『神曲』煉獄登山47.叙事詩人スタティウスとの邂逅 | この世は舞台、人生は登場

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   巡礼者ダンテと先達ウェルギリウスが第5環道を離れようとしていた時、その環道で貪欲の罪を浄め終えた一人の霊魂(すぐ後でローマの叙事詩人スタティウスであることが判明する霊魂)が追いついて来ました。そこで、地震に怯えていたダンテは、その霊魂から、煉獄では罪の浄化を自覚した時に大地震が起こる、という説明を受けて安心しました。そしてさらに、その霊魂は、ウェルギリウスの要望に答えて、自分の身の上を次のように語り始めました。

 

   いとも高き帝王の助けを得て、勇将ティトゥスが、ユダに売られた〔キリストが〕血を流したあの痛手(いたで)の讐(あだ)を討った。あのころ現世にいた私はまだ信仰を持たなかったが、名はかなり知られていた《とその亡者が答えた》その名は将来も伝わり私の誉れとなるだろう。 (『煉獄篇』第21歌82~87、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   有能なティトゥスが、非常に高い王の助力を得て、ユダによって売り渡されて血が流れた時、傷の仇を討った、その時代に、私はあちら(=現世)では、さらに多くの栄誉を伴って、とても有名であった。しかし、まだ信仰をともなっていなかった。《とその霊魂は答えた》

 

   ここで言及されている「立派なティトゥス( il buono Tito」とは、ユダヤ戦争の英雄で、後に父ウェスパシアヌスの跡を継いでローマ皇帝になった人物です。そのティトゥスは、西暦39年に生まれ81年に亡くなったので、煉獄第5環道からの同伴者スタティウス(45~96)とは、ほぼ同時代人ということになります。

 

ユダヤ戦争

 

   ローマがまだ共和制であった時代には、ユダヤにとってローマは宗主国のような存在でした。すなわち、ユダヤはローマの属国であると同時に保護国でした。それゆえに、ローマの執政官グナエウス・ポンペイウスがユダヤの国王を任命しました。後に、ローマが帝国となると、ユダヤは直轄の属州となり本国から送られた貴族階級の者が「総督」として統轄するようになりました。西暦1世紀のユダヤ属州は、ユダヤとサマリアとイドゥミアを併合した広い領土となり、首都は、ローマ本国との海上交通の要所カイサリア(Caesarea)と定めました。

 

 

   ユダヤ属州は、ローマ帝国から見ると収入こそ少なかったのですが、エジプト(旧プトレマイオス王朝)に至る陸路を確保し、パルティア(古代イラン王朝)に対して帝国を守るための軍事的要所でした。まだユダヤ教の一宗派だったキリスト教を迫害したことで有名になったヘロデ・アグリッパ1世(在位:37-44)が、ローマ皇帝カリグラからユダヤ王の位を認められて、ユダヤの自治権を取り戻した時期もありました。しかし、長年にわたり、ユダヤはローマからの圧力を受け続けました。

もともとローマの宗教は、ユピテルを頂点とする多神教でしたので、メシア(救世主)を唯一の神と信ずるユダヤ教徒には受け入れられませんでした。そして、総督フロルスが税収不足を補うためにユダヤ神殿の宝物に手を付けたことを契機に、ユダヤ人の不満が爆発して、ユダヤ戦争が勃発しました。総督フロルスは、シリア属州からの援軍を受けて鎮圧を試みましたが、反乱軍に完敗してしまいました。そこで、当時のローマ皇帝ネロ(在位:54-68)は、将軍ウェスパシアヌスとその息子ティトゥスをローマ軍と共に派遣しました。そして、まずウェスパシアヌスは周辺都市のサマリアとガリラヤを陥落させ、エルサレムを孤立させて包囲しました。しかし、エルサレム攻撃を前にして、本国ローマに反乱が起こりました。68年6月に皇帝ネロが自害し、その後を継いだガルバが69年1月に暗殺され、その後継者オトも同年4月にウィテッリウスとの戦いに敗れて自害しました。そして、その勝者ウィテッリウスが皇帝に就きましたが、ユダヤから引き返したウェスパシアヌスとの戦いに敗れて、同年12月に死にました。そして、新しく皇帝になったウェスパシアヌスは、息子ティトゥスを総大将としてユダヤ征伐に向かわせました。

   ユダヤ軍は、神殿やアントニア砦に立て籠もって頑強に抵抗しましたが、圧倒的なローマ軍の兵力によって鎮圧されてしまいました。そして、ティトゥスは、エルサレム神殿の宝物を携えてローマに凱旋しました。

   エルサレムを追われたユダヤ人は、マサダの城塞に立て籠もり最後の抵抗を試みましたが、73年に全滅しました。そのマサダ陥落で、ユダヤ戦争は終結し、ユダヤ人も祖国を失い、流浪の民となりました。一方、ティトゥスは、79年、父の後を継いでローマ皇帝に戴冠しました。

 

ティトゥスの凱旋

 

 

   以上の「ユダヤ戦争」を概観したので、詩の本文に戻りましょう。

ティトゥスが「助力( l’aiuto」を受けた「最も高い王( il sommo rege」とは、ローマ皇帝であり父でもあった「ウェスパシアヌス」を指している、と解釈するのが妥当でしょう。そして、「ユダによって売り渡されて血を流した( uscì ’l sangue per Giuda venduto」人とは、イエス・キリストを指していることは明白です。そしてまた、ティトゥスが「その傷の仇を討った( vendicò le fòra」とは、彼がイエスの仇を討ったという意味になります。そのダンテの言葉によれば、ティトゥスによるユダヤ戦争の勝利はユダヤ人によって殺害されたイエスの仇討ち、ということになります。先ほどその戦争について概観しましたが、史実的にはユダヤ戦争にイエスが関わった事件は存在しなかったようです。

   イエスの十字架事件は紀元後30年頃なので、ユダヤ戦争(66-70または73)当時のキリスト教は、ユダヤ教の新興の一宗派に過ぎませんでした。その宗派は、イエスの主な布教活動の地名をとって「ユダヤ教ナザレ派」と呼ばれています。そのイエスの信者たちはユダヤ戦争からは一線を画していたとも言われています。ユダヤ戦争の敗北によって、エルサレム全市は焼き払われ、神殿は崩壊されて、その中の財宝はすべて奪取され、ユダヤ信者は国を失ってしまいました。一方、伝道活動を中心としたキリストの信者たちには戦争の影響が少なく、むしろ世界宗教に向けてユダヤ教から訣別する機会になりました。かといって、ダンテが詩に描いたように、イエスの十字架死を画策した張本人はユダヤ人であり、ユダヤ戦争はその仇討ちであるという考え方は、長年にわたりヨーロッパに蔓延してきた偏見のようです。その偏見によってユダヤ差別が正当化されてきたのかも知れません。

   ダンテも信じていたユダヤ民族によるイエス殺害説を唱えた大本は、高名な神学者アウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354-430)の弟子であった歴史家オロシウス(Paulus Orosius、380頃-420頃)であると言えるかも知れません。彼は、ユダヤ戦争とティトゥスについて次のように記述しています。

 

   予言者が予言したように、エルサレムの都は略奪され、そして破壊され、ユダヤの国は消滅したので、ティトゥスは、神の掟によって、主イエス・キリストの殺害の仇を討ったと認定された。そして、彼(ティトゥス)は、ヤヌスの神殿を閉鎖して、父ウェスパシアヌスと一緒に凱旋した。(オロシウス、『異教徒との対立の歴史』第7巻3-8、筆者による直訳)

〔原文解析〕

 

   人類の歴史は、科学的根拠に基づいて論証させるものだと言われていますが、実際には「ファンタジーとプロパガンダ」で創作されたものが多いのも事実です。大概の歴史は為政者の都合の良いように作り変えられているものです。西洋にまん延しているユダヤ嫌いの思想が、ユダヤ戦争をユダヤ人によって殺害されたユダヤ人イエスの非ユダヤ人による復讐という歴史物語に書き換えた、と言っても過言ではないでしょう。そして、ダンテも例外ではなく、オロシウスの思想の延長線上にありました。それゆえに、登場人物スタティウスの口を借りて、ユダヤ戦争をその英雄ティトゥスによるイエスの仇討ち、と定義付けています。

 

   スタティウスは、彼がティトゥス皇帝の時代に生きて、「私は現世では十分に有名であった(era io di là famoso assai)煉獄篇21歌86~87」と述べたあとで、自分が詩人であったことを自慢して、次のようにウェルギリウスに告げました。

 

   私の詩風は秀麗甘美であったから、トゥルーズにいたのだが、ローマへ招かれ、そこで額(ひたい)にミルテの冠をいただいた。いまでも現世で私はスタティウスと呼ばれている。テーバイや、また大アキレウスの事蹟(じせき)を詩に賦(ふ)したが、その第二作の中途で〔病いに〕倒れた。 (『煉獄篇』第21歌 88~93、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

 

〔直訳〕

   私の詩歌の真髄がとても甘美だったので、私はトゥルーズ人だったけど、ローマがローマ自身のために私を召し出した。そこで私は、頭をミルト(和名:ギンバイカ)で飾る価値があった。相変わらず、あちら(現世)では、人々は私をスタティウスの名で呼んでいる。私は、テーバイについて詩に歌い、そしてそれから、偉大なるアキレウスについて歌った。しかし、二番目の重責の途中で倒れてしまった。

 

   現代の私たちが「ローマ文学」という時、まず『アエネーイス』の作者でもあり、冥界巡礼のダンテの先達役でもあるウェルギリウスの名を上げます。次に『転身物語』の作者オウィディウスの名を上げた後で、日本でも「泰山鳴動して鼠一匹(Parturiunt montes, nascitur ridiculus mus: Ars Poetica,139)直訳:山が産気づき滑稽な鼠が一匹産まれる」の格言で知られている風刺詩人ホラティウスなどの名を上げます。彼らが活躍して時代を「ローマ文学黄金時代」と呼んで、現代でも多くの読者を持っています。しかし、その後に続く時代は、「白銀時代(silver age)」と呼ばれてはいますが、余り知られてはいません。第6環道から煉獄登山の道連れとして登場するスタティウスも、その「余り知られていない詩人」の一人であったと言えるかも知れません。彼の生涯を知るための唯一の資料は、彼が徒然なるままに書いた詩集『シルウァエ(Silvae)』であると言われています。

 

スタティウスの略歴

 

   スタティウス(Publius Papinius Statius)は、紀元後45年頃にナポリで生まれました。ダンテもスタティウス自身に「私は現世では十分に有名であった(煉獄21歌86-87)」と言わせているように、ローマ文学の白銀時代に限定すれば最も優れた詩人のひとりでした。スタティウスの父親(名前は未詳)は、ギリシア人の植民地マグナ・グラエキアのウェリア(Velia:ローマ名エレア)出身のギリシア文学にも精通した詩人であったと推測されています。後に、ナポリに移住して活躍しましたが、その時にスタティウスが誕生したようです。彼は、父親の影響で、ギリシア文学に精通していましたので、ドミティアヌス帝(ウェスパシアヌス帝の子でティトゥス帝の弟)の開催する大会で優勝して、皇帝自身から桂冠を授けられたと言われています。

   父親の死後の90年頃にローマに移り住んだと考えられています。彼の代表作『テーバイス(Thebais)』は、移住後の92年頃に創作されたようです。しかし、94年頃、サトゥルヌス祭(ユリウス暦の12月17日に開催)で敗れて、失意のうちに故郷ナポリに帰りました。そこで、スタティウスの遺作となった『アキレイス(Achilleid)』の創作を始めましたが、第2巻の執筆途中の96年ごろ死去しました。

 

   さて、話を前出の『煉獄篇』の詩文に戻しましょう。ダンテが描くスタティウスは、彼自身を「トゥルーズ人(tolosano)」だと言っています。明らかに「ナポリ生まれ」という史実とは異なります。ダンテの最初の理解者であり称賛者でもあったボッカッチョ(Giovanni Boccaccio, 1313-1375)も、『愛の幻想(Amorosa visione)』の中で「トゥルーズのスタティウス(Stazio di Tolosa)」と言っています。そのボッカッチョの言葉は、ダンテに従ったのか、それとも中世ではその様に信じられていたのかは不明です。確かに、トゥルーズ生まれのスタティウスという名の雄弁家が、ネロ皇帝(在位:54-68)の時代に活躍していた、とも言われています。しかし、最も信憑性の高い説は、スタティウス自身の作品『シルウァエ』の中で書かれていることでしょう。

 

謎の植物「ミルト」

 

   前出の『煉獄篇』の詩行の中には、「頭をミルトで飾る( le tempie ornare di mirto煉獄篇21歌90」という謎の言葉が使われています。その詩句は、文脈的には「詩の競技で勝利を得た」という意味であることは確かです。しかし、なぜ、「月桂樹(alloro:英:laurel、羅:laurus」でも「オリーブ(olivo:英:olive、羅:oliva)」でもなく、日本名「キンバイカ」と呼ばれる「ミルト(mirto)」が使われているのかを推測してみましょう。

   スタティウスの『シルウァエ』の中では、「ミルト」という植物名が2ヶ所だけ使われています。その個所の表現を見ておきましょう。

   まず最初は、ドミティアヌス帝時代の元老院ステルラ(Lucius Arruntius Stella)とヴィオテンティルラ(Violentilla)との結婚を祝った「祝婚歌( Epithalamium)」の中で、次のように「ミルト」が使われています。

 

   そのようにして、彼は汝に竪琴を授けた。すると甘美なる詩人が進み出て、私たちの月桂冠をミルトで巻いた。(スタティウス『シルウァエ』第1巻2、98~99、筆者による直訳)

〔原文解析〕

 

   もう一つの「ミルト」の単語が使われているのは、『ウィビウス・マクシムスに捧げる詩(Ode Lyrica ad Vibium Maximum)』の中の次の個所です。

 

   私は、マクシムスに捧げる詩歌を優美に作ろうとしています。ある時は、初摘みのミルトの葉から選び抜かれた花輪がある。またある時は、さらに激しい咽の渇きと、そのために飲む清らかな水がある。(スタティウス『シルウァエ』第4巻7、9~12、筆者による直訳)

〔原文解析〕

 

   上の詩行の中で、スタティウスが使っている「ミルト」の意味は、前出のダンテのその用法と同じく曖昧で、文脈的には「月桂樹」でも「オリーブ」でも置き換えが可能です。しかし、「ミルト」が「詩歌( carmen」や「竪琴( plectra」や「詩人( vates」と密接な関係を持っていることだけは確かです。

 

 

ミルトはウェヌスの神木

 

 

   「ミルト(mirto)」は、ダンテが使っているので、当然、イタリア語名です。ラテン語では「ミュルトゥス(myrtus)」と呼び、当然、学名も同じです。英語では「マートル(myrtle)」と言いますが、我が国でも和名の「ギンバイカ(銀梅花)」よりも知られているかも知れません。オーストラリア原産のレモンの香りがする同種のものに「レモンマートル」があるようです。

ダンテも、「ミルト」という言葉を前出の「頭をミルトで飾る」と言う詩句の一ヶ所で使っているだけなので、意外と見逃されている言葉です。

 

   冠の素材として「月桂樹」でも「オリーブ」でもなく、なぜ「ミルト」の枝葉を使ったのでしょうか。その謎を解いてみましょう。

   トロイア滅亡の時に脱出したアエネアスは、女王ディドの誘いでカルタゴに長く留まりました。しかし、神の命令で、新都建設のためイタリアに向かいますが、途中のシチリアで亡父アンキセスの一周忌競技を開催します。その時、アエネアスが競技を宣言する言葉の中に、ミルトの本質が現れている次のような個所があります。

 

   「みなの者、口を慎め。額に枝葉の冠を巻け」。こう言うと彼は母の神木ミルテで額を覆う。それと同じことをヘリュムスがし、男盛りの年齢のアケステスがする。同じく少年アスカニウスがすると、続いて他の若者らもする。(『アエネーイス』第5巻71~74、岡・高橋訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   「皆の者、不吉な言葉を慎め。そして頭を細枝で巻け。」そのように言うと、彼は母のミルトで頭を巻く。ヘリュムスがそれ(と同じこと)を行う。年齢の熟したアケステスがそうする。息子アスカニウスがそうする。そして他の者がその三人に続く。

 

   アエネアスが「母(mater)」と呼ぶとき、それは「ウェヌス(アプロディーテ)を指しています。なぜならば、アエネアスがトロイアの傍系の王子アンキセスと愛と美の女神ウェヌスとの子であるためです。そして、その母の神木ミルテは、息子アエネアスにとっても神木だと言うことになります。それゆえに、「ミルトの冠」は、ウェヌスと関連する事柄に使用されます。

   ミルトがアエネアスにとって神木であるということは、さらに、アエネアスの末裔を名乗るカエサルにとっても神木ということになりました。ウェルギリウスは、『農耕詩(Georgica)』の中で、カエサルとミルトとの関連を次のように描いています。

 

   カエサルよ、途方もなく広大な領土が、あなたを実りの創造者として、また時局を支配する人として、頭に母のミルテを巻いて受け入れることを願望する。 (ウェルギリウス『農耕詩』第1巻 25~28、筆者による直訳)

〔原文解析〕

 

   先出のアエネアスが行った「母のミルトを巻く」という行為をカエサルも行ったということは、両者が「ミルト」によって繋がっていて、共通の祖先を持っているということを表しています。極言すれば、アエネアスにまつわる一連の物語を自分の家系図として独占したのがカエサル家で、それを超一級の伝説に仕上げたのがウェルギリウスであったのです。

   スタティウスは、ウェルギリウスの次世代の詩人なので、カエサル家のウェヌス・アエネアス先祖説を真実の歴史として受け入れていたことでしょう。それゆえに、ミルトといえばカエサル家の神木であることも定説になっていたはずです。しかし、スタティウスは、カエサルと関係のない個所で「ミルト」を使っています。それは、彼の完成された唯一の叙事詩『テーバイス』の中で、一ヶ所だけ使われています。そこでは、「詩歌」とは関係のない使われ方がされていて、戦意の昂揚を表すために、次のように表現されています。

 

   その者たちはアルカディア人である。戦士としては一つの民族であるが、文化としては異なっている。その者たちは、パポスのミルテを根元から折り曲げる。そして牧人の棍棒で格闘の訓練をする。(スタティウス『テーバイス』第4巻299~301、筆者による直訳)

〔原文解析〕

 

   パポス(Paphos)とは、ウェヌス(アプロディーテ)ゆかりの島キュプロスの町の名前ですが、上の詩行の中ではその島と同義で使われていると解釈できます。そして、ここまで述べてきたように、ミルトは、ギリシア・ローマ神話においては、ウェヌス女神の神木になっています。それゆえに、「パポスのミルト」は「ウェヌスの神木」と同義です。確かに、スタティウス本人はローマ時代の詩人ですが、彼の『テーバイス』に描かれている世界は古代ギリシアの神話の時代です。いつの時代からミルトがウェヌスの神木であるという伝説が生まれたかは私にはわかりませんが、スタティウスには常識であったことでしょう。

 

 

   『テーバイス』とは、テーバイ物語という意味で、アイスキュロスによって書かれたギリシア悲劇『テーバイにむかう七将』に基づいて、スタティウスによって書かれた叙事詩です。その粗筋は次のようになります。

   テーバイ王オイディプスが、イオカステを実母と知らずに夫婦となり、それに気付いたので、自らの手で両眼を潰して盲目となり、アンティゴネとイスメネの二人の娘に手を引かれ、テーバイを出て行きました。この話はソポクレスの代表作『オイディプス王』で語られています。「テーバイを包囲した七人の将軍」の話は、オイディプス追放の話に続く出来事です。
   オイディプス王がテーバイを追放された後、二人の息子ポリュネイケスとエテオクレスは、王位を一年ずつ交代で就くことを約束しました。しかし、エテオクレスが王位に就いたとき、ポリュネイケスに譲ることはしないで、彼を国外に追放しました。追放されたポリュネイケスはアルゴスに逃れ、その国の王アドラストスの娘アルゲイアを娶って王の婿になりました。そして、テーバイの奪回を目指しました。その遠征を申し出たのは、七人の勇将でした。その七将の名は、アドラストゥス(Adrastus)、アムピアラウス(Amphiaraus)、カパネウス(Capaneus)、ピッポメドーン(Hippomedon)、ポリュニケース(Polynices)、テューデウス(Tydeus)、そしてパルテノパイウス(Parthenopaeus)です、しかし、テーバイ攻めは失敗に終わり、アドラストゥス王以外は戦死してしまいました。

   上出の『テーバイス』の場面は、パルテノパイウスが戦闘のために訓練をしている様子です。七人の勇将の中で、すでに『地獄篇』に登場しているのは、第7圏谷第3円で火炎の雨に曝されているカパネウスと第8圏谷の第4濠(ボルジャ)の予言者アムピアラウスの二人です。

 

第7圏谷第3円:火の雨が降る地獄のカパネウス

 

第8圏谷第4濠:後ろ向きの顔をした魔術師アムピアラオス

 

   ウェヌスからアエネアスに、アエネアスからユリウス・カエサルに、ユリウス・カエサルからカエサル・アウグストゥスに、アウグストゥスからドミティアヌスに継承されてきたミルトの冠を、スタティウスはドミティアヌス皇帝から受けたことになります。