『神曲』煉獄登山1.地獄から煉獄へ | この世は舞台、人生は登場

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煉獄へ向けての旅立ち

 

  地獄の脱出に成功したダンテとウェルギリウスは、次の目的地「煉獄 (Purgatoria)」に向けて旅立ちます。地獄に隣接して煉獄があるわけではないので、ウェルギリウスは、「さあ、立ち上がれ (Lèvati sù ・・・ in piede)」と叱咤激励した後で、次のような謎めいた言葉を告げました。

 

 道は長く、道は嶮しい。それなのにもう日の出から1時間半経った。(『地獄篇』第34歌95~96)

 la via è lunga e ‘l cammino è malvagio, e gia il sole a mezza terza riede. 

 

  上の言葉は『神曲』の中でも最も難解な箇所です。まさしくダンテが言うように「頭が粗雑な人 (la gente grossa) 92」には理解できない思考法です。平川先生は、極めて簡潔で分かり易く「日の出から1時間半経った」と訳されています。原文は非常に難解な用語で、太陽は「限時(テルツァ、terza)の真ん中(メッザ、mezza)」に戻っている、と言っています。「限時」という訳語は正しく無いかも知れませんが、適当な日本語が見つからないので、便宜的に使っておきます。

 

 

  「限時」と訳した「テルツァ」という時間の単位は、日の出から日の入りまで太陽が天空に存在している時間を12等分して、それを更に3時間ごとに四分割した長さです。それゆえに、「時間」とは現代の「60分」という固定した長さではなく、季節によって変動することになります。そして、『神曲』を読解する上に重要なことは、ダンテが冥界訪問を行っている時節が復活祭期間ということで、春分の日に最も近い時期であったということです。すなわち昼と夜が同じ長さで、午前6時に陽が昇り、午後6時に日が沈む時節なのです。

    悪魔大王が三大罪人を仕置きしている様子を見終わった時、ウェルギリウスは「夜がまた近づいて来た。もはやこの場を離れなければならない。なぜならば、我々はすべてを見てしまったのだから (la notte resurge, e ormai è da partir, ché tutto avem veduto) 68~69」と、ダンテに言いました。すなわち、地獄を脱出する直前の時刻を正確に言えば、1300年4月9日聖土曜日の日没間近の6時少し前ということになります。ところが、地獄を脱出して穴の外へ出た時、「太陽はすでに限時半に戻っている」とウェルギリウスは指摘しました。そして、その時刻は、同じ聖土曜日の最初の限時(テルツァ)の日の出から半限時(メッザ)、すなわち現代時間に直せば、日の出から1時間半後の「7時30分」ということになります。最後の地獄ジュデッカを出て穴の外に辿り着くまでに、時間が逆戻りしていることになります。まさしく、ダンテが読者に投げかけた忠告、「頭が粗雑な人 (la gente grossa) 92」には理解できないことでしょう。しかし、北半球から南半球への移動には時差がないので、科学的にはダンテの方が誤っているのですが、北半球から悪魔大王の体毛を伝って南半球に移るとき「時差」が生じるとダンテは考えたのです。その時差は、およそ12時間ということになります。ところが、煉獄に到達しなければならない日時は決められています。すなわち、4月10日復活祭当日の夜明け(午前6時)までに着かなければならないのです。もうすでに1時間半遅れていますので、これから、ダンテたちは、およそ22時間30分で煉獄山の麓までたどり着かなければなりません。

  ☆ 地獄界から煉獄界に移動する時の「12時間の時差」については、私のブログ『神曲の月見』の中でもう一度説明します。

 

 

地獄から煉獄への旅路

 

   地獄を抜けてから煉獄までの旅は、昼夜をかけ24時間歩き通して、夜明けまでに山麓に辿り着かなければならない厳しいものでした。『地獄篇』では、移動が困難な場所ではしばしば魔法の手段が使われていました。三途の川アケロンを渡る時や第2圏谷でフランチェスカの悲恋物語を聞いた時は、失神している間に次の圏谷へ移動しました。また、歩くのが困難な場所は、ゲリュオンに乗せてもらったり、ケンタウロスのネッソスに乗せてもらったりして移動しました。しかし、地獄から煉獄への移動は、条件が過酷であるにもかかわらず徒歩で踏破しなければなりませんでした。そして無事に辿り着いた場所の景色は次のように描写されています。

 

   〔悪魔大王〕ベルゼブルから遠ざかること、まさにその墓穴の長さほどのところに、目にはさだかではないが、岩間から流れ込むせせらぎの音で、それと知れた場所がある。小川がゆるやかな勾配でくねりながら流れて岩を侵食している。(『地獄篇』第34歌 127~132、平川祐弘訳)

 

  上の箇所では悪魔大王のことを「ベルゼブル(イタリア語:ベルゼブ)」と呼んでいます。ダンテは、その呼び名を「ディーテ」や「ルチフェロ」と同義で使っています。そして、「その墓穴」と訳されている原文は、「トンバ (la tomba)」となっていて、先に「荒れた地面と光の乏しい自然の地下牢獄 (natural burella ch’avea mal suolo e di lume disagio) 98~99」と呼んだものと同じで、共に「地獄」の比喩的表現です。さらに、「墓地(=地獄)が広がっているのと同じ長さだけ (tanto quanto la tomba si distende) 128」とは、地獄の上の地表から悪魔大王のいる場所までという意味で、さらに極言すれば「北半球の半径」のことです。そして、ベルゼブルのいる所から南半球を地表に向けて地獄と同じ距離を進んだ所が、ダンテとウェルギリウスのいる現在地なのです。そこには暗くて見えないのですが、「岩石にあいた穴を通って流れ落ちる小川 (un ruscello che quivi discende per la buca d’un sasso) 130~131」がありました。その小川の水源は、煉獄のレーテ川だとする説が有力ですが、ダンテが歩いて来た南半球の上は海か湖になっているので、そこから地中に染み込んだ水が流れていると考えても矛盾はありません。

   地獄から通じていた連絡抗の行き止まりには、煉獄という「明るい世界へ戻るために (a ritornar nel chiaro mondo) 134」通らなければならない「隠された通路 (cammino ascoso) 133」がありました。その小径をウェルギリウスに先導されて、ダンテは外へ出ることができました。そこには「天が身に着けている美しきもの (le cose belle che porta ’l ciel) 137~138」すなわち「星 (le stelle)」が輝いていました。因みに『神曲』は、『地獄篇』も『煉獄篇』も『天国篇』もすべての篇の最後の単語は、「星 (stella)」の複数形「星々 (stelle)」で閉じられています。

 

地獄から煉獄へ通じる道の起源

 

  地獄から煉獄へ抜ける通路はどの様にして建造されたのでしょうか。私のブログの読者の方には簡単な質問だと思います。悪魔大王が天国を追放されて、南半球の南端に落ちた後、地中を潜って今いる地球の中心まで到達したときに造られたトンネルです。この通路は、誰も通ることは許されません。悪魔大王の体毛を伝って降りなければならないので、神より特別な許しを得たダンテとウェルギリウスを除いて通ることなどできるものではありません。ただ、『神曲』の中で、この通路を使ったのではないかと推測されている事件があります。それは、キリストの辺獄降下と呼ばれる事件です。十字架刑で死ぬことによって人間の原罪を贖うことに成功したキリストは、天国の父のもとに凱旋して帰る前に辺獄へ降下しました。そして、辺獄に幽閉されていた旧約聖書の聖人たちを天国へ連れて昇りました。その時、この通路を使ったのではないか、と考える人もいます。しかし、堂々と地獄の入口から連れて出たに違いないと主張する意見が多数です。

  次は逆に、この通路を通って地獄に落ちてきた罪人はいないかという問題です。天国へ昇ることが許された者は、『煉獄篇』第2歌で描かれますが、天使の操舵する船で煉獄の船着き場へやって来ます。しかし、地獄落ちを宣告された者は、必ず三途の川アケロンをカロンが漕ぐ舟で渡らなければなりません。ところとが、ただ一人だけ、悪魔大王が落ちて来た通路によって地獄へ落ちた亡者がいました。その人物はギリシアの英雄オデュッセウスです。「地獄巡り37.ダンテのオデュッセイア」を参照。

 

煉獄山の麓

 

   長い洞窟を抜けるとそこは煉獄山の麓でした。まず最初に、『煉獄篇』の序歌が簡潔に詠われます。

 

  より良い海を馳せゆくために、私の詩才の小舟はいま帆を揚げて、あの残酷な海を後にして進む。私は歌おう、人間の魂が浄められて、天に昇るにふさわしくなるこの第二の世界を。(『煉獄篇』第1歌 1~6、平川祐弘訳)

 

   ダンテは「煉獄 (Purgatorio)」のことを「人間の魂が浄められて (l’umano spirito si purge) 5」「天に昇るにふさわしくなる (di salire al ciel diventa degno) 6」ように修行をする場所である「第2の世界 ( secondo regno) 4」と表現しています。「地獄」と「天国」に比べて、「煉獄」は知名度の低い場所です。そして、その世界を描いた『煉獄篇』という作品も評価の高いものではありません。20世紀を代表する詩人T.S.エリオットは、彼の文芸批評集の『ダンテ』の中で、『煉獄篇』のことを次のように評しています。

 

    『煉獄篇』はこの三部作の中で一番読み難い部分かも知れなくて、これは『地獄篇』のようにそれだけで楽しめるものではないのみならず、単に『地獄篇』の続篇として読むこともできなくて、『天国篇』もその為に読むことが必要であり、それ故に始めて読む時は骨が折れて、又それだけの甲斐があるとも思えない。その先の『天国篇』の終わりまで読んで、そして『地獄篇』をもう一度読み返した後、この『煉獄篇』の美しさが始めて解って来るので、地獄に堕ちることや、或いは、至福の状態に達することさえもが、浄化などされることよりはまだ我々にとって興味あることに感じられるのである。(吉田健一訳)

 

   これから私たちが読もうとする『煉獄篇』は、エリオットが評しているほど読みづらい作品ではなく、また、ダンテが描く煉獄界もエリオットがいうほどつまらない世界ではありません。地獄巡りを成し遂げた私たちは、これから煉獄登山の楽しみを発見しましょう。

 

煉獄の空

 

   詩人ダンテは、詩の女神ムーサの叙事詩を司るカルリオペに詩作の成功を祈願して祈りを捧げた後、地獄からの脱出に成功して、煉獄山の麓から見上げた空の美しさとその感動を次のように描きました。

 

    東方の碧玉のうるわしい光が、はるか水平線にいたるまで澄みきった大気の晴朗な面(おもて)に集い、私の目をまた歓ばせてくれた。目を痛め胸をいためた死の空気の外へ私はついに出たのだ。愛を誘(いざな)う美しい明星が東の空にきらきらと満面の笑みを浮かべ、後に従う双魚宮の星の光をおおっていた。視線を転じて、私は目を右の方(かた)南極の空にすえ、四つの星を見あげた、人類の祖父母以外に誰一人見たことのない星だった。空は星の燦めきを喜んでいるかにみえた、ああ、それを見る機会を奪われた北半球よ、おまえはやもめの淋しい土地だ!私はそれから目をそらして身をやや曲げ、北極の空を仰いだが、北斗星はすでにそこから姿を消していた。(『煉獄篇』第1歌13~30、平川祐弘訳)

 

 

 

   「東方の碧玉のうるわしい光 (Dolce color d’oriental zaffiro) 13」の詩句が描き出している光景は、東の空がサファイアの甘い紺色になっていて、夜明けが近づいている夜空です。6時頃に姿を現すことになる太陽もまだ沈んだままなので、時刻は5時半頃だと推測されます。ダンテたちは、復活祭の日の夜明け前に煉獄に到達していなければならなかったので、その目標は達成できました。まだ日の出前なので、「愛を誘う美しい惑星 (Lo bel pianeto che d’amar conforta) 19」すなわち明けの明星「金星 (Venere, Venus)」が「東の空にきらきらと満面の笑みを浮かべていた (faceva tutto rider l’oriente) 20」(直訳は「東一帯を微笑ませていた」)とは、まだ陽は昇っていなかったという意味です。そして、明星が明るすぎるので、その夜空で「彼女(金星)の護衛を務める双魚宮(i Pesci ch’erano in sua scorta)」の光が薄れていました。1300年頃の暦では、双魚宮は、3月末頃から4月初旬の春分点に位置していたと言われています。すなわち、ダンテが煉獄に着いたのはその時節であった、ということを示唆しているのです。言うまでもなく、実際に巡礼者ダンテがそこに到着したのは、旧暦の4月10日(新暦では3月28日)の復活祭の夜明け前のことです。

 

南極に輝く四つ星

 

  東の夜空に輝く明けの明星を眺めていたダンテは、右手の方に視線を向けて南の空を見上げました。すると、南極の空(原文は「もう一方の極‘l’altro polo’」で、北半球を「私たちの半球‘ l’emisperio nostro’」と呼ぶことに照応)に「四つ星 (Quattro stelle)」が輝いていました。南極の空に輝く「四つ星」といえば、即座に「南十字星座」を連想します。また確かに、ダンテのその星が南十字星を意味しているとする説もあります。しかし、まだダンテの時代にはその星座は認知されていなかったようです。上の引用文で、その星は「人類の祖父母(原文は‘la prima gente’原始の人間)」すなわち原罪なく誕生したアダムとイヴ以外に誰一人見たことのない星であると言っています。そして、その星は南半球の最果て南極の空で輝いているので、北半球に住む原罪を負った人類には、現世にいる間は見ることができるのです。ということは、煉獄に来た霊魂たちは、その四つ星を仰ぎ見ることが許されることになります。それゆえに、現代では、四つの星は、人間の守るべき「正義」、「力」、「思慮」、「節制」の四つの基本道徳のアレゴリー(寓喩)であると解釈するのが通説になっています。

  ダンテは、南半球の四つ星から目をそらして北極の空に輝いているはずの北斗星(原文では‘Carro’で大熊座)を探しましたが、すでに姿を消していました。

 

煉獄の管理人カトー

 

 地獄から通じていた長い洞窟を出て、しばらく進むと煉獄の番人カトーという老人に出会いました。煉獄に入って初めて出会うその老人の姿は、次のように描写されています。

 

グスターヴ・ドレ作「煉獄の管理人カトーとの出会い」

 

  私の近くに翁(おきな)が一人見えたが、いかにも威厳の備わった容姿で、子が親に払う以上の敬意を払わずにはいられなかった。鬚は長く、白い毛がまじり、髪の毛もそれと同様半白だったが、髪は二束にわかれて胸の上に垂れていた。聖らかな四つの星の光は、翁の顔をあかあかと照らし、翁を仰ぎ見ると太陽が目の前にあるような気がした。(『煉獄篇』第1歌31~39、平川祐弘訳)

 

  煉獄の入口で出会った「翁 (老人、veglio)」は、ローマの政治家カトーでした。正式名は「マルクス・ポルキウス・カトー (Marcus Porcius Cato)紀元前95~46」ですが、父親も曾祖父も同名なので、「ウティケンシス (Uticensis)」を付けるか「小カトー (Cato Minor)」と略称で呼ばれます。ダンテがキリスト教以前の人物に重要な宗教的役割を与えているのは、極めて異常なことです。カトーが与えられている「煉獄の管理人」という役柄は、霊魂たちが「あなたの管理・監督のもとで罪を浄めている (purgan sé sotto la tua balìa)66」と描かれているように、煉獄で現世の罪を浄化しようと務める霊魂たちの守護神のような存在です。カトーと同時代のカエサルやキケロが地獄界のリンボに閉じ込められているのと比較すると、彼に煉獄管理人の役を与えたことは破格の厚遇であると言わざるを得ません。では、その原因と根拠を探るために、カトーの略歴を見てみましょう。

 

「カトーの自害」ルイ・アンドレ・ガブリエル・ブーシェ(Louis-André-Gabriel Bouchet)1797年の作

 

  紀元前63年、ルキウス・セルギウス・カティリナ(Lucius Sergius Catilina)による国家転覆の陰謀が発覚しました。その陰謀に先頭に立って対処していたのが執政官のキケロで、そのとき護民官に選任されていたカトーは、キケロに味方しました。そしてカトーとキケロはカティリナ一派の死刑を提案しました。その時、ユリウス・カエサルの反対にあいましたが、キケロの雄弁な弾劾演説によってカティリナ一派の死刑が確定しました。それ以後、カトーとキケロは、カエサルと対立するようになりました。カエサル、ポンペイウス、クラッススによる第1回三頭政治が開始された時も、カトーとキケロはその政治制度に反対をして対立色を強めました。まず、シリア・パレスチナを征服したポンペイウスの凱旋パレードを拒否しました。また、カエサルの提出した農地法案の成立を阻止しようとしましたが、この行為に対しては、カエサルが元老院で阻止された法案を市民集会へ提出して成立させたので、キケロとカトーの目論見は失敗に終わりました。その後、三頭政治が弱まりましたので、カトーは反カエサル派の先頭にたって、カエサルと敵対していたポンペイウスに味方するようになりました。そこで、ガリア総督の任期を終えたカエサルが武装解除しないままルビコン川を渡ってローマに入ったために、カエサル派とポンペイウスに賛同する元老院派との間に内乱が起こりました。そのときカトーは、ポンペイウスに味方して戦いました。しかし、元老院軍はコルフィニウムの戦いで敗れてギリシアに逃れましたが、そこのファルサルスでの戦いにも敗れて、ポンペイウスはアレクサンドリア(エジプト)へ逃れ、カトーは北アフリカのウティカへ逃れました。ウティカに逃れたカトーはカエサル軍に包囲され、降伏を迫られましたが、拒んで腹を切って自害しました。医師が傷口を縫って治療したのですが、誰もいない隙に自分で包帯を取り、腸を出して死にました。カトーは、ウティカで最期を遂げましたので、地名「ウティカ (Utica)」に、そこに属することを示すラテン語接尾辞「イエンシス (-ensisまたは-iensis)」を付けて「ウティカの地の (Uticensis)」を表しています。

 注: ラテン語では、イタリア国内の地名はそれぞれ独自の形容詞を持っています。例えば、「Roma→Romanus」、「Latium→Latinus」、「Campania→Campanus」、「Florentia→Florentinus」、「Etruria→Etruscus」などがあります。ところが、イタリアからすると外国にあたる地名には「-(i)ensis」を付けて形容詞にすることが多いようです。例えば「Athenae→Atheniensis」、「Creta→Cretensis」、「Carthago→Carthagiensis」が該当します。また、ナポリのラテン名「ネアポリス(Neapolis)」はギリシア語の「新しい(nea)+国家(polis)」の合成語ですが、イタリアの都市であったので、その形容詞は「Napolitanus」です。また逆に、シキリア島はイタリアの地名ですが、遠隔されていると感じたためか形容詞は「Siciliensis」です。

 

上図のマルシアとイレルダに関しては『煉獄篇』第18歌100~105に出ます。

 

キリスト教徒でない管理人

 

   キリストの洗礼を受けていない者は、ソクラテスであろうがアリストテレスであろうがプラトンであろうが地獄界に留まらなければなりませんでした。それなのに、カトーが煉獄の管理人になっているのは、異例の抜擢だと言わざるを得ないのです。地獄と煉獄の案内人にウェルギリウスを選んだことよりも意外性のある人選かも知れません。ウェルギリウスは、ダンテを案内するという使命を果たした後は、また地獄へ帰って行きます。しかしカトーは煉獄の管理人として永遠に留まります。それは、ダンテがカトーに最大の評価を与えていた証拠と言えるでしょう。上述のカトーの略歴からも推測できるように、彼は高潔で実直な人物で、最後まで強力なカエサルと対決した不屈の精神を持っていました。ウェルギリウスがダンテの煉獄入山を請うとき、カト-に対して次のような言葉で懇願しました。

 

   どうか喜んで迎えてやってください。自由を求めて彼は進みます、そのために命を惜しまぬ者のみが知る貴重な自由です。あなたはそれを御承知のはずです、自由のために死も苦(にが)しとされなかったあなたは、大いなる日に輝くであろう〔肉体の〕衣をウティカに棄てました。永遠の法を私どもは破ってはおりません。この男は生きており、私はミノスに繋がれておらず、あなたの貞節なマルキアのいる圏谷に住んでおります。(『煉獄篇』第1歌 70~78、平川祐弘訳)

 

  ダンテがカトーを評価した要因は彼が自由を追い求めたことである、と書かれています。カトーは、「自由のために命を捨てる (per liberta vita rifiutà)」人物でしたので、ウティカでも医師の治療を拒否して死んだのです。そして、ダンテも「自由を求めて進んでいる (libertà va cercando) 71」と訴えています。浄罪を行う煉獄の旅は、魂の自由を求めることが最大の目的なのかも知れません。しかしそれでもなお、ダンテがカトーに煉獄全体を管理・監督する役割を与えた根拠としては乏しいと判断せざるを得ません。ダンテのカトーに関する情報源は、ルカヌスの叙事詩『内乱:パルサリア(De Bello Civili sive Pharsalia)』であることは疑う余地はないようです。そのルカヌスの叙事詩を読めば、ダンテがカトーを管理人に選んだ理由が分かります。 

 

    ルカヌスは、『内乱』(第2巻 381~391)の中でカトーがいかに高邁な精神の持ち主かを記述しています。そして彼は、カトーが遵守していた信条を書き並べています。まず、「中庸を守り、限度を保つこと (servare modum finemque tenere)」。そして「自然に従うこと (naturam sequi)」。次に、「祖国に命を捧げること (patriae inpendere vitam)」。また「己のためではなく全世界のために生まれたのだと信じること (nec sibi sed toti genitum se credere mundo) 383」です。さらに、ルカヌスはカトーを称えて、「都(ローマ)の父であり都の夫である人 (urbi pater est urbique maritus) 388」で、「正義の信奉者 (justitiae cultor) 389」であり、「 厳格な徳の監視者 (rigidi servator honesti)」などと呼んでいます。これらのカトーについてのルカヌスの賛辞の言葉は、最後までカエサルに屈服しなかったという史実を考慮すれば、ダンテがカトーを煉獄の管理人に抜擢した理由が理解できます。ただし、カトーには煉獄全体の管理・監督が委ねられていますが、彼の登場場面は『煉獄篇』の第1歌と第2歌で描かれる場面だけです。

    

カトーとマルキア

 

    マルキア(Macia, Marzia)は、辺獄リンボの中の古代ローマの賢夫人の区画に、ルクレチア(古代ローマ王の息子セクストゥスに恥辱を受け自害した民政官コルラティヌスの妻)とユリア(カエサルの娘でポンペイウスの妻)とコルネリア(夫の死後、王からも求婚されるが息子ティベリウス、ガイウスの教育に捧げた)と四人連れ立っていました。マルキアについては、西暦2世紀頃の二人の歴史著述家プルタルコス(Plutarchos)とアッピアノス (Appianos)にも触れられていますが、ダンテの情報源は、ルカヌスの叙事詩『内乱』だと思われます。

   マルキアについての歴史的情報は、カトーとホルテンシウス(Hortensius)の妻であったということ以外は、ほとんど存在していないと言われています。カトーは、最初の妻アティリア(Atilia)と離婚したのち、紀元前63年にマルキアと再婚しました。マルキアは多産の女性で、カトーとの間に2人か3人の子供を儲けました。その後、カトーは、親友のホルテンシウスにマルキアを譲りました。カトーを尊敬して彼との親交を深めたいと思っていたホルテンシウスは、紀元前56年、喜んでマルキアを妻として迎え入れました。そして二人の間に一人の息子が生まれ後、紀元前50年にホルテンシウスは死んでしまいました。そして、その後の情況はルカヌスの『内乱』の中で次のように描かれています。

 

  その時、激しく扉を叩く音がし、ホルテンシウスの火葬堆をあとにした、心根尊いマルキアが、面に哀愁を浮かべて扉の内に駆け込んで来た。かつて彼女は、乙女のころ、高貴さではまさる夫(カトー)と新枕で結ばれていたが、やがて、婚姻の果実、結婚の酬いの三人目の子を授かったあと、多産の妻として、子宝を授け、母方の血の絆で両家を結ぶため、他家へと嫁がせられたのであった。だが、夫(ホルテンシウス)の遺灰を骨壺に納めた今、哀れを誘う表情を浮かべ、慌てた様で戻って来たのだ。掻きむしられた髪は乱れ、何度も打った胸にはあざができ、遺灰にまみれた姿で。そうでなければ、夫(カトー)の惻隠の情を催させることもなかったであろうが、彼女は悲しげにこう言葉かけた、「この身に血が流れ、母親として子を産む力がある間、カトー様、わたくしはあなたのお言いつけを果たし、二人の夫にまみえて、子をもうけてまいりました。お腹の力も萎え、お産に疲れ果てた身で戻ってまいったのです。もう二度とほかの夫に委ねられてはならぬ妻として。どうか、今も変わらぬ、昔の契りを、今一度果たしてください。せめて名ばかりでも、妻という名をお返しくださいませ。墓石にこう刻むのをお許しいただきたいのです、『カトーの妻女マルキア』と。(ルカヌス『内乱』第2巻326~344、大西英文訳)  注:岩波文庫の大西訳では、第2巻334~353になっています。

 

  マルキアが上のルカヌスの記述通りの人物であるならば、彼女はカトーへの計り知れない愛情を持った極めて従順な女性でした。その後、カトーはマルキアの嘆願を聞きいれて、ブルートゥスを立会人にして二人きりの質素な婚礼をあげました。そしてカトーは、「ウェヌス(愛)の唯一の効用は子孫を残すこと (Veneris hic unicus usus, progenies) 387~388」という信念を持っていましたので、マルキアとの再婚では性的交わりを持つことはありませんでした。ルカヌスの『内乱』は未完に終わっているので、その後のマルキアの人生がどの様なものであったか、彼女の望み通りに「カトー家のマルキア (Catonis Marcia)」と墓石に刻むことができたかどうかは不明です。しかし、『煉獄篇』では、ウェルギリウスが辺獄に帰った後、彼がカトーから親切にされたことをマルキアに伝えると言ったとき、カトーは次のように答えました。

 

  私が現世に居った間は・・・なるほどマルキアは私の気に入りであったから、なんなりと望みはかなえてやった。だがいま彼女が悪の川の向こうに住んでいる以上、もはや私の心を動かすことはできない、それは私がそこから外へ出た時に定まった掟だ。 (『煉獄篇』第1歌 85~90、平川祐弘訳)

 

   上の詩行の「彼女が私に望んだいかなることもかなえてやった (quante grazie volse da me, fei)」(注: volse=volle  fei=feci)という言葉は、何を意味しているのか疑問です。マルキアとカトーの生涯を照らし合わせると、マルキアがカトーに対して一方的に、しかも献身的に仕えただけのように感じられます。カトーが彼女にしたことで何らかの記録が残っていることといえば、ホルテンシウスの死後に再婚したことだけです。墓石に「カトー家のマルキア」と刻むことは許されたのですが、実際に刻むことができたのかどうかは不明です。

 

煉獄管理人の選抜過程

 

    現世(すなわちルカヌスが『内乱』で描いた世界)では、「この(マルキアの)言葉は夫の心を動かした (Hae flexere virum voces)Ⅱ-350」のですが、『神曲』の「悪の川の向こう (là dal mal fiume)」(すなわち三途の川アケロンを渡った第1圏谷辺獄)では、「私(カトー)の心をうごかすことができない (più muover non mi può) 89」と、ダンテは述べているのです。すなわち、生前は「心を動かした」が、死後は「心を動かさない」と言っているのです。そして、心を動かさないのは、「私がそこから出た時に定まったあの掟 (quella legge quando me n’usci’ fora) 98~99」であると書かれています。ところが、「そこから出た時」とは、「いつ」、「どこから」出たのかという問題があります。それには二通りの解釈がなされています。一つめの解釈は、紀元前46年にカトーがウティカでカエサル軍に包囲されて自害した時のことを指しているとするものです。二つめは、キリストの辺獄下降の時に他の聖者たちと一緒に連れ出された時のことを指しているとするものです。しかし、どちらの説にも欠陥があります。前者には自殺という犯罪行為が行われたので、本来ならば第7圏谷第2円の自殺者の森に閉じ込められていなければなりません。しかし、ダンテはカトーの自害に対しては「自由のために命を捨てた」高潔な行為だと判断したのでしょう。そして、確たる記述はないのですが、カトーを彼の気高さゆえに辺獄に入れて、カエサルやヘクトルやアエネアスなどの武将群ではなくて、アダムやノアやモーセやダビデ王などの旧約聖書の聖者群に加えたであろうと想定できます。そしてキリストの辺獄下降の時に他の聖者たちと一緒に連れ出されたと推測できます。他の聖者たちは天国へ連れて行かれたのですが、カトーだけは煉獄の管理人の役に任じられて、浄罪する霊魂たちを監督しているのでしょう。それゆえに、カトーは煉獄の管理・監督者の任務をまっとうするために、浄罪を怠けている霊魂には次のような叱咤激励の言葉を掛けます。

 

    いったい何事だ、なにをぐずぐずしているのか?これはまたなんという懈怠(けたい)、なんという遅滞だ?駈けて山へ行き汚れを落とすがいい、さもないと神さまにお目通りはかなわないぞ。(『煉獄篇』第2歌120~123、平川祐弘訳)

 

カトーによる煉獄登山の心得

 

   カトーは、ウェルギリウスを通じて、ダンテの煉獄登山の心得を次のように伝授しました。

 

   さあ行け、しなやかな藺草の茎でこの男の腰を巻き、その顔を洗って、いっさいの汚れを落としてやれ。悪霧に曇った目で、天国のお使いの中の第一等の方の御前に出るわけにもゆくまい。この小島のまわりのずっと低いあたりには、波打際の軟らかな泥土の中から藺草が何本も生えている。そのほかの草木は、葉が茂ったり硬くなったりするから、長生きができぬ、打たれてもなびこうとしないからだ。藺草を結んだら、ここへまた戻るには及ばぬ、もう日が昇ってきた、山へ登る一番楽な坂道を照らしてくれるだろう。  (『煉獄篇』第1歌94~108、平川祐弘訳)

 

ダンテの旅装束

 地獄巡りの旅をしていた間のダンテの服装を推測してみましょう。ダンテたちが第7圏谷から第8圏谷へ移動するとき、ゲリュオンという空飛ぶ怪獣に乗って降りました。そのとき、その怪獣をウェルギリウスはダンテが巻いていた縄帯(corda cinta)を使って、魚釣りの要領で谷底にいるゲリュオンを釣り上げました。その縄帯とは、フランチェスコ会の修道僧の清貧と禁欲の象徴でした。生活が荒れていた青年時代のダンテも、フランチェスコ会に入信して、おのれの多情多恨を抑えようとしたことがありました。恐らく、地獄巡りをしていた巡礼者ダンテの想定される服装は、下に添付した聖フランチェスコの肖像画のように質素な服を着て、腰には縄帯をしていたことでしょう。

 

        「法悦のフランチェスコ」

ジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini, 1430頃~1516)作

 

   煉獄の管理人カトーの助言通りに、海岸へ向かいました。「遠くから海の奏でるトレモロが聞こえてきました (di lontano conobbi il tremolar de la marina)116~117」。その音をたよりに、「人気のない平地を通って (per lo solingno piano)118」 ダンテはウェルギリウスの後にぴったりと寄り添って進みました。そして「夜露が朝陽と競い合っている所 (là ’ve la rugiada pugna col sole)」に着きました。ダンテの顔は、夜露と涙で濡れていました。するとウェルギリウスは、露と涙の水でダンテの頬に付いていた地獄の汚れを洗い落としました。そしてついに、「人気のない渚 (lito diserto)130」に到着しました。「そのあたりの海を航行した者で、生きて還れたためしはないという海でした(平川訳)」。そこの浜辺に群生していた謙譲の象徴である「しなやかな藺草 (un giunco schietto)95」を抜いて腰に巻きました。おそらく今まで巻いていた縄帯の上に重ねて藺草を結んだのでしょう。

   そしていよいよ、煉獄登山の出発準備が整いました。すると、午前6時、太陽が昇り始めて復活祭の朝が明け始めました。ダンテとウェルギリウスの師弟は煉獄山の天辺に広がるエデンを目指して登り始めました。

 

煉獄全景