『神曲』地獄巡り20.火炎砂漠の横断 | この世は舞台、人生は登場

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川縁の堤を渡って火炎の砂漠を横断します


  第7圏谷の三つの円環の図
第7圏谷の3円環


 自殺者の森を源流として火炎が降り注ぐ砂漠を横切って流れる血の川の堤防の上を、巡礼者ダンテと先導者ウェルギリウスの二人は進みました。『地獄篇』第15歌は、その堤防の描写から始まっています。

 高潮の奔流をおそれるフランドルの人が、ヴィサントからブリュッゲにいたるまで防波堤を築いて波浪の侵入を防ぎ、またパードヴァの人が町や城を守ろうとして、キアレンターナで雪溶けがはじまる前に、ブレンタ川に沿って土手を築く。それほど高くも幅広くもなかったが、この堤の造りはすこぶるそれと似ていた、誰が築いたかは別問題だが。(『地獄篇』第15歌4~12、平川祐弘訳)

 上の描写は、地獄の川に造られた土手の様子を、当時のヨーロッパに現存した二つの堤防に喩えた直喩です。まず最初の堤防は現在のヴィサント(ダンテの原文では当時の伊語「グイツァンテ:Guizzante」)からブリュッゲ(原文では当時の伊語「ブルッジャBruggia)」の間のドーバー・カレー海峡沿いに築かれた防波堤です。当時から、イタリア・フィレンツェとフランドル地方の諸都市とは交流・交易が盛んであったと言われていますので、防波堤の情報はダンテの耳にも入っていたことでしょう。またヴィサントにある港は、ユーリウス・カエサルがブリタンニア遠征の時に使った「イティウス港(Itius Portus)」と同一視されています。

フランドル地方の防波堤

 二番目の直喩素材は、パドヴァ市に築かれた堤防をです。オーストリアの最南部でイタリアとの国境をなしているケルンテン州(Kärnten:現代伊語では Carentana、ダンテの原文では Chiarentana)に積もった雪が溶けて、カルドナッツォ湖を源流とするブレンタ川が洪水を引き起こすので、パドヴァの市民が堤防を築いたようです。下の参考地図を見れば分かりますが、地理的には余りのも遠大すぎて、雪融けと洪水のからくりの真偽の程は分かりません。しかし、北イタリア地方は、フィレンツェを追放されたダンテが放浪した本拠地ですから、彼が得た情報には間違いはないでしょう。

パドヴァのブレンタ川の堤防
ブレンタ川の流域地図は筆者が書き足した大凡のものです。

 ダンテが直喩の中で地名を使うとき、多少の未熟さを露呈します。直喩というものは、本来はその内部の表現が本筋の内容を補足説明する機能を持つものです。ダンテの地名入り直喩には、本筋の中で喩えられている対象のイメージを豊かにする効能を持っていないことが多いようです。第2円環の自殺者の森をチェチーナの森に喩えた直喩なども、前者の神秘性を減少させてしまっていました。むしろ、チェチーナの森の方が、自殺者の森の不気味で異様なイメージを吸収して、この世にも神秘的な森が存在するのかと読者に思わせる効果が出ています。本来ならば、直喩法としては失敗作のはずです。北海の荒波を防ぐ防波堤も、パドヴァに造られたブレンダ川の堤防も、火炎が降りしきる血の川の堤を喩える直喩の素材としては適切ではなかったかも知れません。地名が使われていても効果を十分に発揮しているミルトンの『失楽園』の直喩を紹介しておきましょう。

  サタンは立ち上がり、まだ天使の姿をとどめた彼の軍勢を呼んだ。堕落天使たちが失神して横たわっている様は、ヴァロムブローサの小川を覆う秋の落ち葉さながらに密集していた。その地では、エトルリアの森が弓状の天井となり木陰をつくっている。または、激しい風で武装したオリオンが紅海の岸を混乱させる時、散乱した水に流れる菅の葉と同じように密集していた。(ミルトン『失楽園』第1巻300~304、筆者訳)

 このミルトンの直喩は、フィレンツェの東およそ20㎞にある「ヴァロムブローサ(Vallombrosa)」が秋の紅葉の名所で、地面が一面に落ち葉で覆い隠される森であることが分かり、堕落天使たちが天国の戦いに敗れて倒れている様子と調和しています。


自然の摂理に暴力を振るった者たち


 第7圏谷第3円環の火炎地獄でもこの近辺は、神が規定した自然の摂理に違反した者たち、とくに男色の罪を犯した亡者たちが刑罰を受けていました。ダンテはウェルギリウスに先導されて、靄に覆われてた堤を進みました。もはや森が見えないほど遠くまでにやって来たところで、亡者たちの一団と擦れ違いました。その集団が近づいてくる場面は、ダンテの才能が最も発揮された直喩によって、次の様に描写されています。

 彼らは岸沿いにやって来る。亡者が一人一人私たちを眺める、ちょうど新月の夕暮れに、たがいに顔をつきあわせたような格好で、私たちの方を眸をこらしてじっと観る様子は、年老いた仕立屋が針の目に糸を通す時のようだった。(『地獄篇』第15歌17~21、平川祐弘訳)


 上の詩文の表現から、亡者たちの滑稽な仕草が鮮明に伝わってきます。しかも二本立ての直喩です。一本目は、暗闇の中で相手を見極める行為で、二本目は仕立屋の行為です。先ず最初の直喩は、「夕暮れ時(da sera)」で、しかも「新月の下(sotto nuova luna)」でしたので、すれ違う人も暗くて誰か見分けがつかない情景が描かれています。短い表現の中に、相手を確かめ合う仕草が簡潔に描き尽くされています。二番目の直喩は、「年寄りの仕立屋(vecchio sartor)」が針に糸をとおす様子が描かれています。二つの直喩とも、ひとみを凝らして相手を確かめるという所作を喩えたものです。前者の仕草は、黄昏どきの薄暗がりの中であれば、誰にでも普通に起こる当たり前の出来事です。それに反して後者の直喩は、老人の仕立屋という特殊な人にしか起こらない出来事です。ダンテ学者の間では、この二種類の直喩を区別して、前者は「一般的な場面(genaral scene)」によって喩える直喩、後者は「特殊な場面(particular scene)」で喩える直喩と呼ばれることがあります。



ブルネット・ラティーノという亡者


ダンテを呼び止めるブルネット


 その一団の中から、ダンテを知っている者が立ち止まって、裾をつかんで呼び止めました。最初は、その亡者の顔が火に焼け焦げていたので分からなかったのですが、よく見るとブルネット・ラティーノでした。ダンテは、驚いて思わず「ブルネット先生、ここにおいででしたか」と叫びました。 原文では‘ser Brunetto’と呼ばれています。‘ser’とは、当時は地位の高い者に付ける、「殿下」とか「閣下」に相当する敬称であったと言われています。『地獄篇』の中の第9圏谷第3円環トロメーアにいるブランカ・ドーリアも‘ser’の敬称を付けて呼ばれています。ここでブルネット・ラティーノについて、彼の略歴を少し見ておきましょう。

ブルネット・ラティーノの肖像画

(資料は、パゲット・トインビーの『ダンテ辞典』A Dictionary of Proper Names and Notable Matters in the Works of Dante)


1220年 ブルネット・ラティーノ(Brunetto Latino)は、フィレンツェの有力なグェルフィ(教皇派)党員ブオナコルソ・ラティーニ(Buonaccorso Latini)の息子として誕生しました。(ダンテは「ラティーノ」と呼んでいますが、一般的には父と同じく「ブルネット・ラティーニ)と言います。
1248年 ギベリーニ(皇帝派)党が勢力を持ち、グェルフィ党(教皇派)をフィレンツェからの追放した。ただし、数年後、グェルフィ党はフィレンツェに戻って来る。
1253年  ブルネットは公職に就きました。
1254年 公証人の資格を獲得しまた。少なくとも二つの公式文書に認証の署名をしています。(4月20日と8月25日の証書の彼の認証が現存しているそうです。))
1260年 ギベリーニ党とその党を支援するシチリア王マンフレディ(1232~1266)との対決に支援を求めて、当時のスペインにあったカスティーリャ国の国王アルフォンソ10世の元に特使として派遣されました。
  1260年9月4日のモンタペルティの戦いで、グェルフィ党は、ギベリーニ党に敗れてフィレンツェから国外追放になりました。ブルネットは、スペインから帰る途中に、ボローニアから来たという学徒から、その自党の敗戦を聞きました。そのために、ブルネットはイタリアへの帰国を断念しました。
1263 年9月 パリに在住。
1264年4月 バール=シュル=オルブ (Bar-sur-Aube)に在住。
フランス亡命の間に、イタリア語の韻文による教訓詩『宝典(Tesoretto)』とフランス語の散文による百科全書『知識の宝典(Li Livres dou Tresor)』を書き表しました。後者は、俗語(近代ヨーロッパ語)で書かれた最初の百科事典だと言われています。
1265年 ダンテ誕生
1266年 ベネヴェントの戦いにおいて、教皇の要請を受けたフランス王ルイ9世の弟シャルル・ダンジョウ(Charles d'Anjou)が、シチリア王家を滅亡させました。
 ブルネットは、トスカナ地方からギベリーニ党が一掃されたことを知って、フィレンツェに帰って来て、公職に復帰しました。

1269年 フィレンツェで、公証人に復帰しました
1270年 シャルル・ダンジョウに任命されたトスカナ地方の司教総代理ガイ・ドゥ・モンフォール(Guy de Montfort:伊語ではGuido di Montfort)のピサ市での公証人に任命されました。
1273年 フィレンツェ共和国の行政官になりました。
1275年 公証人協会の総裁(Console della Gilda Notarile)に任命されました。
1280年 ギベリーニ(皇帝派)党が勢力を盛り返し、グェルフィ党との衝突がおこりました。ブルネットは、ラティーノ枢機卿によって両陣営の調停委員の一人に選ばれました。
1284年 フィレンツェ政府の二名の行政長官のうちの一人に選ばれました。
1287年8月15日~10月15日  フィレンツェ共和国の執政官(プリオレ: priore)を勤めました。
1289年6月11日  フィレンツェ郊外カンパルディーノ(Campaldino)の戦い、ギベリーニ党は壊滅しました。24歳になったばかりのダンテは騎馬兵として参戦しています。
1294年 ブルネットは74歳で死去しました。


ダンテと話すために集団から離れたブルネット

 
 ブルネット・ラティーノは、ダンテと話をするために集団から離れました。ダンテが隣に腰をおろしましょうか、と申し出ますと、次の様に答えました。

 この群の中で少しでも立ち止まる者は、その後百年の間横になって、火の粉にさらされ、さいなまれるのだ。だから先へ行け、私がおまえについて行く、その後で私はまた自分の仲間に戻ろう、永劫の刑罰に泣きながら進む仲間なのだ。(『地獄篇』第15歌37~42、平川祐弘訳)


 生身のダンテにとっては、炎熱の砂の上に降りて、その亡者ブルネットと並んで歩くことはできません。かといって、その亡者は、ダンテが敬愛して止まない大先生ですから、うやうやしく頭を下げて歩きました。


身を屈めて歩くダンテ


 ブルネット先生は、ダンテに「どうして最後の日の前に(anzi l'ultimo dì)下界にきたのか」と尋ねました。ダンテはそれに答えて、上の世界で道に迷っていたところをウェルギリウスに助けられて巡礼していることを話しました。するとブルネットは、ダンテの師らしく次の様な言葉で励まし、また予言をしました。

 君は君の星に従って進むなら、現世で見たてた私の眼に狂いがなければ、まちがいなく栄光の港へ着けるはずだ、私があれほど早死しなかったなら、天が君にかくも幸いしているのを見た以上、私は必ずや君の仕事を励ましたにちがいない。(『地獄篇』第15歌55~60、平川祐弘訳)

 ブルネットの「現世で見たてた私の眼に狂いがなければ」という言葉で、ダンテとの間に師弟関係があったことを表しています。イタリア文学者フランチェスコ・デ・サンクティス(Francesco de Sanctis、1817~1883)は、ダンテもグィド・カヴァルカンティもブルネットの弟子であったと述べています。ブルネットは、実際に教えたダンテを有能な人物と認めて、「栄光の港(glorioso porto)」に着けると予言しています。その「栄光の港」とは、文学的・政治的な出世栄達を意味していると考えるのが妥当でしょう。しかし、『神曲』には比喩的・象徴的に「目的地」を表す港の他に、二つの港が「冥界の地図」にはあります。最初の港は、三途の川で船頭カロンが悪人を乗せる船着き場です。もう一つは、ダンテがカロンに脅しつけられて「他の道、他の港を通って、浜辺に来るがいい、ここを通すわけにはいかぬ。おまえにはもっと軽やかな舟の方が似合いだ」と言われた港です。その港はこの先の煉獄に着くための港です。



地獄の港
地獄の港

煉獄の港
煉獄の港

 ブルネットは、文学的才能においても政治的手腕においても卓越した能力の持ち主でした。彼が、「早死しなかったなら、・・・私は必ずや君の仕事を励ましたにちがいない」と言ったとき、そのダンテの「仕事(opera)」とは、文学的には『神曲』の執筆活動のことになるでしょう。しかし、この箇所では文学的なことはひと言も触れられていません。『神曲』の執筆を応援するのは、天国の火星天にいるダンテの祖先カッチャグイダです。(「地獄巡り10.のダンテの家系図参照)この地獄にいるブルネットは政治の話題に集中して、言葉を次の様に続けます。


 だが古代にフィエーゾレの丘から降りてきたあのひねくれた忘恩の徒は、山出しの依怙地な性格がぬけていない、君が良いことを行えば、必ずや君を憎むだろう、無理もない話だ、渋い七竈(ナナカマド)の間では、あまい無花果(イチジク)の実は結ぶ道理はない。(『地獄篇』第15歌61~66、平川祐弘訳)


 フィエーゾレは、フィレンツェの北東に位置する丘の上の町なので、フィレンツェ市街とアルノ川流域を見晴らせる地形にあります。イタリアの古代の歴史は、ほとんどがレジェンドの世界ですから、何通りもの説があり、時代考証が食い違うこともあります。私のブログ「地獄巡り17」でフィレンツェの成り立ちの歴史に触れました。その箇所に適合した歴史は、「フィレンツェは、ユリウス・カエサルの義理の伯父ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(Lucius Cornelius Sulla Felix(前138~前78)によって、アルノ川流域の肥沃な土地が開拓されて、紀元前80年ごろ建造された」というものでした。今回のフィエーゾレとフィレンツェの伝説的歴史は、また別種のように感じられます。
 古代(紀元前3世紀頃)において、フィエーゾレはエトルリアに存在した12の町の一つであったと言われています。フィエーゾレ人たちは、丘の上の町がローマ人に侵略されたとき、山の下に逃れて、ローマからの侵略者と一緒に、アルノ川の流域にフィレンツェを建造しました。ダンテは、その時に移住してきた二種類の住人について、ローマからやって来た市民は高貴な貴族で、フィエーゾレから降りてきた住民は平民であると考えていました。当然、ダンテは、自分自身をローマ人だと信じていました。上の詩文の中の「山出し」の原文は‘del monte(デル モンテ’で、「依怙地(いこじ)な」の原文は‘del macigno(デル マチーニョ)’です。ボッカッチオは、前者を「田舎者で粗野な性格」と、後者を「粗暴で世間に従わない性格」と注釈を付けています。
 1302年、そのフィエーゾレの山から降りてきたフィレンツェ人が裏切り、フィレンツェの平和を願うダンテの「仕事(opera)」を挫折させることになる、とブルネットは予言しているのです。そして彼は、「早死にしないで」生きていたら、ダンテを助けてやれるのに(残念だ)と言っているのです。


ダンテはブルネット先生からどこで教育を受けたのか


 ダンテがブルネットから、直接に教育を受けたことは、定説になっています。しかし、その根拠は、下の詩文に書かれている内容だけ鴨知れません。

 先生が現世でおりにふれて、人はいかにして不朽の名声を得るかを教えてくださった時の慈父のような優しい面影が、脳裡に刻まれていて、今、私は感動を禁じえません。私がいかほど先生に恩を感じているか、私は生きている限り、世に語り世に示すつもりです。(『地獄篇』第15歌82~87、平川祐弘訳)


 ダンテは上の詩文の中で、ブルネットが「この世にいる時(quando nel mondo)」、「ときどき(ad ora ad ora)」、「どのようにして人間が不朽の名声を得るかを(come l'uom s'etterna)現代伊語eterna」、「私に教授してくださいました(m'insegnavate)」と明言しています。しかも動詞「教授する(insegnare)インセニャーレ」は、英語の〈過去進行形〉に相当する半過去時制の二人称単数形(insegnavi)ではなく、ブルネットに尊敬を表す複数形で話しています。ダンテが自らの言葉で「私に教授した」と証言しているのですから、両者の間に直接の師弟関係があったことは疑う余地などない筈です。しかし、その師弟関係に疑義を挟むダンテ学者もいます。
 先に出してありますブルネットの年譜を見れば分かりますが、ダンテが生まれた年には、ブルネットは45歳になっていました。それ以後のブルネットは、次から次へと国の要職に就いていましたので、誰かを教えるなどという時間的余裕などなかったに違いありません。1294年、ブルネットは74歳で死去したとき、ダンテは29歳で、フィレンツェの政治の表舞台に登場しかかっていました。それゆえに政治家としての両者の間には何らかの親交はあったことは、容易に推測できます。現代でこそ、ダンテの師であったということでブルネットの評価は高いのですが、おそらく当時は立場が逆で、ブルネットの弟子であったということが高い名誉であったに違いありません。ダンテが『神曲』のこの場面を執筆している時期は、ブルネットが死んで10年以上も経っていますので、事実を知るものはほとんどいなかったことでしょう。あの著名な学者で政治家のブルネット・ラティーノから教育を受けたと言えば「箔」が付いたのではないでしょうか。この第7圏谷第3円環の地獄の小川の側にいる亡者は、自然の法に逆らった男色の罪を犯した罪人たちだと言うことになっています。それゆえに、ブルネットも、この後に出る亡者たちも男色者ということになりますが、そうであったいう記録はないようです。もし、ダンテがブルネットを本当に恩師だと思っていたならば、地獄には落とさないで、天国とまではいかないにしても、煉獄のどこかに置いていたのではないでしょうか。事実、ダンテは『俗語詩論』(1巻13)の中では、ブルネットの業績を「宮廷風の俗語を目指そうとせず、・・・ 地方的なものにすぎない」と軽視しています。一方、好色で有名だったグイド・グイニツェルリは煉獄にいます。グイドのことは煉獄で詳しく見ることにします。



画家ジョットのダンテ肖像画

 以上のような事情に照らすと、バルゲッロ(Bargello)国立博物館にある、ダンテと親交があった画家ジョット(Giotto di Bondone、1267~1337)が描いた下の絵画の通説には矛盾が出てきます。


ダンテとブルネット

 上のフレスコ画は、ジョットが描いたダンテの肖像画として有名なものです。ダンテ(手前)の向こうに描かれている人物がブルネットだとされています。しかし、どう見てもブルネットとされる人物がダンテより45歳も年長だとは思えません。このジョットの作品に人物設定をする必要があるならば、ブルネットはもう一人向こうの老人ではないでしょうか。ではブルネットだと思われていた人物は誰でしょうか。私だけの独断的推測ですが、ダンテの親友グイド・カヴァルカンティではないでしょうか。


 ダンテは、ブルネットと歓談しながら小川の土手を進みました。ダンテが、その一団の中で「あなた様の道連れの中で一番有名で一番偉い人(li suoi compagni più noti e più sommi)は誰かと尋ねました。するとブルネットは「何人かの者を知ることは良いが、他の者については黙っておくことが良い」と言って、コンスタンティノープルのラテン文法学者プリスキアヌス(Priscianus,イタリア名Priscian プリシアン)と、法律学者でボローニャ大学と英国オックスフォード大学でも教鞭を執ったフランチェスコ・ダッコルソ(Francesco d'Accorso)の二人の名前を挙げました。しかし、彼らが男色者であったという根拠は見つかっていません。その一団にいた他の人物には、聖職者たち(cherci、現代イタリア語ではchierici)や学者たち(litterati、現代イタリア語ではletterati)が多くいると描かれていますが、確たる証拠があるわけではないようです。ボッカチオも『神曲』の注釈の中で指摘していますが、それらの偉大な僧侶や学者が男色者であった根拠は乏しいと指摘して、だだしその様な職の偉人たちの周囲には、若者が多く集まり、交友も親密であるため、男色の罪を犯しやすかったことは事実のようです。

 ブルネット・ラティーノは、後方に次の一団が歩いてくるのが見えましたので、彼の著書『宝典』をダンテに推薦して、自分の集団へ一目散に戻って行きました。そしてダンテとウェルギリウスは、さらに小川の土手の上を進みました。するとミツバチの巣箱で起こるブンブンという音を立てて、小川の水が滝となって下の方へ落ちている場所に着きました。