルの〕口に来た、ここにヘラクレスが二本標柱を建てたのは、人間はこの先へ行ってはならぬ印だという。右手にセビリヤが遠ざかる、左手にはもうセウタが見えなくなった。・・・ そして船尾を日出ずる方に向けると、櫂をこの狂気の疾走の翼として、常に左手へ左手へと南下した。夜になればもう南半球の星々が次々と見えだした、そして北極星は低くなり、やがて海原の外へのぼらなくなった。われわれが大海へ乗り出してから、月は五たび盈(み)ち、五たび虧(か)けた。その時はるかかなたに褐色の山が一つ現れた、かつて見たこともないほど高い山のように思われた。私たちは歓喜したが、歓びはたちまち嘆きに転じた、この未知の土地から竜巻が捲き起こり、船首の一角に突き当たると、三たび船体を周囲の水とともに旋(めぐ)らし、四たび旋らすに及んで船尾を高く持ちあげるや、船首から、神の御意のままに、船を沈めた。やがて私たちの上には海がまたもと通り海面を閉ざした。(『地獄篇』第26歌103~142、平川祐弘訳)

 

  『神曲』を基にして地球上に地獄の位置を設定することは、極めて困難な仕事です。地中海を中心にして北半球全体の地下の世界が地獄界だと想定できるかも知れません。ダンテの描くオデュッセウスは、下に添付した地図の矢印に従って進んだであろう、と推測できます。そして、オデュッセウスが航海の果てに見た「非常に高い (alta tanto)」「褐色の山 ((montagna bruna)」が煉獄島でした。さらに、オデュッセウスの場合は、その島の近くで難破して海の中へ呑みこまれて、そのまま地獄へ落ちて行きました。彼が煉獄から地獄へ落ちて行った道(坑)は、地獄の大魔王が天国から落ちて行った時にできた道であり、またダンテとウェルギリウスが地獄から煉獄へ登ってきた時に使った道でもあります。しかし、普通の人間で煉獄に来ることが許された霊魂たちは、オデュッセウスが航海したと同じ航路を辿って煉獄島に到着すると考えられます。ただ両者の違いは、オデュッセウスが満月を5回と新月を5回めぐる間、すなわち5ヶ月も掛けてイタリアから煉獄島まで到着したのに対して、霊魂たちは天使の操舵する船に乗って、超自然的な速度で一瞬にして到着したことになっています。そして、ダンテは、この煉獄の渡し船を「すばやく快走する軽やかな舟 (un vasello snelletto e leggero)41:現伊語では‘vascello snellezza’」と呼び、また『地獄篇』(第3歌93)でも三途の川の渡し守カロンがダンテに向かって「おまえを運ぶにはもっと軽い舟が相応しい (più lieve legno convien che ti porti)」と言っています。すなわち、煉獄の渡船は豪華さや快適さよりも「軽やかで早い」ということが特徴なのです。


 

煉獄登山に出発

 

  カゼラの甘い歌声にダンテも霊魂たちも歩みを止めて聞きほれていると、煉獄の管理人カトーが次のように怒鳴りつけました。

 

  いったい何事だ、なにをぐずぐずしているのか?これはまたなんという懈怠(けたい)、なんという遅滞だ?駈けて山へ行き汚れを落とすがいい、さもないと神さまにお目通りはかなわないぞ。(『煉獄篇』第2歌120~123、平川祐弘訳)

 

  カトーの怒鳴り声に驚いた新来の霊魂たちは、餌に群がっていた鳩が身の危険を感じると一斉に飛び去るように、歌を聴くのをやめて山の麓の斜面の方へと走り出しました。そして、ダンテとウェルギリウスも、慌てて逃げる霊魂たちと一緒に煉獄山の山登りに出発しました。