『神曲』地獄巡り21.血の川が滝となって落ちる所 | この世は舞台、人生は登場

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血の川が滝となって落ちる所


第7圏谷の三つの円環の全景

第7圏谷の全景


  ダンテは、尊敬するブルネット・ラティーノ先生と別れて、血の川が滝となって下の地獄へ落ちている所にやって来ました。すると火炎の砂漠を歩く一団がやって来て通り過ぎようとしました。しかし、三人の亡霊が、ダンテのフィレンツェ風の服装を見て、群から離れてダンテの方に近づいてきました。彼らの身体には、地獄に来てから火に焼かれた最近の傷と戦場で受けた古傷がありました。ウェルギリウスが「丁重にもてなせ」と助言したので、ダンテは三人が到着するのを待ち受けました。



三人のフィレンツェの武人


第16圏谷の三人のフィレンツェ人


 近くに寄ってきた三人は、生きたまま地獄を歩くダンテに驚いて、回りを取り囲みジロジロと眺めました。そしてその中から一人の亡者が近寄ってきて、他の二人を「素っ裸で皮膚もただれているが、君が想像する以上に位の高い人」だと言って紹介し始めました。まず最初にグイド将軍を、次の様に紹介しました。



 善きグワルドラーダの孫で、名前はグイド・グエラといった。生前は智恵を働かせても刀を取らせても勲功があった。(『地獄篇』第16歌37~39、平川祐弘訳)

 ここで紹介されているグイド・グエラ(Guido Guerra, 1220~1272)は、イタリア・ロマーニャ地方の自治都市ドヴァードラ(Dovadola)を治める名門グイディ家出身の名将でした。ダンテによって「善きグァルドラーダ(buona Gualdrada)」と呼ばれた彼の祖母は、『天国篇』で名前が登場するフィレンツェの名門ベルリンチョーネ・ベルティ(Bellincione Berti)の娘でした。グイディ家は、もともとギベリーニ・皇帝派でしたが、グイド・グエラは教皇派(グェルフィ党)に加わり、後に党首にもなりました。彼の最も早い功績は、1250年の皇帝派(ギベリーニ党)軍の攻撃から、フィレンツェの南東10㎞ほどの丘オスティナ(Ostina)を奪回して、教皇派のフィレンツェ復帰の足掛かりを作ったことでした。1255年のアレッツォ(Arezzo)の戦いでは1万の教皇軍の大将として皇帝軍を破りましたが、1260年のシエナ東郊外のモンタペルティの戦いでは、ファリナータ率いる皇帝軍に敗れて、国外追放になりました。ところが、1266年ベネヴェント(Benevento)の戦いでは、教皇の要請を受けたフランス王ルイ9世の弟シャルル・ダンジョウ(Charles d'Anjou)が、シチリア王家を滅亡させました。その時、トスカナ地方からギベリーニ党が一掃されましたので、再びグイドはフィレンツェに戻りました。そして、1272年、フィレンツェの南東20㎞ほどの町モンテヴァルキ(Montevarchi)にて死去しました。(地獄巡り13のファリナータの年譜と20のブルネットの年譜を参照)

 次に紹介されたのは、テギアイオ・アルドブランディ(Tegghiaio Aldobrandi)でした。彼は、伝記作者フィリッポ・ヴィラーニ(Filippo Villani, 1325~1407)が「勇敢で聡明で大きな権威を持った騎士(cavaliere savio e prode e di grande autoritade)と讃えています。しかし、テギアイオの業績で知られているものといえば、1260年にフィレンツェ・グェルフィ軍がギベリーニ党を討伐するためシエーナに出兵することになったとき、彼はその攻撃を止めるよう忠告して説得したことぐらいです。結局、その説得は失敗に終わり、9月4日、シエナの東郊外のモンタペルティの平原で、シエーナ軍(ギベリーニ党)20,000人とフィレンツェ軍(グェルフィ党)35,000人との間に熾烈な戦い(La battaglia di Montaperti)が起こり、兵の数ではフィレンツェ軍が圧倒的優位でしたが、シエーナ軍が勝利をおさめました。ダンテもテギアイオの武勇のことは言及しないで、「この者の忠告は、上の世界でも、ありがたがられているにちがいない(la cui voce nel mondo sù dovria esser gradita)」と彼の「忠告(voce)」のことだけを述べています。(注:‘dovrai’は現代イタリア語では ‘avrebbe dovuto’になり、推測を表す〈条件法過去形〉です。また‘voce’は、「名声」と訳す人も多いようです。)

 三人目は自己紹介になりました。その亡者は、「彼らとともに責め苦に遭うている私は、ヤコポ・ルスティクッチだ、ほかのなににもまして悪妻のために私は身を滅ぼした。」と自己紹介しました。ヤコポ・ルスティクッチ(Iacopo Rusticucci)は、前の二人よりも社会的身分は低いと言われています。勇敢で好感の持てる騎士ではあったようですが、フィレンツェの無名な中流階層の出身であったと言われています。この人物は、第3圏谷でも名前が出されていました。ケルベロスに喰い裂かれている大食漢チアッコにダンテが次のように尋ねました。



 もう少しすまないが聞かせてくれ。あれほど高潔だったファリナータやテギアイオ、ヤコポ・ルスティクッチ、アルリーゴやモスカなど、良い政治をしようと肝脳をしぼった人たちは、どこにいるのか(『地獄篇』第6歌78~82、平川祐弘訳)


 上の詩文であげられた5人の中で、ヤコポ(名前)ルスティクッチ(名字)だけがフルネームですが、他の4人はすべて名前だけで呼ばれています。その理由は、ヤコポを除いた4人はみな著名人でしたが、彼だけは名字と名前で呼ばなければ識別することができなかったのではないか、と推測されています。彼は、フィレンツェのサン・ピエロ門の地区に住み、テギアイオ・アルドブランディとは親密な隣人付き合いをしていたようです。そして、ヤコポは、テギアイオを助けて、また同じ教皇派(グェルフィ)党員として、政治および外交に従事しました。ただ彼がこの地獄にいることになったのは、気性の荒い妻に嫌気がさして別居しているうちに男色に走ったためだと言われています。


 以上の三人の亡者に対して、ダンテは最上の敬意を払って次の様に言いました。

 皆様の有様には、侮蔑どころか苦悩が心中に刻まれる思いです、なかなか消えがたいほどの苦悩です。こちらの私の先生から注意された時から、皆さん方のような立派な方が来られるのだと、先生のお言葉から私は推察しておりました。私はみなさまの国の者です。常日頃、皆さまの栄えある名を敬愛の念をもって語り、また傾聴しておりました。
(『地獄篇』第16歌52~60、平川祐弘訳)


 上述の賛辞は、地獄に落ちた罪人に対する言葉としては異様なものに感じられます。ここに登場している三人の武将は、当時としては名声を馳せていたかも知れませんが、後世にまで名が残るほどの有名さではなかったはずです。むしろダンテによって描かれ、賞賛されたので、後世にまで名を留めることになったのです。ダンテによる描写がなければ、とうの昔に消えていた名前です。しかし男色者という汚名は着せられて地獄に落とされていますので、喜んで良いのか悪いのかは微妙なところです。
 ダンテは、『神曲』の中に多くの同時代人を登場させています。まさに『神曲』は、中世イタリアの、とくにフィレンツェの紳士録の要素も持っていると言われます。亡者の紹介者ヤコポ・ルスティクッチがダンテに述べた「君の名が後世に輝くことを祈る(se la fama tua dopo te luca)66」という言葉は、実はダンテが『神曲』に登場させた人物に贈った言葉だったのではないでしょうか。
 第7圏谷第3円環で刑罰を受けている亡者たちの故国フィレンツェについて、ヤコポは「私たちの市には、昔と同じように、礼儀や武勇は残っているか(67~68)」とダンテに尋ねました。それに答えて「新参者(gente nuova)と成金ども(sùbiti guadagni)が横柄(orgoglio)と不節制(dismisura)を引き起こしている」とダンテが大声で答えました。すると、三人の亡者は、さもあらんと納得してその場を立ち去ろうしました。そして去り際に、この暗黒界(esti luoghi bui)を抜け出して、美しい星々(belle stelle)を観る所へ無事にい帰ってくれ、とダンテを励ましました。ダンテたちも、その場を後にして血の川の堤を進みました。



サン・ベネディト・デル・アルペの滝

  私が先生に従って少し進んだ時、水の音が急に近くなり、たがいの声がほとんど聞きとれないほどになった。モンテ・ヴェーゾから東方に向かい、アルペン山脈の左裾から、直接海に注ぎこむ川が、谷を下って平野に出、フォルリに至り名を変えるまで、上流ではアックワクエータと呼ばれ、千余の入りがあるというサン・ベネディト・デル・アルペの僧院の上で瀑布となり轟音をたてて落下する。それと同じように、紅に染まった水が、絶壁を轟きをあげて流れ下り、はや耳も聾さんばりであった。(『地獄篇』第16歌91~105、平川祐弘訳)


アクワケータ川の地図
シングルトン(Charles S. Singleton)による注釈書に添付されている地図に筆者が加筆したものです。(The Divine Comedy, Inferno 2:Commentary, Princeton U.P.)p.286の対面頁。


 上の詩文は、その下に添付した地図に照らして読めば何となく理解できると思います。ただし、直喩の箇所の地理的説明は、野上素一先生の訳の方が分かり易いので、下に提示しましょう。

  その源はモンテ・ヴェーゾに発し、東へ流れ、アペニーノの左の裾のあたりではみずからの本来の水路を走り、低地へ流れくだるまで上流はアックアケータと呼ばれているが、フォルリへつくと、もはやその名がなくなってしまうあの河が、千人もの人を収容しているサン・ベネディト・デ・アルペの上で、いっきょに落下して轟音を発する。(『地獄篇』第16歌94~102、野上素一訳)

 ダンテの時代の地理では、北部イタリアのほとんどの川はポー大河に合流してからアドリア海に注ぎ込みました。しかしモントーネ(Montone)川は、直接アドリア海へ注ぎ込む数少ない川でした。その川のフォルリ市より上流(支流と呼ぶこともある)はアクワケータ(Aquacheta)川と呼ばれていました。そして、ダンテの表現に従えば、その川の源流はアペニン山脈に聳える山モンテ・ヴィーゾ(Monte Viso)だと言うことになります。その山を水源とする主要な川がポー川であることは有名です。おそらくダンテはモントーネ・アクワケータ川の源も同じものだと考えていたのではないでしょうか。そして、アペニン山脈の左斜面を通って(da la sinistra costa d'Apennino)フォルリの町まで流れる川がアクワケータであると信じていたかも知れません。それゆえにダンテは、上の地図には載っていないモンテ・ヴィーゾからサン・ベネデット・デル・アルペの町まで通じる水路を想定していたに違いありません。そして、アクワケータ川はサン・ベネデットの町で滝となって落ちています。



有名な無名の瀑布

 我が国においても、もともと全国的には無名であった地名が、文学で描かれたことによって有名になった事例をあげれば、枚挙にいとまがありません。すなわち、もともと有名であった場所を詩人が描いたのではなく、詩人が描いたことによって有名になった事例のことです。サン・ベネデット・デル・アルペ(San Benedetto de l'Alpe,現代では「イン・アルペ, in Alpe」と呼ぶ)の滝も、ダンテが『神曲』の中で描いていなかったならば、地元の村民が知っているだけで、村の外では誰からも知られず無名のままであったに違いありません。現在でも、そこの村人たちはその滝を、ダンテによって描かれた滝として「アクワケータの滝(la Cascata dell'Acquacheta)」と呼んで誇りにしています。しかし、地獄の第7圏谷から第8圏谷まで落下している異様で神秘的な瀑布を喩えるには、この村の滝は規模が小さすぎることは確かです。おそらく、その村の滝を実際に観た人で、地獄の血の水が落ちる瀑布の情景を連想する人はいないでしょう。


下の二枚の写真は、サン・ベネデット・デル・アルペ山村の
ホーム・ページ(http://www.sanbenedettoinalpe.com/)に載っている教会と滝の写真です。


「千人もの人を収容しているサン・ベネディト・デル・アルペ」と
ダンテが詠んだ教会

サン・ベネット・デル・アルペ教会の写真

サン・ベネディト・デル・アルペの滝ともアクワケータの滝とも呼ばれ
ダンテの地獄の瀑布に喩えられた滝

アクワケータの滝の写真


怪物ゲリュオンのおびき寄せ

怪物ゲリュオン登場
ギュスターヴ・ドレが描いたゲリュオン


 ダンテたちが次の圏谷へ進むためには、滝を降りなければなりません。先導者ウェルギリウスは、そのための支度を始めました。そしてダンテは、先達の指示に従って、次の様に行動しました。

 私は腰のまわりに縄帯をしめていた、この縄でもって斑目の豹を掴まえてやろうと考えたことも一度はあったのだ。先達に命じられた通り、私はその縄帯を腰からすっかり解きおえ、束に結んで先達に渡した。すると先達は右手を向き、崖縁から少し離れたところから、深い谷底めがけてそれを抛りこんだ。(『地獄篇』第16歌106~114、平川祐弘訳)

 縄を帯にして腰に巻いたのは、清貧の尊さを説いたことで有名な聖フランチェスコを祖とする教団の特徴でした。『天国篇』第11歌のほとんどの部分をフランチェスコの称賛に費やしていることからも推測できるように、ダンテは青年時代にその教団に傾倒していました。上の引用詩文の記述通り、ダンテは「彩色の派手なメス豹(la lonza a la pelle dipinta)」を「縄帯(corda)」で捕らえようとしていました。すなわち、そのメス豹は肉欲の象徴なので、青年のダンテは、フランチェスコ会の修行をすることによって、おのれの多情多恨を抑えようとしたのでしょう。(「地獄巡り1.地獄界への旅立ち」)と煉獄登山の旅装束を参照


怪物ゲリュオンのおびき寄せ

 ダンテが若いころ淫欲の象徴であるメス豹を捕らえようとした縄帯を使って、今回はウェルギリウスがゲリュオンをおびき寄せようとしました。そのおびき寄せの場面を、プリモ・デラ・クェルシャ(Priamo della Quercia, 1400~1467)は下の様に描いています。


プリモのゲリュオン釣りの部分

 その挿絵から推測すると、縄帯を釣り糸のように使って、魚釣りの要領でゲリュオンを釣り上げた様相になっています。しかしダンテの詩文を読む限り、「釣り上げる」のではなく「餌を投げて誘い出す」方法を使っているようです。上の引用詩文によれば、ダンテが縄帯を「束に結んで先達に渡した」となっています。原文では「束に結んで」は‘aggroppata e ravvolta(丸めて巻いて)」となります。ということは、ダンテは腰帯を鞠や玉のように丸めて手渡し、先達ウェルギリウスが、それをボール投げのように谷底へ放り投げたのです。
 先達ウェルギリウスは、愛欲を制御する縄帯で作られた鞠を餌にして、ゲリュオンを誘い出そうとしました。そのゲリュオンが餌に釣られて上ってくる様子は次のように描写されています。



 私は見たのだ、あの重苦しい暗い大気をよぎって、とあるものが泳ぎつつ上の方に向かって来るのを。それは気丈な人でも驚くような異形だった、ちょうど、時々海底の隠れた岩かなにかに引っ掛かった錨を引き揚げるために、水底へ潜った男が戻って来る途中、上体をのばして足は縮めた、そんな格好だった。(『地獄篇』第16歌130~136、平川祐弘訳)


 次回は、いよいよゲリュオンが「気丈な人でも驚くような異形」を現し、ダンテとウェルギリウスを下の第8圏谷へ連れて行くことになります。