『神曲』煉獄登山51.スタティウスの経歴はファンタジーでプロパガンダ | この世は舞台、人生は登場

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サン・ジョヴァンニ洗礼堂

 

前方の建物が、サン・ジョヴァンニ洗礼堂(Battistero di San Giovanni)ウィキペディア(フランス語版)より。1128年着工、1202年完成

後方の建物は、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(Santa Maria del Fiore) 1296年着工、1436年頃完成。

 

  ダンテは生まれながらにしてキリスト教徒でした。だから当然のごとく、当時のフィレンツェ市民と同じく、生まれて間もなくサン・ジョヴァンニにおいて洗礼を受けたと推測されています。その寺院の洗礼盤については、地獄の第8圏谷第3濠で教皇ニコラウス三世が刑罰を受けている穴の比喩表現の中で、次のように用いられています。

 

   フィレンツェのサン・ジョヴァンニ〔洗礼堂〕の洗礼用につくられた鉢と見た目には大差がない。 (『地獄篇』第19歌 16~18、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   (そこの穴は)私の美しいサン・ジョヴァンニ洗礼堂の中に、洗礼のために作られたところのモノよりも小さくもなく大きくもないように、私には見えた。

 

 

ダンテとスタティウスの天啓の違い

 

   ダンテが洗礼を受けた時期は、彼の生年月日から推測すれば、おそらく1265年の6月ごろということになるでしょう。すなわち、ダンテは生まれてすぐ洗礼を受けたので、生まれながらのキリスト教徒ということになります。ただダンテの場合は、その後の品行が悪く、さらに「人生の道の半ばで(Nel mezzo del cammin di nostra vita地獄篇1歌1正道を踏み外してしまった(la diritta via era smarrita」のですが、『神曲』の旅の中で神の啓示を受けて回心した、ということになっています。

   ダンテは、標準的なキリスト教徒と同じように、多くのキリスト教の聖人たちから天啓を受けて、救われるべきキリスト者として回心しました。もう少し具体的に言えば、ダンテの堕落ぶりに同情した聖母マリアが、聖女ルチーアに命じてベアトリーチェをウェルギリウスの元へ遣わしました。その時のベアトリーチェの依頼の内容を簡単に言ってしまえば、「ダンテをエデンまで連れ来てくれれば、あとのことはこちらで面倒をみます」ということです。天国に入ったダンテは、ベアトリーチェの案内で数多の聖人たちと出会って教えを受けました。すなわち、『神曲』の中のダンテは、キリスト教の聖人たちから神の天啓を受けて、キリスト者として回心したのです。ところが一方、スタティウスの場合は、天啓と回心の事情がダンテとはまったく異なります。

 

   スタティウスが彼自身の過度の浪費(または放蕩)を彼の回心の契機となった天啓は、ウェルギリウスの言葉でした。その時の様子をスタティウスは次のように述べています。

 

 

   あなたが「黄金に対する呪われた(または神聖なる)渇望よ、何故に汝は人間の欲望を支配しないのか?」と叫んでいるのを耳にした時、私が(その言葉に)関心を向けた。 (『煉獄篇』第22歌 37~41、筆者訳)

〔原文解析〕

 

  上のウェルギリウスが呼び掛けた言葉のラテン語の原文を下に示しておきましょう。

 

   汝が、死すべき人間の心に強要しないものが何かあるだろうか、黄金への呪われた(または神聖な)渇望よ。(『アエネイス』第3巻56~57、筆者訳)

 

 

   さらに、スタティウスは、ウェルギリウスから天啓を受けてキリスト者に回心する様子を、次のように告白しています。

 

   貴君がまず私をパルナソスの山へ送り、その泉の水を飲ませてくれました。そして貴君がまず私に神について光明を与えてくれました。夜、燈火(ともしび)を自分の背後に掲げて歩く人は、自分には役に立たないが、後から来る人のために道を照らしてくれます。貴君がまさしくそれでした。貴君はこういいました、「新しき世紀は来(きた)りぬ。正義は、人間の原初の時は、帰り来(きた)りぬ。天上より新しき子孫は降(くだ)り来(き)たまひぬ」。貴君ゆえに私は詩人となり、貴君ゆえにキリスト者となりました。 (『煉獄篇』第22歌 64~73、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   あなた(ウェルギリウス)は、まず最初に私をパルナソス山へ行かせて、そこの洞窟の中で水を飲ませた。そして、まず神のもとで私を教化した。夜に進行するところの人で、燈火を後方へ向けて携える人で、彼自身には役立たないが、彼自身の背後にいる人たちを聡明にする、そんな人のようにあなたは行ったが、その時あなたは次のように語りました。「世紀は改まっている。正義と最初の人間の時代が戻っている。そして天から新しい子孫が降りて来ている。」私は、あなたを通して詩人になった。そしてあなたを通してキリスト教徒になった。

 

   上のスタティウスの告白の中には、彼がキリスト者として回心できたという正当な理由が見つかりません。スタティウスがウェルギリウスによって導かれたパルナソス山は、アポロン神の霊山なので、キリスト教とは関係ありません。それゆえに、「パルナソス山に行かせた inviasti verso Parnaso)」とは、スタティウスを叙事詩人にしたという意味です。もし、キリスト教と関連させるならば、「シオン山」の名を上げなければなりません。さらにその後に続くウェルギリウスの言葉「世紀は改まり、正義と最初の人間の時代が戻り、そして天から新しい子孫が降りる」は、神イエスの降誕を預言したものだと、中世時代には信じられていたと言われています。そのダンテの原典は、ウェルギリウスが『詩選集・牧歌』の中で歌っている次の個所です。

 

   いまやクマエの歌の最後の年が訪れている。何世紀も続く偉大なる状態が新しく起こる。今は、処女が帰っている。サトゥルヌスの王国が復活している。そして今や、処女が帰る、サトゥルヌスの王国が復活する。今や新しい血統が高い天国から降下する。貞淑なる女神ルキナよ、ただ誕生する子供に好意を示したまえ。彼によって初めて鉄の血統は断絶して、黄金の民族が世界全土に現れる。今や、汝のアポロンが王になる。 (『牧歌』第4巻4~10、筆者訳)

〔原文解析〕

   上のウェルギリウスの詩行は、ダンテが『煉獄篇』の中で詠んでいるようなイエスの降誕を歌ったものではありません。ウェルギリウスが、彼の詩のパトロンであったガイウス・アシニウス・ポッリオ(Gaius Asinius Pollio、前75~後4)の息子の誕生を祝って書いた詩であると言われています。しかし、中世時代には、その詩句はウェリギリウスがイエスの降誕を予言したものであると解釈されていました。それゆえに、「私はあなたを通じてキリスト教徒になった( fui per te cristiano)」というスタティウスの発言が生まれました。しかし、ウェルギリウスの言葉が「イエスの誕生を予言したもの」だと解釈されたとしても、異教徒であるそのローマの詩人には、キリスト教の天啓と回心を与える資格はありません。なぜならば、そのことは先達としてのウェルギリウス自身が、辺獄にいる偉人たちを紹介した時に、次のように述べているからです。

 

   先に進む前に一つおまえに教えてやろう。かれらは罪を犯したのではない、徳のある人かもしれぬ。だがそれでは不足なのだ、洗礼を受けていないからだ。洗礼はおまえが信じている信仰に入る門だ。キリスト教以前の人として崇(あが)めるべき神を崇めなかったのだが、実は私もその一人だ。こうした落度のためにほかに罪はないのだが、私たちは破滅した、ただこのために憂目(うきめ)にあい、〔天に上がる〕見込みはないがその願いは持って生きている。 (『地獄篇』第4歌33~42、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   先に進む前に、彼ら(辺獄にいる罪人)は罪を犯していないどころか、褒美をもらうことさえあるが、それでは十分ではない。なぜならば、洗礼を受けていないからだ。洗礼は君が信じている信仰の入口であるからだ。しかし彼らは、キリスト教以前に現世に存在していたので神を正しく崇めることがなかった。そして、かくのごときこれらの者たちと私は同じである。他の罪悪のためではなく、そのような欠如のために私たちは(天国を)失っている。沢山の罪悪の中のたった洗礼だけを違反しているので、私たちは、希望はないが、願望は持って時を過ごしている。

 

  上の告白にあるように、『神曲』の中のウェルギリウスは、彼自身がキリスト者でないことを自覚しています。しかし『煉獄篇』では、彼は、スタティウスへ天啓と回心を与える資格があると考えられています。おそらく、詩人ダンテの中で混乱が生じているのではないでしょうか。確かに、先に見たポッリオの息子の誕生を祝ったウェルギリウスの言葉を、中世時代においては「イエスの誕生を予言したもの」と解釈されていたことは、ダンテがそのローマ詩人を地獄と煉獄を巡る彼自身の先達に選んだ根拠にもなっています。さらに『神曲』を精読するならが、ウェルギリウスの人物像は、地獄巡りをする時と煉獄登山をする時とでは異なっていることが判明するかも知れません。

 

歴史はファンタジーでプロパガンダでした

 

   ダンテが語る歴史は、少しの真実と膨大なファンタジーと恩人に対するプロパガンダで構成されている、と言っても過言ではないでしょう。『神曲』には膨大な数の人物が登場しています。歴史上の「超」のつく有名人物もいれば、普通に知られている程度の人物もいます。しかし、ほとんどの登場人物は、『神曲』に描かれていなければ無名のままで、歴史から消えていた人たちでした。後世の読者たちが『神曲』の登場人物を知るとき、ダンテの次世代の歴史家ベンヴェヌート(Benvenuto da Imola, 1320?~1388)の著述やイタリア・ルネサンス期に書かれたと想定されている『フィレンツェの無名紳士録 (Anonimo fiorentino, 1530頃~1540頃)』などを頼りにします。しかし、それらの著作に紹介されている人物のほとんどは、ダンテが『神曲』で採り上げるまでは無名であった者たちでした。とくに『地獄篇』と『煉獄篇』に登場している人物の多くは、実在はしていましたが、ダンテによって描かれていなかったならば、後世に名前を残すことはなかったことでしょう。スタティウスのキリスト教への改宗の逸話も、時代的には可能ですが、地理的状況としては有り得ないファンタジーです。次のウェルギリウスへのスタティウスの言葉も「有りそうで有りえない」ことを述べています。

 

   はやすでに全世界は、永遠の王国の使徒が種を播(ま)いた真実の信仰で満ちていました。その上いま言及した貴君の詩句がまことに適切に新しい教えを説く人たちの言葉に符合していましたから、私も彼らをよく訪れるようになりました。 (『煉獄篇』第22歌 76~81、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   すでに全世界は、真実の信仰でとても多くて満ちあふれていた。(その信仰は)永遠の王国の使者たちによって広められていた。そして、上で少し触れた(=前述した)あなたの教えは、新しく説いていることに合致したので、その結果として私は常に彼らを訪れ始めた。

 

   スタティウスが現世にいた時期(西暦45年~96年)は、「イエスの十字架事件(西暦30年頃)」が起きた後で、キリストの使徒たちが活発に伝道活動を行っていました。そして、ユダヤ戦争(66-70または73)当時のキリスト教は、まだユダヤ教の新興の一宗派に過ぎず、イエスの主な布教活動の地名をとって「ユダヤ教ナザレ派」と呼ばれていました。ローマ帝国軍によってエルサレム全土は焼き払われ、神殿は崩壊されて、その中の財宝はすべて奪取さました。その戦争の敗北は、国を無くしたユダヤ教徒には壊滅の打撃を与えました。しかし、伝道活動を中心としていたキリスト教徒には、むしろユダヤ教と訣別して、世界宗教に向けて発展する契機になりました。しかしまだ、スタティウスの生きた時代には、イエスの使徒たちの活動拠点は、現代のイスラエル、ヨルダン、レバノン、シリアなどを含む「パレスチナ」と呼ばれる地域に限定されていたようです。その主な理由は、当時のヨーロッパ(ローマ帝国)の共通語はギリシア語でしたが、イエスと彼の弟子たちはセム語系の方言アラム語しか話せなかったためだと言われています。さらに、イエスの弟子たちだけでなくイエス本人も読み書きができなかった、という説まであります。ゆえに、彼らの宣教活動は口頭によって行われました。しかも、その教えは、「12使徒」と称するイエスの直弟子に独占されていました。それゆえに、彼らが布教活動を本拠地であるパレスチナから出て遠くまで広めることができたとは考えられないのです。それゆえに、「はやすでに全世界は、永遠の王国の使徒が種を播いた真実の信仰で満ちていました」とスタティウスに言わせたダンテの言葉は、ファンタジーで描かれたキリスト教のプロパガンダだと言えるのです。

   新約聖書の正典となっている福音書は『マタイ伝』、『マルコ伝』、『ルカ伝』そして『ヨハネ伝』の4篇です。それらのすべての福音書は、イエスの生存中に書かれたものではありません。その中で最も早く書かれた『マルコ福音書』でさえも、その執筆はイエスの十字架死から30年ほどたった西暦60年頃だと言われています。その『マルコ伝』の執筆以前は、12人のイエス直弟子たちがアラム語による口承伝承によってイエスの教えを広めていました。ということは、弟子の12人だけにキリスト教を布教する権限が独占されていたことになります。その教えを文字化した『マルコ福音書』は、キリスト教を多くの者に解放したことになります。しかも、それを共通語のギリシア語で書き表したことは、国際宗教への足がかりになりました。加藤隆氏は、彼の著書『新約聖書はなぜギリシア語でかかれたか』の中で、その業績を「16世紀の宗教改革においてそれまでローマカトリック教会に独占されてきた社会宗教的な権威が、聖書の印刷を背景にしてより多くの者に解放されたという事件に匹敵するような革命的とも言える事件」と評しています。

   スタティウスが現世にいた時代のキリスト教は、ユダヤ教の新興宗教から急速な進歩を遂げようとしていましたが、「世界中il mondo tutto)」が「真の信仰la vera credenza)」すなわちキリスト教で満ちあふれていたほどではなかったことでしょう。おそらく、初期キリスト教は、『マルコ伝』に続くギリシア語の福音書の執筆や、彼ら自身の神話すなわち『新約聖書』の完成の途上にありました。たしかに、使徒たちの活動はパレスチナ周辺に留まっていましが、書簡集の執筆で有名なパウロ(?―65)はイタリアを訪れて宣教活動を行ったのは周知の事実です。それゆえに、スタティウスはイタリア人であり、またパウロとは同時代人でもあったので、二人が接触する可能性はありました。しかし、二人が出会ったという記録は存在しません。極言すれば、スタティウスはキリスト教の存在さえ知らなかったかも知れません。スタティウスに「私は彼らを訪れ始めたio a visitarli presi)」と言わせているのは、ダンテのファンタジーでしょう。

『聖書地図』(日本聖書協会)

 

   そして会えば会うほど彼らが尊く思われてきたのです。だから皇帝ドミティアヌスが彼らに迫害を加えた時、彼らの号泣を聞いて私ももらい泣きしました。 (『煉獄篇』第22歌 82~84、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

直訳〕

   それ以後、私には彼らがとても聖なる人たちのように思われ始めたので、ドミティアヌスが彼らを迫害した時に、彼らの涙は、私が泣くことなしには存在しなかった(=彼らの涙には私も泣かずにはいられなかった)。

 

   上に登場しているドミティアヌスは、ユダヤ戦争の英雄で後のローマ皇帝になったウェスパシアヌスの息子で、同じくユダヤ戦争を勝利に導いて皇帝になったティトゥスの弟です。そのティトゥスについては、「ユダによって売り渡されて血を流したuscì ’l sangue per Giuda venduto)」イエスの仇討ちをした「立派なティトゥス il buono Tito(『煉獄篇』21歌82)」と、ダンテも讃美をしています。ところが、彼の弟で帝位を継承したドミティアヌスについてはキリスト教徒である「彼らを迫害したli perseguette)」として非難しています。

   皇帝ドミティアヌスがキリスト教徒を迫害したという歴史的事実が存在するのは不可能です。当時のキリスト教がローマ帝国に仇を為すほどには成熟していなかった、とするのが真実のようです。彼の前帝ティトゥスの時にユダヤ戦争は勝利を治めました。その戦争を戦ったのも、ローマ帝国とユダヤ教徒であって、まだユダヤ教ナザレ派と呼ばれていたキリスト教徒たちは、その戦争から一線を画していたとも言われています。しかし、ユダヤ人がローマ帝国支配に抵抗をする以前は、親ローマ派の政権がユダヤを治めていました。その時の模様を、先に言及した加藤隆氏が次のように論述しています。

 

   「ヘロデ派」ないし「ヘロデ党」は、ヘロデ大王とその子孫たちを中心とする勢力で、右で触れたように、ローマ帝国の力を背景にしてユダヤ人社会を支配していた。当時のパレスチナはローマ帝国の支配下にあり、ヘロデ派は親ローマ派の代表である。

   これに対して「ゼロテ」と呼ばれる集団があった。「ゼロテ」とは「熱心」という意味で、ゼロテ派は「熱心党」と訳されることもある。彼らはファリサイ派の中の過激派である。彼らは個人的に律法を守ることだけに満足しない。イスラエルの民が神以外の権威に屈することは許し難いので、ローマ支配に反対する。そして具体的な行動によってユダヤ民族の政治的独立を目指していた。彼らはいわばユダヤ国粋主義者であった。彼らは、場合によっては目的のためにテロも辞さない覚悟をしていて、短刀を懐に忍ばせていたところから「シカリ派」とも呼ばれた。それは「短刀」を意味するラテン語の「シカ」(sica)から由来する呼び名である。またギリシア語では「レースタイ」(「強盗」)とも呼ばれていた。イエスの代わりに釈放されることになったバラバや、イエスと共に十字架に付けられた二人の「強盗」は、「ゼロテ」であった可能性が大きい。66年からのユダヤ戦争は、このゼロテの影響が支配的になった結果と考えることができる。

 

 

 

   イエスの十字架刑の模様は、新約の『ルカによる福音書』(23:32-33)に、「イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。どくろと呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた」と描かれています。イエスと共に処刑されたふたりの「犯罪人」は、『ウルガータ』では「ラトロネース ‘latrones’」、『七十人訳』では「カクールゴイ ‘kakoũrgoi’」、また『欽定訳』では「マレファクターズ ‘malefactors’」という単語が使われています。先に見た加藤説に従えば、イエスの他の二人は、「犯罪人」などではなく、親ローマの立場をとって当時の政権を掌握していたヘロデ党に敵対した過激派のユダヤ国粋主義者でした。その観点からすると、イエスの率いるユダヤ教ナザレ派は、むしろ穏健派だったかも知れません。政権を握るヘロデ派からすれば、ナザレ派も目障りな集団ではありました。しかし、ゼロテ党ほどの危険性はなかったので、他の信者は許して、その教祖イエスだけを十字架刑に処したと考えられます。政権党からすると、イエスよりも他の二人のほうが危険分子で、その死刑の目的人物だったとする見方もできます。まさしく『新約聖書』は、イエスがキリストになるために壮大なファンタジーで作られた神話だといえるのではないでしょうか。

   以上のことから判断して、ダンテが言う「ドミティアヌスが迫害したDomizian perseguette)」のは、「キリスト教徒」ではなく「ユダヤ教徒」だったはずです。まだ、キリスト教は、時の権力者から迫害されるほど拡大してはいなかったのではないでしょうか。ということは、スタティウスがキリスト教徒への迫害に涙するなどということも有り得なったことなのです。この物語をキリスト教に都合の良いように捏造した張本人はオロシウスです。ユダヤ人によるキリスト殺害説も彼の捏造で、後世にユダヤ人に対する偏見の源になってきました。ドミティアヌスによってキリスト教会が弾圧された、というデマの情報源もオロシウスです。そのことについて、オロシウスは次のように言っています。

 

   (この皇帝ドミティアヌスは)その上また、15年の間、不敬の極みを尽くした。その結果として、世界中にこの上なく確かなものとなったキリストの教会を根絶するために、至る所で残忍な迫害をせよ、と恐れ多い命令を出した。 (オロシウス、『異教徒との対立の歴史』第7巻10-1、筆者による意訳)

〔原文解析〕

 

   ドミティアヌスがローマ皇帝に在位(81-96)していた時代のキリスト教は、皇帝が迫害しなければならないほどの存在ではなかったと言えるでしょう。その皇帝が弾圧したのは、彼の父ウェスパシアヌスや兄ティトゥスと同様に反ローマ帝国を掲げて抵抗し続けている国粋主義のユダヤ人でした。その時代の事情は、4世紀末にオロシウスが故郷ポルトガルのブラガを出てから、地中海南岸を取材旅行して教父アウグスティヌス(358-430)に提供していました。キリスト教にとっての「4世紀末」は、コンスタンティヌスⅠ世(在位:306-337)によって313年に公認されて、テオドシウスⅠ世(在位:379-395)によって国教に指定された重要な時期でした。それゆえに、キリスト教に都合のよい歴史を作り上げたのではないでしょうか。私のブログ「『神曲』煉獄登山47.」でも言及しましたように、ユダヤ国の滅亡を「ユダによって売り渡されて血を流した傷の仇を討ったil buon Tito … vendicò le fora… uscì il sangue per Giuda venduto煉獄篇21歌82-84」と、ダンテや後世の者たちに信じさせたのもオロシウスでした。まさしく、オロシウスの書いた歴史書は、ファンタジーで描かれたキリスト教信者とくにアウグストゥスに聞き心地のよい、キリスト教のためのプロパガンダでした。

 

オロシウスの取材旅行

 

   最後に、スタティウスは、天啓と回心の機会を与えてくれた異教徒のウェルギリウスに、次のような感謝を述べています。

 

   だが貴君は、私がいま話したこの〔信仰という〕善を私の目から隠していた蓋(ふた)を持ちあげてくれた人です。 (『煉獄篇』第22歌 94~95、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   それゆえに、私がいま話しているすべての天啓を私から隠し続けてきたところの蓋を持ち上げたのはあなた様です。

 

 

このブログの主な参考文献:

 

チャールズ・シングルトン編注の『神曲:煉獄篇』のテキストおよび注釈書(プリンストン大学出版)です。

原文: C.S. Singleton(ed.) “Purgatorio”2: Commentary, Vol.1.Pt.2 of Dante Alighieri, The Divine Comedy, 3 vols., Princeton U.P.

パゲット・トインビー著(シングルトン改訂)『ダンテ百科事典』(オックスフォード)。

原文:Paget Toynbee (revised by C.S. Singleton)  A Dictionary of Proper Names and Notable Matters in the Works of DANTE,  Oxford.

加藤隆『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』大修館書店。