『神曲』煉獄登山46. 煉獄は島である | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

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神曲の地球儀

煉獄は山であり島でもある

 

   煉獄が山であることは、『煉獄篇』を読み進む間に何度も繰り返し認識させられます。そして一方、煉獄が「島」であることも誰もが認めるところですが、それを明示する箇所は、意外にも極めて少ないのです。

   ダンテたちが地獄を脱出して煉獄に足を踏み入れた時、管理人カトーに出会い、彼から煉獄登山の心得を伝授されました。そしてその時、カトーは、ウェルギリウスに命じて、ダンテに次のような浄罪の旅支度をさせました。

 

   さあ行け、しなやかな藺草の茎でこの男の腰を巻き、その顔を洗っていっさいの汚(けが)れを落としてやれ。悪夢に曇った目で、天国のお使いの中の第一等の方の御前に出るわけにはゆくまい。(『煉獄篇』第1歌 93~95、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   さあ、それでは行きなさい。そして、汝(ウェルギリウス)はしなやかな藺草でこの男(ダンテ)を巻き、それに続いて、すべての汚れを消すために(この男の)顔を洗うように努めなさい。なぜならば、何か靄(もや)のようなものによって不意に襲われた目では、天国のあの使者たちに所属する中の第一の使者の前へ行くには適切ではないためである。

 

   上の詩行は、煉獄を旅するダンテの服装を推測するために重要な箇所だと言えます。とくに、「しなやかな藺草を(腰に)巻く(ricinghe d’ un giuno schietto)」という記述は、清貧を尊ぶアッシジのフランチェスコ(Francesco d'Assisi、1182~1226)が創始したフランチェスコ会の服装を連想させます。また、地獄を巡ってきたために汚れた顔と目を洗って「第一の使者の面前に出る(andar dinanzi al primo ministro)」ことになると忠告されます。おそらく、その第一の使者とは、煉獄門の門衛天使を指すと解釈するのが妥当でしょう。それゆえに、ダンテの煉獄登山の装束は、藺草の縄帯を腰に巻いていたことになります。その詩句から推測すると、少なくとも煉獄門まではそのような服装であったことは確かです。

 

アッシジのフランチェスコ

チマブーエ(Cimabue, 1240頃~1302頃)作

 

 

   煉獄の管理人カトーは、煉獄の旅装束に藺草の縄帯を巻くように指示してから、その草の群生する場所を次のように教えました。

 

   この小島のまわりのずっと低いあたりには、波打際(なみうちぎわ)の軟らかな泥土(どろつち)の中から藺草が何本も生えている。そのほかの草木(くさき)は、葉が茂ったり硬くなったりするから、長生きができぬ。打たれてもなびこうとしないからだ。藺草を結んだら、ここへまた戻るには及ばぬ。もう日が昇ってきた、山へ登る一番楽な坂道を照らしてくれるだろう。(『煉獄篇』第1歌 100~108、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   この島は、最も下の部分(水際)の周囲に、波がこの島を打ちつける向こうのあそこの下で、(この島は)軟らかな泥地の表面に藺草を持っている(提供している)。枝葉を生やすか、または枝葉を硬くするような他のいかなる草木も、ここでは生存できない。なぜならば、そのような草木は(波の)殴打に服従しないからだ。その後は、ここでは汝たちの引き返しは期待されない。いま昇っている太陽は、汝たちに現れて、もっと軽い登りで山を進むようするであろう。

 

   『煉獄篇』は総計4,755行から成り立っていますが、煉獄界が「」であると明言されている箇所は、私の推測が正しければ、この一度だけで、それが上に引用した詩行の中です。そして、その箇所は、ちょうど『煉獄篇』第1歌の100行目にある「島」で、原文は「isoletta:イゾレッタ」です。そのイタリア語は、「isola:イーゾラ」に〈-etta〉という縮小辞を付けた変意名詞なので、「小島」と訳すのが一般的です。しかし、私個人としては、煉獄島を「小さな島」と解釈することには多少の違和感を覚えます。それゆえに、その接尾辞には「親愛」を込める機能もあるので、「愛すべき山」や「麗しき山」という感情も含めた解釈をすべきだと、私は主張しています。

 

   煉獄は島なので海辺があり、そこには「藺草(いぐさ)」が群生しています。その草は、「枝葉を生やす(facesse fronda)」ことはなく、また枝葉を「硬くする(indurasse)」こともありません。その藺草の特性は、フランチェスコ会の思想である「清貧」と「寛容」と「博愛」を表していると考えられます。それらは、煉獄の浄化の旅にとっては重要な要素です。

 

   ダンテとウェルギリウスは、地獄界から伸びる通路によって煉獄界に到達しましたので、そこに着いた時点ではそこが島であることを認識してはいなかったはずです。ところが、到着してすぐに出会った煉獄管理人カトーの「この島」という言葉から、ダンテはそこが島であることを知ったことになります。ということは、巡礼者も読者も煉獄登山を始める時には、すでにそこが「島」であるという情報は持っていたことになります。それゆえに、その後に続く長い『煉獄篇』の作品の中で「島」という言葉が一度も使われてはいなくても、「煉獄は島である」という前提で物語は進行していきます。

 

 

煉獄島の船着場の光景

 

   巡礼者ダンテは、先達ウェルギリウスに導かれて、しかも地獄界を経由して陸路で煉獄に辿り着きました。しかし、他の善良な死者たちは、海原を越えて煉獄にやって来ます。その到着の模様は、次のように描写されています。

 

   すると、朝方近く、濃い蒸気(もや)を通して火星は西の方(かた)、海原(うなばら)の上で赤く燃えるが、それに似た一条の光が、空飛ぶ鳥をも凌(しの)ぐ速さで、すばやく波を渡って近づいて来た。ああ、いま一度この光を仰げるとよいが!(『煉獄篇』第2歌13~18、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

  

〔直訳〕

   そして、見よ、火星は、曙が急にせまり、西の方角の低いところ(=低い空)の海面の上で、濃い朝靄の中では赤く光る。そのように(光ながら)一つの光が海を渡ってやって来るのが見えた。その光の動きは、いかなるものが飛ぶのも敵わない速さであった。願わくは、私がそれをもう一度見られますように。

 

   上の詩行に描かれた場面は、煉獄行きを許された霊魂たちを満載して、天使の船が近づいてくる光景です。この詩行は、遠方に見える天使の船を、早朝に西の空の水平線上に濃い靄を透して光る火星に喩えた直喩表現です。それゆえに、6行の詩の上3行(13~15)は「喩えるもの」すなわち「朝靄の中で赤く光る火星」の描写で、下3行(16~18)は「喩えられるもの」すなわち「海を渡って近づいてくる天使の船」の描写です。ダンテの天文学的知識では、火星が出るとその星の熱によって霧や靄のような水蒸気が発生して、星自体も赤く光ると考えられていました。ダンテ自身は、トスカナの海岸から西の空に現れた火星を見ていて、その記憶によって直喩を描いたのでしょう。それゆえに、「西の方角(nel ponente)15」は、「火星が赤く燃える(Marte rosseggia)」場所であるに過ぎません。では、後に天使であることが判明する「一条の光」は、どの方角からやって来るのでしょう。結論を先に言えば、「東」の方からやって来ます。

   ダンテたちが煉獄の船着場に着いたのは、日の出間近の「あけぼの」の時間でした。その場面は、次のように描写されています。

 

   (ひ)はすでに水平線に姿を見せた。・・・こうして私がいた煉獄の島では、美しい曙の白くほの朱(あか)い頬(ほほ)が、時とともに燃えたつような柑子色(こうじいろ)に変わっていった。(『煉獄篇』第2歌1~9、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   すでに太陽は水平線に到達してしまっていた。・・・私が居た場所では、美しい暁の白く赤みがかった両頬は、過度の年齢のために(=時間が経過し過ぎたので)オレンジ色に変わりつつあった。

 

   上の描写から判断できることは、ダンテが今にも水平線から昇ろうとしている太陽の方角を向いているということです。すなわち、ダンテが向いているのは東の方角なのです。それゆえに、天使の船が発している「一条の光」は、東の方角から接近していると解釈するのが妥当なのです。すなわち、東の方から接近してくる「一条の光」の姿を、西の水平線上で濃い靄を透して見える「火星」の状態に喩えているのです。

 

   以上のように小さく見えていた光が、煉獄島に接近するにつれて、天使の姿が明らかになりました。その様子は次のように描写されています。

 

   私たちの方へ近づくにつれて、神の鳥の姿は明るさを増し、もはや近くから目をあけていることもできず、私は目を伏せた。すると少しも水に呑(の)まれずに、すばやく快走する、軽やか舟に乗り、天使が岸をさして進んで来た。 (『煉獄篇』第2歌37~42、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   それから、神の鳥がだんだんと私たちの近くにやって来るにつれて、より明るく見えていた。近くに来るとそれ(=神の鳥)に視力は絶えられなかったから、私は下を向いた。そして、彼は、高速で軽快な船で岸へと進んで来たので、水は少しもその船を呑み込むことはなかった(=水に浸ることはなく水面を滑った)。

 

天使の連絡船の着岸

 

   「神の鳥(l’uccel divino)」とは、言うまでもなく「天使」のことです。その天使が近づくにつれて姿は鮮明になるのですが、光明も強くなるので輪郭は不鮮明になりました。そして、その船は、海面に触れる前に前進するので、海水に触れることもありません。そして、ついに船着場に接岸しました。その時の船の様子は、次のように描かれています。

 

   天の船頭は艫(とも)に立っていたが、文字通りに幸ふかい姿であった。百余の魂がその中に坐り、・・・ (『煉獄篇』第2歌43~45、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   船尾の所には操舵天使がいて、彼は刻まれることによって至福の神霊のようであった(=彼の上に至福の霊という文字が彫り込まれているようであった)。百人以上の霊魂たちがその(船の)内部に座っていた。

 

   そして、船が接岸すると、乗船している百人以上の霊魂たちによって聖歌『詩篇113』の大合唱が行われます。その光景は、次のように描写されています。

 

   「イスラエルの民(たみ)エジプトをいで」を、みな声を和して歌っていた。その聖歌に記された歌詞をすべて歌いおえると、天使は人々みなのために聖十字架のしるしを切った。すると人々はあいついで浜辺に降りた。そして天使は、来た時と同様、すばやく立ち去った。(『煉獄篇』第2歌 46~51、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   「イスラエルの民のエジプトからの脱出のときに」。その歌詞のあとに続いて書かれている聖歌(の詩)をすべて使って、彼ら(霊魂たち)全員が一緒に一つの歌声で歌っていた。(歌い終わった)その後で、彼(天使)は、聖なる十字架の印を彼ら(霊魂たち)に行った。その結果、彼ら(霊魂たち)は、全員、海岸の上に飛び降りた。そして、彼(天使)は、来た時と同じように迅速に立ち去った。

 

   この世(現世)と、あの世である煉獄との交通手段は、操舵天使が操縦する船だけです。なぜならば、現世と煉獄との間には誰も往来することのできない広大な海が横たわっているからです。すなわち、煉獄は大洋の真ん中に聳える島なのです。そして、その島に来ることが許された霊魂たちは、喜びの歌を合唱して煉獄島に上陸します。

 

 

 

もう一隻の連絡船

 

 

   この世とあの世を往復する連絡船は、天使が操舵する煉獄島行きの船の他に、三途の川アケロンを渡るためのカロンが漕ぐ地獄行きの船があります。『地獄篇』では、下船の場面は描写されていませんが、無理矢理に乗船させられる様子は次のように描かれています。

 

   それからみな大声をあげて泣きながら呪われた三途(さんず)の河岸(かし)に集まった、神を畏(おそ)れぬ者どもはみなここを通る定めなのだ。カロンは鬼のような燃えさかる目つきで、みなを睨(にら)んで舟の中へ集め、ぐずぐずする者は容赦なく櫂(かい)でひっぱたいた。 (『地獄篇』第3歌 106~111、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   その後、洗いざらい全員が、強烈な叫び声で泣きながら、邪悪な岸へと引き出された。その岸は、神を畏れないすべての人間を待ち受けている。悪魔カロンは、彼ら(亡者たち)に指示しながら、すべての亡者を集めている。腰をおろそうとする者は、いかなる者も櫂で打ちつけている。

 

 

煉獄行きの乗船場

 

   地獄界においては、この世からあの世へ渡るにはアケロン川をカロンの船で運ばれます。一方、煉獄は、地球の南半球全体を占める大洋の中央に聳える島なので、北半球に存在する「この世」から煉獄という「あの世」へは船で渡らなければなりません。ここまで、煉獄の船着場で下船する模様を見てきました。では、この世では、どこで死者たちは船に乗るのでしょうか。その乗船場所とその模様は、現世ではダンテと顔馴染みであったカゼルラ(Casella)という歌手によって語られています。カゼルラは、乗船を待ちわびる様子をダンテに対して、次のように語っています。

 

   煉獄行きの人選や時期を一存で決める方(かた)が、僕の渡航の許可をなかなか出してくださらなかった。しかしとにかくその方(かた)の御意向は正しいのだ。だから別に酷(ひど)い目にあわされたわけではない。もっともここ三ヶ月来は、入国希望者はみな即座に許されてその方(かた)の舟に乗っている。 (『煉獄篇』第2巻94~99、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   誰を気に入って何時(いつ)乗船させるかを決める人(操舵天使)が、たとえ何回もこの船旅から私を拒絶したとしても、私に乱暴をなしたことには全くならない。なぜならば、彼の意志は正義の意志からなっているからだ。実のところは、三ヶ月前からずっと今でも、彼は乗船することを望んだ者を、まったく安らかに引き受けてきている。

 

  「誰を気に入って何時(いつ)乗船させるかを決める人(quei che leva quando e cui li piace)」とは、「来た時と同じように迅速に立ち去った(el sen gì, come venne, veloce)51」天使を指します。ということは、地獄行きか煉獄行きかを決めるのは「神の専権事項」ですが、舟に乗せる順番は操舵天使に全権が委ねられているということでしょう。その天使の審査は厳しくて、カゼルラにはなかなか乗船許可がおりませんでした。ところが、この三ヶ月の間 (da tre mesi)は、拒否されずに乗船が許されてきました。その原因は、教皇ボニファティウス8世によって発令された「聖年」(ラテン語:Iobeleus、伊語:Giubileo、英語:Jubilee)の大勅書でした。ダンテとカゼルラが煉獄の浜で出会った具体的な日付は、1300年の復活祭当日である4月10日(グレゴリウス暦:3月28日)に設定されています。そして、その宣言が教皇から発令されたのは、1300年2月22日であったと言われています。ただし、この時の聖年は、1299年のクリスマスから1300年のクリスマスまでと定められました。それゆえに、カゼルラが「三ヶ月前から彼は乗船を望んだ者は救われて来た(da tre messi elli ha tolto chi ha volute intrar)」と述べたのは、聖年の発令によって神の恩赦があったからでしょう。

 

   続いて、カゼルラは乗船場所とその模様を次のように明らかにしました。

 

       それで僕は、テーヴェレ川の水が潮とまじわるあたりで海を見てお迎えをお待ちしていたら、幸いにも舟に乗せてもらえた。その方はつい先刻もあの河口へ翼を向けた。三途の川に落ちない人は、いつでもあそこへ集まって来るのだ。 (『煉獄篇』第2巻100~105、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   そのために、私はテヴェレ川の水が塩分を含ませられる場所で海の方を向いていたら、彼(天使)によって慈悲深くも迎え入れられた。彼(天使)は、今しがたあの河口の方へと翼を向けたところだ。なぜならば、いつもあそこ(河口)で、アケロン川の方へ堕とされない人は誰でも集められているからだ。

 

 

   ダンテが煉獄行き連絡船の乗り場に設定している場所は、「テヴェレ川の水が塩辛くなる所 (dove l’acqua di Tevero s’insala)」すなわちローマを流れるテヴェレ川の河口付近(現在のオスティア:Ostia)ということになります。すなわち、死んで天国へ昇ることが許された霊魂は、全員がまずローマの海岸のテヴェレ川河口付近に集合してから、天使の操舵する連絡船に乗せてもらって煉獄へ船出したのでしょう。やはり、ダンテもローマを世界の中心であると考えていた証拠です。では、その河口からどの航路を通って煉獄へ到達したのでしょうか。その謎を解く手がかりは、オデュッセウスの航海譚にあります。それは、ホメロスの『オデュッセイア(オデュッセウスの航海譚)』ではなくダンテの「オデュッセイア」です。

 

 

煉獄大島

 

   煉獄は、現世で犯した七つの罪を浄化しながら最上段のエデンを目指して登るための山であると同時に、地獄界と同様に現世のあらゆる場所から隔離されて、逆戻りすることのできない島でもあります。煉獄山を登る所々で山の景色が描写されています。しかし、私の読解が正しければ、『煉獄篇』の中には山の全景を描写した個所は存在していないようです。ところが、『地獄篇』の中に煉獄山の遠景と全景を描写している個所があります。

   巡礼者ダンテが地獄巡りの途中で、第8圏谷の第8濠を通る時、権謀術策を行ったがために炎に焼かれているギリシアの英雄オデュッセウスに出会いました。そしてその時、現世のキルケの国を出帆して地獄に堕ちて来た経路が、オデュッセウス自身の口で語られていました。その英雄は、まず、北半球から南半球に向かって進路を取った時の状況を、次のように話しています。

 

   夜になればもう南半球の星々が次々と見えだした、そして北極星は低くなり、やがて海原の外へのぼらなくなった。 (『地獄篇』第26歌 127~129、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   もう一つの極(南極)のすべての星を、すでに夜が見るようになっていた。そして私たちの極のもの(=北極の星々)は低くなっていたので海の表面(水平線)から外へ上がることはなくなっていた。

 

 

 

   上の詩行の中で「私たちの極(nostro polo)」と呼ばれているものは、狭義では「北極」を意味しますが、広義的に「北半球」のことだと考えられます。また、「もう一つの極(altro polo)」とは必然的に「南極」と「南半球」を意味します。『神曲』で使われている地球は、南半球が陸地だけの半球で「陸の大陸 (Emisfero della Terra, Hemisphere of Land)」と呼ばれます。一方、北半球は、海だけの場所なので「水の半球 (Emisfero dell’Acqua, Hemisphere of Water)」と呼ばれます。ただし、地球創造の原初の時代から陸と水に二分されていたわけではありません。最初の地球は、全体が土で覆われた円形の陸地で、その周囲を大洋(オケアノス)が取り巻くように覆っていたと考えられていました。ところが、天国の戦争に敗れた悪魔大王ルチフェロ(サタン)が落ちて来て、南極付近から真っ逆さまに地獄の所定の場所に突き刺さりました。その時の魔王の落下の衝撃で、南半球にあった土石は北半球へ移動してしまいました。そしてその時、一部の土石が盛り上がり、隆起して煉獄島を形づくりました。その時の模様は、先達ウェルギリウスによって次のように説明されています。

 

   こちら側まで奴は天から落ちてきたのだ。もともとここにあった土地は、奴を恐れて海の中へもぐって北半球に逃げた。多分、こちらの南半球の表面にあらわれた土地も奴を避けてここに空間を残したのだろう。 (『煉獄篇』第34歌 121~126、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   (大魔王ルチフェロは)天から下へ落ちてきて、この部分で止まった。そして以前はこちら側にも突き出ていた陸地は、彼(ルチフェロ)に対する恐怖のために海をベールにして私たちの半球(=北半球)へ来てしまった。そして、おそらく(陸地は)彼(ルチフェロ)から逃れるために、ここに空っぽの場所を置き忘れてしまった。すなわち、その場所とは、こちら側にいま見えているあちら(=南半球)の陸地のことです。そして、ふたたび(陸は)上へ駆け上がった。

 

   以上のように、煉獄界は大魔王が天国から落下して地球に衝突した地点に隆起した島だということです。すなわち、「私たちの星が・・・水平線から上に上がらなくなった(il nostro non surgea fuor del marin suolo)地獄篇26歌128-129」とは、限りなく南極点に近づいたということです。そして、北極星と北極圏の星々が水平線の上に出なくなったので、オデュッセウスは彼の船が南極に接近したことを知ります。そして、船が南極点に接近した模様は、次のように描写されています。

 

   われわれが大海へ乗り出してから、月は五たび盈(み)ち、五たび虧(か)けた。その時はるかかなたに褐色(かちいろ)の山が一つ現れた。かつて見たこともないほど高い山のように思われた。(『地獄篇』第26歌130~135、平川祐弘訳) 

〔原文解析〕

〔直訳〕

   私たちが深い道(航路)に入った後に、月から下に射す光は、5回火を着けられ、同じ回数で火を消された。するとその時、遠くの方に暗褐色の山が私たちに現れた。そして、かつて見たことがなかったほど高いように見えた。

 

   上の詩行の中で描かれている、オデュッセウスが見た「暗褐色の山(montagna bruna)」は煉獄山である、と私は確信しています。オデュッセウスは、イタリアの南部地方にあったと想定されたキルケの島を出帆しました。そして、「海の道に入ってから(poi che 'ntrati eravam ne l'alto passo)132」すなわち航海を始めてから、月は5回火を着けて満月になり、5回火を消して新月になりました。すなわち、イタリアから南極にある煉獄島までおよそ5ヶ月を要したことになります。コロンブス(Christopher Columbus,1451-1506)がスペインのパロスを出帆して2ヶ月で新大陸に到着したと言われていますので、オデュッセウスの5ヶ月の航海はかなりの長旅です。しかし、前述した天使が操舵する「高速で軽快な船(un vasello snelletto e leggero)煉獄篇2歌41」は、ローマのテヴェレ川河口から煉獄島まで一瞬の時間で渡って来ます。

 

   現世から煉獄までは、操舵天使の船ならば超自然の速度で瞬時に運ばれますが、人間の船ならば何ヶ月もかかります。まさしく、煉獄は、大洋の真ん中に存在するので紛れもなく「島」なのです。また同時に、オデュセウスだけではなくどの人間も「かつて見たことのない高い(alta tanto quanto veduta non avëa alcuna)」山でもあります。そして、「見たことのない山」とは、現世には存在しない巨大な山という意味にもなります。煉獄山をそのように解釈するならば、巨大な山が聳え立つ煉獄島もまた巨大な島ということになるのです。煉獄島の浜辺に着いたとき、管理人カトーが、その島を「小島(isoletta)」と呼びましたが、それは「小さな島」という意味ではなく、「愛すべき島」とか「麗しき島」という親愛の感情を込めて呼んだのではないでしょうか。