『神曲』煉獄登山48.詩人同志の感動の出会い | この世は舞台、人生は登場

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ウェルギリウスとスタティウスの出会い

 

 

 

   『神曲』に登場する主役は、言うまでもなく詩人ダンテが演ずるところの巡礼者ダンテです。そして、その主人公は、地獄と煉獄と天国を巡礼しながら、数え切れない多くの人に出会います。しかし、すべての人物が死者であるため、ダンテ自身の死後に再会を予見させる表現はありますが、ほとんどの登場人物とは二度と会うことはありません。すなわち、『神曲』は、すべてが「邂逅」と「別離」で構成されているのです。それゆえに、その作品には多くの感動的な出会い場面があります。その中でも『煉獄篇』第21歌で描かれているスタティウスとの出会いは、私が個人的に推薦したい名場面です。

   先達ウェルギリウスに先導されてダンテが貪欲の罪を浄める第5環道の出口で、貪欲とセットになっている浪費の罪の方を浄め終えた叙事詩人スタティウスに出会います。その時の光景は、『神曲』の中でもっとも感動的な出会い場面の一つになっています。

   ユダヤ戦争の英雄ティトゥスがローマ皇帝の時代に活躍していたスタティウス(45~96)は、アウグストゥス初代皇帝の時代のウェルギリウスとは面識はありません。それゆえに、次のように自分の名前を名乗ります。

 

   いまでも現世で私はスタティウスと呼ばれている。テーバイや、また大アキレウスの事蹟(じせき)を詩に賦(ふ)したが、その第二作の中途で〔病いに〕倒れた。 (『煉獄篇』第21歌 91~93、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

      相変わらず、あちら(現世)では、人々は私をスタティウスの名で呼んでいる。私は、テーバイについて詩に歌い、そしてそれから、偉大なるアキレウスについて歌った。しかし、二番目の重責の途中で倒れてしまった。

 

   その霊魂は、名前を「スタティウス(イタリア名:スタツィオ)と告げてから、まず「テーバイについて詩に歌った(cantai di Tebe)」と述べました。それは、彼の代表作で唯一の完成した叙事詩『テーバイス(Thebais、テーバイ物語)』を指しています。そして次に「偉大なアキレウスについて歌った(cantai del grande Achille)」と述べて、それは未完に終わったことを告げました。それは『アキレーイス(Achilleis、アキレウス物語)』という叙事詩で、第2巻の執筆中に死んでしてしまいました。ということは、ウェルギリウスの『アエネーイス(Aeneis)』や彼自身の前作『テーバイス』と同様に12巻で完成させる予定であったと推測されるので、『アキレーイス』はほとんど序幕の段階で終わっていることになります。さらに詳しく述べれば、アキレウスは、滞在先のスキュロスで王女デイダメイアとの間に息子をもうけましたが、オデュッセウスとディオメデスの説得により、家族と別れてトロイアへ旅立つ場面で絶筆しています。(注:『テーバイス』の説明は、「『神曲』煉獄登山47」を参照)

 

   以上のように、スタティウスは彼自身の身分を明かしてから、目の前にいるのがその人であることを知らずに、ウェルギリウスへの尊敬の念を次のように吐露しました。

 

   幾千の人が熱烈な詩情に打たれ、霊感が湧くのを感じた激しい炎の火花に私も身内が熱くなるのを覚えた。その火こそ私の〔詩的〕情熱の火種なのだ。『アエネイス』がその炎だ。それが私にとり詩作の上の生みの母であり育ての母なのだ。それがもしなかったとすれば、私は一文の値もしなかっただろう。(『煉獄篇』第21歌94~99、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   その閃光は私の熱情の根源でした。その閃光は、(今でも)それによって千人以上の人が火を付けられ続けている神聖な炎で、私を熱く刺激しました。私は『アエネイス』について言っているのです。『アエネイス』は、私にとって母のようでした。そして詩を作るための乳母でもありました。『アエネイス』がなかったら、私はドラクマ(秤)の錘(おもり)の均衡を保てなかった(=価値を測定できなかった=価値はなかった)。

 

   上の詩行は、スタティウスによるウェルギリウスへの賛辞の言葉であることはわかります。すなわち、スタティウスによる『テーバイス』の創作にとっては、『アエネイス』は「産みの母(mamma)」であり「育ての母(nutrice)」でもあったということです。さらにまた、ウェルギリウスの影響(ここでは「閃光: le faville」)はスタティウスだけにとどまらず、後世の「千人以上の(più di mille)」詩人たちに及んだと述べています。しかし、実在のスタティウスは、ウェルギリウスよりもホメロスに憧憬していたかも知れません。彼の父親(名前は不詳)がギリシア人植民地マグラ・グラエキアのウェロア(Velia:ローマ名エレア)出身のギリシア文学にも精通した詩人でしたので、スタティウスもその父の影響を受けていました。彼の生涯を知るための唯一の資料だと言われています詩集『シルウァエ(Silvae)』の中にも、ウェルギリウスに関する記述よりもホメロスに関するもののほうが多いような印象を受けます。私の大雑把な集計では、全5巻からなる3,897行の作品の中で、ウェルギリウスへの言及はおよそ6個所ほどであるのに対して、ホメロスについての記述は9個所以上になります。それゆえに、上出のウェルギリウスへの称賛の言葉は、スタティウスのものというよりも作者ダンテ自身の心情だった、と推測できます。

 

   スタティウスのウェルギリウスに対する尊敬の念が最高潮に達して、彼は次のように打ち明けました。

 

   現世でもしウェルギリウスと同じ時代に生きることができたならば、この煉獄を出ることを一年のばしてもかまわないと思っているほどだ。 (『煉獄篇』第21歌100~102、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   ウェルギリウスが生きていた時代のあちら(=現世)で生きていたのであれば、追放の場所(=煉獄)から出るためにしなければならないのにもう一年(かかっても)私は認めたい。

 

 

   後世の者たちがローマ時代を分類するとき、ウェルギリウスやホラティウスやオウィディウスなどの活躍した時期を「ローマ文学黄金時代」と名付けています。一方、その後に続くスタティウスの時代は、「白銀時代(silver age)」と呼んでローマ文学の衰退期に分類しています。

   『神曲』の中で「追放の場所(bando)」といえば、「地獄」か「煉獄」を指します。前者「地獄」は二度と出ることのできない「永遠の追放の場所」であり、後者「煉獄」は、いつの日かそこを出て、必ず天国へ上がることのできる「つかの間の追放の場所」です。言うまでもなく上出の場所は「煉獄」を指します。そして「ウェルギリウスの生きた時代(Quando visse Virgilio)」、すなわち、ローマ黄金時代をウェルギリウスと共にできたならば煉獄での浄罪が長引いてもかまわない、とスタティウスは告白しているのです。ダンテは、スタティウスからのウェルギリウスに対する最大の賛辞の言葉として表現しています。しかし、もし両者が黄金時代に共に生きていたならば、スタティウスも辺獄にいることになっているはずです。

 

驚きは感動

 

   喜びの驚きは感動に変わります。ダンテは、目の前にいる霊魂が「実はウェルギリウス」だと教えるために、次のように話します。

 

   古代の魂よ、たぶん君は私が笑ったのを見て驚いただろうが、しかし君はもっと驚いてしかるべきだ。私の目を天上へ導くこの人こそ、英雄を歌い神々を讃える力を授かったと君がいったウェルギリウスその人だ。私がこれ以上の理由で笑ったと思うのなら、それは誤解だ。そうは考えてくれるな。この人についての君の言葉が私の笑いを誘ったのだ。 (『煉獄篇』第21歌 121~126、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   昔の霊魂よ、私が浮かべた笑いのために、君はおそらく驚いている。しかし、さらにもっと大きな驚きで私が君をつかむであろうことを私は望んでいる。私の両目を高い所へ案内しているこの人は、人間について、そして神々について詩に歌うために、その能力を君が真似たとことのウェルギリウスその人ですよ。

 

   スタティウスは、目の前にいる人物が彼と同じく浄罪をしながら煉獄を巡礼している魂だと思っていました。しかしところが、「実は」同じ空気を吸えたなら煉獄を出るのに「もう一年(un sole più)」遅らせてもかまわない、とまで思っていたウェルギリウスその人だと知りました。そして、スタティウスは、感激のあまりにひざまずいてウェルギリウスの両脚を抱こうとしました。私はこの技法を「実はもの」と呼んでいます。

   普通の人が「実は」偉大な人物であったという「筋書」は、今日でもしばしば使われています。第二次世界大戦勃発の前年(1938)に誕生した『スーパーマン』も普通の新聞記者クラーク・ケントが《実は》スーパーマンであったという筋書設定は「実はもの」の典型です。我が国にもこの技法は、しばしば使われます。日本人なら誰もが知る有名なものは、田舎の爺かと思ったら〈実は〉黄門様だったとか、貧乏旗本の三男坊かと思ったら〈実は〉将軍様だったり、しょぼくれた小父さんかと思ったら〈実は〉もと判事だったりする「実はもの」が多いようです。日本でも1970年頃から放映された『どっきり・・・』という番組では、隠しカメラで、人の露骨な(candid)姿や、いたずら(prank)を仕掛けて人の驚く姿を撮って笑いを誘おうとします。その筋書には不快を感じるものもあります。しかし、変装した俳優や歌手が逢いたがっている人を訪れて、「実は」と正体を現す筋書設定のものは、他のどの企画よりも視聴者に感動を与えます。

 

 

ダンテとウェルギリウスとの出会い

 

 

 

 

   「実はもの」筋書設定による出会い場面は、ここまで述べてきたウェルギリウスとスタティウスとの出会いよりも前に存在しています。それは、『神曲』の中の最初の感動的な出会いということになります。それは、道に迷ったダンテをベアトリーチェの依頼によって助けに登場したウェルギリウスとの出会い場面です。ダンテは「人生の道の半ば(nel mezzo del cammin di nostra vita)地獄篇1歌1」で、「暗い森(selva oscura)」に迷い込んでしまいました。そこで、森を引き返そうとすると「メス豹(lonza)が現れて行く手をさえぎり、朝になると「オス獅子(leone)」も現れました。その獣から逃れる間もなく、また「メス狼(lupa:ルーパ)」が現れて威嚇します。その時、救助者らしき存在が現れたので、ダンテは旧約聖書の『詩篇』の言葉で「私を哀れみ給え(Miserere di me)」と呼び掛けました。そして、「あなたが死霊であろう生きた人間であるがあろうがかまわない(原文は下に添付)」ので、助けて欲しいと懇願しました。

 

〔原文添付〕

 

 

   ダンテの願いと疑問に答えて、ウェルギリウスは次のように答えました。

 

   彼が答えた、「いまは人ではないがかつては人だった。両親はロンバルディーアの者で、国は二人ともマントヴァだ。生まれたのはユリウス・カエサルの時代、それも後期だ。そして良きアウグストゥス帝の御代(みよ)にローマで暮らした、嘘偽(うそいつわ)りの異教の神々時代だった。(『地獄篇』第1歌67~72、平川祐弘訳) 

〔原文解析〕

〔直訳〕

   (彼は私に答えた)私は人ではない、かつては人であった。そして、私の両親はロンバルディアの人であった。故郷に関しては両方ともマントヴァであった。その遅い時期とはいえ、ユーリウス・カエサルの統治の時に、私は生まれた。そして、嘘偽りの神々の時代に、有能なアウグストゥスの統治したローマで生きた。

 

   ダンテの時代には、マントヴァはロンバルディア地方の一つの町でした。そしてウェルギリウスは、その町で誕生しました。それゆえに、マントヴァは彼の両親の故郷でもあった、ということです。紀元前100年7月生まれのユリウス・カエサルが前44年3月に暗殺された時点では、前70年10月生まれのウェルギリウスは弱冠25歳で、まだ目立った執筆活動を開始していませんでした。ウェルギリウスが本格的に創作を開始したのは、アウグストゥス皇帝の統治下のローマで、まだキリスト以前の「嘘偽りの神(li dèi falsi e bugiardi)」すなわちギリシア・ローマ神話の神々を信じていた時代でした。

 

 

   ついに、霊魂のウェルギリウスは、彼が『アエネイス』を創作した詩人であることを明らかにするために、次のように告げました。

 

   私は詩人だった、だからトロイアから来たアンキセスの正義感の強い息子〔アエネアス〕のことを歌った。誇り高いトロイアの城は焼け落ちてしまったからだ。 (『地獄篇』第1歌73~75、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   私は詩人だった。そして、華麗なるイリオンが炎上させられた後で、トロイアから来たアンキセスの正義の息子について、私は歌った。

 

   その霊魂は、彼がマントヴァ生まれでアウグストゥスの時代にアンキセスの息子アエネアスについて詩作したウェルギリウス本人であることを明かしてダンテを安心させた後、次のような言葉で叱咤激励をしました。

 

    だがおまえ、なぜこの苦悩の谷へ引き返すのか?なぜ喜びの山に登らないのか、あらゆる歓喜の始めであり、本(もと)である、あの喜びの山に? (『地獄篇』第1歌76~78、平川祐弘訳)  

〔原文解析〕

〔直訳〕

   しかし、君はなぜ沢山の苦悩へと戻るのか?なぜ喜びの山を登らないのか?その山は、すべての喜びの原初であり原因でもある。

 

   ウェルギリウスの霊魂は、ダンテに「喜びの山(il delettoso monte)」を登るように勧めています。しかし、その山が何なのかは明確ではありません。私のブログの中で私の煉獄登山に同行された読者の方々は、その山を「煉獄山」と解釈されることでしょう。その解釈で間違いはないとしても、ダンテが迷い込んだ「暗黒の森(selva  oscura)」から陸続きに煉獄山が聳えているという神曲の地理設定には矛盾が感じられます。しかし、ときどき指摘されることですが、ダンテは『地獄篇』を書き始めた時には、『煉獄篇』の創作を考えてはいなかったかも知れない、という学説の根拠にもなります。その創作当初には、大魔王のいる地獄の最深部から煉獄山の麓へ抜けるために要した所要時間の複雑な計算も念頭にはなかったかも知れません。暗黒の森に近い聖なる山といえば「シオンの丘」を指していると考える方が自然かも知れません。

 

 

 

   ダンテは、自分の目の前に立っているのがウェルギリウスだと知って感激しました。その時の彼の喜びの言葉は次のように始まります。

 

   「ではあなたがあのウェルギリウス、あの言葉の大河の源流となられた方ですか?」と私ははずかしさに面(おもて)を赤らめて答えた。 (『地獄篇』第1歌79~81、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   それでは、あなたは、あのウェルギリウスですか?言語のその様な流れを注ぎ出すあの源泉ですか?《私は恥ずかしさを顔面に出して彼に答えた。

 

   地獄と煉獄から救い出す先達役としてウェルギリウスを選んだ理由の一つが、上の詩句の中に隠されているように思えます。それは、ダンテがそのローマ詩人を「言葉の大河(di parlare largo fiume)」の「(fonte)」だと考えているからです。一般的に「詩の源泉」といえばホメロスのことを指します。しかし、ギリシア語もその文学も消滅していた時代に生きていたダンテには、その詩祖の偉大な存在を耳にしてはいましたが、彼の『イリアス』と『オデュッセイア』の両作品を読むことはありませんでした。しかも、ホメロスの作品自体を見たこともなかったかも知れません。それゆえに、ダンテ個人にとってはウェルギリウスこそが彼の「詩の祖」だったのです。

 

   ローマの風刺詩人ホラティウスは「征服されたギリシアは野卑な征服者を征服した。そして野卑なラティウムに学芸を運び入れた(原文は下に添付)」と述べています。武力でヨーロッパ全土を席巻したローマも、学問と芸術ではギリシアの植民地になってしまいました。

 

   アクティウムの海戦で敗れたクレオパトラが自害したことにより、ギリシアの血統は絶滅しましたが、その文化と文明はローマを侵蝕してしまっていました。武力と武力で睨み合うことを「冷戦(cold war)」と呼びますが、文化と文化が戦うことを「涼戦(cool war)」と名付けています。まさしく、ローマはギリシアに勝利しましたが、ラテン語はギリシア語に侵蝕されることによって、ラティウムの片田舎の方言から世界の共通語と認められるほど豊かで気品のある言語に成長しました。しばしば、ギリシア語とラテン語の関係を「姉妹」とか「親子」に喩える研究者が多いのですが、私は「師弟」の関係だと考えています。まさしく、ウェルギリウスは、ギリシア文学の影響をまともに受けて、ホメロスを師と仰いで、叙事詩を書き上げました。もともとギリシア語とラテン語は言語特性が異なっているにもかかわらず、ウェルギリウスはホメロスのヘクサメトロスという詩型を使って『アエネイス』を書き上げています。それゆえに、本来の詩の「源流(fonte)」は、ホメロスですが、ダンテにとってはウェルギリウスということになります。 詳しくは、私のブログ「叙事詩の韻律」を参照してください。

 

   続けて、ダンテはウェルギリウスへの敬意を表す言葉を続けます。

 

   おお、あらゆる詩人の名誉であり光であるあなた、長い間ひたすら深い愛情をかたむけて、あなたの詩集をひもといた私に情けをおかけください。あなたは私の師です。私の詩人です。私がほまれとする美しい文体は、余人ならぬあなたから学ばせていただきました。 (『地獄篇』第1歌82~87、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   おお、他の詩人たちの名誉と光になる人よ。私にあなたの著書を探究させてきたところの長い研究と大きな愛は私を選び出している(=私には役立っている)。あなたは私の師匠であり私の拠り所です。あなたは、私に名声を与えた美しい文体を、私が真似た唯一の人です。

 

   ウェルギリウスという詩人は、ダンテ個人にとっては言うまでもなく、「他の詩人たちにとっても名誉となり光となる(de li altri poeti onore e lume)」存在だと、ダンテは考えていたのです。さらにウェルギリウスのことを、ダンテが詩作するときの「私の師匠(lo mio maestro)」と呼び、ダンテの作品の「原作者(autore)」と呼んでいます。すなわち、ダンテはウェルギリウスを手本にして作品を書いた、と言っているのです。そして、ダンテがいよいよ地獄巡りと煉獄登山を行った時は「私の先達(il duca mio)」と呼ばれる作品中で最も重要な役割に、そのローマ詩人を抜擢しました。その「先達役」には、トマス・アクィナスや聖フランチェスコや聖ドミニコなどの聖人であっても良かったかも知れませんが、ウェルギリウスは絶妙な選択であったと言えましょう。

 

   ローマ帝国がほとんど全ヨーロッパを統一したことは周知の事実です。そして占領されたヨーロッパの国々は、ローマ帝国の国語であったラテン語を共通語や公用語にしました。しかし、ローマ帝国の衰退に伴い、ラテン語は乱れて、それぞれの国々や地方で独自の変化をとげました。それらの方言化されたラテン語を、標準語のラテン語に対して「俗語」と呼び、現代の私たちは「ロマンス語」と呼んでいます。ダンテは、その粗野なロマンス語的イタリア語を詩の創作に相応しい言語に育てるために、無二の親友グイド・カヴァルカンティ(Guido Cavalcanti)と共に、清新体(Dolce Stil Novo)運動を起こしていました。そしてついに、『神曲』を書くことのできる「美しい文体(lo bello stilo)」を完成させました。

   ウェルギリウスとの感動的な出会いの場面において、そのローマの詩人のイメージが具体的に示されています。先述したように、彼はダンテの詩作の「師匠」であり、ダンテの作品の「原作者」なのです。そして、次の詩句にあるように、ダンテの冥界訪問の先達役(duca)を努める「賢者(saggio)」の姿も持っています。

 

   見てください獣を、あれに追われて戻ってきたのです。先生、狼から私をお助けください。あいつがいると、脈も血管もふるえが止まらないのです。 (『地獄篇』第1歌88~90、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

    そやつのために私が引き返すことになった野獣を見てください。高名な賢者よ、そやつから私を助けてください。なぜならば、そやつは私を血管と脈拍を震えさせるからです。

 

 

辺獄での崇高な詩人との出会い

 

 

 

   ダンテは、イタリア半島が教皇派(グエルフィ、Guelfi)と皇帝派(ギベリーニ、Ghibellini)に分かれて激しく対立していた時には教皇派の「軍人」でした。そして、勝利した皇帝派が白党(guelfi bianchi)と黒党(guelfi neri)に分列したときは、前者の中心人物として活躍した「政治家」でした。さらにまた、ダンテは宗教哲学者でもあって、当時のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas、1225~1274)やボナヴェントゥラ(Bonaventura、1221~1274)から多くを学び取りました。しかし、ダンテ本人は、何よりも「詩人」であったと思っていたに違いありません。なぜならば、詩人との出会いの場面が、もっとも感動的に描かれているからです。その中でもとくに感動的に描かれている場面は、ダンテが過去の書物によって知っていた詩人たちとの出会いです。そのいくつかの印象的な場面を紹介してみましょう。

 

   地獄に入って最初に存在している圏谷は、「辺獄(リンボ)」と呼ばれています。そこには、キリスト教以前の賢者たちが地獄の責め苦を受けることなく安らかに過ごしています。ダンテは、彼自身、政治家や宗教哲学者などいろいろな側面を持っていましたので、煉獄ではいろいろな分野の多くの古代の偉人たちに出会っています。しかし、その中で特別な描かれ方がされているのは詩人たちです。その描写法を見れば、ダンテは究極的には詩人であった、と言うことが明らかになります。

   ウェルギリウスは、もともと辺獄の住人ですが、ベアトリーチェの依頼でダンテを救出するためにそこから外出していました。そして、暗黒の森からダンテを連れ出して、辺獄に戻って来ました。正確には、ウェルギリウスは煉獄山の頂上にあるエデンまで先達役を努めますので、その途中に辺獄に立ち寄ったことになります。しかし、取りあえず帰ってきたウェルギリウスを見て、ある霊魂が次のように叫びました。

 

   出ていった彼が、いま戻って来たぞ、偉大な詩人だ、みな敬意を表(ひょう)せ。 (『地獄篇』第4歌80~81、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   至高の詩人に敬意を払いましょう。留守にしていた彼(ウェルギリウス)の霊魂が戻っているよ。

 

   ウェルギリウスは、辺獄においても「至高の詩人(altissimo poeta)」と呼ばれています。すなわち、ダンテはウェルギリウスを他のどの詩人よりも優れていると評価しているのです。そして、ウェルギリウスは、近づいて来た四人の詩人の霊魂たちを見て、次のように彼らを紹介しました。

 

   ほかの三人の前に立って王者のように、手に剣(つるぎ)をもって進んで来る人を見るがいい。あれが詩人の王ホメロスだ。次に来るのが諷刺(ふうし)詩人ホラティウス、オウィディウスが三番目で最後がルカヌスだ。先ほど一声(ひとこえ)〔詩人という〕名を呼ぶのが聞こえたが、この人たちは皆私とその名をわかつのだ。詩人としての私に敬意を表したのだが、有難い事だ。 (『地獄篇』第4歌86~93、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   見なさい。手にあのような剣をもって、あのように領主のように三人の前をやって来る人を。あの人こそ至高の詩人ホメロスである。さらにもう一人やって来るのは風刺詩人ホラティウスです。三人目の人はオウィディウス、そして最後の人はルカヌスです。

   単一の声で(声をそろえて)告げた(詩人という)名称において、各々の人は私と一緒(詩人)であるので、私に敬意を表している。そして、そうすることについては、彼らは良いことを行っているのである。そのいずれの人も(詩人という)名称においては、私と同じ呼び方で(詩人と)呼ばれているから、彼らも私を尊敬していることであり、それは良いことである。   

 

   この辺獄には、キリスト教以前の時代と異教の国々の優れた詩人たちが憩っていることが想定されています。ダンテがギリシア文学に精通していたならば、ソポクレスやエウリピデスなどの悲劇詩人の名前も加えられていたことでしょう。そこで名前が上げられているのは、ダンテ自身が特に影響を受けたホラティウス、オウィディウスそしてルカヌスの三人のローマの詩人だけです。しかし、ホメロスだけは、その偉大さをローマ詩人からの情報により知っていたので、詳細に描写しています。ただし、そのホメロス像は、「手に剣を持ち(con spada in mano)」三人の詩人の先頭を「君主のように(come sire)」進んでくる「至高の詩人(poeta sovrano)」である、と描かれています。さらにまた、上出のウェルギリウスの説明に続いて、ダンテも詩文学の偉大さを次のように称えています。

 

   叙事詩は他を抜いて鷲(わし)のごとく天翔(あまが)けるが、その崇高な詩の王者が率いるすばらしい一派が会したさまをこうして私は目撃した。 (『地獄篇』第4歌94~96、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   他の学派の更に上へ鷲のように飛ぶところの、崇高な歌のあの高貴なお方の美しい学派が集まっているのを私は見た。

 

   上の三行は余り議論されていませんが、実際には解釈の分かれる難解な箇所だと思われます。おそらく上に添付した平川訳が定説にはなっているようです。すなわち、「崇高な歌(altissimo canto)」とは、「叙事詩」のことであるとする説です。しかし、私個人は広義に解釈して「文学」という意味にとらえています。辺獄には、いろいろな分野の偉人がいます。トロイアの王子ヘクトルとアエネアスに加えて、アエネアスの末裔を自認するカエサルや、ラティウムの女傑カミラとアマゾネス女軍の女王ペンテシレイアなどの武人がいます。また、共和制ローマの初代執政官ルキウス・ユニウス・ブルトゥスなどの政治家もいます。そして、多くの名前が出されている分野は「ものを知る者たち(color che sanno)」と呼ばれた哲学者の集団です。そこには、アリストテレスを先頭にソクラテスとプラトン、さらに私のブログ名「この世は舞台、人生は登場」を唱えたデモクリトスが立っていました。またその他にも、ディオゲネス、キケロ、ユークリッド、プトレマイオスなど哲学者がいました。しかし、文学者の集団が最も多くの詩行を使って描写されています。そして、その「崇高な歌」とは「叙事詩」だけに限定するものではなく、「文筆に従事する技(ars litteras tractandi)」すなわち文学全体を含めているといえます。

   ダンテの文学理論の中には「叙事詩」という概念は存在していなかったようです。彼は、彼自身の叙事詩『神曲』のことを、次のように「コメディア」と呼んでいます。

 

   だがこればかりは黙っているわけにはいかない。だから、読者よ、この神曲(コンメーディア)の詩行に誓っていうが、どうかこの詩が末永く世に愛読されることを。 (『地獄篇』第16歌127~129、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   しかし、私はそのことで黙ることはできない。そして、このコメディアの歌のために、読者よ、私はあなたに誓います。願わくは、この歌が長い引き立てに不足することがありませんように。

 

   ダンテには、私たちが使っている意味の「叙事詩」という概念は存在していなかったのです。叙情詩のように短い作品ではなく、長く物語風に語ってハッピーエンドに終わる作品を、彼は「コメディア」と呼んでいたのです。そして一方、悲しい戦闘を描く作品、たとえば『アエネイス』を、次のように「トラジェディア」と呼んでいます。

 

   名前をエウリュピュロスという。私の崇高な悲曲(トラジェーディア)にも、どこかで登場している。 (『地獄篇』第20歌 112~113、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   彼は、エウリュピュロスという名を持っていた。そして、かくのごとく(予言者として)私(ウェルギリウス)の高い「トラジェディア(=アエネイス)」は、ある個所で彼のことを歌っている。

 

   地獄の第8圏谷第4壕(ボルジャ)では魔術を使って占いをした亡者たちが刑罰を受けています。その中に、ギリシアのトロイア遠征軍のお抱え予言者エウリュピュロスがいます。そして、その予言者の名前が『アエネイス』の中で登場しているのは、第2巻の114行目です。その箇所は、トロイア戦争のときに、ギリシア軍が戦士を潜ませた木馬を場内へ引き入れさせる作戦を実行する場面の中です。その作戦の成功は、シノンという若者の話術にかかっていました。彼は、ギリシア勢が退却したときに取り残されたと嘘を言って、城内に連れてこられました。そしてその時、シノンの撤退話の中に、予言者としてエウリュピュロスの名が登場しています。『神曲』の登場人物としてのウェリギリウスが、「私の高いトラジェディア(l’alta mia tragedia)」というときは、彼の叙事詩『アエネイス』を指しています。そうだとするならば、ダンテの詩論には「叙事詩」という分野は存在しないで、その長編の詩形は「コメディア」と「トラジェディア」に二分されています。そして、辺獄を離れるときに、文学の分野で最高峰に位置する5人の詩人が、ダンテを彼らに継ぐ偉大な詩人と認めて、次のように描いています。

 

   五人は暫時(ざんじ)談笑していたが、私の方を向くと丁寧に会釈(えしゃく)した。私の師もそこでにっこりと微笑した。そして私にとり身にあまる光栄だが、この賢者たちの第六番目の人として、私をその仲間に招きいれた。 (『地獄篇』第4歌97~102、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   彼らは、しばらく一緒に懇談してから、歓迎するよという仕草で私の方を向いた。すると、私の師は、そのこと(歓迎の仕草)に微笑みを浮かべた。そして、彼らは私にさらにもっと身に余る名誉(なこと)を行った。なぜならば、彼らはそのように私を彼らの集団(の一員)にしたからである。だから、私は才能ある大いなる者の間の6番目の者となったのである。

 

   ウェルギリウスの辺獄への帰りを迎えた四人(ホメロス、ホラティウス、オウィディウス、ルカヌス)は、すべてが叙事詩人ではありません。また、ダンテの分類からしてもコメディア詩人でもトラジェディア詩人もありません。彼らはすべて「他の学派の更に上へ鷲のように飛ぶところの崇高な歌の美しい学派(la bella scola・・・de l’ altissimo canto che sovra li altri com’ aquila vola)地獄編4歌94-96」の人物なのです。ゆえに、「ものを知る者たち(color che sanno)」すなわち哲学者でも科学者でもなく、また武勇に優れた英雄でもなく、彼らは文筆の技に秀でた文学者なのです。その文学者の頂点にはホメロスが君臨していて、その下にウェルギリウスをはじめとして四人の詩人がいました。そして、ダンテは彼自身を六大詩人の一人として後の世に位置づけられると言っているのです。